「のもの」議論の不毛

ついに「釣りバカ日誌」が最終を迎えるらしい。

この映画、オリジナルを中学時代の同窓生の父君が監督しており、実は第三話かなんかに、僕の母なんかもエキストラで出演させていただいています。

まあ、そんな話はどうでもよくて、ちょっと気になったことがあります。

映画の中で社長を演じている「スーさん」は、創業オーナー社長という設定で、これがついに引退することになるのですが、引退演説で「会社は創業者のものではない。ましてや株主のものでもない。社員のものだ」という趣旨のことを述べ、社員が感動する、というシーンがある(らしい)のです。

脚本家やディレクターにしてみれば、昨今のグローバリズムの風潮に対するアンチテーゼとして、こういう台詞を打ち出したのかも知れませんが、そもそも会社を「○○のもの」と言い切ろうとすることそのものに疑問を感じます。

そもそも「○○のもの」といったときの「のもの」とはどういう意味なんでしょうか?

所有している、ということなのか?では「所有」とは何か?「所有権」を保持しているということなのか?であれば法的に会社は株主のもの、ということになっていて議論の余地はない。では、「所有」と「のもの」とは異なるということなのか?所有はしていないけど「のもの」とは、ではどういう意味なのか・・・・?

会社はだれのものなのか?という議論の際には、この「論点」に含まれている「のもの」とは、一体どういう意味で使っているのか?ということを明確化させることが必要だと思います。

その上で、更にもうひと言。

なぜ、みんな「会社は誰のものか」ということに答えを出したがるのでしょうか?

会社は社員のもの、という定義、というかテーゼは、会社は株主のものというテーゼと同じ様にデジタルなものです。「のもの」という言葉のあいまいさを残したままでも、「のもの」という言葉は、形式論理学的に言えばテーゼを両立させない、ということはなんとなくわかります。

つまり何がいいたいかと言うと、会社は社員のもの、と言いたがるのは、会社は株主のもの、と言うのと、基本的には同じ極端な単純化主義であって、もっと言えば思考の放棄だろうと思います。

会社は誰のものなのか?なんて考えたことがなかった人たちのところへ、鐘を鳴らしながら「会社は株主のも!」と叫ぶ人たちが乱入してきて、しかもそういう人たちは、往々にしてそうとう美味しい生活をしていたりする。この人たちに対する心理的な反抗がマグマのようにたまって、それが「会社は社員のもの!」という同レベルの単純化とアンチテーゼが醸成された、ということなのでしょう。

藤原正彦さんの「国家の品格」は、お好きな方もいらっしゃるようですが、僕は読了できませんでした。あまりにロジックがむちゃくちゃでページごとの論理構造が破綻していて、正直、何を言っているのかわからない、というのが一つ目の理由。二つ目の理由が、文章の下に流れる「美味しい生活を送っている人に対する劣等感」、ニーチェが言うところのまさにルサンチマンを、ものすごく感じたということです。それが、同様に「会社が株主のものという言い分は理解に絶する」という彼のコメントにつながっているのだな、と思います。ま、それはいいとして。

なぜこんな単純化が行われるのか?現代人の思考様式は、基本的にはデカルト以来の合理主義に則っていますが、たとえば禅では形式論理学的な思考が採用されていません。禅の公案では、しばしば「○でもあり×でもある」と考えざるを得ない話が出てきます。例えば狗子仏性なんてそうですね。別に「○○のもの」なんて決める必要がないんじゃないでしょうか。

個人的な答えを書かせてもらえば、

会社は社会や株主や従業員や取引先や顧客、みんなのものであって、一概に社員のもの、とか株主のもの、なんて言うのは難しい。だいたい、あんたが言っている「のもの」ってどういう意味なの?

ということでいいんじゃないかと思います。
「会社は誰のものか」の議論は、二十世紀における禅の公案になるかも知れません。だって、形式論理学では成立しない下記の命題が成立しちゃうんだから。

1:誰かのものであるとき、その誰か以外のものではない
2:会社は従業員のものである
3:会社は顧客や取引先のものである
4:会社は地域住民のものである
5:会社は株主のものである

禅の公案で有名な「狗子仏性」は、下記をご参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%AD%90%E4%BB%8F%E6%80%A7