ビジネスとアートのあいだ

ビジネスとアートは一般的に対照的なものだと考えられているけれども、本当にそうなんだろうか、ということをここ最近考えています。

たとえば、ビジネスの世界で現時点の世界チャンピオン(時価総額世界一)であるアップルを考えてみると、前CEOのスティーブ・ジョブズは、経営者でもありまたアーティストであったとも言えます。初代マッキントッシュ開発の際は、フォントの字体や筐体の色に頑にこだわったり、Power Macのデザインでは立方体や透明といったデザイン要素について強迫的といっていいほどの執着を示していて、その思考・行動特性は経営管理者というよりもアーティストに近い。

こういった行動特性を示した人が率いた会社が時価総額世界一を記録しているというのは、一体どういうことなんだろうか?

僕は大学で美術に関する専門教育を受けていて、経営者の伝記よりはどちらかというとアーティストの伝記になじみ深いのでそう思うのかも知れませんが、スティーブ・ジョブズが示したこういった態度は、経営者というよりも美術史の流れを捩じ曲げたような天才アーティストたちの行動特性ととても似ていると思うのです。

つまり、ビジネスマンとして功成り名を遂げた人の中には、非常にアーティスト的なコンピテンシー(©ヘイグループ)を示す人が居るんですね。

一方で、いわゆるド真ん中のアーティストと思われている人々が、意外にビジネスマン的な行動・思考特性を示すこともある。たとえば、東大寺金剛力士像を制作したのは運慶・快慶の二人だ、と日本史で習った人が多いと思いますが、今日では、この二人は制作者というよりもプロデューサーであって、実際に制作に当たったのは慶派に属する多くの職人であったことが知られています。彼らは、クライアントの要望をまとめ、それを予算・時間・人手のリソースに配分してプロジェクトマネジメントを行ったわけで、まったくいま現在のビジネスマンがやっているのと同じことをやったにすぎないのです。

これはルネサンスの工房も同じであって、たとえばレオナルドが最初につとめたヴェロッキオの工房も、やはり貴族やブルジョア(この時代はこういう言い方はしなかったけど)から依頼を受けて絵画や彫刻等の制作を請け負っていた営利組織で、ヴェロッキオが直接に筆を取ることももちろんありましたが、多くの場合、彼の仕事は弟子たちの仕事を管理することだったわけで、今日で言うところのプロデューサーだったのです。

意外に思われるかも知れませんが、当時の工房は美術品の制作以外にも、王侯貴族の親族の結婚式の演出や音楽会やパーティのプロデュースも引き受けており、今日で言うところの広告代理店とほぼ同じような業態を形成していたんですよね。実際にレオナルドはそれらの催しで非常に斬新なアイデアを用いてクライアントを大喜びさせたそうで、今日現在、これらの企画内容がたとえ断片的であっても残っていないのは残念極まるよなあと思うのは僕だけではないはずです。嗚呼、電通にレオナルドが居てくれたら、オリンピックの招致ももっとラクだったのに。

ということで、要するに言いたいのは、アートとビジネスというのは本来はほぼ一体のものであって、それが対照的な概念として扱われるようになったのは恐らく20世紀に入ってから、印象派以降のことで歴史的には「つい最近」なんですよね。そして21世紀に入って、アートとビジネスを対照的に捉える立場の人よりも、これを一体のものとして捉える人によって率いられた会社が、時価総額世界一を誇っているというのは、我々にこの認識を改めるべきときが来ているのではないかと、示唆しているように思うのですよね。