Sunday, December 16, 2012

インターネットは「窓」か「鏡」か?

インターネットが登場したことで、知の偏在が是正される、といったことがかつてよく言われました。

グーテンベルクの発明したとされる活版印刷(厳密には間違いで、活版印刷は遥か昔に中国で発明されていましたけど)が、筆写によってのみ可能だった聖書の複製を可能にしたことで、教会の権威の崩壊を促進した様に、知的エリート層にのみ限定されていた情報を解放することになるだろう、という語り口です。

Power to the People

という言い方ですね。

これは、ここ10年くらい色々なところで書いたり話したりしているのですが、知ってる人にはくどいかも知れませんが、僕は前からその意見に懐疑的でした。

上記の、これまで知的エリートに限定されていた情報を多くの人に開放した、という考え方は、世界を覗くための「窓」としてインターネットを捉える態度に立っています。

でも、本当にそうなんでしょうか?

インターネットで情報を取得するためには基本的に必ず一度主体者側でアクションを起こさなくてはなりません。グーグルが如何に情報を整理してくれるとしても、検索ワードを入力しなければ、何も返ってきません。

キリスト教の神は、遠藤周作が小説「沈黙」で書いた通り、どんなに問いかけても何も返してきません。沈黙したままです。ですからグーグルは神よりは親切だということも出来るのですが、問題は、

グーグルが返してくれる答えは、入力した検索ワードに応じたレベルでしかない

ということなのです。

貴方が、もしグーグルの検索窓に、流行語や売れっ子タレントの名前やスキャンダルの当事者等の、下らない情報しか入力出来ないのであれば、グーグルが返してくれる答えもまた、下らないものでしかないでしょう(グーグルの検索ワードのランキングは定期的に発表されているので見てみると面白いですよ。その貧しさに戦慄しますから)。

貴方が、もしグーグルの検索窓に、有意義で豊かな問いを入力出来れば、グーグルはそれに見合った形で、世界中の知見を返してくれるでしょう。

つまり、グーグルは知の不公平を是正するどころか、知っているものは益々豊かに、知らないものは益々貧しくなる、という仕組みではないのか、ということです。

ネットサービスの両雄の片割れであるアマゾンでも同じことが言えます。アマゾンの推奨機能は大変便利で有用ですが、これも基本的に過去の自分の購入履歴に基づいて、他人の購買情報も含めた上で推奨を作成してくれるということですから、基本的に「今の自分」と「今の自分と同程度の書籍を読んでる人」がベースになっているわけで、畢竟、アマゾンが推奨してくれる様々な書籍は「身の丈」に合ったものにしかなり様がありません。

つまらないことを勉強している人には、つまらない推奨しか来ませんし、豊かな読書体験を送っている人には更に豊かな推奨が来るでしょう。

ここでも、インターネットは「窓」というよりは、過去の自分を映し出す「鏡」でしかない、ということになります。

こう考えてみると、結局はネットというのは図書館と同じだな、と思うのですよね。図書館を上手に使いこなす人は検索用語をうまく組み合わせて良い本を探り出しますけど、そういうリテラシーのない人にとっては、ネットというのはむしろ「相対的な知のポジション」を悪化させるツールになるだろう、ということです。

では、相対的な知のポジションを悪化させないためにはどうしたらいいのでしょうか?結局のところ、勉強するしかないんでしょうね。勉強してモノごとを覚えても、ネット上に記憶が外部化されるようになれば意味ない、という妄言を吐く人も世の中にはいますが、これは非常に危険な考え方で、むしろ頭の中の情報をどんどんネットに外部化すればするほど、ネットそのものから得られる便益も相対的に縮小してしまうでしょう、というのが僕の考え方です。


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