Thursday, January 28, 2016

「恥の文化」とコンプライアンス違反

日本では今後、コンプライアンス違反が続出して社会問題化するだろう、という予測をブログに書いたのがちょうど三ヶ月前。

日本で今後コンプラ違反が続出するだろうな、と思うその理由

で、そのあとも大手レストランチェーンによる産廃食品の横流しなどが発覚して、まあ残念なことに僕のこの予測は今のところ当たってしまっています。

この問題については、よく出版社の担当編集者の人とも話していて、機会があれば本に著したいと話すのですが、いつも「ネガティブすぎる」「サラリーマンが救われない」といった反応で、僕自身も常々「問題を指摘するだけで解決策を指摘しないのは知的生産物として中途半端」と方々で吹いている手前もあって、なかなか「コンプラ違反が増加する」という指摘のその先へ進む手がかりを得られないでいました。

で、今朝ほど起き抜けにふと考えたのが、この問題はルース・ベネディクトが『菊と刀』
で指摘した「恥の文化」の枠組みで考えるとわかりやすいな、ということです。

もう捨てちゃったかなと思って本棚を探してみると、あった。で、改めて読んでみると次のようにあります。

まず、

諸文化の人類学的研究において重要なことは、恥に大きく頼る文化と、罪に大きく頼る文化とを区別することである。道徳の絶対的基準を説き、各人の良心の啓発に頼る社会は、<罪の文化>と定義することができる。

とした上で、さらに

恥が主要な社会的強制力になっているところでは、たとえ告解僧に対して過ちを公にしたところで、ひとは苦しみの軽減を経験しない。

と指摘しています。つまり「罪」は救済できるけど「恥」は救済できないということです。これは考えてみれば恐ろしいことですよね。西洋の<罪の文化>では、告解によって罪は救済されることに、一応はなっています。これはキリスト教の伝統みたいに思われている節があるけど、告解がキリスト教徒に義務付けられたのは1215年のラテラノの公会議で、意外と最近のことなんですよね。

この公会議で、信者は年に一回、セクシュアルなことも含めて、広場で自分のやった罪を周りに告白するというとんでもない義務を負わせられたわけです(告解室で密かに告げるようになるのはさらにその後の時代のことです)。ラテラノの公会議は、おそらく世界史に詳しい人でもほとんど内容を知らないと思うのですが、ミシェル・フーコーは、この公会議を、告解をシステム化してヨーロッパ人の近代的自我の成立を促したという点で歴史的事件だと指摘していますね。大好きな阿部謹也先生もそのままズバリ「世界史的事件です」と言ってます。

まそれはともかくとして、この<罪の文化>に対して、ベネディクトは、<恥の文化>においては、たとえそれが悪行であっても、世間に知られない限り、心配する必要はない。したがって<恥の文化>では告解という習慣はない、と指摘しています。そう言われてみれば、確かにその通りですわな。

ベネディクトの指摘の上にそのまま考察を積み重ねれば、こういうことになります。つまり、日本人の生活においては「恥」が行動を規定する最大の軸になる。それはつまり、各人が自分の行動に対する世間の目を気にしているということです。この場合、彼あるいは彼女は、ただ世間の他人が自分の行動をどのように判断するかを想像しさえすればよく、その他人の意見の方向に沿って行動するのが賢明であり、さらには優秀であるということになります。ということで、最後に彼女は

日本人特有の問題は、彼らは、ある掟を守って行動しているとき、他人は必ずその自分の行動の微妙なニュアンスをわかってくれる、という安心感を頼りに生活するように育てられてきた、ということである。

とまとめています。この指摘について、何度も転職を繰り返してきた自分がいつも感じていることを重ね合わせると、一つの道筋が見えてくるように思うのです。

幾つかの会社を渡り歩いてきた僕がいつも感じていることは「ある会社の常識は、他の会社の非常識」だということです。電通に勤めている人は電通でまかりとおっている常識を「世間の常識」だと勘違いしているし、BCGに勤めている人はBCGでまかりとっている常識をやはり「世間の常識」だと勘違いしています。

つまり常識というのは非常に文脈依存性がある、現代アートの用語で言えば「サイトスペシフィック」だということです。何度か転職をすれば、自分が所属していた会社=世間での常識が、そこでしか通用しない常識だったのだという認識を持つことができるのですが、同じ会社にずっといるとそういう相対化は難しい。つまり、会社という「狭い世間」の常識が、社会という「広い世間」の常識が異なるということに気づけないわけです。

ここに「世間の多層性」という問題が出てきます。ある会社の常識、ベネディクトの指摘をつかえば「掟」がサイトスペシフィックであるということは、そこに盲目的に従うということが「広い世間の掟」に反することにもなりかねない。しかし、彼らあるいは彼女らは「狭い世間の掟」には従わざるをえません。なぜなら「恥」は「罪」と違って救済されないからです。「恥」はそのまま「狭い世間」=会社からの心理的・物理的な追放を意味します。それは窓際に送られることであり、あるいは早期退職を勧奨されることです。

救済されない「恥」への恐れから、「狭い世間の掟」に盲目的に従わざるをえない為に発生しているのがコンプライアンス違反だと考えれば、この問題を解決するための本質的な方策が浮かび上がるように思います。

世の中は「狭い世間の掟」に従って「広い世間の掟」を破った人を市中引き回しの上打ち首にすることによって、「広い世間の掟」を守らせようとしていますが、個人個人にとっての利得はあくまで「狭い世間の掟」へ従うか従わないかで決まっているのですから、これは筋が悪いアプローチと言わざるをえません。社会全体がよって立つような道徳律を持っていない国ですから、どうしても行動を規定する軸足は「狭い世間の掟」にならざるをえない。

ではそういう社会において、どうやって「狭い世間の掟」を相対化し、その掟がおかしいと見抜く判断能力を身につけるか。答えは二つしかないと思います。

一つは、結局は労働力の流動性をあげろ、という結論になるのではないかと思います。自分が所属している「狭い世間の掟」を見抜けるだけの異文化体験を持つ、ということです。

もう一つは、教養を身につけろ、ということでしょうか。教養とは何か?いろいろと答え方はあるけど僕は、一つの定義として「相対化できる知性」がそれであると言えるのではないかと思うのです。絶対化しない。自分には教養が全くないことを自覚して言っていますけど、例えばオウム真理教は仏教をうたっていましたね。その上で修業者に対して「地獄に落ちる」と脅していたわけです。ではキリスト教、イスラム教、仏教の三つの中で、教義の中に地獄が出てくるのは何か?答えは「イスラム教だけ」で仏教には出てこない。だから、この時点で宗教にリテラシーのある人は「あ、インチキだ」と思うわけです。小さな世間の中での協議を、大きな世間の知見と照らして相対化する視点を持つ、ということです。知らないというのはそのまま、破滅のリスクになるんですよね。

うーん・・・・しかし、そう言われてもな、と僕自身も感じますね。
もう少し考えてみます。



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