極端に短いインターネットの歴史 浜野保樹 読了


■ヴァネバー・ブッシュがMEMEXコンセプトの生みの親
:ブッシュは、MITの工学部長から副学長に上り詰め、最終的には大統領科学顧問にまでなった人物
:1945年、権威ある科学誌「サイエンス」に論文を発表するのと同時に、アトランティック・マンスリーという雑誌に記事を掲載した
:この記事の中で、今後、コンピューターによりもたらされる情報の洪水に飲み込まれないために、思考を支援する機械が必要だと提唱し、それをMEMEXと名付けた

■当時の世界では、マイクロフィルムこそ知の基盤を紙から譲り受けるものだと思われていた
:1937年、MIT副学長だったブッシュは、ラピッド・セレクターという名前の、マイクロフィルムをベースにした新しい情報検索システムを図書館に導入しようとしていた
:当時の知識人や科学者は、本に変わる新しい情報の保存媒体として、マイクロフィルムの可能性を信じており、科学的知識の普及を促進し、社会を変えると発現するエヴァンジェリストが大勢現れた
:コンピューターでペーパーレスになる、という後の議論が、マイクロフィルムでも全く同様に行われたのである

■アメリカのコンピューター産業は、戦争が育てた
:科学技術で世界の先端を突っ走っているという自負を持っていた米国政府は、ソ連のスプートニク打ち上げにいたくショックを受けた
:スプートニク打ち上げの成功は、ソ連が、望めばいつでも核ミサイルの雨を米国に降らせることができることを意味した
:今日、ベッドで眠りに落ちると、もう二度と起きることがないかもしれない、という恐怖が全米を覆った
:水爆の開発には膨大な計算が必要になる・・・その計算にENIACが使われた
:IBM創業者の息子、トーマス・ワトソン・シニアはENIACの可能性を否定したが、ジョン・フォン・ノイマンは即座にその可能性を理解し、即座に開発中の水爆の予備的な計算に利用しようと提唱した
:それは3つの偏微分方程式を解く、というものだったが、データが打ち込まれた50万枚のパンチカードが入力され、ENIACは計算に6週間かけて答えを出した
:卓上計算機を使えば、数学者100人でまる一年かかる計算を、たった6週間で行った
:しかしENIACは非常に不安定で、雷雲が来ると調子がおかしくなる始末
:これを解消するためにプログラム内蔵型のコンピューターが開発され、それはMANIACと名付けられた
:このMANIACは、海軍主導のもとIBMで開発された
:MANIACのおかげで水爆の開発は順調に進み、ビキニ環礁で行われた実験では予想値を遥かに超えるエネルギーを放出し、危険地域に指定していたエリアをはるかに超え、危険地域外で漁をしていた日本のトロール船「第五福竜丸」に死の灰を浴びせた

■世界最高のシンクタンク、RANDは空軍によって産まれたが「死と破滅のアカデミー」と揶揄された
:第二次大戦が終わると軍で働いていた膨大な研究者が民間や大学に戻り始めた
:たとえ給料をよくしても、軍で働きたいという優秀な研究者は少ない
:そんななか陸軍航空隊(のちの空軍)のヘンリー・H・アーノルド大将は、国家の安全保障を専門に研究する民間機関としてRANDを設立した
:RANDは、シンクタンクの元祖と言われている
:空軍はRANDに、戦後の軍事戦略、なかんずく大陸間の核戦争についての戦略的な研究を行うことを期待した
:ダグラス社からも離れ、空軍の研究を継続して受けられることになったRANDには、大まかな研究委託が来るだけで細かい口出しはなし。それでいて費用は空軍持ちで研究は自由。ということで、研究者が殺到した
:RANDは、複雑になっていくシステムを数値に置き換えて把握して行くという第二次大戦時に開発されたオペレーション・リサーチの手法に基づいている
:中でもゲーム理論は、1948年からRANDに参画したジョン・フォン・ノイマンとともに、RANDが新しい戦略研究の手法として世界に普及させた物だった
:しかし、参加プレイヤーは常に合理的に利得を最大化させようとする、という前提に立つ ゲーム理論は、時に倫理的にひどい分析結果を導きだすことがあり、それをしかもRANDさも平然と世の中に発表した
:例えば、1966年に発表されたRANDの報告書には、核戦争後では、老人や精神障害者や慢性病患者に対しては何もしないで放置し、他の人間の生存させることに集中させるべき、といった提言を平気で行っていた
:反戦ムードが高まった時期には、RANDは、倫理観の無い冷徹な天才たちが死のゲームをして遊んでいる、とみなされ、マッド・サイエンティストの巣窟と思われるようになった
:そしてここから、インターネットは産まれてくる

■RANDが提唱した、冗長なネットワークがインターネットのコンセプトの萌芽
:1964年にRANDのポール・バランは「On Distributed Communications」という報告書で、核攻撃に耐えられる通信手段のコンセプトを提唱した
:核攻撃は強力なので、それに耐えるネットワークを作ろうと思うと何重にも防護手段をとらねばならず莫大な費用がかかる上、有事の際だけに使う、となると実際にそれを使う人間が緊急時に対応できるのかどうか心もとない
:そこで、攻撃にあっても死なないネットワーク、を提唱した
:信頼性の低い回線を使わざるを得ないので、アナログは駄目。波形を受け手で再現できるデジタルが必須となる
:そして、破壊されることで通信が不可能になる様な「中心となるノード」を持たない、分散型のネットワーク
:そして重要な点として、管理者がいないこと・・・なぜなら管理者が必要な通信ネットワークは、管理するところを破壊されることで利用できなくなるから
:しかし、このコンセプトはAT&Tの技術者からはまったく受け入れられなかった

■インターネットの登場は、60年代の空気を抜きにしては考えられない
:60年代は、若者が既存の知識や体制に反旗を翻した時代
:そんななか1964年に出版されたマーシャル・マクルーハンの「メディアの理解」は、アメリカの若者に熱狂的に迎えられた
:当時これを読んだ若者の中に、大学院生だったアラン・ケイや高校生のアル・ゴアがいる
:後に、インターネットに関わって中心的な役割を果たすことになる人物は、すべてマクルーハンの洗礼を受けた
:現に、現在のインターネット用語の多くは、マクルーハン独特の用語だった・・・例えばクール、モザイク、ウェブ・・・・
:マクルーハンは、現状を変えなくとも認識の仕方を変えることでまったく別の世界が現れることを説いた・・・そしてその認識の仕方を改めるツールがメディアだった
:インターネットは管理されず、規制を嫌う・・・つまり60年代的な産物だ。そしてマクルーハンの著作は60年代を彩るなくてはならぬ若者のバイブルになった