審美眼で戦略ストーリーを見抜く!?

こう言うとのっけから自慢しているみたいに思われるかも知れませんが、コンサルタントになってから十年以上のあいだ、コンペなるものにほとんど負けたことがありません。年間でおそらく平均して五〜十件のコンペをやっていますが、だいたい8〜9割くらいの勝率をずっと維持しています。

で、まあそんなもんなのかな、と思っていたのですが、先日これを他ファームの人に話したところ「エエエ!?」とか「マジで!」とか「値引きし過ぎ」とか「負けたの忘れとるダケや」とかと、しばし盛り上がったあとでシンミリと「コンペに勝つコツってなんなんですかね」という議論になり、ハタと困惑してしまったんですよね。なぜかというと「なぜ勝てるのか?負ける時は何がダメなのか?」自分でもよくわからないからです。

例えばこう考えてみるとイメージしやすいかもしれません。プロ野球選手になって十年。それなりの成績を記録しているとして、その理由が自分でわからない、という状況です。なんとなく「いい感じ」でバットを振ったら、ボールが勝手にバットに当たってスタンドに飛んでいく。そんな感じで毎年記録が残っていたら、来年も同じことが出来るだろうかと不安で不安でしょうがないのではないでしょうか。

確実に言えることは、勝てる時は「間違いなく勝てる」という確信があるし、負ける時は「なんとなくしっくりこない」と自分でも思っている時が多いんですよね。そんなモヤモヤのなかでフッと思い出したのが

ソマティックマーカー仮説

のことです。

ソニーがクオリアをテーマにいろいろと仕掛けていたころに当時の社長だった出井さんがいろんなところで言及していた言葉なので覚えている方もいらっしゃるかも知れません。

何をいまさら、という感じですが、先日改めてダマジオのこの本を読み直していて、


もしかしたら、コンペに勝つのも負けるもソマティックマーカーに左右されているのかも知れない、と思ったわけです。

ソマティックマーカー仮説というのは、端的にいえば、人間は意思決定をする際に理性だけでなく情動に頼っていて、だからこそ正しい意思決定を素早くすることが可能になるのではないかという考え方です。

脳科学者のダマジオは、脳の前頭前野が破壊された患者が、感受性を失うと同時に、論理的な思考力や言語力といった脳の他の機能が高度に保全されているにも関わらず、社会的な意思決定の能力もまた同時に失ってしまうという症例を数多く検証し、我々が理性によってなしうると考えている高度に複雑な意思決定が、実は大きく感受性に依存しているのではないかという仮説をもったわけです。

ダマジオのこの本には、音楽好きだったエグゼクティブが脳腫瘍に冒された結果、音楽に何の関心も持てなくなってしまったと同時に、論理能力や言語能力が高いレベルで保全されているにも関わらず、仕事上の意思決定がまったく出来なくなってしまったという症例が報告されています。

高度に複雑な問題について意思決定する際、我々は、我々が思うほどにモノゴトを理屈で考えているわけではないのかも知れない。

この仮説にあらためて触れたとき、自分がコンペに提出する提案書を、学生時代に書いていたオーケストラのスコアと同じ心性で眺めて、全体的にセンスがいいかわるいか、ピンと来るか来ないかで判断していて、フィーリングが前者であればまず間違いなくコンペに勝てると判断しているということに気づいたんですよね。

つまり、提案書のストーリーを、音楽の旋律と同じ様に「美しいか」「美しくないか」で判断していて、それがもしかしたら最も正確な判断基準なのかも知れない、ということです。

これはダマジオではなく別の研究者の研究ですが、僕たちがマザーテレサやキング牧師といった人たちのエピソードを聞いたときに感じる独特の感情は、脳の眼窩前頭野の活動によることがわかっています。そしてこの眼窩前頭野というのは、美しい絵や美しい音楽を体験したときに働く箇所なんですよね。

少し乱暴な言い方ですが、こういった一連の事実は、我々の脳が、社会的にも道徳的にも商業的にも芸術的にも「善なるもの」「正しいもの」について、同じ様な反応を示すのではないかということを示唆しています。

現代社会において生を営んでいる我々は、論理思考やクリティカルシンキングといった浅い技術では解けないような高度に複雑な問題を抱えて日々を生きています。こういった複雑怪奇な問題を解くためには、もしかしたらデカルト的な要素分解の技術を学ぶよりも、究極的統合、つまり「審美的感性」を鍛えるということが実はもっとも有効なのかも知れません。

あくまで仮説なんですけどね。

でもここまで考えて、自分の美意識にもとづいてモノゴトを決めていたら、そうそうおかしなことにはならないんだな、と思って安心できたので備忘録としてここに記しておきます。

ではでは。


専門家+素人の組み合わせが最強?

D・ワイスベルクが2008年に発表した実験結果がとても面白い。

ワイスベルクは、脳科学の素人、脳科学の初心者(学部生)、脳科学の専門家(修了生)の三つのグループに対して、次の組み合わせの四つの説明文を読ませて説得力を評価させた。

           A=正しい説明文
           B=正しい説明文+説明と関係ない脳科学の情報
           C=誤った説明文
           D=誤った説明文+説明と関係ない脳科学の情報

さて、各グループはこれらの説明文をどのように評価したか。

まず素人は、脳科学の情報があってもなくても正しい説明文、つまりAおよびBを「正しい」と評価している。おお、ヤルじゃん。一方で、誤った説明文については、誤った説明文=Cを「誤っている」と評価したものの、脳科学の説明が付加された誤った説明文=Dについては「Cより説得力がある」と評価している。

つまり○△×で評価すれば、素人の評価は

                 A=○
                 B=○
                 C=×
                 D=△

であった。う〜ん、惜しい。

次に脳科学の専門家はどうであったか。さすがというべきか、彼らは関連しない脳科学情報に惑わされることなく、正しい説明文を最も説得力があると評価し、脳科学の情報が付加された文章は逆に「少し説得力がおちる」と評価している。うむ。さらに、誤った説明文については、脳科学の情報があろうとなかろうと「誤っている」という評価を下している。つまり、専門家の評価は

                 A=○
                 B=△
                 C=×
                 D=×

で、つまりは正解ということになる。

さて最後に初心者である。彼らはなんと、正しい説明文については評価せず、関連しない脳科学の説明が付加された説明文=Bをもっとも説得力があると評価した。一方で、誤った説明文についてはこれを一蹴したものの、ここでもやはり脳科学の説明文が付加された説明文=Dには「一定の説得力はある」と評価している。つまり、初心者の評価は

                 A=△
                 B=○
                 C=×
                 D=△

となるわけで、言うまでもなく三グループのなかで最低の解答である。

この実験結果は、モノゴトのありようを正確に見抜くに当たって、半可通の知識はかえって目を曇らせる要因になりかねない、ということを示唆しているように思える。組織で一番欲しいのは本当の専門家と本当の素人であって、中途半端な半可通ばっかりは危険なのだ。

僕はよくいろいろなところで「イノベーションは素人が起こす」と言っているけど、最近になって、この「素人」の定義がかなり拡大解釈される傾向があることに気づいた。平たく言えば、単なる「初心者」と「素人」を読み替えているケースがあるということなんだが、これはまったくの誤解で、僕がこの文脈で言っている「素人」というのは、いわば「プロの素人」とでもいうべきものであって、まっさらの曇りのないレンズで物事を透徹に見極めるコンピテンシーを持った人物のことなんだよね。

こういう人と本物の専門家が一緒に組むことで初めてイノベーションは成立するわけであって、中途半端な「初心者」をそろえても決してイノベーションは駆動されないよ、ということをワイスベルクの実験結果は示唆してくれているように思うのです。

あなたの会社、大丈夫ですか?

中途半端な仕事を数年〜十数年やった中途半端な半可通がドヤ顔で偉そうなことを新入社員や中途入社に語ってる組織は要注意ですよ。



「アメニモマケズ」への違和感

大好きな宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を知ったのはおそらく小学校の高学年のころでしょうか。以来四十年弱、いつもこの歌を聞くたびに抱いていた微妙な違和感の正体が、ちかごろようやくわかってきたように思うので備忘録として。

ちなみに全文をあげると、


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雨ニモマケズ

風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
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なのですが、子供のときからいつも「ウッ」と引っかかるのが、


ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ


というところなのです。


なぜここに引っかかるのか、あらためて考えてみれば理由は実に単純で、


ナミダヲナガシ ても問題は解決しない。
オロオロアルキ でも問題は解決しない。


ということに気付いたわけです。


要するに「とにかく何とかする、何とか解決してみせる」という気概と根性を放棄している様に思えるんですよね。涙を流したりオロオロ歩いたりしているヒマがあれば原因を究明して対策を打つ為の努力をしろよ、と。


ふう。


いまの世界は問題だらけですよね。でもそれらの問題は涙を流してもオロオロ歩いても解決しません。太平洋戦争直後に出版され、迷える多くの若者たちにとって人生の指針となった吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」のなかに次の様な文章があります。


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人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的気迫を欠いた善良さも同じように空しいことが多い。
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 無力な立場にあって「善良さ」の重要性を訴えるのは安易を通り越して恐ろしいとさえ感じる。原発の廃絶やネット右翼への非難をフェースブックやツイッターで訴えて「イイね!」を集めても世界には何の変化も起こらない。
本当に難しいのは、それを実際に成し遂げる為の権力やパワーを得て現実的にコトを起こすということでしょう。葛藤を背負わない日だまりのような場所から世界平和の重要性を説くようなイージーな人々に世界は覆われつつあるけれども、そういった言葉が世界を動かしたことは歴史上ただの一度もないということを我々は忘れてはならないと思う。

世界は常に、泥をかぶりながら理想を追い求めて粘り強く行動し続けた人によって革新されてきたわけで、おろおろ歩いたり涙を流したりした人は結局のところ何も成し遂げられなかったのです。


でもこの歌、ほんと好きなんですけどね。

一部だけ改変しちゃおうかな。