ジョン・フォン・ノイマンの名前は、もちろん知っているよね。コンピューターのパパだ。ちなみにこれが「パーソナルコンピューターのパパ」ということになると、おそらく一般的にはアラン・ケイ、あるいはスティーブ・ウォズニアックということになるのかな。あんなのはオレの子じゃないって!?おいおい、なんてこと言うんだと言いたいけど、いまの状況を見てれば気持ちはわかるよって、まあいいか。両者を知らないという人はおそらくこのブログの読者にはいないだろうと思うので判断は皆さんに任せてそのまま話を続けよう。
正式(とはいえカタカナだけど)にはジョン・フォン・ノイマンという名前の男には一つの夢があった。1954年当時、世界で最大最新のコンピューターを披露する席において、ノイマンは「コンピューターによって、近い将来に明日どころか一ヶ月先の天気さえも正確に予測できるようになるだろう」と語ったんだね。これが彼の夢だったらしい。ずいぶんくだらないことを夢見たものだなあと思うけど、まあ人それぞれだ。とまれ、世界で一番アタマがいいと言われる男のこの発言に世界は色めき立った。うおお、これからは、夏休みをいつ取ればいいかもコンピューターが教えてくれるらしい、と。
さて、それから半世紀以上がたち、コンピューターはムーアの法則に従って、おそらくノイマン自身も予測できなかったほどの天文学的な計算能力を持つに至った。ところがどうしたことか。コンピューターによる天気予報の能力は、ど根性ガエルのそれとどっこいどっこいの水準にいまだに留まっている。
一体何が問題なのか?数学的に言えば、答えはカオスということになる。そしてさらに、歴史の皮肉はこのカオスを指摘したのが数学者ではなく、気象学者だったということかもしれない。その人、エドワード・ローレンツはとても美しい方程式を導いて、僕らに「天気を当てるなんていうのは不可能なんだよね、やめとき」ということを証明してみせた。
http://en.wikipedia.org/wiki/Butterfly_effect
イノベーションは素人が起こす、というのは僕がつねづね言っていることだけど、これもその証左かも知れない。
天気と同じくらいにビジネスも関数が多いと思うんですけどね。天気予報とどれくらい精度が違うか、一度誰か試してみたらいいと思うんだけど。
本当に恐ろしいのは独裁者ではなく大衆という・・・
昨晩は自由が丘の「金田」でまた一人酒を楽しみながら読書をしてきた。読んでいたのはカーマイケルの『キリストはなぜ殺されたか』だったのだけれど、改めて、本当に恐ろしいのは独裁者ではなく、大衆であり、自分なのかもな、と思った次第。
これは聖書を読んでも、ナチス史を読んでみても同じなのだけれど、本当に残酷なのは独裁者ではなく、大衆なんだなということを思い知らされる。新約聖書福音書を読めば、連行されたイエスを尋問したピラトは、なんとかしてイエスを無罪放免しようとして交渉をに苦渋しているのが伝わってくる。
結局、ピラトの度重なる「この人に罪を見いだせないが、本当にいいのか?」という問いかけに対して、理不尽なまでに「死刑を!死刑を!」と叫び続けたのは、ごく普通の大衆、つまり僕や君と同じような人々である。
ホロコーストの話を聞けば、多くの人は「よくそんなに残酷なことが出来たな」という感じ方をするが、この感じ方は危ないと思う。そうではなく、クリスマスにはプレゼントを交換し、友達と口論しては傷ついているごく普通の人たちが、あのような行為を平然とやれるということは、自分もまたそうなる可能性もあるということに慄然と恐怖しなければいけない。歴史を学ぶってそういうことなんだよな、と三つ目の徳利を開けたところで納得。
これは聖書を読んでも、ナチス史を読んでみても同じなのだけれど、本当に残酷なのは独裁者ではなく、大衆なんだなということを思い知らされる。新約聖書福音書を読めば、連行されたイエスを尋問したピラトは、なんとかしてイエスを無罪放免しようとして交渉をに苦渋しているのが伝わってくる。
結局、ピラトの度重なる「この人に罪を見いだせないが、本当にいいのか?」という問いかけに対して、理不尽なまでに「死刑を!死刑を!」と叫び続けたのは、ごく普通の大衆、つまり僕や君と同じような人々である。
ホロコーストの話を聞けば、多くの人は「よくそんなに残酷なことが出来たな」という感じ方をするが、この感じ方は危ないと思う。そうではなく、クリスマスにはプレゼントを交換し、友達と口論しては傷ついているごく普通の人たちが、あのような行為を平然とやれるということは、自分もまたそうなる可能性もあるということに慄然と恐怖しなければいけない。歴史を学ぶってそういうことなんだよな、と三つ目の徳利を開けたところで納得。
「真似る」と「学ぶ」
高橋悠治:
それはね、あの人は武満トーンと言われるような独特のカラーを持っている反面、すごくほかの影響を受けやすい人なんだよ。
谷川俊太郎:
そうだね。
高橋悠治:
だから、たとえば篠田さんの『乾いた花』という映画の音楽を彼といっしょにやったときに、僕がタイトルバックの音楽を書いたわけ。そのときに、偶然性の記譜法を使った。すると彼はそれをすぐに取り入れて、そしてもっとうまくやるわけだよ。だから、こういうのはやっぱり危険だという気がした。
谷川俊太郎:
なるほどね。
高橋悠治:
それから、彼に、「世界がいかに在るかではなく、それが在るということこそが不思議だ」というヴィットゲンシュタインの言葉による曲《スタンザⅠ》があるね。ヴィットゲンシュタインというのは、僕がニューヨークにいて、彼が遊びにきたときに、ちょうど僕はその本を読んでいて彼に教えたわけ。そうしたら、すぐ曲になってしまった。でもストラヴィンスキーが言っているね、「いい作曲家は盗む、悪い作曲家は真似する」と。結局こういう違いだよね。そもそも伝統の修業というのはそういうことでしょう。「芸を盗む」と言うんだからね。それで、彼は何を取り入れてきてもきれいにできちゃうんだよね。だから、わりとすぐに受け入れられるでしょう。僕はそれはちょっと問題があるという気がずっとしてた。彼はいつも対位法の勉強をしたいなとか、次の曲では変わりたいとか言っていた。
谷川俊太郎:
しょっちゅう言ってたね。
高橋悠治:
ちょっちゅう言っているんだけど・・・・
谷川俊太郎:
変わらなかった?
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