競争やめたら学力世界一 福田誠治

競争やめたら学力世界一 福田誠治

1:学力は知識中心から思考力中心にシフト現代では知識や技術は速いスピードで変化しており、知識や技能は学校を卒業してからも、一生を通じて学ばなければならないものになっている。そこで、一生をかけて学ぶための「学習力」を社会に出る前につけさせることが学校教育の目的になる。フィンランドは、この変化をうまく乗り切った

2:テストも習熟度別クラスもない義務教育期間である16歳までは、他人と比較するためのテストがない。また、フィンランドは1985年に国を挙げて習熟度別編成授業も中止した。習熟度別編成は、できる子にさしてよい影響を与えず、できない子には何らプラスがないと判断した。しかし、これは難しい選択である。テストの点数や競争を学習動機を形成するための手段として活用できないことを意味するからである。

3:日本の学力はマスコミで騒がれるほど低くはないOECDが実施する「生徒の学習到達度調査」(=PISA)によると、読解力以外のすべての項目で日本は上位にある。しかも、人口一億人規模で上位にあるのは日本のみである。また「国際数学・理科教育動向調査」(=TIMSS2003)によると、とりたてて日本の学力低下は見られない。この点から、マスコミで日本の「低学力化」が進んでいることを批判した人たちの判断は間違っている。そういった人たちがよく理想とする実力主義と競争社会の国、アメリカやイギリスは、日本よりずっと低学力である。

4:ゲームとしてのテストの成績がよい日本では日本の学生が勉強を真の意味でしているのか、というと疑問もある。例えば「数学が楽しいか?」という問いに対して、国際平均の29%に対して、日本の学生は9%しかYesと答えていない。また、「希望の職業につくのに数学は必要か」という問いに対しては、国際平均の73%に対して、日本の学生は47%しかYesと答えていない。また積極性のスコアも低く、また家庭での勉強時間が短く、勉学意欲も低い。
これは逆に言えば、日本の子供たちの勉強効率が高いことを示唆している。これは日本の学校教育の成果であり、まずマスコミはこの快挙をほめたたえるべきである。もしここで日本の教育の良さを壊して、教育を競争主義の市場原理にゆだねるなら、アメリカ並みの低学力しか約束されないだろう

5:日本において学力の格差拡大が進んでいるPISAの読解力スコアが8位から14位に低下したことを受け、マスコミは「学力低下」と大々的に報道した。では、低下の構造はどうなっているのか?結果から言うと、日本においては注意以下のレベルの学力が大幅に落ち込むことで平均レベルが下がっている。例えば、レベル1未満という「極めて低学力」とされる層は、フィンランドや韓国では1%台なのに対して、日本では7.4%も存在する。平均以下=レベル2以下の層は、フィンランド/韓国では20%であるが、日本では40%台である。つまり、日本は上位レベルの厚みは変わりないものの、レベル1未満、またはレベル1という低学力層が多い国になりつつあるのである。一方で、フィンランドは逆に、上位レベルの厚みは変わらないものの、低レベル層を底上げすることで学力世界一を達成した。

6:習熟度別編成放棄の目的の一つは「経済格差による学力格差」発生の排除習熟度別編成によって生まれる低学力クラスが、主として低い社会・経済的背景をもつ男子生徒で構成されていた。習熟度別編成の廃止は、ある種の社会問題への対処であり「平等化」がもっとも大きな理由であった。

7:社会構成主義的な学習概念が、好成績の一因構成主義とは、知識には何らかの目的・価値観が前提になっていることを認める立場である。構成主義を教育学に適用すると、学習とは知識の需要ではなく、知識を探求し、再構成する主体的な活動ということになる。従って、日本の様に決まった教科書を頭から暗記する、という勉強法はとらない。何をテーマに、どのように学ぶかは教師と子供たちの具体的な共同作業で決められて行くということになる。歴史の学び方は年表を順々に覚えるというものではなく、自分で歴史を調べ重要事項を自分で判断し、自分で年表を作り上げて行くことになる。そんなことをしたら、子供たちの知識は穴だらけになるじゃないか?その通りである。だが、教科書も実は穴だらけなのである。

8:基礎能力は身につけさせるが後は自己責任読み書き計算の最低限は、何が何でも身につけさせるが、そこから先は学ぶのも学ばないのもあなた自身の責任、という考え方をとる。従って教室の中で勉強しようがしまいが、それに対して教師が目くじらをたてることはない。

9:ルールを適用するのではなく、何が適切かを考えさせる高校にもなると、授業中におしゃべりしているもの、漫画を描いているもの、ウォークマンを聴きながら演習をやるものまで出てくるが、この場合でも一方的に注意することはしない。なぜおしゃべりをするのか、なぜウォークマンを聴くのか、という説明をまず生徒に求め、その上で、その行動が今ここで行うことについて適切かどうか、という判断を生徒にゆだねる。少なくとも「なぜ注意されるのかわからない」という状況だけは絶対に避ける