Friday, January 25, 2013

日本流リーダーシップの可能性


昨日、東洋経済新報社の編集者の方と食事をしていて出てきた「日本流リーダーシップ」の可能性について、少し考えてみたことを共有します。

  • リーダーシップにはなぜ訳語がないのか?
    • 為替、相場、市場、先物などの経済/金融の用語は江戸時代からすでにあったので、わざわざ外来語を使う必要がなかった
    • それに対して、リーダーシップという言葉には適切な訳語がなかった。これは例えば、他にもアートという言葉があって、芸術という日本語を当てたわけだが、これは従来から日本にあった言葉ではなく、明治期にアートという「概念」が輸入され、それに応じる形で当てられた一種の造語である
  • 日本にはなじまない?
    • リーダーシップに訳語がなかった、ということは二つの可能性を示唆しているのかも知れない
    • 一つは当然のことながら、リーダーシップに対応する概念がそもそもなかった、ということである
    • 19世紀に登場して「世界の見え方」をひっくり返してみせた言語学者のソシュールは、我々が世界を認識し、それに応じる形で言葉を生み出したという古来からあった考え方を否定し、言語と世界認識の関係はもっとダイナミックなものだということを明らかにした
    • 簡単に言えば、世界を認識して、その世界を記述するために言葉を生み出しているのではなく、言葉がもともとあって、言葉が世界を切る様にして世界を認識しているということだ
    • 日本人がリーダーシップという言葉を持たななかった、ということは我々が世界をどのように見てきたかを規定していて、あり体に言えば、日本にはリーダーシップは存在しなかった、ということが一つの可能性である
    • もう一つは全く逆で、リーダーシップが余りに空気のように普遍的な存在なので、それを切り取る言葉を持たなかったという可能性だが、こちらに与する人は直観的には少ないだろう
    • なぜ日本においてリーダーシップという概念が生まれなかったのだろうのか?理由はいろいろとあると思う。ステレオタイプの様に言われる農耕民族だから、という理由もそれはそれで確かに寄与しているだろうし、恐らく温暖な四季のある島国でずっと暮らしてきたことで「移動を必要としなかった」ということもあるだろう。移動はリーダーシップにおける一つのキーワードだ。いまここから、ここではないどこかへ移動するには必ず「起動し方向付けて動く」ことが必要になる。
  • リーダーシップのサンプルは聖書
    • その点から、欧米におけるリーダーシップ概念の形成に恐らく大きな影響を与えているのが聖書だろう
    • これは旧約聖書も新約聖書もそうだが、聖書の中には繰り返し「集団が危機的状態に陥り、それを救うためにリーダーが立ち上げって集団を率い危機を脱する」というモチーフの物語が登場する
    • 典型的には旧約聖書の出エジプト記やノアの方舟の伝説がそうだ
  • 危機意識とリーダーシップ
    • これらの話の特徴は、危機の到来に気付いているのはリーダー一人であって、集団の構成員はそれに気付いておらず、「今までの方がよかった」とぶーぶー文句を言っているのを、なだめすかしながら率いている、という点だ
    • こういった話を子供の頃から聞かされているということの一種の批評的効果はなかなか侮れないのではないか
    • 集団が危機的状況に陥る、あるいは陥る可能性がある時、これを救うために立ち上がるというのが欧米におけるリーダーシップの原型=アーキタイプなのだが、この描かれ方の構造が興味深い。
    • 例えばハリウッドのパニック映画は基本的に全て同じ構造で出来ている。ジョーズを取り上げてみるとわかりやすい。鮫に襲われる事故が起きる。警察官はこれを巨大な鮫の仕業だと考え、迫っている海開きを延期する様に市長に働きかける。海開きの延期によって地元民からの人気や税収が縮小することを恐れる市長はこれを受け入れない。そこで海開きを強行したところ、鮫に人が教われることになる。警察官は鮫退治の名人とともに巨大な鮫との対決に乗り出す、という話だ。
    • ここでのポイントは
      • 1=危機の到来に気付いた警察署長が自ら動いている
      • 2=本来コミュニティの安全を確保すべきリーダーであるはずの市長は、海開きを強行してしまう
    • という点である。
    • この「利発な現場が危機に気付いてリーダーシップを発揮」し、「本来リーダーであるはずの権威が、リーダーシップを発揮出来ない」という構図は、ダイハードなどハリウッド映画の中に繰り返し洗われる構造である。
  • 権威とリーダーシップ
    • こういった一連のハリウッド映画が繰り返し国民に向けて提起しているのは「権威は必ずしもリーダーではない。リーダーとは「問題意識を持って自ら動き出す人」のことである」という批評であり、もっと突き詰めて言えば「自ら動け、それがリーダーだ」というメッセージです。こういった批評的構造のシナリオ/世界観に子供の頃から彼らは接しているのだ。
    • ところがこの構造は日本ではまったく逆になる。例えば日本のパニック映画と言えばゴジラということになるが、ゴジラを退治する芹沢博士は政府筋から依頼を受けて出動するわけで、そこでは権威とリーダシップが密接につながっている構造が見られる。これは例えばウルトラマンなども同じだ。ウルトラマンでは、政府によって設立された科学特捜隊の隊員がそのままウルトラマンになって怪獣を倒す構造になっている。あるいは小松左京原作で映画化もされた「日本沈没」においては、大地震の到来を予言した物理学者と日本政府がタッグを組んで国民を救うことになる。ここでも権威とリーダーシップは屈折せずに一直線に繋がっている。「お上」はいつも正しく、パワーがあり、困ったときにはいつでも助けてくれる。
  • 責任のリーダーシップと権威のリーダーシップ
    • ここには「責任」と「権威」の混乱が見られる。
    • リーダーシップは権威によって生まれるものではない。それは責任によって生まれるものだ。
    • 日本企業の組織診断を行っていると「自分には権限がないので」ということをよく口にするリーダーが居るけれども、ではその人が権限を手に入れたら何かを始めるのだろうか?僕はそうは思わない。今日何かを自分の判断で動き出さない人は、明日、権力を手に入れたとしてもやはり動き出さないだろう。
    • 上述した様に、ハリウッド映画でリーダーシップを発揮することになる人(というか役柄)の多くは権限を手にしない組織の下層に位置する人たちだ。
  • リーダーシップの基本は=移動
    • 上述した様な聖書の話に共通する別の角度の因子として「移動」という点が上げられる
    • 聖書や多くの神話においてリーダーは常に移動を先導する存在として描かれる。「ここ」から「ここではない別の場所」へ。そしてその別の場所が、どこなのか、どのような場所なのかを知っているのはリーダーだけなのである。出エジプト記では、モーセはヤハウェから「乳と密の流れる地=カナンへ行け」と示され、ブーブー言うイスラエルの民を嫌々ながら率いていくことになる。途中で海とエジプト軍に挟まれた時など「お前のせいでヒドい目にあった。こんなことになるなら来るんじゃなかった」と言われ、リーダーシップが崩壊する状況も経験することになるわけだが、一貫しているのは常に「移動」の最中において様々な事件が発生して行くということである。
    • 「移動」という側面からリーダーシップを考えてみると、確かに農耕民族で「同じ場所に留まり続けること、土地に対する愛着を持つこと」が重要な日本人にとってはリーダーシップを発揮する、あるいは接する機会は少なかったかも知れない
    • 遊牧や狩猟では、「どちらに動くか」を毎回毎回意思決定しなければいけないのに対して、農耕ではむしろ、毎回毎回同じことをやる、つまりアルゴリズム=決められた手順をつつがなくしっかりと遣り切る行動が重要になってくる。
    • 同じところに留まって農耕を営むという社会には別の種類のリーダーシップが求められる。正常性バイアスが強くかかっている社会において斬新的な進化を促すためのリーダーシップというのはどのようなものなのだろうか?
  • リーダーはどう選ばれるのか?
    • 聖書では、リーダーは神によって決定される。因果応報や功徳や修行の量ではなく、神の好き嫌いによって勝手に決められてしまうのである。モーセなどは神からリーダーに指名されたわけだが、聖書を読む限り、30人抜きで次期社長に抜擢されてしまった最年少役員の様に困惑しているのがわかる。
    • リーダーは神の好き嫌いによって勝手に決められる。これは神学用語では予定説と言われる考え方である。能力でも人格でも前世での功徳でも寄付の大きさでもなく、神は「だってなんかあいつが好きなんだよ」という理由でリーダーを決めてしまうのである。
    • マックスウェーバーは予定説こそ資本主義を生み出した考え方の根本だ、と指摘しているけれども、このパラダイムはリーダーシップの認識にもとても大きな影響を与えることになると思う
    • 選ばれた人間と選ばれない人間がいる、それは努力とか人格とか才能とかではなく、とにかく「リーダーとして神に選ばれちゃう」のである
    • この思想を日本人は許さない。誰もが平等に機会を持っている筈だ、あるいは能力や努力に応じて公平にリーダーは決定されなければならない、という幻想を持っている。
    • これは正しいとか間違っているといった問題ではない。日本人は予定説や特性説を、生理的に嫌っているのだ。これは時間軸で考えみればあと500年くらいすれば慣れてしまうのかも知れないけど、数年でケリのつく話ではないだろう
    • 問題は、そういう生理をもった風土の中において、聖書的な世界観をベースにしたリーダーシップとは別の形でのリーダーシップというのを確立出来るのか、という点にかかってくる。
ということで、今回はここまで。答えの出ない問いではあるけれども、日本流のリーダーシップとはどのようなものなのか?という問いは、とても大事なものだと思うので、もうしばらく考えてみて、まとまる様なら本にしてみたいと思います。


では、また。

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