Saturday, October 22, 2016

キャリアにおける「逃げる技術」の重要性

このブログで「今後、日本企業によるコンプライアンス違反が続発するだろう」という予言をしたのがちょうど一年前の10月でした。その後、この予言は残念なことに的中し、様々な組織での不正が明らかとなり、つい先日はあろうことか、古巣の電通においても広告出稿についての不正があったことが明らかとなりました。

電通の不正については、ネットでも様々な批判がなされていますが、ほとんどのものは電通マンの高給と権力に嫉妬を抱く人が溜飲を下げるために垂れ流しているヤッカミに過ぎず、読むだけ時間の無駄なのでここでは同様の批判は繰り返しません。

ここで提起したいのは、キャリア論についての問題です。

ちょうど先週に上梓した著作『20代は残業するな』において、僕は「一般的に目の前の仕事に一生懸命に取り組むのはいいことであると信じられているが、それは嘘である」と指摘した上で、「世の中には、それに取り組むことで自分の人生が豊かになる”筋の良い仕事”と、それに取り組むことで自分の豊かさがどんどん奪われる”筋の悪い仕事”がある」と指摘しました。

さらに、「僕たちにとって重要なのは、”筋の良い仕事”と”筋の悪い仕事”の構成比を主体的にコントロールしていくという意識であり、その点から、キャリアにおける最悪の仕事はコンプライアンス違反の片棒を担がされることである」とも指摘しました。


しかし、これは困ったことになるわけです。もし僕の予言通り、今後、コンプライアンス違反を犯す企業がどんどん出てくると、コンプライアンス違反に携わることに人生の貴重な時間を奪われる人が、たくさん出てくることになるからです。そして、こういった仕事は成長実感も自己効力感も得られない割に、極めて肉体的・精神的に負荷がかかるため、キャリアを台無しにしかねないわけです。

で、僕の結論は明白で「さっさと逃げなさい」というものです。

スジの悪い上司や同僚に囲まれて、コンプライアンス違反のような典型的に「筋の悪い仕事」に時間を奪われていると感じられるのであれば、後先考えずに逃げてしまう方がいい。この点について、僕は自分のキャリアを「基本、逃げる」という考えかたでやってきたので、少し説明したいと思います。

今でこそ、外資系企業のシニアパートナーとして働きながら、こうやって書籍の執筆や講演をやっているので、世の中の人からは「成功者ですね、羨ましい」と言われることがあるのですが、そのように言われることについては、大変強い違和感を覚えます。なぜかというと、僕は、いまのこの立場を、計画的に努力して掴んだわけでは、全然ないからです。むしろ、その場その場で「この仕事嫌い、やりたくない」「この人嫌い、一緒にいたくない」を繰り返しながら逃げていたら、自然とここに流れ着いたというイメージだからです。

もちろん、仕事に求める基本的な要件はそれほどぶれていません。私の場合は、大学時代に哲学科を選んだ時から、とにかく「知的に興味をそそられる問題を取り扱うことで、人間や社会の有り様について洞察を得られる仕事」をやりたいというのがありましたから、それがあるタイミングでは広告代理店のプロデューサーということになり、あるタイミングでは経営戦略コンサルタントということになり、そして今は、組織と人材を専門に扱うコンサルタントということで、この場所にいます。

こう書くと、瓶に封じ込んだ手紙がどこかの岸に漂着するようにして、いまの仕事、いまの立場に偶然に行き着いたように感じられるかも知れませんが、必ずしもそうではなく、大きな方向感は持ちながらも、流される時は流され、舵を切るべき時は舵を切ってきたという感じで、イメージで言えば川下りのような感じでしょうか?よくわかりませんが。

その都度、その都度の局面で、感覚的にピンとこない仕事や仲間であれば、「何かピンとこないな」というだけの理由で、立場や報酬にもあまり執着せず、さっさと逃げてきました。そして、ここが重要な点なんですが、本当にそれで良かったと、今では思っています。

おそらく過去の同僚や取引先の中には、僕のことを絶対に許さないと思っている人もいるでしょうし、実際に人づてにそういうことを聞くこともあります。でもそれを心苦しいと感じることはありません。なぜそのように言えるかというと、そのようにして他人を攻撃する人は、単に自分の価値観や道徳観念を、他者にも押し付けようとしているからだということを、よくわかっているからです。僕には僕の価値観や道徳観念があり、それに従って生きています。そして、僕のことを絶対に許さないと息巻いている人にも、その人なりの価値観や道徳観念があるのでしょう。しかし、それはそれだけのことで、僕がその人の価値観や道徳観念に従って生きなければならない理由は、何もありません。

さらに言えば、実は、その人たち自身ですら、その人たちの価値観や道徳観念に従う必要はないのです。自分の気に入らない価値観や道徳観念であれば、捨ててしまえばいいのに、それを後生大事に抱え込んで生きている。だから、その価値観や道徳観念を平気で踏みにじる人が出てくると腹を立てるのです。彼らが私に対して激怒している理由は実にシンプルです。世間から植え付けられた価値観や道徳について、自分は仕方なしにそれに従って生きているのに、平気でそれを振り切って自由に生きている人がいるから、という理由です。実に痛々しいと言うしかありません。

一方で、僕はどのような価値観や道徳観念に従って生きているかというと、実にシンプルで、それは「自分と自分の大事な人を幸せにする」こと、これに尽きます。この目的に照らして、マイナスだと思えることであれば、相手がどんな権力者であっても断固戦いますし、自分で状況を変えることが難しいと思った場合は、即座に逃げます。後がどうなろうと、僕には関係ありませんから。

このように話すと、「それでも世の中の道徳には従うべきだ」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。最終的には、人それぞれなので、もしそのように考えるのであれば、そうなさればいいのではないですか?とお答えするしかないのですが、一つだけ、そのように主張なさる方に対して質問したいのは、「本当にそれは『世の中の道徳』なのですか?あなたが、そう思っているだけではないのですか」ということです。

それは世間が、ゆるさない。世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう? 
太宰治「人間失格」



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