残すバブルと残さないバブル

90年のバブル崩壊以後、日本人は自信を失ってしまった、という物言いには、多分に「過去=是、現在=非」というノスタルジーが含まれている様に感じます。ウィリアム・ブリッジズは、「人が何か新しいことを始められない、という時、それは「始まり」の問題ではなく、実は「終わらせられない」という問題なのである」と言っていますが、このもの言いもそう。分かれた女のことをグジグジ言うのと同じですね。

しかし、ここでよく考えてみて欲しいのですが、日本にあの80年代末のバブル期の狂乱が再度やってくることは、我々が豊かで幸せな人生を過ごす、ということに照らして、本当にプラスなのでしょうか?そもそも、日本人がバブル崩壊以後、失ってしまったという「自信」とやらは、本当に自信と言える程のものなのでしょうか? そんなものが本当にあったんでしょうかね??

さて、人類はその歴史の中において、数多くのバブルを経験しています。狭義で言えば代表的には17世紀のオランダのチューリップバブルや、18〜19世紀の鉄道熱やゴールドラッシュがそれに当たるでしょうが、すこし間尺を拡げ、資本の流動性が過剰に高まっている状態をバブル前期と考えてみると、例えばルネッサンス前期や19世紀、ヴィクトリア期の英国もそれに当たるでしょう。

こういった時代と日本の80年代末のバブルを比較すると愕然となる事実があります。これらの時代が、例えばルネサンスがレオナルドやミケランジェロを、ヴィクトリア期がターナーを生み出したことと比較して、なぜ日本のバブルは、ああも無惨なものしか残せなかったのでしょうか?

実に不思議なことに、政治学も経済学も経営学もまったくこの問題について無頓着に見えます。多少問題意識を絡めて発信をしているのがアートの世界ですが、残念なことにアーティスとの殆どは、今の現実世界を構成しているルールやシステムの強かさをよく分かっていないので、提言が非常にナイーブであったり的外れになってしまい、実際に世の中を動かす側の人たちを動かす程の力を持ち得ていないのが現状です。

なぜ、日本のバブルは、人類にとって、「バブルはよくなかったって?でも○○を生み出したんだからいいじゃない」と言えるものを、残せなかったんでしょうか?

ここで鋭い方は、もしかしたらこの質問そのものに違和感を感じたかも知れません。 そう。そもそも経営の目的は「残す」ことなのか?「残せなかった」ということを、そもそも経営の失策として考えるべきなのか?という疑念です。

実はここにこそ、我々の周囲の風景の無惨さと、経営という、20世紀から現在にかけて、我々が人生や自然資源を莫大につぎ込んでいる営みの折り合わなさがあります。

ぶっちゃけて言えば、経営というのは「残させない」というのが目的の営みであって、「残す」ということのアンチテーゼなのです。

「残す」より「残させない」のが経営の神髄、と言われて「?」と思われる方も多いでしょう。このことを分かりやすく説明する事例を、一つ紹介しましょう。

私が以前在籍していた電通に、「鬼十則」という一種の行動規範が存在しました。電通中興の粗である四代目社長の吉田秀雄が自らを律するために書き起こしたもので、私が電通に在籍していた時代には、多くの社員がほぼ全文を暗記していて、ことあるごとに取り上げられるほど社員には浸透していました。

一方、その同じ電通社内に、1970年に「戦略十訓」なるものが存在していたことは、余り知られていません。鬼十則が行動規範なら、こちらは一種の戦略ツールとでも言えばいいのでしょうか?広告主のキャンペーンを成功させるための、「考え方の切り口」を例示しているものですが、ここに、なぜ経営という営みが、モノを残せないのか、ということのヒントがあります。

電通 戦略十訓
1:もっと使わせろ
2:捨てさせろ
3:無駄使いさせろ
4:季節を忘れさせろ
5:贈り物をさせろ
6:組み合わせで買わせろ
7:きっかけを投じろ
8:流行遅れにさせろ
9:気安く買わせろ
10:混乱をつくり出せ

パっと見て分かる通り、これは米国の社会学者のヴァンス・パッカードが1960年代に、消費者にモノをどんどん買わせるために米国企業が行っている手法であるとして分析、批判した内容とほぼ同様のものです。いわば米国の学者の物言いを、批判を転換してポジティブな手法としてパクったわけで、今の電通には考えられない話ですが、1960年代という時代故に許された、または殆どの人に気づかれなかったということなのでしょう。

電通というのは毀誉褒貶する会社ですが、一種の空恐ろしさを感じるのは、21世紀の今という時代になって初めて見えてきた20世紀型マーケティングの本質が、ほぼこの10のルールの中に入っているということです。1970年代の段階で、その是非は置いておくとして「現代のマーケティングの本質」を彼らは気づいていた、ということなのでしょう。構成はともかく、その内容には端倪すべからざるシャープさがあると思います。

ここに、経営という営みがモノを残せなかった理由があります。ひと言で言えば、経営のパラダイムに置いては、モノは「残ってもらっては困る」のです。