読書の正味現在価値

阿部謹也先生の「刑吏の社会史」をあらためて読んでいて「読書の正味現在価値」について少し考えています。

既にいろんなところで書いたり話したりしていますが、僕は新刊のビジネス書をほとんど読みません。何かきっかけがあったり、深い考えがあってそうしているというよりは、読みたいと思う本を感覚的に選んでいたら、いつの間にか新刊のビジネス書がほとんど含まれなくなったということなのですが、最近になって、ある出版社さんで「読書術」というテーマでの連載を持つことになり、読む書籍を選ぶ際に用いている選択基準を意識の底から掬いあげて言葉にする必要性が生じてつらつらと考えてみました。

で、正直にいうと未だにその基準はよくわからないのですが、おぼろげに見えてきたのは、どうも「読書の正味現在価値」という、意外にも世知辛い基準で本を選んでいるらしいということです。

読書を一つの投資と考えてみれば、原資は自分の時間しかありません。時間は限られていますよね。誰にとっても一日に24時間しかない。だから、どの本に自分の時間を投下するかはとても大事な意思決定になります。

一方で、読書がもたらす効用は、「単位時間当りの効用」と「効用の持続時間」の積に等しくなります。この効用の持続時間を、短期と長期に分けて考えてみた場合、ビジネス書のベストセラーというのは、

短期:読んでいる人が沢山居るため、差別化の要因にならず、効用は小さい
長期:殆どの内容が数年で陳腐化するため、やはり効用は小さい

ということになります。

わかりやすい例として2009年にベストセラーになったクリス・アンダーソンの「FREE!」を考えてみましょうか。あの時期、本当に猫も杓子もあの本について語っていましたが、あの分厚い本を読んでその内容について語ったり、考察したりすることの効用は、実はそれほど大きくはなかったのではないでしょうか。少なくとも、皆が同じ様なことを話していたわけですし、しかもその内容は「言われてみれば当たり前」というものが多かったように思います。しかし、他人と代わり映えせず、しかも陳腐でつまらないというのは個人のアウトプットとしては「最悪」というほかありません。

一方で、今から十年後のことを考えると、クライアントのCEOとの会食の場で、あるいは経営幹部候補育成のワークショップの場で、クリス・アンダーソンの「FREE!」からの引用が使えるかというと、まあピンと来ませんよね。殆どの人は「ああ、なんかそんな本、あったよね」という反応でしょう。

出版からたったの四年しか経っていないのに、キーワードの一つだった「フリーミアム」が使用の憚られる「恥ずかしい用語」に早くもなりつつあることを考えれば、見通しは暗いと言わざるを得ませんって、そう思うのは僕だけなのかな。

一方で、アダム・スミスやマックス・ヴェーバーのような、いわゆる古典からの引用はこれから先、十年あるいは二十年のあいだ、同様の場において説得力ある引用を可能にしてくれるはずです。

つまり、ビジネス書のベストセラーによって形成された知的ストックは、短期的には差別化できないために効用が小さく、中長期的には知的価値の毀損が早く、正味現在価値は意外にも小さいのではないか、ということです。そういう判断をどうも無意識にやって偏った読書ポートフォリオになっているらしいと、まずはそこまでは見えてきました。もう少し考えてみると、また違ったことになるのかも知れないけど。

慣用句=ことわざというのは「大人の事情」を匂わせるうさんくさいものが多くて子供のときから僕はずっと違和感を抱えていますが、このように考えてみると「残り物には福がある」ということわざは、一面の真理を指し示しているのかも知れません。一般にこの慣用句は、先物を確保する利権を有する人が、それを持たない人の反発をなだめるために用いるケースが多いわけですが、実は多くの人が手にしたがる先物は差別化が難しく、残り物にこそ差別化を考えるための契機が生まれるということなのだということであれば、それはそれで一つの知恵だと認めざるを得ません。あるいはそもそも、歴史のやすりにかけられた「残り物」には効用があるのだ、という指摘と捉えることも出来ます。

思い出したけどキューバ建国の英雄エルネスト・チェ・ゲバラは大変な読書好きで、彼がコンゴのジャングルから家に居る妻に本を送ってくれる様にお願いした手紙が残っているのですが、このリストがスゴい。

      • ピンダロス「祝勝歌集」
      • アイスキュロス「悲劇」
      • ソフォクレス「ドラマと悲劇」
      • エウリピデス「ドラマと悲劇」
      • アリストファネスのコメディ全巻
      • ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
      • クセノフォン「ギリシア史」
      • デモステネス「政治演説」
      • プラトン「対話編」
      • プラトン「国家」
      • アリストテレス「政治学」(これは特に)
      • プルタルコス「英雄伝」
      • セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
      • ラシーヌ「演劇」全巻
      • ダンテ「神曲」
      • アリオスト「狂えるオルランド」
      • ゲーテ「ファウスト」
      • シェイクスピアの全集
      • 解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの) 
         *ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由

要するに全て古典です。新しい国を人工的に作るという歴史上嘗てない営みに手を染めつつある人が、そのための参考書として選んだのが、近代市民国家成立以降の啓蒙書ではなく、一番新しいものでも数百年、多くが千年以上前のローマ時代からギリシア時代に書かれた書籍であったことは、同様に将来を見通すことが難しい時代に生きている僕らに対して一つの教訓を示してくれている様に思えまませんか?

そういえば、江戸時代の脅威の碩学、荻生徂徠も父親の失脚に伴って本がほとんどない田舎に蟄居せざるを得なくなり、仕方なしにやっとこさ手に入った少数の古典、なかでも父親が筆写した林羅山の大学諺解を十年以上に渡って繰り返し読んだところ、ついにはそれらを逆さまに読んでも暗唱できるくらいになってますよね。最新の書籍は選べず、古典を繰り返し繰り返し読むしかなかったわけです。しかし、その後、蟄居の命が解けて二十五才の時に江戸に戻ってきたころには既に重鎮の国学者と議論してこれを悉く打ち破るような「知の怪物」になっていたそうだから、最新の知識や情報をなんでもかんでも好きな様に選べるというのは知性を育むという意味ではとても危険なことなのかも知れません。

思い出したけどスコラ哲学の巨人であるトマス・アクイナスや聖書に記述されるイエスもまったく同じだし、ニーチェのツァラトゥストラや達磨も長期間にわたる山中での「Less Input、 More Thoughts」の結果、叡智の獲得に至っています。つまり、自戒の念を込めていえば、最新の知見の膨大なインプットは知的アドバンテージにつながらないどころか、むしろマイナスなのかも知れない、ということです。話題のビジネス書を沢山読んでるという人は気をつけた方がいいのかも知れない。後に何も残らない可能性がある。

最後に、この阿部謹也先生の「刑吏の社会史」は、本当の意味で「深く考えるとはどういうことか」を教えてくれる、とてもいい本だと思います。この本、1978年の初版から既に27刷を経ていますが、いまだにその内容の質はまったく古びていません。阿部謹也先生はもともと一橋大学の中世史の先生でしたが、なぜ商業大学が母体である一橋で中世史が教えられたのかというのが、この本を読むとよくわかります。





歴史という学問は、過去の事象を抽象化することで人間性の最深部について洞察を得ようという営みだと考えることが出来ますが、歴史が対象とする時間軸を縮めてみれば、これはそのまま経営学にも通じることになります。阿部先生は、過去の歴史において、なぜ刑吏が多くの国においてこれほどまでに差別され、賤視されてきたのかについて、様々な確度から考察をされていますが、その知的態度はまさにクリティカルシンキングの好例であって、学問領域を超越した「模範の知的態度」を示しているように思います。読んでいると、一緒に旅をしながら先生の考察を独白で聞いているような気にさせられますよ。お勧め。


ビジネスとアートのあいだ

ビジネスとアートは一般的に対照的なものだと考えられているけれども、本当にそうなんだろうか、ということをここ最近考えています。

たとえば、ビジネスの世界で現時点の世界チャンピオン(時価総額世界一)であるアップルを考えてみると、前CEOのスティーブ・ジョブズは、経営者でもありまたアーティストであったとも言えます。初代マッキントッシュ開発の際は、フォントの字体や筐体の色に頑にこだわったり、Power Macのデザインでは立方体や透明といったデザイン要素について強迫的といっていいほどの執着を示していて、その思考・行動特性は経営管理者というよりもアーティストに近い。

こういった行動特性を示した人が率いた会社が時価総額世界一を記録しているというのは、一体どういうことなんだろうか?

僕は大学で美術に関する専門教育を受けていて、経営者の伝記よりはどちらかというとアーティストの伝記になじみ深いのでそう思うのかも知れませんが、スティーブ・ジョブズが示したこういった態度は、経営者というよりも美術史の流れを捩じ曲げたような天才アーティストたちの行動特性ととても似ていると思うのです。

つまり、ビジネスマンとして功成り名を遂げた人の中には、非常にアーティスト的なコンピテンシー(©ヘイグループ)を示す人が居るんですね。

一方で、いわゆるド真ん中のアーティストと思われている人々が、意外にビジネスマン的な行動・思考特性を示すこともある。たとえば、東大寺金剛力士像を制作したのは運慶・快慶の二人だ、と日本史で習った人が多いと思いますが、今日では、この二人は制作者というよりもプロデューサーであって、実際に制作に当たったのは慶派に属する多くの職人であったことが知られています。彼らは、クライアントの要望をまとめ、それを予算・時間・人手のリソースに配分してプロジェクトマネジメントを行ったわけで、まったくいま現在のビジネスマンがやっているのと同じことをやったにすぎないのです。

これはルネサンスの工房も同じであって、たとえばレオナルドが最初につとめたヴェロッキオの工房も、やはり貴族やブルジョア(この時代はこういう言い方はしなかったけど)から依頼を受けて絵画や彫刻等の制作を請け負っていた営利組織で、ヴェロッキオが直接に筆を取ることももちろんありましたが、多くの場合、彼の仕事は弟子たちの仕事を管理することだったわけで、今日で言うところのプロデューサーだったのです。

意外に思われるかも知れませんが、当時の工房は美術品の制作以外にも、王侯貴族の親族の結婚式の演出や音楽会やパーティのプロデュースも引き受けており、今日で言うところの広告代理店とほぼ同じような業態を形成していたんですよね。実際にレオナルドはそれらの催しで非常に斬新なアイデアを用いてクライアントを大喜びさせたそうで、今日現在、これらの企画内容がたとえ断片的であっても残っていないのは残念極まるよなあと思うのは僕だけではないはずです。嗚呼、電通にレオナルドが居てくれたら、オリンピックの招致ももっとラクだったのに。

ということで、要するに言いたいのは、アートとビジネスというのは本来はほぼ一体のものであって、それが対照的な概念として扱われるようになったのは恐らく20世紀に入ってから、印象派以降のことで歴史的には「つい最近」なんですよね。そして21世紀に入って、アートとビジネスを対照的に捉える立場の人よりも、これを一体のものとして捉える人によって率いられた会社が、時価総額世界一を誇っているというのは、我々にこの認識を改めるべきときが来ているのではないかと、示唆しているように思うのですよね。

パチンコとソーシャルメディア

先日、仲良しと神楽坂のLa Tacheで夕食を食べようと思って神楽坂をテクテク歩いていたのですが、ふとレストランに行く前にお手洗いを借りようと思い立って二十年ぶりに目の前にあったパチンコ屋さんに入りました。

で、用を足してから出口に向かって店内を歩いている際に、めったにない機会ということもあって新鮮な気持ちで周囲を観察させてもらったのですが、その瞬間に感じたことからお店に着くまでの二~三分ほどのあいだにアタマを駆け巡った考察を備忘録代りに記しておきます。

パチンコ屋のスツールに座ってうつろな眼でスロットのボタンをひたすらに押し続けるロボットのような人々を見てまず感じたのは、スロットというのは究極的にはドーパミンの分泌を販売しているビジネスなんだな、ということです。これはいつかのポストにも書きましたが、ドーパミンシステムは予測できない出来事に直面した時に刺激されます。予測できない出来事、つまりボタンを押して絵柄が揃うかどうかわからない、揃えば報酬がもらえるよという状況でスキナーボックスのネズミと同じです。

つまりスロットにはまり続ける人とというのは、究極的には「不確実性」にお金を払っているのかも知れない、ということです。こう考えた僕はなんというか、奇妙な気持ちに捉われたんですよね。だって、通常「不確実性」というのは忌避するものであって、求めるものではないでしょう?しかし、目の前のこの人たちはわざわざお金を払ってまで「不確実性」を購入している。

ドアを開けて店を出ます。ここから先は宵の神楽坂を昇りながら考え続ける。

で、思ったのは、彼らがわざわざお金を払ってまで「不確実性」を求めるのは、逆にいえば彼らの生活から余りにも不確実性がなくなっているからなのかも知れないなあ、ということです。

つまり、ルーチンを繰り返すだけの仕事や完全に予測可能な給与水準等、偶有性が介入する隙間がほとんどなくなってしまった人生を与えられると、人はわざわざお金を払ってまでも、ある程度の「不確実性」を手に入れようとするのかもしれない、ということです。

たしかに「不確実性」という言葉は一般にネガティブな含みを持って語られることが多いわけですが、一方で「希望」や「未来」、「幸運」といったポジティブな概念と結びつけて捉えることも出来るなあ、などと考えてみる。

このあたりで毘沙門天の前を通過します。夜風が気持ちいい。

で、そのまま考えを推し進めると、「不確実性」を求めるこういう人々に対して、実ビジネスにおける「不確実性」をともなうタスク、それは例えば為替のディーリングみたいな仕事を細かく切りだしてクラウドソーシングできないかなあ、というアイデアが、まあ出てきます。もしそういったことが可能になれば彼らのドーパミンと社会的な価値生産を結びつけることが出来るのになあ、と。

で、ここまで考えて、例えばどんなビジネスだったら、こういったかたちでドーパミンを対価として払うクラウドソーシングが成立するかなあと考えていて、ハッと気づいたのが、オイオイもう既にそれを思いっきり活用しているビジネスがあるじゃあないか、ということでした。

そう、フェースブックやツイッターを始めとしたソーシャルメディアです。

彼らは一般に新興メディア企業と考えられていますが、実際にはギリシア時代から存在したアテンションエコノミーに依拠するめちゃくちゃ伝統的なタイプのメディア企業です。アテンションエコノミー、つまり集めた目玉の数×時間がそのまま事業価値に直結するメディア企業ということです。ちなみにグーグルはこのモデルとは異なっていて彼らの事業価値の時系列推移は集めた目玉の数×時間の積の推移とまったく相関していません。

ということで、旧来型のアテンションエコノミーに依拠しているソーシャルメディアでは、目玉の数を増やすために沢山の良質なコンテンツを集めることが必要になるわけですが、フェースブックもツイッターもこの業務をクラウドソーシング、つまり僕や皆さんによる書き込みによって調達しています。そしてその報酬は?もうおわかりですね。そう、書いた人の脳内に分泌されるドーパミンです。僕らはドーパミンというエサが欲しくて機長な時間を使いながら彼らのコンテンツを創るために時間を浪費しているわけです。

そう考えるとなんだかフェースブックやツイッターに書き込むのがアホくさくなってくるなあと、ここまで考えてお店に丁度到着したのでした。

ずいぶんワインをいただきましたが忘れないでよかった。
神楽坂のラターシュ、とても美味しく、お値段も手頃でいい店です。
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13040986/


無批判という「悪」


ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、六百万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察によって拿捕され、イェルサレムで裁判を受け、処刑されます。

このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。
それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。

アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は一番上の写真に見られる様な、小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。

しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

この裁判を傍聴していた哲学者のハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま「イェルサレムのアイヒマン」となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

 

「悪の陳腐さ」。。。。。

奇妙な言い回しですよね。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置づけられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値ということになり、我々が一般的に考える「悪」の位置づけとは大きく異なります。

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、なにか特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪や欧州大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そしてアーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図すること無く受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかも知れない、と指摘しているわけです。

僕らは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、僕らのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至らすよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在僕らが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかも知れません。ちょっとヘーゲルっぽい考え方で僕はあまりこういう思考の仕方は好きじゃあないんですが、仮にその様にそう考えると、究極的には世の中には次の二つの生き方があると言えるのかも知れません。
  1. 現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方
  2. 現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えて行くことに、思考も行動も集中させる、という生き方
そして残念ながら、多くの人は上記の1を生き方に選択しているように思うのですよね。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかりやすい。ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の1の論点に沿って書かれたものでしょう?

こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムのなかで「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。

でもねえ、ちょっと待って、と。

本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなんだろうか?と考えるべきじゃないかと思うんですよね。これはイノベーションの促進という側面にも関わってくると思うのですが、システムというのはどっかで破綻させることで超回復して強さを増していくわけですから、こんなことやっていたらものすごく脆弱になってしまうんじゃないかと思うんですけどね。個人的には、いまの日本社会/日本企業の弱さは、上記1の戦略をとる個人や組織が多くなりすぎていて偶有性が下がりすぎていることにあると思っています。

システムにうまく乗っている限り、その中でどんなことをやっていてもいいんだ、というのは典型的にエリートに見られる考え方ですが、僕はこのアイデアに与しません。むしろ逆を選びたいんですよね。システムの中では反逆児でいたいし、であるがゆえに自分なりの価値観と道徳に沿った生き方を選びたいな、と。実際にそう出来ているかどうかはともかく、ね。

すいません、ほとんど独り言になってしまいましたね。










松任谷由実さんの「ひこうき雲」の楽曲分析

以前にこのブログでユーミンの「ひこうき雲」を取りあげたのは二年以上前のことでしたが、ここ一ヶ月くらいで急激にビューが増えていて「なにごとか!?」と思ったら、宮崎駿さんの新作映画で主題歌として使われてたんですね。なる。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2011/01/blog-post_07.html

僕がこの曲を始めて聴いたのは小学校高学年の時でしたが、その時に周りの景色が一瞬で凍結する様な不思議な感覚を抱いたことをいまでもよく覚えています。樹の枝が風にしなる様とかね。もの凄いショックというか、感動を通り越した不思議な感覚だったんですよね。こういうのを感じさせられたのは他にビートルズの「レットイットビー」とかジョニ・ミッチェルの「ボースサイズナウ」とか、本当に生涯で数曲しかありません。

まあそれはともかくとして、この「ひこうき雲」、ほんとうにロックとかクラシックとかジャズとかいったジャンルを超えて、これほどの名曲というのはちょっと他にないだろうと思うくらいの傑作だと僕は思っています。

で、そのエッセンスは「切なさ」にあるのではないか、と。

これほどまでに壮絶な「切なさ」を人に感じさせる音楽ってちょっと他にないんじゃないかなあ。少なくとも僕はちょっと思いつきません。切ない曲っていうと、

例えばプロコルハルムの「ソルティドッグ」とか、
Procol Harum  -A Salty Dog-


あるいはジュディコリンズの「アルバトロス」とか、
Judy Collins -Albatoros-


こうやって聞いてみるといい線いってるんだけど、やっぱり比べるとぜんぜん及んでいないよなあ。

で、2年前のブログと重複する部分もあるのですが、あらためてこの曲「ひこうき雲」について、楽曲分析してみたいと思います。

この曲、調はE♭メジャー(変ホ長調)になります(二年前のポストではFメジャーと書いていますが間違いですね。。。すいません)。イントロのアルペッジオも素直にE♭の分散和音から入ってCm7→E♭→Cm7ときて、ここからボーカルが「白い〜」と入ります。

前半は比較的素直ですよね。「しろい〜」から「あの子〜をつつむ〜」までの最初のメロディは

E♭→E♭/D→Gm→A♭→A♭/G→Fm→B♭→B♭/A♭→Gm→A♭→B♭7

という流れです。半音でズルッと下がってポンッと上がるという特徴的なベースの動きを繰り返してB♭7のドミナントで半終止になります。ちょっとプロコルハルムの「青い影」に似てますよね。

で、この進行を「だーれも〜気付かず〜」から「舞い上がある〜」までは繰り返します。
ここからがサビに移るのですが、

「空に〜あこがれって〜」のところは

E♭→Gm7→Cm

となっています。これを機能和声の表記法で書けばⅠ→Ⅲ→Ⅵとなり、T→D→Tの偽終止ということになります。そんなに珍しいものではないですよね。特にユーミンはマイナーコードを使った終止が好きみたいで「恋人がサンタクロース」でも「リフレインが叫んでいる」でもこのタイプの終止を使っています。

で、問題になるのが次の「空を〜かけってゆく〜」のところです。ここ

Gm→B♭m→A♭

という進行なんですが、これ、もの凄く自然に響くのに和声的にどういう構造になっているのか、いまひとつ僕にはよくわからないんですよね。なんでこんな奇妙な進行でここまで奇麗に鳴るのか、まったくわからない。でも本当にパワーありますよね。人からの慰めを振り切るようにして空に登っていく「あの子」の強さが、この「かけってゆく〜」の和音と声に込められているのを感じる。

この後、「あの子の〜命は〜ひこうき雲〜」のところは、

Gm7→A♭M7→B♭7sus4→B♭7

となっていて、ここはまあわかりやすい。Ⅲ→Ⅳ→Ⅴの流れで典型的な半終止ですね。キーがE♭ですからB♭7はドミナントになり、「腰を下ろして小休止する」感覚をここでつくっています。直前がとてもエモーショナルに高ぶる箇所なのでここで少しクールダウンする感じがありますよね。

この後、いわゆるAメロを繰り返して、ふたたび、先ほど「ぜんぜんわかんねえ」と指摘したサビのところに来るわけですが、ユーミンはここでもまた技を繰り出していて、よく聴くとこれ、二回目は微妙にコードを変えてるんですよね。

サビの最初の二小節、「空に〜あこがれて〜」のところのコードは変わらず

E♭→Gm7→Cm

なんですが、その後の「空を〜かけってゆく〜」のところ、ボーカルはここでひときわ高音に振れるんですが、ここの部分のコードは

Gm→Fm7/B♭→A♭M7

となっているんですよね。ちなみに再掲すると一回目は、

Gm→B♭m→A♭

ですから、まあ微妙な違いと言えば微妙なんですが、実際に楽器でならしてみるとかなり色彩感に違いがあることがわかるはずです。

あああこれ、いま弾いてみて気付いたんだけど、要するに調性があいまいになってるんだな。E♭メジャー(変ホ長調)で始まった曲で、どこかで明確に転調しているわけではないんですが、サビの途中から調が浮遊していてA♭メジャー(変イ長調)とのあいだで調性の境目がどっちつかずになってる。

だからサビの最後のコードのA♭は、A♭メジャー(変イ長調)の全終止と考えた方がいいのかも知れません。実際に二つ目のB♭mのコードを、A♭メジャー(変イ長調)のドミナントであるFm/E♭に変えてみると奇麗に鳴るんじゃないかなあ?ああうん、確かにこっちの方がいいかも、というくらい奇麗に鳴りますねってブログ読んでいる人には全然伝わらないですね、すいません。これ、調性をあいまいにするためにわざわざB♭mを使ってるんだなあ、スゴい。

一方、サビの二回目については、真ん中の和音のルートは同じB♭ですが、わざわざFm7/B♭に変えていて、で弾くと明らかに単なるB♭mよりも「突き抜け感」が増すことがわかります。本当に微妙な差なんですけどね。

このサビのあと「あの子の〜いのちは〜ひこうき雲〜」の部分は、

Gm7→A♭M7→A♭/B♭→A♭→B♭m→A♭→B♭m

という進行で終わります。やっぱりそうなんですね。E♭メジャー(変イ長調)で始まった曲ですけど、終わりはA♭なんで、調性が浮遊したまんま終わっちゃうんですね(西洋音楽では基本的に楽曲の最初の和音と最後の和音は同じ和音になります。皆さん、小学校の教科書をもう一回読み直してね♡)。まるで空をふわふわと登っていく様な、そういう浮遊感を生み出したかったんでしょうね。

あとね、最後に指摘すると、この曲、メロディで使っている音とコードの構成音がぜんぜんダブってないんですよね。

例えばサビのところの「空を〜かけってゆく〜」のところなんて、コードが

Gm→B♭m

なのに、メロディは「ミファソ〜ソドシソミ〜」となっていて全然合ってないんです。普通こういうことやるとものすごく不協和に聞こえるはずなんですが、この曲の場合、このメロディならこの和音しかあり得ない、という完璧なフィット感があるんですよねえ。

本当に、つくづくすごい才能だと感服します。
ああ、すっげえ疲れた。

どうして視覚化すると「わかる」のか?

いま、秋口の出版を目指して「知的生産の技術」というテーマで本を書いています。出版社の人からは「なぜ、○ッキンゼー流では成果が出ないのか?」という副題をつけましょう!と言われていますが、どうなんでしょう、大丈夫なのかな。

まあそれはともかく、その本の中で強調しているのが、知的生産に必要なブレインパワーには4タイプあるという点です。その4つとはすなわち
            1. 論理力
            2. 創造力
            3. 分析力
            4. 統合力

です。この四つのブレインパワーは1と2、3と4がそれぞれ対になる構造になっていて、無理矢理テキストで表現すれば

                  分析力
                   ↑
               論理力←+→創造力
                   ↓
                  統合力

ということになります。

で、これら四つのブレインパワーは、どれかに偏ることなくバランスよく高めることが必要なわけですが、一読しておわかり頂ける通り、ここ十年ほどビジネス界では1と3が大流行りで、最近では論理思考を子供に教えようなどという愚かな営みに手を染める大バカものまで出てきてる次第なわけですが、出版社の方がいみじくも指摘した通り、多くの人は1と3だけではどうもうまく成果が出せないということに気付きつつあるようです。

実はこれは当たり前のことで、僕はこの点についていろいろなところで書いたり話したりしていますが、論理と分析というのは正しくやれば誰がやっても同じ答えに至るわけですから差別化にはまったく貢献しないんですね。せいぜい規定演技で及第点をとれる程度のパフォーマンスにしかならない。ということでカギになるのは、その人らしいユニークな知的成果=自由演技を支えるための「2:統合力」と「4:創造力」ということなのですが、今回は一つこの「統合力」を高めるためのコツについて述べたいと思います。

統合力というのはつまり、集められた断片的な情報や論考を、グワッとまとめて「要するに」とか「つまり」を紡ぎだす能力ということですが、この時、とにかく考えたことや集まった事実を紙に書き出してみて並べてみる、というのが重要なポイントになってきます。

理由は後述しますが、アタマの中だけで一次情報の組み合わせを検討して示唆を出そうとしてもどうしても限界があるのです。紙に書き出してそれを並べてみることで、思わぬ情報の組み合わせから示唆や矛盾が見えてくることがあります。

わかりやすい例を一つ挙げましょうか。

昭和40年代生まれの人には笹川良一が出演していた日本船舶振興会のCMを覚えているでしょう。このCM、業界用語で言うところの15CMの「二階建て」(15CMを二つ連続で流す方式)だったのですが、一つ目のCMでは「世界は一家、人類みな兄弟!」と訴えており、二つ目では「戸締り用心、火の用心!」と訴えているんですよね。

で、こう書くともう皆さんおわかりでしょうけど、この二つのメッセージは矛盾しているわけですね。世界が一家なら戸締りの必要はない。ということで、この二つの情報を視覚化して並べてみると「笹川良一という人は平気な顔して矛盾することをいう人だな」という示唆が得られることになります。

しかし、多くの人はCMを見ていてその矛盾に気付かない。どうして気付かないかというと「音声」で二つの矛盾するメッセージを聴いているからです。音声で聴いているというのはつまり時間軸で順番に情報を処理しているということです。

一方、文字にして二つを並べてみてみるというのは視覚をもちいて空間軸で同時に情報を処理しているということになります。そしてここがポイントなのですが、人間は情報を処理する際に、音声=時間軸と視覚=空間軸で脳の違う部分を使っているんですね。時間軸にそって一度処理した情報でも、空間軸にそって思考してみると違う絵が浮かび上がってくる。

余談ですが、この両者を最もドラマチックに組み合わせているのがギリシア悲劇だ、と指摘したのがニーチェでした。時間軸を代表する芸術形式は音楽や戯曲であり、空間軸を代表する芸術形式は絵画や彫刻です。ニーチェは、前者を情動や混沌=ディオニュソス的なもの、後者を理性や秩序=アポロ的なものとして対立させ、この両者の融合こそがギリシア悲劇の本質だと28歳の若さで指摘したわけです。どういうブレインパワーなんだよ。

ということで(ってぜんぜんまとまっていないですが。。。)、耳で聴いて知っている情報でも、一度視覚化してみることで新たな示唆や発見が得られるのだということ、そしてそれが統合力を支える基本的なスキルなのだというお話でした。

「嫌われること」を恐れてはいけない

最近、メキメキと頭角を現しつつある友人の何人かから立て続けに「いわれのない誹謗中傷を受ける」という相談を聞かされました。

で、自分の経験も含めて、その都度「ああ、それは大抜擢が近い、ということだよ」と回答して元気づける様にしています。

なぜなら僕は、多くの才能ある人が一頭抜けるタイミングで絡めとられてしまう、この「嫌われたくない」という心理的なブレーキこそが、日本でなかなかリーダーシップが根付かない最大の原因だと考えているからです。

ここ数年、いろいろな角度からリーダーシップを考察しているのですが、リーダーシップは「嫌われる」ことと表裏一体の関係にあります。

例えば、リーダーシップ開発のワークショップで「過去の歴史から、素晴らしいリーダーシップを発揮したとあなたが思う人を挙げて下さい」とお願いすると、まず間違いなく下記の人物が含まれることになります。

                ジョン・F・ケネディ
                エイブラハム・リンカーン
                マーチン・ルーサー・キングJr
                マハトマ・ガンジー
                チェ・ゲバラ 
                坂本龍馬

こうして並べてみると、なるほど確かに「変革を主導した志士」として、いずれ劣らぬピッカピカのリーダーシップを発揮したという点で勿論共通しているのですが、一方で別の共通項があることにも、すぐに気付きますね。

そう、全員暗殺されているんです。

つまり「殺したいほど憎い」と多くの人に思われていたということです。過去の歴史において最高レベルのリーダーシップを発揮して世界の変革を主導した人物の多くが、暗殺によってその生命を絶たれているという事実は、我々に「リーダーシップというのは、崇敬とか愛着とか共感といったポジティブな感情だけではなく、必然的に軽蔑とか嫌悪とか拒否といったネガティブな感情とも対にならざるを得ないものなのだ」ということを教えてくれます。このブログの前回のポストでは「作用と反作用」と題して、何か極端なものがあるときは、その背後に逆側に極端なものが存在している、とたまたま指摘していますが、リーダーシップについてもそれは同様だということです。書いてて思い出したんですが、そういえばイエスもそうですよね。

つまり、リーダーになるということ、リーダーシップを発揮するということは、それが高いレベルのものであればあるほど、軽蔑や拒否や嫌悪といったネガティブな感情と向き合わざるを得ない、ということです。

そして、この「ネガティブな感情を認める」という点にこそ、日本におけるリーダーシップ開発のボトルネックがあると僕は思ってるんですよね。「嫌われること」を避けるために、どれくらいの人が、自分の思いやビジョンを封印して可能性を毀損してしまっているかを考えると残念でならない。

幕末の変革を幕府側から主導した勝海舟は次の様に述べています。

なに、誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みんな、敵がいい。敵がないと、事が出来ぬ。国家というのは、みんながわいわい反対して、それでいいのだ。
勝海舟「海舟座談」より

つまり「敵がいないリーダー」なんていうのは有り得ない、ということです。変革には必ず既得権や既成概念の破壊を伴うから、過去のシステムによって利益を享受していた人を敵に回すことになる。つまり「嫌われること」を恐れていたら変革を主導するリーダーなんかには絶対になれない、ということです。

あなたがもし、自分が正しいと思うこと、あるいは間違っていると思っていることがあるのであれば、「嫌われるかもしれない」という心のブレーキをかけずに、どうかそれを口に出して言ってほしいと思います。実際に世界は、多くの人がそうすることで、少しずつ進歩してきたのですから。

ということで長くなりましたが、メキメキと頭角を現しつつある中、言われのない誹謗中傷ややっかみに鬱陶しい思いをしている友人諸氏よ、「突き進め、そのまま!」というのが僕からのエールです。







日本における女性の社会進出の課題について

このブログでは時事ネタはほとんど取り扱わないのですが、安倍政権が成長戦略の一環として女性活用を推進することを打ち出してオオオオと思い、組織開発の専門家としては少し書いておいた方がいいかなと思って筆をとりました。

まず、大前提として、僕自身が二人の女性を子に持つ親の立場ということもあり、女性が働きやすい社会を作ろうという基本的な理念には大賛成です。その上でなお、日本における女性活用というのは非常な難事業になるだろうなあとも思っています。理由は後述しますが、日本は、ある意味で「世界で一番女性が活躍しにくい国」だからです。

安倍政権が打ち出したKPIは、2020年までに要職の3割を女性にしよう、というものです。日本の現状を考えれば、まずはこういう数値を打ち出して社会的なコンセンサスを作っていく以外になかったということなのでしょうから、これはこれで批判するつもりはありません。ただ僕は、こういった表面的な数字合わせだけに意識が集中してしまうと、本来僕らが向き合わなくてはいけない重大な社会的課題に眼がむかず、結果的に本当の目的である「多様性の推進」という側面がスポイルされてしまわないかな、ということを懸念しています。

では、何がカギになってくるのか?

僕は「要職を女性に奪われる側」である男性のマインドセット、特に現在の社会において要職についているシニアポジションの男性のそれを、どこまで変えられるかがカギだと思っています。

この点を考察するに当たって、オランダの心理学者であるヘールト・ホフステードが提唱した「男性らしさ対女性らしさ」の指標が、いろいろな示唆を与えてくれます。

ホフステードは、IBMからの依頼を受けて1967年から1973年の6年間にわたって研究プロジェクトを実施し、その結果IBMの各国のオフィスにおける「文化的風土がもたらす行動や価値観の差異」が、組織における仕事の進め方や役割分担に大きな影響を与えることを明らかにしました。彼は、組織の文化的差異に着眼するに当たって

             1:「権力の格差」
             2:「個人主義対集団主義」
             3:「男性らしさ対女性らしさ」
             4:「不確実性の回避」

という四つの「次元」の存在を指摘し、今日では、これらの指標は一般に「ホフステードの四次元」として知られています。

この四つの指標のうち、女性の社会進出を議論する際に問題になるのが「男性らしさ対女性らしさ」の指標です。

ホフステード自身は、この指標について下記の様に説明しています。

まず「男性らしい社会」(ホフステード自身はイギリスを例に挙げています)では、社会生活をおこなう上で男女の性別役割がはっきりと分かれる傾向が強くなります。また、労働にも明確な区別が生まれ、自分の意見を積極的に主張するような仕事は男性に与えられます。男の子は、学校で良い成績を取り、競争に勝ち、出世することを求められます。

一方「女性らしい社会」(ホフステード自身はフランスを例に挙げています)では、社会生活のうえで男女の性別役割が重なり合っていて、論理や成果よりも良好な人間関係や妥協、日常生活の知恵、社会的功績が重視されます。

そして、この「男性らしい社会」のスコアで、日本は残念ながら調査対象となった53カ国中でダントツの一位なんですよね。ちなみに先ほど例に挙げたスウェーデンは53位で最下位となっています。男性らしさ指標において世界でもっとも低いスコアとなっているスウェーデンでさえも、ああいった難しさを持っていることを考えると、日本を「女性が働きやすい社会」にするという挑戦は、泳いで太平洋を渡るとか、棒高跳びで月に行くとか、それくらい難しいことなのかも知れないということです。

しかし僕は絶望していません。

自分の娘たちが将来、自分らしさを思いっきり発揮してイキイキと働けるような社会に少しでも寄与できる様に自分なりに出来る努力をやっていこうと思っています。そして、その最大のポイントは、やっぱり社会で実権を握っている男性たちが、どれくらい社会的性差に関する意識や感性の歪み、いわば「ジェンダーバイアス」といったものから自由になれるかにかかっていると思うんですよね。

この時、一番危ないのは「自分はその様なバイアスからは自由だ」という自己欺瞞に陥ることでしょう。この国の性差別はとても根深く、僕らの眼に見えない形で血の中、骨の中に溶け込んでいます。極論すれば、僕はこのバイアスから自由でいる人はいまの日本には一人もいないだろうと思っています。

以前在籍していたファームで昇進審査の会議に参加していたときのことです。産休で休んでいた女性について議論していた際に、とても尊敬していたオランダ人のパートナーが、「日本は文明国だとずっと思っていたけど、今日の皆さんの議論を聞いて愕然としました。この様な前時代的な議論が、世界中の弊社オフィスのどこかで行われているとは思えないし、更に言えば許されているとも思えない」と非常に残念そうな顔をして指摘したんですね。

僕が「あ、なにかこれは新しいことを言っているのかも知れない」と思ったのは、この指摘を受けた際、その場に居た日本人の殆どが「え?普通にニュートラルな評価をしていた積もりなんだけど?」と顔を見合わせていた時です。指摘されて「ハッ」と思えるならまだいい。反省出来るというのはバイアスを相対化できるだけの認識のマップを持っているということですから。しかし、この場にいた殆どの人は「キョトン」とするばかりで彼の意を得ることが出来なかった。つまり、カルト宗教のドグマの様に、そう他者から指摘されても気付かないほどに、このバイアスの支配力は強力だということです。

会議に参加していたのは、一応グローバルファームのリーダーシップチームです。半数以上が長期の海外留学経験・就労経験をもつ人たちです。そういう「リベラルをもって自認する人々」ですら、知らず知らずのうちに「人を評価する」というデリケートな局面になると日本の文化を持ち込んでジェンダーバイアスに絡めとられてしまう。

これは本当に、とてもとても手強い敵なんです。

いろいろな対策が恐らく今後は必要なのでしょうが、僕らにまず求められるのは、日本が極めて強いジェンダーバイアスに支配された国であるということ、そしてそのバイアスに我々自身が極めて無自覚であるため、多くの人がそのようなバイアスから自由であると錯覚し、そしてその残酷な無自覚さが、女性の社会進出を妨げる最大の障壁になっているということを心しておくことだ、と僕は思っています。

挫折し続ける初心者のための最後のクラシック入門

小学生の時に自然とクラシック音楽を聴くようになってから30年以上になることもあって、まま「クラシックを聴きたいので教えてほしい」と人から頼まれることがあります。

伺うと、ずっとクラシックの宇宙には興味があるものの、どのドアをどう開けて入っていったらいいのかよくわからず、本屋によくある「クラシック入門」みたいな本をとりあえず買って聴いてみたものの、どうも感興が乗らない、というパターンで挫折している方が多い様です。

なぜクラシック初心者は、挫折し続けるのか?
大きく二つの理由があると思ってます。

まず、僕はこの「入門」なるコンセプトに問題があると考えています。こういう入門書や入門CDは、パッヘルベルのカノンやバッハの管弦楽組曲第二番(いわゆるG線上のアリア)等、大概耳触りのよい甘い音楽で脇を固められていて「ほらほらほら〜クラシックって難しくないですよ〜」とニタニタしながら寄ってくるのですが、僕だってこんな甘い音楽ばっかり連続で聴かされたら辟易しちゃいます。デザートだけで固められたフルコースの料理みたいで聴けたもんじゃありません。

ということで、クラシックを教えてほしい、という友人には最初っから、音楽学的にも音楽史的にも重要性の高いド真ん中の音楽から聴きなさいとアドバイスしています。それで問題なく皆さんクラシックの宇宙を自然に泳ぎ始める。考えれみれば、ロマン派以降から近代クラシックで用いる様なテンションの高い和音は、ジャミロクワイやMisiaが使いまくっているコードとほとんど同じなわけで、そういった点からすれば今の人は「耳の素地」がもう出来ているんですよね。そんな人にパッヘルベルなんて聴かしたって「なんじゃこりゃ、かったるい音楽だな」と思うに決まってます。

挫折の二つ目の理由が、感興の即効性を求めすぎる、という点です。先ほど「耳の素地は出来てる」という話をしましたが、それは素地だけであってやはり「聴く能力」は一朝一夕には高められません。「聴く能力」を高めるにはそれなりの投資が必要なのです。投資?そう、つまり「ちゃんと時間をかけて聴く」という行為が必要だということです。クラシック音楽は、例えばバッハのマタイ受難曲の様に、長いものだと3時間以上の時間を要求する作品もあります。忙しい現代人にとって時間というのは貴重な投資資源ですから「しっかり音楽を聴く」ということに時間をかけるというのは相当覚悟を持たないと出来ないわけで、これが挫折の大きな理由になるのはある程度仕方ない面があります。しかし時間をかけずに斜め聴きしていてもバッハを聴く悦びは永久にわからないままでしょう。

以上の二つの理由から、初心者がクラシック音楽の宇宙に乗り出すに当たっては「時間をかけて聴くべき盤」「聴き込むことで本当に味が出る盤」を厳選する、ということが重要になって来ます。といことで、友人に提供して好評だった「挫折し続けるクラシック初心者のための最後のクラシック入門」と題した、鉄板の10枚をご紹介します。一応、バロック/古典派/ロマン派/近代という時代軸、器楽/オーケストラ/協奏曲という形式軸でバランスがとれる様になっています。この10枚を聴いて、例えば自分はロマン派のピアノが好きなんだなと思ったら、そのセグメントの音楽から今度は少しずつ自分の宇宙を広げていけばいいでしょう。

まず、バッハの「無伴奏チェロ組曲」、演奏はヨーヨーマ。


無伴奏とは、文字通り「伴奏が無い」ということです。伴奏がない、つまりチェロ一本だけで音楽を作り上げています。しかし思い出してください、小学校の時の音楽の授業で、音楽はリズム、メロディ、ハーモニーの三つの要素によって構成されている、ということを習ったと思います。しかし、チェロは弦楽器なので和音を出すことが出来ません。和音を出すことが出来ないということはつまり、音楽の三要素の一つであるハーモニーを作り出せないということを意味しています。ハーモニーを使わずにどうやって音楽の色彩感/表情を作り出していくか?「無伴奏」という制約が生み出す音楽的な難しさはこの一点に集中すると言っていい。

バッハは、この問いに対して、和音を分解して旋律の中に潜り込ませることで、メロディと和音を同時に成立させる、というアプローチをとっています。本来、同時に鳴るべき和音を時間軸に分解して演奏する技法をアルペッジオと言います。よくわからない?分かりやすい例として、アルペッジオを非常にうまく使いこなしたバンドにABBAがあります。恐らく一番イメージしやすいのはチキチータでしょうか。この曲ではイントロからコーダ(終曲)まで、サビの部分をのぞいてバッキングはすべてピアノとギターのアルペッジオで伴奏されています。あるいはビリージョエルのShe's always a woman、サイモン&ガーファンクルのスカボローフェアーなんかもそうですね。


Abba "Chiquitita"


Billy Joel "She's always a woman"

で話を元に戻すと、バッハはこのアルペッジオと旋律を混ぜこぜにしながら、メロディと和音を「一つの音」だけで紡ぎだして舞曲を作る(知られていませんが、この曲はもともと舞曲集として作られています)という「誰からも課されていない」超人的に難解な方程式を自らに課して、この「無伴奏チェロ組曲」という奇跡の様な解を生み出したわけです。

従って、この曲の聴き所は、作曲者がどのような戦略でもって色彩感とメロディを両立させようとしたかというエクリチュール=書法に関する点と、書かれた楽譜を演奏者がどう解釈し、どの音は和音の構成音として、どの音はメロディの構成音として弾き分けているかという点の二点になります。慣れてくれば楽譜を横目に眺めながら、演奏者ごとの解釈の違いを相対化して楽しめる様になります。

ちなみに、こういった音楽的な挑戦の話をすると、なんだか作曲者が自己満足で楽しんだパズルの様なニュアンスがありますが、出来上がった音楽が、端的にとてつもなく美しい、というところにバッハのそら恐ろしさがあると思うのですよね。どんな景色でもこの曲をかけることで何か象徴的な風景の様に切り取ってしまうような、そんな曲です。

大変な名曲で(特に一曲目は誰でも聴いたことがあるはずです)録音の数も膨大なのですが、まずはヨーヨーマの演奏が、端正で入りやすいと思います。

Yoyo MA "Uncompanied Cello Suites No.1 Prelude" J. S. Bach

ヨーヨーマは1982年と1995年の二回に渡って同曲の録音を行っていますが、これは1982年、彼が20歳のときに録音した盤で、年齢のせいもあるのでしょう、とても若々しく朗らかな演奏になっています。無伴奏チェロ組曲にはカザルスやビルスマ、マイスキーなどが名盤を残していますが、どれも少し形而上学的というか、なんとなく小難しい匂いが付き纏っていて、それがまたこの曲の魅力でもあるわけですが、休日にスターバックスでゆっくりコーヒーを楽しみながら聴くのであれば、もう少し「コブシ」が効いていない演奏がいいかなと思い、まずはヨーヨーマの、それも旧盤を推しておきます。

聴いてみると、あまりに美しく自然なメロディなのですが、その色彩の豊かさ、感情の起伏が、メロディの中に潜り込まされた「分解された和音」によって形成されていることに、少し気をつけて聴いてみてください。今までは違う聴こえ方がするのではないでしょうか?

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次、同じバッハの無伴奏ですが、こちらは「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」です。演奏はシグワルト・クイケン。


バッハは「無伴奏〜」と名のつく曲集を上記のチェロ、そしてこのバイオリン、そして他にフルート用に三つ書いていますが、一般にこの「無伴奏バイオリン〜」が、音楽性という点では最も深みがあると言われていて、僕もその通りだと思います。チェロと同じ、無伴奏なので音楽を聴くに当たっての二つのポイントも同じなのですが、この曲には非常に形而上学的なところがあって、なんだか聴いていると耳で哲学するような気持ちになってきます。中でも、これは多くの人がそう指摘すると思うのですが、やはりシャコンヌが圧倒的だと思います。バイオリン一梃だけの、たった十分ほどの曲なのに、星が生まれてから滅びるまでの時間の流れを感じることができます。

この動画はクイケンではなくクレーメルの演奏になります。こちらの方が感情の抑揚をストレートに出していますね。個人的にはクイケンの演奏の方が好きですが、客観的にはこちらの演奏も大変な名演だと思います。

Gidon Kremer "Sonatas & Partitas for Solo Violin" J. S. Bach

演奏者のクイケンはいわゆる古楽器演奏の第一人者です。古楽器とは、作曲者が曲を作った当時の楽器ということです。実はバロック時代と現代では楽器はかなり違っているんですよね。例えば当時の弦楽器の弦はガットでしたが現在はナイロンと鉄線になっています。もちろん後者の方が強く大きい音が出るのですが、悪く言えばデリカシーのないキラキラした音になります。この盤では、クイケンはガット弦を使って弾いています。擦過音の大きい独特の音で非常に情報量が多い。恐らく録音がいいんでしょう。

一方で、現代楽器を使った演奏を聴いてみたければシェリングの盤がおすすめです。


こちらも大変な名盤で、通常「無伴奏バイオリン〜」を聴くならまずはシェリングを勧める人が多いのですが、先述した通りモダンバイオリンを使った演奏なので良く言えばキラキラした、悪く言えば若干デリカシーにかける音になります。まあ好みの問題で、どちらを買っても長く聴ける愛聴盤になるのは間違いありません。

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次、モーツァルトのピアノ協奏曲20番。ピアノはグルダ、指揮はアバド、オケはウィーンフィルのドリームチームです。いわゆるド定番、鉄板の一枚ですね。


モーツァルトは交響曲を41曲、ピアノ協奏曲を27曲作曲していますが、短調はそのうち交響曲で2曲、ピアノ協奏曲で2曲しか作っていません。そして、この20番はそのうちの一曲になります。次に紹介するモーツァルトの交響曲40番も短調なんで、わざわざたった4曲しかない短調のうち2曲をピックアップしてるわけで、どんだけ短調好きなんだよ、ということですが、元々が朗らかで陽気な性格のモーツァルトがあえて書くぐらいなのでモーツァルトの短調はどれも傑作ぞろいなんです。

Friedrich Gulda "Piano Conerto No.20" W. A. Mozart

この曲は映画「アマデウス」の様々な場面でものすごく効果的に使われていたので聴けばいくつかの場面を思い出すかも知れません。映画の最後のシーンで流れていたのはこの曲の第二楽章ですね。東京で雪が降ると僕はホットワインを作ってこの曲をかけながら外を眺めるのを習わしにしています。

ちなみにモーツァルトの短調は、どれもシンコペーションの使い方に特徴があって、聴きなれてきたら是非スコアを読んでみることをお勧めします。第一楽章、主題導入部は低音弦が不安を煽る様にズズズーと鳴っていて、これは同じモーツァルトの交響曲25番と同じ様なシンコペーションなのかなと思うのですが、実はとても繊細なシンコペーションになっていることが、スコアを確認するとわかります、

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次、モーツァルトの交響曲40番です。指揮はカール・ベーム、オケはベルリンフィルです。


モーツァルトというと子供のときから天才で、若いときからどんどん傑作をものにした、というのが一般的なイメージですが、これは必ずしも間違いではないものの正確とは言えません。モーツァルトの作品は、晩年になればなるほど作り込みが複雑になってクオリティが高まる明確な傾向があります。最初期の交響曲なんて誰も聴いていないでしょう?いくら天才でもやっぱりキャリアの一番最初の作品は大したことないんです。

この交響曲40番は、ちょっと不可解というか聴いている側が戸惑うほどに「これでもか!」と高度な作曲のテクニックが注ぎ込まれていて唖然とさせられます。対位法という、各楽器がバラバラにメロディを奏でながら、同時に弾かせるとそれがハーモニーになっているという、それはまるでアラブの細密画の様に、モアレを起こすくらいに精密な書かれ方をされています。恐らく死期の近いことを悟った本人が、自分の持てるテクニックの集大成として書いたという側面が強いのでしょう。聴けば聴くほどに作り込みの深さに驚かされ、スコアを読むとさらに度肝を抜かれるという、そんな作品です(って全然解説になってませんが)。

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次、ベートーヴェンの交響曲7番。指揮はニコラス・アーノンクール、オケはヨーロッパ室内管弦楽団です。


この曲は「のだめ」で有名になりましたね。後期ベートーヴェンの作品に共通してみられるある種の「晴朗な快活さ」を持ったとても健康的な交響曲を、古楽器演奏の大家であるアーノンクールがとても端正に演奏しています。第一楽章の冒頭から第四楽章のコーダまで、全編聴きどころの美味しいシンフォニーです。

アーノンクールはあまり動画がないので、こちらはエストニアの指揮者ヤルヴィの演奏ですが、これまた端正ですばらしい。ちなみにヤルヴィは2015年からN響の常任指揮者に就任する予定ですね。楽しみ。


実は、いわゆるベト7は、フルトウェングラー指揮のものが絶対的な名盤として君臨していて、聴くと確かにこれは素晴らしい演奏なのですが、いかんせん録音が古い。


演奏の解釈を楽しめるレベルになればこういう盤もありなのでしょうけど、やっぱりホールに居る様な臨場感ある音というのも大事な要素なので、ここではアーノンクール盤を推しておきたいと思います。



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次、同じベートーヴェンの中期ピアノソナタです。「悲愴」「月光」「熱情」の3曲。演奏はエミール・ギレリスです。


これもいわゆる定番中の定番と言える一枚ですね。ベートーヴェンはピアノソナタという形式を完成させた人物と言えますが、これら中期の3曲を聴くと時が経つに連れて少しずつ形式が複雑化しながら音楽の深みが増していくのがわかってとても興味深い。

一番取っ付きやすいのは間違いなく最初の「悲愴」なんですが(何と言っても第二楽章をビリージョエルが歌にしているくらいですから)、聴き込んでいくとやはり「熱情」の奥深さに心打たれる様になります。

闘争を通じて勝利を獲得するというベートーヴェンの人生をそのまま楽曲にしたらこうなるのだろうなという、まさに「熱情」ですね。ともすると走ってしまいがちな楽曲なのですが、ギレリスはとても抑制をきかせてじっくりと弾きあげています。

本当はギレリスの動画があると良かったのですが、あまりクオリティの高いものがなく、これはほぼ同時期に活躍したアラウの演奏になります。うーん、僕はギレリスの方が好きだけど、やっぱり甲乙つけがたいかなあ。

Claudio Arrau "Appasionata" Beethoven

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次、シューマンの交響曲4番です。先ほど「旧い」と一蹴しておきながらなんですが、こちらの演奏はフルトヴェングラーになります。オケはベルリンフィル。1953年の録音です。


これはいい。同曲ではバーンスタインやカラヤンもとてもいい演奏を残していますが、さすがにこれだけの演奏をされてしまうと録音の旧さには目をつむりたくなります。シューマンという人は、最後は発狂して亡くなってしまった人ですが、音楽にそれが出ているというか、なにかある種の「怖さ」を感じさせるところがあって、そういう心の奥底に蠢く何かを感じさせる演奏です。ハイになる時は無茶苦茶ハイで、聴いてて体がタテノリに動き出すような部分もあるかと思うと、泥沼に沈潜していく様な部分もあって、わかりやすいと言えばわかりやすいのですが、音楽的には破綻してますね。豹変するんです。

Wilhelm Furtwangler "Symphony No.4" Robert Schuman

ピアニストでもあったシューマンの愛妻クララは、シューマンに「もっと普通の、わたしでも歌える様な普通の曲を作って。どうしていつも豹変する様な凄味のある曲なの?」とせがんだそうで、シューマンも「わかったよクララ、オレがんばるぜ」ということでかなり努力したらしいのですが、出来上がる曲はやっぱり「あれ、なんか怖い・・・でもスゴくね?」という。

ちなみに怖いもの見たさで更に狂気の音楽を味わってみたい人にはクライスレリアーナをお勧めします。聴くと「ああああああ、これはダメだなあ、狂っちゃってるわ」というのがよくわかります。おすすめはシフの盤、といいつつ動画が見つからなかったのでこちらHelene Grimaudの演奏になります。個人的にはシフの方がやっぱり好きかな。

Helene Grimaud "Kreisleriana" Robert Schuman

評価が高いのはホロヴィッツやアルゲリッチの盤ですが、僕にはちょっと荒すぎる様に思えるんですよね。聴くと、狂気寸前の人が作る音楽とはこういうものか、というのがよく分かります。或る意味でモーツァルトと同じくらいに闇を背負った音楽です。


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次、ドボルザークの交響曲9番「新世界」です。指揮はケルテス、オケはロンドンシンフォニーになります。


クラシックになじみが全然ない、という人はこの曲から入るといいかも知れません。とにかくカッコいいメロディとオーケストレーションが目白押しなので非常に「入りやすい」曲です。特に第三楽章、第四楽章と畳み掛ける様に曲が進んでいくので、集中力を維持しようとしなくっても曲が勝手に引き込んでくれます。僕の経験でもこの曲を聴いてクラシックにハマっていった人が少なくありません。

ケルテスはあまり日本では知られていませんが、同盤は定番中の定番と言えます。少し録音が旧いので新しいのを、という方にはこちらのカラヤン盤もおすすめです。


こちらはカラヤン指揮の同曲の動画。さすが、カラヤン時代で絵の取り方がドラマチックです。逆光の使い方とかね。

Hervert v. Karajan/VPO "Symphony No.9" Antonin Dvorak

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次、ショパンのエチュード、奏者はポリーニです。


この盤を初めて聴いた時の衝撃は忘れられません。

もともとポリーニが史上初めて満場一致でショパンコンクールに優勝して、当時審査員だったルービンシュタインから「ここにいる審査員の誰よりもテクニック的には上」と言われたほどのテクニシャンであることは知っていたのですが、この盤を聴くまでは今ひとつピンと来てなかったんですよね。そんなにうまいかな〜と。

エチュードというのは練習曲のことですが、実は無茶苦茶な難曲です。で、これを精密機械の様に弾いていくのですが、とにかくその「切れ味」が只事ではない!音楽を表現するのに「切れ味」とは?と思われるかも知れませんが、一曲目を聴けば即座に「切れ味がすごいとしか表現できない」と僕がいう意味をわかって頂けると思います。漆黒の硬質な花崗岩をダイヤモンドのドリルで掘り込んで行く様な演奏です。。。ちなみに有名な「別れの曲」も同曲集の中の一曲です。

Maurizio Pollini "Etude" Fryderyk Chopin

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次、ラヴェルの弦楽四重奏曲です。演奏はアルバンベルク。


弦楽四重奏とは、ヴァイオリン×2+ヴィオラ+チェロの弦楽奏者四人だけで演奏する音楽形式のことです。弦楽器は通常、同時に一つの音しか出せません(重奏という、同時に二つ以上の弦を弾く奏法もあるにはあるけど、無茶苦茶難しくなる)。つまり、弦楽四重奏という形式を用いる限り、同時に出せる音数は四つという制約がつきまとうことになります。

一方で、西洋音楽で用いる和音は最低でも3つの音を必要とします。例えばハ長調の主和音であればドミソ、属和音であればソシレという音が必要で、このうちの一つでも抜いてしまうと和音として機能しなくなります(感情を喚起できなくなる)。更に、少し高度な表現をしようと思うとすぐにセブンスやナインスの音、ハ長調の属和音であればソシレファの四つの音あるいはソシレファラの五つの音が必要になります。しかし、同時に出せる音は四つしかない。

これはつまり何を意味しているかというと、弦楽四重奏というのは、音楽の表情を作り上げていくに当たって本当にギリギリの音数しか出せないということなのです。絵画で言う素描みたいなもので従って音楽家の力量がもろに出ます。ちなみに芸大作曲科の入試では弦楽四重奏曲の作曲が実技試験で課されますが(僕が作曲の勉強していた頃なので、今は変わっているかも知れません)、それも上記の故です。

なので様々な作曲家が様々な四重奏曲を書いているのですが、その分、曲数も多いし高度な書かれ方をしていることが多いので初心者がうかつに手を出すと「なんだかよくわからないな」となってしまうケースが多い。例えば、ベートーヴェンの後期、あるいはブラームスの弦楽四重奏曲などはとてもいい曲があるのですが、なかなか最初から良さを感じるのは難しいと思います。

で、僕の経験から、まず大概の人が「これはカッコいいね〜」と言ってくれるのがラヴェルの弦楽四重奏曲です。この曲、先日のパリコレでも某メゾンのランウェイでかかっていたので、それくらいキャッチーだということなんでしょう。出だしの和音が溶けるようでしょう?



ちなみにアルバンベルクは先日解散してしまいましたが、弦楽四重奏曲を買うのであれば、彼らの演奏であれば100%間違いがないと覚えておいていいでしょう。

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最後は、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」です。指揮はブーレーズ、オケはクリーヴランド管。


変わった題名ですよね。由来はいろいろと議論があるようですが、ドビュッシーがなぜこのような名前を付けたのかはよく分かっていない様です。この曲は、もちろん聴いても素晴らしいのですが、音楽学的な側面でも非常に重要な位置を占めている曲です。

これまでずっと紹介してきたバッハからショパンまでは、基本的に和声法の古典的なルールに則って書かれているのですが、ドビュッシーはその技法から初めて離れて音楽芸術が成立することを証明した人物です。僕らは音楽を聴くときに、実は微妙に一瞬先に来るであろう音を予測しながら聴いているのですが、ドビュッシーはその期待をことごとく裏切る音運びをします。

専門的には機能和声といいますが「この和音とこの和音をつなげるとこの様な気持ちになる」というパターンを集めた辞書の様なものがあって、作曲の勉強をする人は、まずこの和音連結の辞書を覚えていくことから始めるのですが、ドビュッシーという人はこの辞書に頼らずに音楽を作る、ということを近代以降で初めて試みた人の一人です。

その様な音楽が実際にどのように響くか?例えばこの「牧神の〜」を聴いてもらえば、最初の10秒で、これまで紹介した伝統的な西洋音楽とは何か根本的に作られ方が違う、ということに気付くはずです。白昼夢の中を漂う様な、それは絵画で言えば例えばルノアールの描く木漏れ日の中に居る様な、不思議な感覚です。


最終的には実際に聴いてもらわないと何とも説明の仕様がないのですが、生理的にこうなると気持ちいいな、というのを裏切りながらなお快楽をもたらすという離れ業をやってのけたわけで、この曲が世の中に出て来たときの音楽関係者の衝撃はいかばかりであったろうと思われます。

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ということで、とりあえず鉄板の15枚をご紹介しました。反響があるようであればまた別の機会に別の15枚を紹介したいと思います。

では、また。