サントリーHDの社長人事に接して感じたこと

ご存知の通り、2014年6月24日にサントリーHDは次期社長にローソン新浪会長をあてる社長人事を発表しました。

この社長人事についての是々非々がFacebookやTwitter上でかまびすしいですが、情報劣位にある人々がそのような議論をすることにあまり意味があるとも思えないので、ここではその点については触れず、別の側面について少し感じたことを書き記しておきます。

ここ数年のあいだ、外資系のキャリアを歩んできた人を日本企業の社長に突然据えるという人事が相次いでいますよね。資生堂はコカコーラ出身の魚谷氏を、ベネッセはマクドナルド会長の原田氏を、それぞれ次期社長にあてる人事を発表しました。少し前のことになりますがGE出身の藤森氏がリクシルの社長に就任したのは2011年のことです。

彼らに共通しているのが40代の後半〜50代の前半という次期に経営経験をスタートさせ、以降一貫して職業経営者としてキャリアを築いてきたという点です。魚谷氏、原田氏、藤森氏が経営者の立場に初めて立ったのはそれぞれ47歳、49歳、46歳のときのことで、今回サントリーHD社長に内定した新浪氏については43歳のときにローソンの代表取締役となっています(※1)。40代半ば〜後半といえば、多くの企業ではやっと課長+くらいの役職に昇進できるかという年齢ですから、異例に若くして経営経験をスタートさせているわけです。

さて、組織・人事を専門とするコンサルタントとして、昨今顧客企業の経営者からよく聞かされる嘆きの一つに「次世代の経営者が育っていない」というものがあります。恐らく事実、その通りなのでしょうけれども、別に社内から経営者を育てなければならないという法律があるわけでもなく、経営者は経営してくれればいいわけで、外部から調達してそれで済むのであれば「経営者を育てられない」という問題は、そもそも問題なのか?という論点の建て方もあるように思います。

この問題、つまり「日本企業が経営者をなかなか育てられない」という問題について、僕は僕なりにいくつか原因の仮説を持っていますが、その原因を潰すのは構造的にとても難しいし時間もかかるので、これから先十年のあいだの経営者育成力不足の解決策としては

外部労働市場に経営者を育ててもらって、経営者はそこから調達し、内部で育った人はオペレーションのエキスパートとして会社を回してくれればよい

という方向に、程度の問題はあれ世の中全体としては進む事になると思います。

こうなると懸念されるのが、若手〜中堅のモチベーション減退という問題でしょう。もともと、多くの日本企業の人事慣行は、管理職につく四十代くらいまではあまり大きな差をつけず、誰もが「役員になれるかも知れない」という夢を持ち続けられる様にしながら、その幻想をエネルギー源として労働資源を駆動させるというモチベーションシステムを採用していました。

しかし、外部労働市場から経営者を調達するという流れが本格化すればこのシステムが微妙に破綻してしまうことは容易に想像できます。そうなると、優秀な中堅層を日本企業に留めておくことは非常に難しくなる可能性がある。

加えて指摘しなければいけないのがグローバル市場との報酬カーブのギャップでしょう。日本企業と海外の企業の報酬カーブを比較してみると、若手に厚く、管理職に薄いことがわかります。僕が勤務しているヘイグループの報酬データを参照してみると、一般的に多くの日本人が「報酬水準が低い」と考えているタイと比較しても、若手〜課長クラスでは、日本人の給与=1に対してタイの平均給与は0.49と半分程度ですが、部長クラスになると日本の1.36に対してタイの1.35と同水準になり、本部長クラスでは日本の1.68に対してタイの2.24と大きく逆転されてしまいます。

つまり、長期的なキャリアパスという面でも短期的な報酬という面でも、三十代~四十代にかけて日本企業に留まり続けるのは、率直な言い方をすれば「損な選択」になりつつあるということです。

現在の状況を俯瞰して、合理的な人なら間違いなくこう考えるはずです。
  1. 大学を卒業したら、まずは日本企業にはいってグローバルには相対的に高い給料を楽しみながらモラトリアム期間として様々な勉強や経験を重ねる。場合によってはビジネススクールに通うのもあり。
  2. 三十歳を過ぎたころにキャリアの方向性を腹決めして、外資系に転職するなら転職して専門職としてのキャリアを積むか、あるいはマネジャーとして経営管理者の経験を早期に積み重ねる
  3. 外資系企業でのキャリアがこれ以上展望できないという段階まで登ってから、経営者不足に困窮している日本企業に落下傘で飛び移り、オペレーションに強い人たちを指揮して経営者としての市場価値を高めていく
僕自身はなりゆきに任せてキャリアを選ぶタイプで、こういった戦略的な人生設計はあまり好きではないけれども、現在の社会を見渡せば、普通に合理的に考える能力のある若い人はこういう結論を導くのではないでしょうか。

経験学習理論のベースを作ったデイビッド・コルブは、実践的な体験とその結果の反芻が人の学習を促進させると説きました。これはつまり「よい経営者」を育成するためには、どれだけ若い次期に実際の経営体験を積ませ、そのなかで「キャリアのトドメ」になるような決定的な失敗を回避しながらも、適度な失敗体験を積んでそこからの学びを糧にしていけるか、がカギだということを示唆しています。

経営者不足に悩むのであれば、研修やビジネススクール派遣にカネをかけるよりも、今居る上層部の人がその職責を若手の有望株に譲るということこそが必要なのであって「後継者が育っていない」と嘆く経営者自身が退位して後進に道を譲るということが、もっとも有効な後継者育成の方法なのですよ、ということを僕らのような立場にある人はもっと進言するべきなのかも知れません。

※1:経営者、という言い方は定義が微妙だけれども、ここでは肩書きに社長またはCEOと初めてついたタイミングを計算している

世界劇場の脚本を書き換えよう

二十世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えた。

舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナという。ペルソナというのはもともと仮面という意味だね。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人格のことを「personality」というが、この言葉はもともとペルソナからきている。

そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界に投げ出されることになる。これをハイデガーは「企投」とよんだ。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallen=ヴェルファーレンと名付けた。

ヴェルファーレン・・・あれ?

そう、一時期一世を風靡した六本木のディスコの名前とよく似ているよね。もしかしたらヴェルファーレの名づけ親はハイデガーを読んでいたのかも知れない。残念ながら僕はヴェルファーレに行く機会がなかったので当時の様子はわからないけれども、いまYoutubeで当時の模様を見てみると、皆忘我の状態で踊り狂っていて、まさ「耽落=Verfallen」しまくっていたことがわかる。

ここで問題になってくるのが「原存在と役柄の区別」だ。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができない。いい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「いいもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「ショボいもの」と考えてしまう。

そして、当たり前のことなのだけれども主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎない。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって声高らかに歌い踊っている主役級の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくないよね」という態度を取ってしまったりする。

うむ。。。。

この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいないだろう。つまり世界劇場ということでいえば、この脚本は全然ダメな脚本だということになる。従って、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけだけれど、ここで浮上してくるのが

「誰がその脚本を書き換えるのか」

という論点だ。テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすい。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけだろう。

しかし、少し考えてみればわかることだが、まず、この社会に適応している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがない。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受している。これは成功する投資家がつねに「市場の歪み」に着目するのと同じことだ。従って、大物俳優である彼らにその「歪み」を是正してもらうことは期待できない。監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持たない。

これはつまりどういうことを言っているかというと、いまの世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうるということだ。大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落もせず、いかに内部から世界をよりよい世界に変えていけるか、これが最大の課題だ。

ちなみに、この大根役者が舞台を降り、舞台そのものを破壊しようとする行為がテロということになる。対話が成り立たない、自分の意見が通らないどころか、意見を言う機会すらないということになれば、花形役者を爆殺してしまえというのは気持ちとしてはわからなくはない。

さてと、この世界を劇場として考えるというアナロジーを持ち出すと、その脚本を作っているのは人間ではなく神なのではないか、という反論があるかも知れない。そう、まさにその通りに考えたのが古代から中世までのヨーロッパの人々だった。確かに、世界の脚本をつくっているのは神だ、というのはとてもしっくり来る考え方だ。

しかし、ここで一つの問題が立ち上がる。神は全能である。一方で、この世界は不条理と不合理に満ちている。つまり全然ダメな脚本である。全能の神が脚本家としてイマイチであることは認められない。

そこで彼らはこう考えた。やがて大ドンデン返しがきて、ダメに見える脚本も「ああ、そういうことだったのかあ!」ということになるのではないか、と。つまりすごい「オチ」が神に用意されているのではないか、と考えたわけだ。この大ドンデン返しがいわゆる「最後の審判」である。最後の審判において神が再臨し、神の国が完成する。それまでのあいだ、世界劇場の脚本は一見ムチャクチャに見えるが、最後に帳尻が合うはずなので、僕らは神に怒られないような正しい生活を送ろうということで自分たちを納得させたわけだ。

ところがここに問題が起こってくる。イエスが死んで十年たち二十年たち、やがて百年経ち二百年経っても、最後の審判はやってこない。そこで当然ながら、みんなこう考え始めた「ぶっちゃけ、最後の審判はあるのか?」と。笑い事ではない。これは「終末遅延」といって神学上は大変な難問なのである。

矛盾に満ちた世界は最後の審判を経て平定することになっているはずなのに、その最後の審判がいつまで待っててもやってこないのである。終末が遅延しているということは、矛盾に満ちた世界劇場の脚本がいつまでも完成しないということを意味している。これはとても困ったことだ。なぜなら、自分が生きているうちに世界劇場の脚本が修正されないとういことになるからだ。せめて自分が生きているうちに、この脚本が是正されてほしい。そう願う人にとって「終末遅延」はとても重大な問題だったのである。
  
ここまで読んでもらえばもうわかるだろう。そう、世界劇場で用いられている脚本を書き直すのは、神でも花形役者でもなく、我々でしかいない、ということだ。理不尽な脚本をいったんは受け入れた上で、役柄に耽落することなく、脚本を書きかえることを虎視眈々と狙いながら、着実に役者としてのポジションを固めつつ、他の花形役者や脚本家に対する影響力を高めていく。神のドンデン返しは待っていられない。もう二千年も待ったのだからいいだろう。

デカルトは著書「方法序説」のなかで、こう言っている。

世界の秩序よりも、自分の欲望を変えるように努力しなさい

なんというダメな考え方だろう、と思う。なぜならば、いまの世界の秩序そのものが人間の欲望の結果、大きく歪められてしまっているからだ。ここでデカルトが指摘している「秩序」は、自然法則に近い意味なので、僕らがイメージする「世の中のルール」(マルクスのいうところの疎外というやつだ)とは若干異なるかもしれないが、それはまあおいておこう。

こんなにも世界のありようが歪んでしまった以上、それを放っておいて自分の欲望を押さえることは健全なことではない。理不尽だと思う気持ち、何かがおかしいという直感を決して君は押し殺してはいけない。それが、よりよい世界を実現するためのエンジンになるからだ。

世界の脚本が歪んでいると思い、かつ自分がその劇場で大根役者を担っていると思うのであれば、まさに君こそがその脚本を変える革命家になるべきだ。したたかに生き延びて今いる組織の中でパワーを手に入れ、脚本をぜひとも書き換えてほしい。

臨床と研究と執筆の三本柱

元コンサルタントで物書きとして一時的に成功する人は多い。でもそういう人の殆どがやがて枯れていってしまうのを見ていて本当に恐怖しています。

コンサルティングという仕事は命を削る様なとこがあって、どこかで「もうやめた」と降りざるを得ないのだけど、でも僕は現場の臨床(=コンサルティング)をやりながら物書きをやるということに拘りたいんですよね。

なぜかというと、こんなに短時間に濃密な刺激やインプットを与えてくれる契機は他にないからです。要するに学習機会としてとても貴重なんですよね。よく仕事を選り好みしている人がいるけど、どうしてああなっちゃうのかな。どんな仕事からも学べるし、自分にとって違和感の大きい仕事であればあるほど学びが大きいと思うんだけど。だから仕事は常に、以前の繰り返しはなるべく避けて、よくわからないもの、難しそうなもの、感覚的に嫌だなと思うものを受ける様にしています。

ありがたいことに執筆やワークショップの依頼は方々からあって、時間がとれればいくらでも書けるし、やれるし、恐らくそうした方が経済的な状況も向上するのだけれども、でも僕の本業はあくまでもコンサルタントであって物書きやファシリテーションは本業を支援する為の位置づけでしかないと思っています。

コンサルタントとして、あくまで顧客企業の臨床をしながら個人・個社・社会の三者に同時に関わり続けることができないかという、壮大な野望があって、それを実験しているというのがここ数年の状況なんです。

それなりに、いい線行っているとは思うんですけどね。まだまだ自分が思う水準に届いていないので、これから二〜三年でどこまで自分の中のイメージに近づけられるか。

勝負だと思っているので見ていて下さい。

抵抗や非難は「賞賛」の裏返し

リーダーシップを発揮して前向きに行動したり発言し始めると、時に思わぬ抵抗や厳しい非難を受けることがある。こういった抵抗や非難を受けて意気消沈し、それまでの自分の行動や発言を押さえこんでしまう人が多いのは実にもったいない。

強い抵抗や避難というのは、常に「賞賛の裏返し」という側面がある。

なぜ彼らは君の行動や発言を攻撃するのだろうか?簡単なことだ。君が彼らの「痛いところ」をついているからだ。戦争を考えてみればいい。誰も「どうでもいい要塞」への攻撃には反撃してこない。拠点としての重要性が高ければ高いほど、攻撃に対する抵抗も強くなる。人間も同じだ。強い抵抗を受けるということは、君が彼らの急所をついているということに他ならない。意味のない活動だと思えば人は抵抗も反論もしない。「意味がない」と反論してくるのであれば、それはまさに「意味がある」ことの証左だ。彼らは反論という行為を通じて君の行動の「スジの良さ」を賞賛しているんだ。彼らはそれを暗に示してしまっていることに気が付いていない。この情報格差は是非とも活用すべきだ。

科学と宗教のコンフリクトがもっとも高まったのはルネサンスの後期、16世紀末の時期だ。このとき、死体解剖にもとづいて「人体構造」を著したヴェサリウスは宗教裁判にかけられ、実験を通じて血液循環の原理を発見したセルヴェトゥスはカルヴァンによって火刑に処された。地動説を証明したイタリアのガリレイが宗教裁判で自説を屈服させられたのは君たちも知っているだろう。科学の有効性、合理性、納得性がいよいよ高まってきたときにこそ、宗教側の科学否定の態度はいよいよヒステリーといっていいレベルにまで強まったことを思い出してほしい。

抵抗や非難が多ければ多いほど、それは「痛いとこを突いている」ということの証左に他ならない。敵は崩壊寸前。突破は目前だ。抵抗や非難をなぎ倒して壁を突き抜けてほしい。

「一番先に話した人」がリーダーになる

講演会などの最後に「では質問は?」と投げかけると、しばしの沈黙が続くことがある。実にもったいないなあ、と思う。

集団が形成されると、誰にそう言われたわけでもないのに自然にリーダー格になっていく人がいる。そういう人にはどんな特徴があるのか、これまでに多くの研究がなされてきた。いわば「リーダー資質」といったものがあるのか、という問題だ。皆から自然とリーダーとされる人には、なにか共通の特徴があるのか?背の高さ?知能指数?学歴?ルックス?育ち?いいや、みんな否定された。

結局わかったのは「一番先に話し始めた人」だということ。

集団が形成されて、その中で一番先に話し始めた人が、リーダー格になっていくのだ。一番先に話した人のことを周囲の人は、より知的で、エネルギーに溢れ、人格に優れていると考える傾向がある。人の認識の歪みをバイアスという。一番先に話し始めた人に対して人はポジティブなバイアスを持つのである。

この性質を利用しない手はない。

君は、「なにか質問はありますか?」と言われて、なんとなく聞きたいことがあるのにモジモジと他の人が最初の質問をするのを、まさか待っていたりしないだろうか。それはみすみす他者に対する影響力を手にする機会を逃しているということだ。

やらなければならないのは、聞きたいことなどないのに何をさておいても一番先に質問する、ということだ。別に質問の中身はどうでもいい。とにかく、集団のなかに身を置いたら「一番先に話し始めた人」になることを心がけよう。