既にいろんなところで書いたり話したりしていますが、僕は新刊のビジネス書をほとんど読みません。何かきっかけがあったり、深い考えがあってそうしているというよりは、読みたいと思う本を感覚的に選んでいたら、いつの間にか新刊のビジネス書がほとんど含まれなくなったということなのですが、最近になって、ある出版社さんで「読書術」というテーマでの連載を持つことになり、読む書籍を選ぶ際に用いている選択基準を意識の底から掬いあげて言葉にする必要性が生じてつらつらと考えてみました。
で、正直にいうと未だにその基準はよくわからないのですが、おぼろげに見えてきたのは、どうも「読書の正味現在価値」という、意外にも世知辛い基準で本を選んでいるらしいということです。
読書を一つの投資と考えてみれば、原資は自分の時間しかありません。時間は限られていますよね。誰にとっても一日に24時間しかない。だから、どの本に自分の時間を投下するかはとても大事な意思決定になります。
一方で、読書がもたらす効用は、「単位時間当りの効用」と「効用の持続時間」の積に等しくなります。この効用の持続時間を、短期と長期に分けて考えてみた場合、ビジネス書のベストセラーというのは、
短期:読んでいる人が沢山居るため、差別化の要因にならず、効用は小さい
長期:殆どの内容が数年で陳腐化するため、やはり効用は小さい
ということになります。
わかりやすい例として2009年にベストセラーになったクリス・アンダーソンの「FREE!」を考えてみましょうか。あの時期、本当に猫も杓子もあの本について語っていましたが、あの分厚い本を読んでその内容について語ったり、考察したりすることの効用は、実はそれほど大きくはなかったのではないでしょうか。少なくとも、皆が同じ様なことを話していたわけですし、しかもその内容は「言われてみれば当たり前」というものが多かったように思います。しかし、他人と代わり映えせず、しかも陳腐でつまらないというのは個人のアウトプットとしては「最悪」というほかありません。
一方で、今から十年後のことを考えると、クライアントのCEOとの会食の場で、あるいは経営幹部候補育成のワークショップの場で、クリス・アンダーソンの「FREE!」からの引用が使えるかというと、まあピンと来ませんよね。殆どの人は「ああ、なんかそんな本、あったよね」という反応でしょう。
出版からたったの四年しか経っていないのに、キーワードの一つだった「フリーミアム」が使用の憚られる「恥ずかしい用語」に早くもなりつつあることを考えれば、見通しは暗いと言わざるを得ませんって、そう思うのは僕だけなのかな。
一方で、アダム・スミスやマックス・ヴェーバーのような、いわゆる古典からの引用はこれから先、十年あるいは二十年のあいだ、同様の場において説得力ある引用を可能にしてくれるはずです。
つまり、ビジネス書のベストセラーによって形成された知的ストックは、短期的には差別化できないために効用が小さく、中長期的には知的価値の毀損が早く、正味現在価値は意外にも小さいのではないか、ということです。そういう判断をどうも無意識にやって偏った読書ポートフォリオになっているらしいと、まずはそこまでは見えてきました。もう少し考えてみると、また違ったことになるのかも知れないけど。
慣用句=ことわざというのは「大人の事情」を匂わせるうさんくさいものが多くて子供のときから僕はずっと違和感を抱えていますが、このように考えてみると「残り物には福がある」ということわざは、一面の真理を指し示しているのかも知れません。一般にこの慣用句は、先物を確保する利権を有する人が、それを持たない人の反発をなだめるために用いるケースが多いわけですが、実は多くの人が手にしたがる先物は差別化が難しく、残り物にこそ差別化を考えるための契機が生まれるということなのだということであれば、それはそれで一つの知恵だと認めざるを得ません。あるいはそもそも、歴史のやすりにかけられた「残り物」には効用があるのだ、という指摘と捉えることも出来ます。
思い出したけどキューバ建国の英雄エルネスト・チェ・ゲバラは大変な読書好きで、彼がコンゴのジャングルから家に居る妻に本を送ってくれる様にお願いした手紙が残っているのですが、このリストがスゴい。
- ピンダロス「祝勝歌集」
- アイスキュロス「悲劇」
- ソフォクレス「ドラマと悲劇」
- エウリピデス「ドラマと悲劇」
- アリストファネスのコメディ全巻
- ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
- クセノフォン「ギリシア史」
- デモステネス「政治演説」
- プラトン「対話編」
- プラトン「国家」
- アリストテレス「政治学」(これは特に)
- プルタルコス「英雄伝」
- セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
- ラシーヌ「演劇」全巻
- ダンテ「神曲」
- アリオスト「狂えるオルランド」
- ゲーテ「ファウスト」
- シェイクスピアの全集
- 解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの)
*ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由
要するに全て古典です。新しい国を人工的に作るという歴史上嘗てない営みに手を染めつつある人が、そのための参考書として選んだのが、近代市民国家成立以降の啓蒙書ではなく、一番新しいものでも数百年、多くが千年以上前のローマ時代からギリシア時代に書かれた書籍であったことは、同様に将来を見通すことが難しい時代に生きている僕らに対して一つの教訓を示してくれている様に思えまませんか?
そういえば、江戸時代の脅威の碩学、荻生徂徠も父親の失脚に伴って本がほとんどない田舎に蟄居せざるを得なくなり、仕方なしにやっとこさ手に入った少数の古典、なかでも父親が筆写した林羅山の大学諺解を十年以上に渡って繰り返し読んだところ、ついにはそれらを逆さまに読んでも暗唱できるくらいになってますよね。最新の書籍は選べず、古典を繰り返し繰り返し読むしかなかったわけです。しかし、その後、蟄居の命が解けて二十五才の時に江戸に戻ってきたころには既に重鎮の国学者と議論してこれを悉く打ち破るような「知の怪物」になっていたそうだから、最新の知識や情報をなんでもかんでも好きな様に選べるというのは知性を育むという意味ではとても危険なことなのかも知れません。
思い出したけどスコラ哲学の巨人であるトマス・アクイナスや聖書に記述されるイエスもまったく同じだし、ニーチェのツァラトゥストラや達磨も長期間にわたる山中での「Less Input、 More Thoughts」の結果、叡智の獲得に至っています。つまり、自戒の念を込めていえば、最新の知見の膨大なインプットは知的アドバンテージにつながらないどころか、むしろマイナスなのかも知れない、ということです。話題のビジネス書を沢山読んでるという人は気をつけた方がいいのかも知れない。後に何も残らない可能性がある。
最後に、この阿部謹也先生の「刑吏の社会史」は、本当の意味で「深く考えるとはどういうことか」を教えてくれる、とてもいい本だと思います。この本、1978年の初版から既に27刷を経ていますが、いまだにその内容の質はまったく古びていません。阿部謹也先生はもともと一橋大学の中世史の先生でしたが、なぜ商業大学が母体である一橋で中世史が教えられたのかというのが、この本を読むとよくわかります。