キャリアのチャンスは「つなぎ目」にある その1

子供のときからの飛行機好きで、お酒を飲んで酔っぱらうとよくYouTubeで「着陸」の映像を見ています。

特に見物なのはクロスウィンドでの着陸で、滑走路に対して45度近くも機体を斜めにさせながらアプローチするようなトンデモナイ映像が見られます。巨大なエアバスのA380がスライドしながらアプローチしてくるVなんてスゴい。乗っている人は怖くてしょうがなかったでしょうね・・・


このビデオの、特に機体が空中にあるときには滑走路に対して斜めを向いているのに、着地した瞬間に、滑走路の軸線に対して機体を水平に修正するという着陸を何度か見ているうちに、瞬間的に気付いたことがあります。それは

つなぎ目が危ない

ということです。航空機の場合、空中にある場合と地上を走る場合では、属している系=システムが変わります。この「属しているシステム」を乗り換えるところに脆弱性がある、ということです。

航空用語に「魔の11分」という言葉がありますよね。これは「航空機事故の70%は離陸の3分、着陸の8分のあいだに発生している」という経験則から生まれた揶揄ですが、これはそのまま「つなぎ目」が危ない、ということを示しています。

同様のことが工学の分野についても言えるのかも知れません。例えば、原子力発電は例の事故があってから危険だ危険だ危険だと言われ続けていますが、では具体的にどこに危険性があるのか?ということを地に足をつけて考えてみると、実は「つなぎ目」に脆弱性がある、ということがすぐにわかります。

原発というのは炉でお湯をわかして、出てきた湯気でタービンを回して発電するという、それだけの仕組みですが、過去の事故を調べてみるとその殆どが炉とタービンのつなぎ目であったり、炉と建屋のつなぎ目で問題が起こっているのがわかります。原子炉やタービンや発電機を単体のものとして見ると非常に完成度は高いのに、それらをつなぐといろいろと問題が起きるわけで、これもつまり「系」と「系」のつなぎ目で問題が起こっているわけです。

で、ここで若干強引なのですが、実は経営システムもそうなんではないか、と思ったんですよね。

企業経営にはさまざまな側面が絡みますよね。経営戦略、財務・会計、人事・組織、マーケティング、オペレーション、製造、物流・・・これら一つ一つの要素については実務についても理論についても専門家が沢山いるわけですが、それら要素の「つなぎ目」に強い人が少ない、というのが今の問題なんじゃないかと思ったんですよね。

例えば僕がいまいる人事・組織の業界であれば、人事制度や組織論に通暁している人はたくさんいるわけですが、マーケティングや経営戦略の側面から、最適な人事制度や組織を設計できる人は本当に少ない、というのが現実です。これは何でもそうでね、マーケティングと物流とか、製造と財務とか、両方をつなげる人というのに今後価値が出てくるんじゃないかと思います。

でもこれっていいことだと思うんですよね。だって、カテゴリーが100個しかなかったら、100人のチャンピオンが生まれるだけですけど、カテゴリーのつなぎ目がチャンピオンを生むということになれば、100人のカテゴリーチャンピオン以外に4950人の交差点チャンピオンが生まれるわけで、ずっと多様性のある社会になると思うんですよね。

これからのキャリアのあり方として「T字型」という表現がよく言われますが、そうではなく「X字型」?なのかな?よくわからないけど。でもそうなんじゃないかな。だって「T字型」って、言いたいことはわかるけど、要するに無いものねだりでしょう?全分野に一応の知識はあった上で専門性を持っているなんて、そりゃいいに決まってますよね。「これからの時代はT字型人材が求められる」って、なにをネボケタこと言ってんだよ、そんなのギリシア時代から変わらないじゃんか、と思いますけどね。そう、だから「T字型」より「X字型」なんですよ。

専門家としての矜持を持って自己研鑽を積むことはプロフェッショナルとして当然のモラルだと思いますが、その上で「自分が生きる交差点」を意識することで、企業や社会が抱えている「脆弱点」を補正できるのだとすれば、個人にとっても社会にとってもこんなにいいことはないよなあ、と思うのです。

そうなると、ということでまだ考察は続くのですが、それは次回ということで。

教養主義の罠

先日、柄谷行人+浅田彰他の編者による「必読書150」という本を読んで、いろいろと考えさせられたことを備忘録代わりに。

この本、いわゆる「教養主義」の本なんですよね。一応ことわっておくととても面白いです。一度読んだ本についても「おお、そういう視点があったか」と思わせる紹介があってとても刺激になる。


で、こういった本をまとめて紹介しているというのはつまり、そういった名著を読め、ということなのですが、そのように強く主張する柄谷さんの論拠が奇妙で「こんなものすら読んでいないのはサルである」ということなんですね。サルでいるのがイヤだったら読め、とまあそういうことらしいのです。

この一節を読んでまず思ったことが、こういった名著を読んできたことで、本人たちに言わせると「サル以上の何者か」になった著者+編者の皆様の「生」が、どれくらい善く、充実したものになっているのだろうか、という点なんですが、それがどうもよくわからないんですよね。

例えば浅田彰さんという人は、80年代に「構造と力」でセンセーショナルなデビューを果たしましたけど、率直にいってその後、処女作に匹敵する様なインパクトを結局は出せなかった、という印象を持っています。有名なのは某週刊誌に連載している某元県知事との対談ですが、なんというか、揚げ足取りの難癖に終始しているようにしか見えない。この社会をどうやったらより善いものにしていけるのか、という論点に真っ向から取り組んだ考察というのは、結局生涯で一つも出せなかった人だという印象を持っています。

柄谷さんについても同様で、「哲学の起源」とか「世界史の構造」なんかを読むと、迸る様な知性に満ちあふれていてとても面白いのですけど、その教養が、社会と本人にとって一体なんの役に立っているのか、というのが今ひとつわからない。

面白いですよね。浅田さんという人はポストモダニズムの騎手として颯爽と思想界に登場したわけですけど、ポストモダンというのは言ってみれば「反教養主義」だったわけですからね。保守教養主義という巨大な敵がいたからこそ、それに対する反力としてポストモダニズムというものが存在し得て、その中心に居たのが浅田彰さんだったわけですけど、反力を生む保守教養主義自体が力を失って功利主義・プラグマティズムが本流になってしまったら、今度は自分が教養主義者になって功利主義を攻撃しているという、そういう反転構造がここに見えます。本人は気付いてんのかな。まあいいけど。

こういったことをツラツラと考えていくと、「教養が大事だ」と主張する教養人たちのアウトプットと人生が、とても貧困なものにハタからは見えるということが、教養主義が廃れてしまった最大の原因じゃないかしら、と思うわけです。

「教養のあるサル以上の何者か」になるより、「教養がなくても幸福で充実した人生を歩んでいるサル」のほうが僕はいいと思うし、多くの人もそうなのじゃないかな、ということです。

役に立つか立たないか、という判断軸がおかしい、という指摘もあるかも知れないけど、僕はその点についてはこだわりたいんですよね。大学の教養課程は英語ではリベラルアートと言われますよね。リベラルアートのもともとの語源は新約聖書福音書の「知は自由にする」という言葉に由来してます。つまり、教養というのは人をして自由ならしめるためにあるわけで、とても功利的な成り立ちをもともとはもっているということです。訳が悪いんだよね。リベラルアートを「一般教養」なんて訳してしまったから、功利主義的な側面がこぼれてしまって、なんか花嫁修行の一種みたいなニュアンスになってしまったんですね。

でね、ここで自分を振り返ってみると、最近は自分も教養主義に冒されつつあるということがわかって、これは危ないかも知れないなあと思っています。僕自身のいままでを振り返ってみると、人から与えられるカリキュラムを徹底的に無視して、自分が大事だと思うものにのみ時間を使って読む・聴く・観るをやってきた結果が、いまの自分の血肉になっているということは明白なので、これはつまり「教養主義」を徹底的に排除してきた、ということなんですよね。

カリキュラムというのは、他人が「これはとても大事」ということで編集・編成したものですけれども、これはつまりそのまま「教養主義」に通じますよね。テレビ局や雑誌と同じで、自分のところに編成権・編集権がないわけです。で、僕はその点、つまり「自分で編成権を持てない」というのがとても嫌で、ほとんど学校に行かず、ひたすら図書館で自分が面白いと思う書籍は選んで読む、面白いと思う映像を借りてきて観る、ということをやっていたわけです。経営学もビジネススクールに行かずに独学したしね。つまり、子供の時からずっと、他人がなんといおうと、僕が面白いと思うのが「善い本」であって、そうでないものは「悪い本」なのである、ということを強く信じているんです。でもね、そういう態度を貫き通せた20代前半までの時期に比較して、いまはずいぶんと「これは読め」というアドバイスというか、余計なお世話に従順になってしまっているなあ、と思ったんですよね。

教養主義というのは一種の罠だと思っています。

はまってしまうと、不思議な序列システムのなかに絡み取られてしまって、幸せになるためのシンプルな本質がよく見えなくなってしまう。自分の置かれている文脈に沿って必要な知識こそ、大事な知識であって「これを知らないのはサルと同じ」といった主張に踊らされて、教条主義的なコンテンツを仕入れるのに時間を使うことのないように気をつけよう、と思った44歳の春なのでした。







「身も蓋もなさ」にどう対抗していくか?

ここ数年で気付いたことなんですけど「勝ち」にこだわるといろいろな意味で「味」を失うよなあ、ということを最近あらためてよく考えています。

数年前にF1を直接見る機会があったのですが、その際にマシーンのあまりの醜さに驚愕したという体験が、恐らくこの点について考えるようになった最初のきっかけがじゃないかと思います。自動車、なかんずくレーシングカーというのは、1970年代くらいまでは大変美しいもので、そのまま芸術作品と言ってもよいようなものが沢山あったのですが、現代のレイーシングカーって本当に醜悪で、なんというか深海魚みたいになってきましたよね。

分かりやすい例がラリーカーですかね。えーっと、

旧はこれかなあ。ランチアのラリー037ね。これは1980年代前半のマシンです。「身も蓋もなさ」にWRCが冒される前の最後のマシンですね。四輪駆動が主流になりつつあったのに「美しさ」に拘ってミドシップ×後輪駆動を選んでいるという・・・



で、新はこちら。シトロエンの C4です。これはごく最近のマシンです。


C4は自分で乗ってたくらいなので嫌いではないんですが、デザインとしての「身も蓋もなさ」をわかってもらうには、いい材料かなと。

ラリー037とC4のあいだに見られる極端な美的差異は、そのままラリー選手権という競技がかつての「貴族の決闘」から単なる「ドッグレース」に変わってしまったことを意味しています。「名誉」から「エサ」に報酬が変わってしまったんですね。

こういった変化は、結局のところ「速ければ醜くてもいい」という作る側の論理が支配的になってきた証拠であって、そのコメントというか思想に、僕はある種の「身も蓋もなさ」を感じるんですよね。

この「身も蓋もなさ」というのは、ビジネスやスポーツをはじめとして、いろいろなところで「味をなくす」ことにつながっているよなあ、と最近つよく思うのです。

例えばオリンピック。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進がオリンピックで金メダルを取ったのは大昔のことですけれども、そもそも、あの当時のオリンピックはヨーロッパ貴族の手合わせみたいな場所だったわけで、そこにヅカヅカ土足で入り込んできた男が、人生のすべてを注ぎ込んで一日16時間のトレーニングに打ち込み、その末に勝利して「やった!勝った!勝ったあぁぁぁぁぁ!!!」って騒いだって、周りからは「そりゃお前、あまりに身も蓋もないダロ」と思われてたと思うんですよ。

でもね、ここが大事なところなんですけど、そうやって「身も蓋もないやり方」をやって勝つ人が出てくると、みんな「イヤだねえ〜、アアはなりたくないよね〜」と嘆息しつつも、裏で特訓したりして最終的にみんな身も蓋なくしていくんですよね。「柔道部物語」の後半で、西野が出てきた時に、その柔道の「美しくなさ」「身も蓋もなさ」に三五たちが衝撃を受けてましたけど、まああんな話ですねって、全然わかんねーか。

つまり「身も蓋もなさ」というのは伝染性がある、ということです。

その「身も蓋もなさ」にいまの日本人のほとんどが絡めとられていて、それがさまざまな分野で「味」がなくなることにつながっているんじゃないのかなあ、と思うのですよね。

で、それはわかったからじゃあどうすればいいわけ?

と聴かれそうですが、明快な答えがあるわけではありません。僕自身、もっと身も蓋もなくして功利主義に猪突猛進すればいいのかなあ、と思う時もあるんですけど・・・なんか中途半端ですよね、外資系コンサルティング会社にいてこういうことを言ってるというのも。

でもね、確実に言えるのは、この「身も蓋もなさ」に世界中が覆われると、僕らの住んでいる世界は間違いなく、もっと窮屈でギスギスしてコセコセした、イヤな世界になってしまうと思うのですよ。

なんとかしたいなあ、と思うのですけどね。