Thursday, April 16, 2009

斜陽 太宰治 読了

今の世の「生きにくさ」を前にして、主人公の母は病死し、弟は自殺して、いわば退場していくけれども、本人は「戦闘開始」のかけ声のもの、「激烈な恋」によって生きにくさを乗り越えて行くことを決心し、同じく「生きにくさ」に身を焦がしているやさぐれ作家の愛人となるという話。

今の世の生きにくさと同じものを感じている人が、こんな前にいたんだなあ、と素直に感嘆した。

そういえば漱石の小説にも「智に働けば角が立つ、情に棹させば流される。とかくに人の世は住みにくい」という名文のイントロがあるけれども、もしかしたら世の生きにくさなんていつの時代もそんなに変わらないのかも。

でも高校受験の時に、尊敬していた塾の国語の先生から、現代の生きにくさは「近代的自我」と同時に発生している、っていう話だったから江戸時代にはなかったのかな?

近代的自我、って平たく言えば、「欲求の追及が無意味でない時代において、自分がどう生きたいかを考える」ってことかしら。阿部謹也先生の中世の本なんか読んでいると、18世紀までの市民なんて、自分が何者か、どうなりたいかなんて考える余裕なくって、とくにかくその日その日のパンをどうするかってことばっかりで人生が消耗されていく感じなんだけど、生産性が改善されて余裕が出てくる時代、になると、よけいなこと考えちゃうってことなのかも知れないですね。
マルクスは、社会における位置づけが貴方と言う人間のあり様を決める、と言ったけれども、社会における位置づけが個人の意思や欲求によって選べない江戸時代という時代と、それがある程度自由になった明治~戦前の時代と、そこが完全に自由になった戦後社会とにおいて、自我の持つ意味って本当に大きく変わってしまったんだろうな、と思います。
色々と問題はあるのですが、僕の戦前社会に対する憧れってそのヘンにあるんだと思います。戦後の社会って闇市からスタートして、小佐野賢治とか児玉誉志夫とか田中角栄とか、戦前の社会なら決して社会の表舞台に出てこなかった人たちが「やったもん勝ち」を旗印にして、恥も外聞もなく社会をのし上がって行った一方で、斜陽に出てくるような旧華族階級が、そういった「やったもん勝ち」組の人に、踏みにじられていく世の中ですよね。
電車に乗るときに空いている席見つけて突進してそれを取ろうとするオバサンとかオジサンが居ますけど、ああいうのを見て「自分には真似できないな」と思うのを、人生のレベルで感じていたのが、斜陽の主人公たちの気持ちで、それはすごいよくわかるんですよね。

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