いま「知的生産」に関する本を書いているのですが、その執筆の過程で改めて考えさせられたのが、結局のところ、知的生産というのは最後に「行動の提案」があってはじめて完結するよなあ、ということです。
「行動の提案」とはつまり、「ではどうするべきか?」という問いに対して応えを出す、ということです。
考えてみると、ビジネスの世界を限らず、我々が知的成果として世に訴えられる情報は基本的に三種類しかないことがわかります。それらは「事実」「洞察」「行動」の三つ。世の中に生み出された過去の知的成果を並べてみると、その殆どがこれらの三つのどれかに分類できることがわかります。
例えばマルクスの「共産党宣言」には、これら三つの要素が全て含まれていますよね。プロレタリアート=労働者階級とブルジョア=資本家の暮らしぶりを比較するという「事実」にもとづいて、そのような悲惨な格差が発生している要因を、疎外をはじめとしたモデルとして説明できる「洞察」として提示し、最後に、労働者の団結を訴えるという「行動」の提案によって締めくくっています(一方、同じマルクスによる「資本論」は、「事実」と「洞察」については共産党宣言よりずっと豊かな情報量を含んでいるのに「行動」についての情報は殆どありません。これは非常に興味深い対比です)。
また近年の好例としてはアル・ゴア元米国副大統領による「不都合な真実」が挙げられます。この映画(書籍もほぼ同じ内容ですが)では最初に、大気中の二酸化炭素濃度が上昇していること、氷河や南極の氷床が縮小し続けていること、ツンドラ地帯の永久凍土が解け始めていることを「事実」として示し、次にこれらの「事実」から、地球が長期的な温暖化傾向にあるという「洞察」を示し、最後に、視聴者に対してとって欲しい「行動」を提案するという構造になっていますよね。
知的生産が、結局のところ「世界をより良い場所にする」という目的のために生み出されるのであるとすれば、それらは最終的に人々にとっての「行動」の指針となるものでなければなりません。つまり「行動」にまで踏み込むことで、初めて知的生産というのは価値を生み出す、ということです。たまに「あの人は評論家だ」といった陰口を聞くことがありますが、評論家というのは「洞察」までしかアウトプットできない人ということです。これは、ある意味で大変本質をついた評価といえます。というのも「事実を整理する」ことと、そこから「洞察」を生み出すことと、最後に「打ち手を生みだす」ということでは、知的筋力には非連続な力量が求められるからです。
つまり、知的生産というのは、「では、どうするの?」という問いに対して応えを出すことで初めて完結する、ということです。膨大な情報を集め、緻密な分析を積み上げ、そこから得られた様々な示唆をドヤ顔で説明することは出来るのに、「ではどうすればいいのですか?」とたずねると、そこから先に進めない人が、とても多い。もう一歩、あと一歩で頂上というところまで来ているのに、そこで歩みを止めてしまう。その「もう一歩」というのはつまり、「では、どうするのか?」という問いに対して応えをひねり出す、ということなのです。
翻って考えてみれば、この問いは古代ギリシアの時代以来、すべての哲学者が追い求めてきた問いといっていいかもしれません。機会があったら是非意識して読んでみてほしいのですが、少なくともプラトン以降、地球上のすべての哲学者が向き合ってきた問いは二つしかないのではないでしょうか。それは「世界とはどのように成り立っているのか?」と「その中で、我々はどのように生をまっとうするべきなのか?」という問いです。そして、この後者の問いがあるからこそ、前者の問いに対する応えもシンプルなものにせざるを得ず、だからこそ過去の哲学者はどこまでも強く、深く考え続けたのです。
知的生産の技術と聞いて多くの人は、情報を集めて整理する技術、あるいはそれを分析して示唆や洞察を得る技術を想定されるかも知れませんが、極論すればそんな技術は必要条件でしかありません。最後の最後、では、いま、ここにいる私は、どのように生をまっとうするべきなのか?この点こそが最も重大な問いであり、それに何らかの応えを出していないようであれば、そのような知的生産は極論すれば無価値だと思います。
何からのかたちで知的生産に従事する際には、つねに、最後は「では、どうすればいいのか?」という問いに対して応えを出し尽くすのだ、という気概をもって臨んでほしいと思います。
何からのかたちで知的生産に従事する際には、つねに、最後は「では、どうすればいいのか?」という問いに対して応えを出し尽くすのだ、という気概をもって臨んでほしいと思います。