旅の本質

どんなに遠くに行っていても、予定調和していればそれは旅じゃない。

どんなに近くっても、行き当たりばったりに根ざす新しい発見があれば、それは旅なのかも。

確か阿部謹也先生がどこかに書いていたのですが、中世において旅に出る、というのはまあ今生の別れを意味する訳です。当時の旅、と言えば典型的なのは聖地巡礼ですね。

確か、こんな話だったと思うのですが、

ある居酒屋で、酒に酔った勢いで4人のそれなりに地位を築いた中年の男が、聖地巡礼に行く誓いを立ててしまった。誓いを立てた以上、行かない訳には行かない。4人の男は出発するけど途中で山賊に襲われて一人死に、ペストで一人死に、という具合で、結局3年後に帰ってきたのは一人だけで、しかももとと見分けがつかないくらいに憔悴しきっていた、

というような内容です。

映画だと、ベルトリッチの「シェルタリング・スカイ」は、行き先が確かカイロとか、アラブだったと思いますが、まあ本質的には似た様な内容ですよね。

日本には東海道中膝栗毛という傑作紀行文があって、これはずいぶんニュアンスが明るくなりますけど、でお行き先で何があるかわからない、という点では、本質的にこれも同じでしょう。

なんでこんなことを考えたかと言うと、昨日に自転車に乗って多摩川を上って行って、気の向くままに走っていたら訪れたことが無かった国立の街まで来てしまったのですが、自転車でほんの数時間の距離なのに、違う物語が紡がれている街に、何のプランも無く来てしまって、それが非常に新鮮に感じられたんですよね。

僕は自動車も好きですが、自動車だとどうしても知った道を頼って効率的に動く、という様に
なりますね。大学時代には、ひまにかまけて、気の向いた方向に走って行って、ということもやっていたのですが