Sunday, November 7, 2010

旧約聖書のすすめ

最近、旧約聖書を一度ちゃんと読まないとな、と思い、ゆっくりとしたペースながら少しずつ読み進んでいます。

以前から「キリスト教徒かどうかの如何を問わない。一度は読まないとダメ」と、様々な人から言われていたので、ようやく重い腰を上げたという感じですね。

「一度は読まないと」の理由は大きく二つあります。

一つ目。キリスト教にまつわる筋で言えば、新約聖書の内容が、そもそも旧約聖書と一種の対構造をなすものであって、本当に新約を理解しようと思ったら、旧約聖書を読んでおかないとわからない、ということがあります。

読み始めて200頁程ですが(旧約聖書は続編も含めると何と2000頁の大部です)、たしかにこれは読んでみるとそこかしこに、「ああ、だからイエスはああいうことを言ったんだな」というのがわかる文脈になっていることがわかります。

例えば、新約においてイエスは十字架刑で処刑されますが、これは「人類全体の罪を背負う生け贄として神に捧げられた」という神学的な解釈がなされています。で、旧約を読んでみると、この「何かの罪を背負って生け贄になる」というコンセプトは、これでもか〜という程、よく出てくる考え方なんですね。例えばレビ記の16節には、そのまま「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う」とあります。

また、新約においてイエスは、現代のマザーテレサがまさにそうであった様に、当時の社会において忌み嫌われ、排斥された人々にこそ、むしろ積極的に手を差し伸べて接触しようとしたことが語られています。そういった排斥された人々の中に「長く血漏をわずらった女」を触れることで治癒する、というエピソードが出てきます。

血漏というのは僕自身は知らない病気なのですが「きっとつらく苦しい病気だったのだろうな」とか「触れて直すっつーのはいわゆる、こりゃ「気」だな、うむ」とか思うわけですが、このエピソードが言い表そうとしている本質的なポイントは、やっぱり新約だけ読んでいるのでは伝わっていなかったんだな、と思うんです。

というのも、旧約を読むと「血漏の女は汚れている。その女に触れた者も、また汚れている」。ということで、従って触れた者は「浄められなければいけない」とする律法が、ガシっと書かれているわけですね。つまり「直した」ということよりもむしろ「触った」ことの意味が大きいわけです。共同体のルールの中で、タブーと言われていることを積極的に犯していく、信念に従って動く、というのがイエスの特徴です。

一方で、旧約聖書に書かれているこの「病気の人に触れると汚れる」と主張する点は、日本人が宗教という言葉からイメージされる寛容さとずいぶん乖離があるように思えますが、旧約聖書は「差別ルールのオンパレード」と言える部分があって、とにかく「あの病気のやつは汚れている、この病気をしているヤツは汚れている、あれに触ったヤツは汚れている、これを食ったヤツは汚れている」ということで、とにかく「汚れた人」をいっぱい生み出しちゃうルールというか、律法なんですね。

で、当のイエスは、そういうことを、一見無視して手を差し伸べているように見える。

じゃあ、旧約に規定された律法を否定しているのか、ということに、当然なるわけですが、ところがどうもそうではないらしいんですね。

例えば新約聖書のマタイ福音書の第五章で、イエス本人は

「わたしが来たのは律法を廃止するためではない。それを完成させるためである」

と言った上で、

「律法に書かれている言葉で、一つもムダになるものはない」

とまで言ってるんですよね。これはヘーゲルが言うところの「止揚」なのかも知れませんが、何ともよくわからない。よくわからない、というのはつまり形式論理学を否定している、ということです。触れると汚れる、と言いながら触れる、で律法は間違っていない、と説くのは形式論理学的には成立しません。これは、よく考えてみると、例えば仏教における「禅」も同じことが言えますね。例えば有名な禅の公案である狗子仏性。この問題は「狗に仏性はあるか、ないか」という問いで、形式論理学的には「ある」か「ない」かのどちらか、ということに答えはなるわけですが、実際には「あってない」し「ないがある」ということで、これを心底「わかった」と思えるのが、いわゆる「悟り」になる(ちょっと乱暴な解説ですが)わけで、もしかしたら似た様な思考の構造なのかも知れませんね。

ただ、こういう「よくわからん」というところが、僕は聖書の魅力だなと思っていて、やっぱりこれは新約を読んで、で旧約を読んで、で「え?え?え?どいうこと??」と考えるところに、やっぱり蘊奥があるのではないか、と。

で、前段が長くなりましたが、二つ目の「キリスト教にまつわらない」話で言えば、これは単純に美術史の勉強をしていたので、旧約を読んでいないと、「絵のモチーフがわからない」ということです。

例えば典型的なのはミケランジェロのダビデ像でしょうか。フィレンツェでご覧になった方も多いかも知れませんが、あれは右手に小石を、左手に布を持っていますね。あれを何に使ったのか、というのを文脈も含めて知っておかないと、美学はできないでしょ?ってそりゃそうだわな、と。

ということで、楽しみながらゆっくりと読み進んでいます。

あと加えるとしたら、旧約でものすごく違和感を感じるのは「血」に対する嫌悪かな。とにかく血を呑んだり食ったりするのをものすごく厳しく戒めているんですよね。これはどういう理由なのかわからないんだけど。不思議に思うのはフランスでもイギリスでも血を使った料理ってありますよね?フランスだとブーダン・ノワールが、イギリスだとハギスが、それぞれ内蔵に血をつめたものですから、これ旧約的にはアウトなんじゃないかと思うんですが、その辺はどうなんでしょうかね??

なかなか奥深いです。



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