Saturday, April 18, 2009

昭和のエートス 内田樹 読了


高校時代、現代音楽作曲家の松尾先生に作曲を習い始めたときの父のコメント。

音楽って、新しく作られる必要があるの?なぜ、新しく音楽を作る勉強なんてするの?

誰かこの質問に答えられる人っているのかしら?

父は革装のスティーブンソンの全集をボーナスで買って書庫をながめてニヤニヤし、源氏物語を読むのを食後の何よりの楽しみにしていた人だった。ここ30年で出た新刊は「作文の一種」と一顧だにしない。一生分楽しめる傑作の文学作品が既にあるのに、なんで新刊なんて出すのか?と、僕にクイズを出していた。

彼の答えは簡単で、「雇用を創出するため」。与り知らない人の雇用維持のために、自分の人生の時間をつかって作文を読むのは損。だったら人生に本当に意義のある、古典を読め、というのが父の意見だった。

では、この本。「昭和のエートス」における内田樹の意見。

大量にリタイアし始める団塊世代を捉えるマーケティングのコンセプトは、「貧しかったときに、変えなかった、あのクルマ、あのステレオ、のリバイバル品」。

典型的な例は、団塊世代の皆が憧れたホンダの初代四輪車、S500だ。ちなみにこれがリバイバルされれば、内田樹自身は「迷わず買う」としている。確かにエポックメイキングなスポーツカーだけれども、性能は今の自動車と比べるべくもない。

金曜ロードショウのベタなイントロに、僕らが感じるノスタルジー。
古いイギリスやイタリアのスポーツカーに、僕らが感じるフェティシズム。

いま最も高価な自動車はレクサスでもメルセデスもない、ブガッティでもない。1960年代に作られたフェラーリであり、戦前のアストンマーチンだ。

機能をつきつめれば、それは美に至る、と言われる。本当なのか?

今のF1マシーンは醜悪としか言いようがないデザインになってしまった。一方で、戦前から60年代にかけてのレーシングカーが持つ芸術性をどう考えるのか。美術史をやってきた僕にとっては、こういったマシーンは、レオナルドの絵画に匹敵する美を有している。

事実、ブガッティは美術家だった。日本のクラシックカーコレクターの嚆矢である浜徳太郎先生も美学者だ。この点は、極めてナチュラルに僕にも納得できる。美しくない工業生産物は、作られる意味がない。

確かに、50年代のF1マシーンの性能は、物理的には今現在のF1と比べるべくもないけれども、こと美学的な観点から立てば、人類の英知はなにも生み出していない。ニュルブルクリンクのラップタイムは50年代から3分以上縮まった。So what?

ウィリアムモリスも同じ様なことを言っていたと思う。確か、「美して、実用的なもの以外、家においてはいけない」とかなんとか。

もしかしたら、人類は、もう新しいことやものを生み出す必要がないのじゃないかしら。

パリを訪れると、フローとストックのうち、圧倒的にストックのパワーがすごいということが如実にわかる。ルーブルもオルセーもストックの殿堂だ。パリの町並みを俯瞰すれば、目に入る物の90%は百年を超える年月を経ている。

ローマはもっとそう。

日本はGDPそのものは結構高いけれども、そのフローの数値がストックに回る分が少ないために、ものすごく文化的に生活的に貧しい状況に至っているのではないか?

新しい物を生み出していくのだ、という考え方を人類は見直す時期に来ているのかも。

新しい物を生み出さない、ストックだけで勝負して行くという、メディアやコンテンツビジネスや、消費材ビジネスのあり方って、考えて行かないといけないですよね。


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