Saturday, April 11, 2009

奇跡を信じる力

奇跡とは相対的なものなのではないかと最近思っています。

ルネサンスの時代に人が空を飛んだらそれは奇跡だけど、今は何でもない。

江戸時代に、遠くに起こった事件をつぶさに見られたらそれは奇跡だけど、今は何でもない。

特に、テクノロジーによる寄与をのぞいても、例えば量子力学の世界では、ここ50年ほど存在は確率的なものでしかないという理解に立っていて、例えばAという存在が時空間αに位置していれば、同時に他の場所にAは存在し得ない、という僕たちの基本的な自然に対する世界観のドテっ腹に、広大な風穴を開けて自らそれを埋めることがありません。

アインシュタインは、月は見ているときは存在しているけど、見ていないときは確率的に「雲」の様に存在しているとしか言いようがない、と説くニールス・ボーアに対して、「神はサイコロを振らない」という有名な抗弁を立てて、その依って立つ世界観を宗教対決の様に否定しましたが、そもそも、アインシュタインの特殊相対性理論自体が、「同時」という概念は意味がないことを証明しているのだから、手触りで理解できる世界や宇宙の構造を破壊しているということに関しては五十歩百歩の観が拭えません。

そう。アインシュタインの特殊相対性裏理論も量子力学も、「同時」という、極めて僕らが日常生活で自然に用いる概念が、極めて難しい定義が必要であることを提示しています。そして、結論から言えば、ある存在(量子力学の場合は象徴的に光子、つまりひかりの粒子がその実験に用いられていますが)が、ある瞬間にある一点にしか存在しないという、ごく当たり前の想定を覆して、同時にあらゆる場所に、雲の様な状態で存在していることを提示しています。

僕は物理学の専攻ではないので専門的なことはわかりませんが、10年ほど前に初めてこの話を聞いたとき、僕はイエスの復活の物語を思い出したんですね。

残念なことに、新約聖書の福音書に描かれているイエス復活の物語を、現代人のほとんどは信じることが出来ません。

理由は二つあって、一つは死んでしまった人は蘇らない、ということと、同時に多くの人の前に、姿を現すことは有り得ない、ということなのですが、前者はともかく、僕は量子力学の認識する世界観と、それがどんなに古典物理学者にとって受け入れがたいものであったかの説明を受けて、イエス復活の物語も同じじゃないか、と思ったんですよね。

物質は、同時に複数の場所に存在する。では、誰が、イエスが同時に複数の弟子の前に姿を現したことを否定できるのだろうか、と思ってしまったんですよね。

新約聖書には3つの側面があります。言うまでもなく、キリスト教の経典というのが一つ目の側面です。そして、二つ目が、キリスト教という宗教を離れてなお、優れた文学作品である、という点。そして最後が、2000年前のパレスチナの郷土史の記録という側面です。

この3つの要素が、言葉は悪いですがある種ごった煮になっているのが、聖書という書物が、過去に数億人、数十億人という人を引きつけてきた理由なのだと思っています。

ここで難しいのが、この3つの方向性、特に経典と郷土史という方向性のどちらかを深めようとすると、片方側の意図と反する方向になりがちということなんですね。

わかりやすい話で言えば、イエスの誕生日が12月24日でなかったであろうことは、ほぼ歴史家の視点からは定説になっていますが、これは郷土史としての視点から見れば「では訂正すれば」という話になるのですが、それは経典という立場から考えるとちょっと困る訳です。

新約、旧約に関わらず、聖書の中には確かに眉につばしたくなる様な奇跡のオンパレードなのですが、これを、ばかばかしいフィクションとして捉えて歴史的な事実のみに立脚して読み解くのと、完全に信じきってしまうのと、そして、その間の態度があると思うのですが、僕はこの三つ目のオプションを採って聖書を読んでいます。

奇跡は、本当に奇跡だったのか、それとも、当時の人には奇跡に見えるものがあったのか。今ではよくわかりませんが、奇跡を神の子の技として単にとらえるのと、それは象徴的な意味であって実際の意図は別にある(例えばカナの婚礼で瓶に満ちた水を酒に変えた最初の奇跡は、姿勢の人々をより高次元の存在に変える、という業のメタファーに過ぎないという考え方)とする考え方の、両極単に分かれるんですが、僕なりにその間のところの、何かもっと深い示唆や、含みがあるのではないかと思っています。

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