若い時の無目的な勉強こそ底力になる、という話

以前からずっと思っていたことなのですが、どこかで書いておかないと忘れちゃうなと思っていたので、備忘録代わりに。

結論から先に言えば「無目的なインプットをやってこなかった人は、肝心カナメの時期にアウトプットできなくなる」という話です。どうしてそうおいうことになるのか、順に説明しましょう。

まず、いわゆる「勉強」について、ここでおそるべき一つの法則を提案したいと思います。それは「アウトプット=インプットの法則」です。一体どんな法則なのかというと「人生全体で見てみれば、アウトプットの量とインプットの量は同じである」ということです。アウトプットする人はインプットしているし、インプットしていない人は、どこかで枯れる」ということで、実にシンプルな法則。

実名を挙げるのはさすがに憚られるので、ここでは差し控えますが、一時期にベストセラーを連発して飛ぶ鳥を落とすような勢いだったのに、ぱったりとアウトプットが出なくなってしまうような人がいる一方で、頭の中はどうなっているのか?と思われるほどに、ノベツマクナシに本を出し続けられる人がいますよね。例えば明治大学教授の斎藤孝先生は年間で20〜30冊という驚異的なペースで執筆し続けておられます。

で、両者のキャリアや経歴を比較してみて気づくのですが、アウトプットし続けられる人は、人生のどこかでインプットし続けている、ということです。例えば斎藤孝先生の例で言えば、大学院修士時代から博士課程を終えた後、いわゆるポスドクの時期まで、ひたすらにインプットしまくっている時期がある。これは例えば内田樹先生にしても同様で、継続的に質の高いアウトプットを出し続けている人に共通しているのは、人生のどこかでひたすらにインプットし続けている時期があるということです。

この事実はどういう示唆を私たちに与えてくれるのか?と考えてみると、よく言われる「インプットはアウトプットが必要になった時にすればいい」「アウトプットの目安が立っていないインプットは非効率」という意見は、実は非常にミスリーディングで、逆に言えば、無目的に興味の赴くままに、ひたすらにインプットする時期がないと、長い期間にわたって継続するような、真に強力でユニークな知的生産力は身につけられない、ということです。

どうしてこういうことになるのか?これを経済学的に考えてみれば機会費用の問題」として整理できます。

例えばアウトプットが一時的にウケて、次々と仕事が舞い込んだとしましょう。そういう状況でインプットのために勉強するのは、機会費用が大きい。だって持っている時間を執筆や講演に使えば、それがお金になるのに、インプットのための勉強は、それ自体ではお金を生み出しませんからね。つまり、実際にアウトプットが求められる段階になってからインプットの勉強をするというのは、非常に機会費用が大きいわけです。

では、機会費用を小さくするにはどうすればいいか?答えはひとつしかありません。まだ誰からも「本を書いて欲しい」「アドバイスをして欲しい」「手伝って欲しい」と言われていない時期、時間が腐るほどあるという時期、そういう時期に思いっきりインプットをする。これしかありません。


これが世の中で「よく言われる勉強法」のアンチテーゼになっていることに気づきましたか?一般に、ビジネスパーソンの勉強法に関しては「いずれ必要になったら、その時に必要な勉強をすればいい」というものです。こういう意見を言う人は多いし、合理的にも聞こえます。しかしこれは、やっぱりダメだろうと思うのですよ。

「インプットが必要になった時」というのは、もう「舞台に立て」と言われているわけですから、そこで勉強をしているようでは、どうしても付け焼刃的な知識の表面的なインプットにならざるをえない。結局、どこかで聞いたような話を、自分のユニークな体験を交えて語るという、よくあるビジネス本のスタイルにならざるを得ないわけで、その人ならではのユニークな切り口とか、あるいは他のジャンルの知見と組み合わせたユニークなソリューションというのは、どうしても出てきにくいということになります。

人生において、他者からアウトプットを求められていない時期、インプットのための機会費用の小さい時期にしか、大量かつ無節操なインプットはできません。そしていざ、他者からアウトプットを求められる時期になって、その人らしいユニークな知的アウトプットを生み出せるかどうかは、この無節操なインプットの蓄積によると考えれば、若い時の無目的で無節操な勉強こそ、継続的に知的生産力を維持するために重要だ、ということになるんじゃないか、と。