聖書のなかの女性たち 遠藤周作 読了

非常にいい本でした。

新約聖書はイエスの生涯を綴った物語ですが、その劇中には、聖母マリアをはじめとして何人かの強い印象を残す女性が出てきます。

こういった女性たちの記述は、イエスの弟子であるパウロやペテロ、ユダの言動が性格まで読み取れるほどに細かく描写されているのに対して、非常に淡白で簡潔で、その人となりを心の中に描き出すにはかなりの想像力が必要になります。

マリアでさえ、イエス出生のエピソード以外には殆ど記述がありません。どうも当時はものすごい男尊女卑の社会みたいで、これが聖書の中に女性の言動に関する記述が殆どないことの要因の様です。

この本は、遠藤周作が、聖書の中の記述と、歴史家による調査の結果と、そしておそらく何よりも遠藤周作自身の想像力によって、あまりにも淡白に記述されてしまっている新約聖書の中の女性たちを描き出した本です。

■ピラトの妻
ピラトは当時のローマ政府から派遣されたエルサレムの総督です。イエスは、大司祭長館や衆議所などを夜通し引き回された挙げ句、4月7日の朝6時ちかくになってこのピラトの館に連れて行かれます。決定した死罪の執行令状を得るためでした。午前6時に尋問とはいささか奇異に思われるかも知れませんが、当時のローマ人は大変な早起きで夜明けから重要な政務をこなし、午後は昼寝や交際、娯楽に過ごしたのです。ヨハネによる福音書では「時は天明なりき」とありますが、これは誇張ではありません。

この直前、ピラトは、妻のクロウディアから「イエスという罪人が来る。その人を釈放してください」という言葉を、妻の召使いであるプラクセディスから受け取ります。

ピラトは、おそらく貴族階級の出身であったろうというほか、余り細かいことはわかっていません。もともとピラトという名前は「解放された奴隷=ピレアス」から転訛したものだから、奴隷出身であったのでは、という説を唱える人すらいて、あまりよくわかっていないのです。

ピラトの妻であるクロウディアが、なぜ見ず知らずのイエスの釈放をピラトに願い出たのか、も本文中には脚色されたストーリーが語られますが、一言で言えば夢にうなされた、ということの様です。そしてこれは、彼女とピラトに、シーザの妻のカルプルニアが見た夢のお告げ、3月15日は何があっても夫を外出させてはならない、という警告と、それを無視して出かけたシーザの暗殺という事件を思い出させます。

新約聖書を読むと、クロウディアの話は一片も出てきませんが、一方のピラトの民衆とのやりとりは細かく記録されていて、それを読むと、死刑を望む民衆に対して、なんとかイエスの釈放を図ろうとして不自然なほどに心を砕いている様がありありとわかります。

■娼婦
旧約聖書では、娼婦は、人間を罪に誘ったイブの子孫であり、預言者たちの激しい怒りと呪いの対象になっています。一方、新約聖書においては、イエスは娼婦や忌み嫌われる病気に冒された女性たちに、むしろ積極的に手を差し伸べて行きます。この点が、イエスの際立った特徴で、彼は社会的な成功者や満たされた人ではなく、虐げられ、嫌われ、退けられ、叩かれ、排斥され、蔑まれた人々にこそ、言葉と手をかけていきます。

今日のような恵まれた時代ではなく、2000年前の世界において、娼婦に身を堕とさざるを得なかった女性たちの心細さや哀しさを想像することは僕にはちょっと出来ません。

ルカによる福音書の中に、その娼婦が出てくるシーンがあります。イエスはシモンという街の有力者の家に招かれていました。その娼婦は、名前すら記述がないのですが、そのシモンという人の家に忍び込んでイエスのもとへやって来て、足を洗うのです。聖書の中の記述では、足を洗いながら泣き、その涙がイエスの御足を濡らした、と書かれています。記述は非常に簡潔なのですが、このシーンの遠藤周作の記述が、僕は自分の想像とフィットしていて好きです。

「下男たちの声にキリストは背後を振り返り、自分の前に哀しげに立っている女の顔を見ました。突然、女の顔から大粒の涙があふれ、真珠の粒のように一滴一滴彼の足を濡らしたのです。この熱い涙からキリストは女の哀しい過去、みじめな人生を理解したのです。安心しなさい、彼の唇から力強いその一言が漏れました。」

このエピソードは、その後の西洋文学の女性像のあり方に非常に大きな影響を与えました。例えばドストフスキイの「罪と罰」にはソーニャという売春婦が出てきますが、この人は結局、誰よりも殺人者ラスコリニコフの苦悩を慰めることになります。

■サロメとヘロジャデ
サロメはオスカーワイルドの戯曲で有名になりましたが、これの母がヘロジャデです。ヘロジャデはピリポという男の妻でしたが、蟲惑的で虚栄心と物質欲の強い、今で言えば投資銀行マンとの合コンに勝負メークで出かける様な女性だったようです(投資銀行マンの市場価値も最近はずいぶん落ちてしまったかも知れませんが・・・)。

この女は結局、ガリラヤ地方の領主であるヘロデを誘惑して、その妻と子供を棄てさせ、自分はガリラヤ領主の妻と言う座について豪奢な生活を送り、虚栄の暗い奈落にヘロデとともに堕ちていきます。

ガリラヤの住民の中でただ一人、この不義を強烈に避難したのが、レオナルドの絵画でも有名なバプテスマのヨハネ、かつてイエスにヨルダン川で洗礼を授けた人物です。ちなみに僕のブログのプロフィールの人物画が、それですね。

妻であるヘロジャデが狡猾で悪魔的であるのに対して、夫であるヘロデという人は、どこかスタンスが座らない、意思の弱い小心な人物だったようで、ヨハネの傲然たる非難に対して後ろめたさを感じ始めます。

ヘロジャデはそれを見て、自分の地位の危険を感じます。そして娘のサロメに対して、自分とサロメの地位を脅かそうとしている洗礼者ヨハネの存在を吹き込みます。

通常、サロメは後世の人々から生まれながら淫乱で残忍な少女の様に伝えられていますが、遠藤周作は、そうではなく、おそらく母親のヘロジャデから日夜、吹き込まれた恐ろしい言葉を子供心にそのまま信じたのだろうとしています。

あの男は、わたしたちの敵。
あいつを殺さなければ、わたしたちの未来が奪われる。

そして後のストーリーは有名ですね。ヘロデの居城で催された宴会でサロメは妖艶な舞を踊り、「欲しいものは何でもやろう」と約束したヘロデに対して、「洗礼者ヨハネの首を盆に乗せてここにいただきとうございます」と答えます。

オスカーワイルドの戯曲では、盆に乗せた血の滴る首にサロメは接吻し、その首を持ってさらに舞を踊りますが、さすがにこれは後世の脚色でしょう。

史実の面からは、ここまでしかわかっていません。ヘロジャデとサロメがその後どうなったのかは、よくわかっていません。