多重人格生活が携帯に邪魔される



携帯電話が普及したことで僕らの行動は大きく変わったけれども、最近は心の持ち様みたいなものも変わって来てしまっているのではないか、ということを考えたりします。

これは、待ち合わせのときに詳細に時間と場所を決めないとか、そういうことではありません。

人間が、ある程度心地よく行きて行こうとすると、一種の多重人格性が必要なのではないか、という気がしていて、携帯が、それを持ち得ない様な息苦しい方向に世の中を変えて来ている様に思うんですよね。

人は、所属する会社や学校、家庭や友人関係、SMクラブや自治会といった組織やコミュニティの中に、いろいろな立場や役回りを持っているわけですが、それらは必ずしも一貫したアイデンティティを有しているわけではありません。昼間は強面で鳴らすおっかない管理職が夜には新宿でムチで打たれて喜んだりしているわけで、そこに(一見すると)通底したキャラクターを見いだすことはなかなか難しい。

でも、それでいいと思うんですよね。

立場や役回りを縦のサイロと考えた場合、そのサイロに横串は通さない方がいい。サイロそのものは自分で建てようと思って建てるケースもあれば、人生の流れでいつの間にか建ってしまったものもあって、必ずしも全てのサイロを納得づく持っているわけでもないんですが、全体としてはそのサイロのポートフォリオによって多くの人は人格のバランスを維持していると思うんです。

ところが携帯電話というものが出て来たことによって、このサイロに強烈な横串が通り始めている気がします。例えばイジメというのは恐らく古代からあったことだと思うのですが、いまになって問題の深刻度が増しているのは、子どもたちが学校と家庭という二つのサイロを使い分けられなくなってきていることに理由があると思っています。いじめられっ子は、学校でどんなにつらいイジメにあったとして家に帰ってくれば物理的にも心理的にも学校とは一旦距離を置くことが求められるわけですが、携帯電話というバーチャルな横串は学校というサイロから心理的に分離することをいじめられっ子に対して許容しません。

これはサラリーマンが家庭と職場と個人という三つの人格要素、ユング的に言えばまさに「仮面=ペルソナ」ですが、を使い分けることが難しくなって来ていることにもつながっています。物理的にどのような場所に居ようと、どのような社会的な立場(例:地元の釣りコミュニティの幹事、変態クラブのVIP客、湾岸の夜の帝王等)にあろうと、会社人としてのペルソナや家庭人としてのペルソナがついて回ることになります。こうなるとサイロのポートフォリオでうまくバランスをとって行きていく、という人類が古代からやってきた生きる戦略そのものが機能しないことになるわけで、これは実は多くの人が考えているよりずっと大変な問題なのではないか、という気がしているんですよね。

もしそういう方向に流れて行くのだとすると、結論は単純でサイロのポートフォリオでバランスをとる戦略はもう機能しないので、一つ一つのサイロそのもののスクラップ&ビルド、つまり気に入らないサイロ、ストレスレベルの高いサイロは避けるということになるわけですが、このサイロが一つしか作れなかった、というケースがまさに「引きこもり」ということなので、なかなかこれは厳しいんですよね。すいません、結論はないんですが。