「見る力」を鍛える・・・VTSによる幹部候補研修

先日、懇意にしているある化粧品会社の会長から直々に頼まれて、幹部候補生のVTSを箱根のミュージアムでやってきました。

VTSって、聞いたことありますか?Visual Thinking Strategyを略してVTSと云うことなのですけど、これだけ聞いてもよくわからないですよね。

いろんな人がいろんな定義をしているのですが、今のところ、ほぼコンセンサスになっている定義を平たく言えば、ビジュアルアートを用いたワークショップによる鑑賞力教育、と云うことになるでしょうか。

欧米の美術館では比較的メジャーな教育プログラムですが、最近、このメソッドをビジネスマンの教育にも使えないかという議論がいろんなところでされていて、僕が今回依頼されたのも、そういう文脈があってこその話だったと思います。

VTSのセッションでは、通常の美術教育において行われるような、作者や作品に関する情報提供は、ほとんど行われません。そのかわりに、セッションへの参加者には、徹底的に作品を「見て、感じて、言葉にする」ことが求められます。ファシリーテータがやるのは、この「見て、感じて、言葉にする」ということの後押しだけです。

具体的には、次のような質問をして、参加者に発言を促していきます。

1:何が描かれていますか?
2:絵の中で何が起きていて、これから何が起こるのでしょうか?
3:どのような感情や感覚を受けますか?

大の大人に対して、1の質問をすると、最初は、あまりにも自明のことを云うことに対して戸惑っているのがよくわかるのですが、だんだんと画面のディテイルについての発言が増えてくると、発言に対して他の参加者から「へえええ、よく気づいたね・・・確かに描かれているね」とか「あれ、僕は違うものが描かれていると思ったんだけど・・・」といった意見が出てきます。

ここらへんは、ファシリテーターの技量にもよって、どんな発言でも許される、何を言ってもみんながポジティブに受け止めてくれる、という雰囲気を最初の5分で作れるかどうかが鍵になります。

今回のセッションではルノアールの作品を用いましたが、作品選びも重要な成功要件の一つだと思います。誰がどう見ても同じ解釈しか成立しないような作品・・・まあそういう作品は傑作と呼ばれるものの中には少ないですが、そういう作品を選んでしまうと解釈やストーリーが収斂してしまって、対話を通じて解釈の多様性が生まれるという醍醐味をなかなか感じられない可能性があります。

たとえばカラバッジオの「聖マタイの召命」なんていうのは、いい題材なんじゃないかと思います。ここはどこか?それぞれはどんな人なのか?これから何が起きるのか?ということについて、適度な多様性が生まれるんじゃないかと思うんですよね。


一方で、あまりにもシュールでストーリーが発散しまくってしまうような作品。例えばキリコの作品とか・・・


あるいは逆に、生物画でストーリーのつけようがないセザンヌの作品とか・・・


こういった作品について、「なんでもいいから感じたことを話して」って言われたって、美術鑑賞に相当慣れていないと、これは難しいよねえ。

今回のVTSでは、参加者の方は基本的に美術のリテラシーはほとんどないと聞いていたので、会長から「セザンヌで」とお願いされたのを断り、比較的絵の世界に入りやすいルノアールを選びました。自画自賛するようで少し恥ずかしいのですが、この選択がワークショップ成功の最大のカギだったと思っています。作品選びに成功すれば、美術鑑賞を全くしていない人であっても、30〜60分は対話し続けることができます。

そして、一つの作品について、たっぷり30〜60分程度をかけて対話をし続けると、最初に絵や写真をパッと見た時に受けた、ステレオタイプな解釈とは全く違った絵が目の前に立ち現れてくることを実感することになります。ソクラテスが言うところの「無知の知」ではありませんが、「見えていなことが見える」ようになるわけです。

で、これがなぜビジネスマンにとって有効かというと、ビジネスマンこそ、ステレオタイプなモノの見方に支配されることのデメリットが大きい。ゆえに、ビジネスマンこそ、意識的に虚心坦懐に「見る」というスキルを持つことが大事だから、というのが僕の意見になります。

専門家として能力を高めていくというプロセスは、パターン認識力を高めていくということに他なりません。パターンというのは「過去にあったアレ」と同じだと見抜くということです。そうすることによって、毎回毎回ゼロから答えを作っていくというような非効率なことはやらずに、過去において有効だった解を転用できるようになるわけです。ところが、困ったことに、過去のパターンは永久には持続せず、どこかで突然変異が起こります。ブラックスワンが生まれるわけです。するとどうなるか?

歴史が教えるところは非常に単純で、我々はブラックスワンを見ても、それが「黒い」とは認識しようとせず、それが「白い」のだと自分に言い聞かせるようにします。社会心理学の用語には「Willful Blindness=意識的な盲目」という言葉がありますが、まあそういうことですね。いずれは津波が来る、とわかっているのに、自分が生きているうちは来ないと考えて、過去に何度も津波にさらわれているような土地に住むことができる、というのは、このWilful Blindenssのおかげです。

子供と異なり、大人は目に入ってくるものを基本的に意味付けして解釈します。目に入ってくる、といわれれば、それは「見る」ということだと思われるかもしれませんが、本当の意味で、僕らが「見る」ということは非常に難しいことなんです。え、よくわからない?

じゃあ、次の二つの言葉を「見て」ください。その上で、二つの言葉に共通しているところを挙げてみてください。

エジソン
実験エ房

ちなみにうちの5歳の娘は一秒で答えを指摘しましたが、どうでしょうか?

そう、気づいた方もいらっしゃると思いますが、エジソンの「エ」と、実験工房の「エ」は、全く同じ字なんです。実に単純な記号ですから、純粋に「見る」ことに徹すれば、二つの文字がビジュアル的には全く同じものあることに気づくはずです。

実際に、幼稚園児に「二つの言葉の中に同じものがあるかな?」と聞くと、すぐに「エ」を上げてきます。なぜ彼らにそれができるかというと「読む」ということができないからです。彼らには「読む」ことはできない、純粋に「見る」ことしかできないんです。

一方で、大人はその逆になる。大人はどうしても読んでしまう。読んでしまうというのはパターン認識するということです。パターン認識しているからこそ、個々人で異なる手書き文字であっても我々は「同じ字」として読むことができる。この高度なパターン認識能力が、本当の意味で「見る」という能力をものすごくスポイルしているんです。

そして今、我々が直面している状況の多くは、過去の問題解決において有効だった手段が必ずしも使えない状況、パターン認識力の高さが、そのまま問題解決の能力に繋がらない状況です。このような状況において、まず必要なのは、何が起きているのかを虚心坦懐に「見る」ということだと思うんです。そういう、純粋に「見る」という能力を高めるためには、VTSのセッションはとても有効だと思いました。

最後に、こういうことは僕が言うまでもなく、もうすでにずっと昔からいろんなところで言われているんですよね。例えば小林秀雄の『美を求める心』にある一節を最後に挙げておきましょうか。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。

小林秀雄『美を求める心』より








「一万時間の法則」に感じる違和感

なんだか最近「違和感」をタイトルにしたポストが続いていて、ネガティブな印象を持つかも知れませんが、ご勘弁を。

一万時間の法則、という言葉は聞いたことがあると思います。平たく言えば、モノゴトの巧拙は才能ではなく、単純に訓練のために費やした累積時間の関数に過ぎない、という仮説です。そもそもこれ、「法則」って言ってるから誤解を招くんですよね。法則なんてものは自然科学も社会科学もひっくるめて全て仮説ですからね。ええ?納得できない!?という方はカール・ポパーを読んでみてください。

で、この「一万時間の法則」と言われる仮説に、昔から激しい違和感を覚えているのですよ。その違和感の元は大きく二つあって、まず一つは、この法則を導き出すにあたって集計された統計データのサンプルです。

この「一万時間の法則」を導き出すにあたって、研究者が対象とした集団はバイオリニストでした。世界的なバイオリニストとまあまあのバイオリニストとただのアマチュアレベルを比較した結果、他のあらゆる因子よりも、演奏パフォーマンスの差を説明する変数として「累積練習時間」が強力だった、とまあそういうわけなんですね。

でですね、非常に違和感を覚えるのが、バイオリニストを芸術家として疑いなく扱っているという点なんです。これは、僕の個人的な意見というよりも、あまり表立っては言わないけれども、みんな音楽関係者は思っていることなんですけれども、演奏者とクリエイターは、全く別の仕事なんですよね。

もっと分かりやすい言い方をすれば、バイオリニストは芸術家ではなく単なる職人であって、本当の意味で芸術家と言えるのは音楽の世界では作曲家しかいない、ということです。記憶が正しければピエール・ブーレーズも同じことを『ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書』のなかで言っていますね。作曲と指揮の両面で活躍したブーレーズならではの指摘ですが、あるいは高校生のときに読んだんでもしかしたら勘違いかも知れません。

さらに言えば、この作曲という行為に関しては、才能のある奴は最初からいい曲を作るし、才能がない奴にいくら訓練してもいい曲は作れない・・・というか、「訓練」という概念にそもそも問題があって、バイオリンのような器楽だと、例えばひたすらスケール繰り返すとかパッセージを繰り返すとか、そういう「訓練」があるわけですけど、作曲の場合、そもそも「訓練」というものがないんですよ。音大の作曲科に入るぐらいのレベルに達するまでは、ある程度機械的なトレーニングがありますけど、そのあとはせいぜい名曲の研究・・・アナリーゼと言いますけど、それくらいしかないんですよね。

僕は楽器演奏についても作曲についても、両方とも相当量のトレーニングを受けたので、これを実感値として感じるんです。楽器演奏の巧拙は、確かに練習時間の関数です。それは間違いがない。これは受験勉強と同じで、上に行く奴は「やってる」んですよ。ところが作曲は全くそうではない、と思うのです。

これが二つ目の違和感の理由なんですけど、作曲家に関していえば、累積練習時間のテーゼは破綻していて、デビュー当初から圧倒的な名曲を書く奴、それは松任谷由美とかポール・マッカートニーとか、そういうのがいるんです。それは本当に、もう残酷なくらい明らかだと思うんです。みなさん「ひこうき雲」は松任谷由美(荒井由美」のデビューアルバムの曲ですよ。

で、ここまで考えてくると、ビジネス・・・なかんずく僕たちの多くが関わっているホワイトカラーの事務職・企画職というのはどっちに近いのかというと、これはもう明らかに楽器演奏のようなフィジカルな行為よりも、作曲のような知的作業に近いわけです。そういうマジョリティに対して、バイオリン演奏のようなフィジカルトレーニングの結果を持ち出して、「才能ではない、努力だ」と叱咤するのは、とてもミスリーディングなことであって、多くの「さっさと他の仕事に移った方が良い」人を、無駄にその領域にとどまらせて努力させる結果になるんじゃないかと思っているんです。

向いていない仕事を一万時間やったって、やっぱり一流にはなれない、ということを理解する方が、世の中全般には良いんじゃないかと思うんですけどね・・・どうなんでしょうか。


宮沢賢治の「アメニモマケズ」におぼえる違和感

大好きな宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を知ったのはおそらく小学校の高学年のころでしょうか。以来四十年弱、いつもこの歌を聞くたびに抱いていた微妙な違和感の正体が、ちかごろようやくわかってきたように思うので備忘録として。

ちなみに全文をあげると、

===================
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
====================

なのですが、子供のときからいつも「ウッ」と引っかかるのが、

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

というところなのです。

なぜここに引っかかるのか、あらためて考えてみれば理由は実に単純で、

ナミダヲナガシ ても問題は解決しない。
オロオロアルキ でも問題は解決しない。

ということに気付いたわけです。

要するに「とにかく何とかする、何とか解決してみせる」という気概と根性を放棄している様に思えるんですよね。涙を流したりオロオロ歩いたりしているヒマがあれば原因を究明して対策を打つ為の努力をしろよ、と。

ふう。

いまの世界は問題だらけですよね。でもそれらの問題は涙を流してもオロオロ歩いても解決しません。太平洋戦争直後に出版され、迷える多くの若者たちにとって人生の指針となった吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」のなかに次の様な文章があります。

=================
人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的気迫を欠いた善良さも同じように空しいことが多い。
=================

 無力な立場にあって「善良さ」の重要性を訴えるのは安易を通り越して恐ろしいとさえ感じます。イスラム国の問題についてさもしたり顔で「戦うより対話が必要」と説教を垂れるテレビのコメンテータにおぼえる違和感。原発の廃絶やネット右翼への非難をフェースブックやツイッターで訴えて「イイね!」を集めても世界には何の変化も起こらないでしょう。

本当に難しいのは、それを実際に成し遂げる為の権力やパワーを得て現実的にコトを起こすということでしょう。葛藤を背負わない日だまりのような場所から世界平和の重要性を説くような安易で平和ボケした人々に世界は覆われつつあるけれども、そういった言葉が世界を動かしたことは歴史上ない、本当にただの一度もないのだということを我々は忘れてはならないと思うのです。

世界は常に、泥をかぶりながら理想を追い求めて粘り強く行動し続けた人によって革新されてきたわけで、おろおろ歩いたり涙を流したりした人は結局のところ何も成し遂げられなかったのです。

でもこの歌、ほんと好きなんですけどね。
一部だけ改変しちゃおうかな。

歴史の大勘違い

小林:君は彼(ポール・ヴァレリー)のパラドックスを持ち出していたな。作者が作品を作るんじゃなくて、作品というものが作者を生むのだ、という考え。君は、あれをそのまま歴史に当てはめていた。人間が歴史を作るんじゃなくて、歴史の方が、人間を作っているんだ、と。僕は全く同感なんだが、このパラドックスが生きている所以を感じるものは感じるが、感じないものにわからせるのはむつかしい。

河上:歴史というのは、人間のそばに流れているもので、これは人間に作れるようなものじゃない・・・

小林:人間のそばに流れている、悠々たる大河・・・

河上:うん。だけど、僕がさしあたり言いたいのはもっと鄙俗なことなんだ。近頃の歴史小説はつまらない、ということを言っているんだよ。つまり、人間が、歴史作家が、歴史を作れると思い上がったところがある。つまらない風潮だ・・・・ということをいっているんだ。それが一番言いたいことだよ。

小林:それで、とういう風につまらなくなるものかね?

河上:作り物になっちゃう。勝手に歴史を創作してるんだよ、みんな。・・・そんなものじゃないんだよ、歴史って怖いもんだ。人間のそばに悠々と流れてはいるが、それで必ずしも歴史が人間をつくるとも言えないんだ。人間と関係なく生きている。だから、こうも言える。歴史は美しくない・・・これはまた逆説だけれどもね、作品は完結しなければならないが、歴史には完結がないから。

小林:なるほど。それもパラドックスにちがいない。・・・作品の完結性なり完璧性なりを仮定しないで、作品鑑賞という行為はないからな。しかし、歴史は違う。ところで、現行の歴史小説に見られる奇妙な大勢的傾向は、歴史について、そういう作品鑑賞の行為を平気で行ってそれに気がつかないところにある、と君は言いたいんだな?

河上:うん、そうだ。ヴァレリーの逆説だが、つまり歴史というものは、そんなところに澱んでいるもんじゃないだ。別に流れているんだよ、人間とは別にね。怖いものだが、決して美しいものではない。それを歴史小説かは「美」に仕立てあげようとするんだよ。そして、成功したつもりでいるんだ。資料にはできるだけ忠実たることを心がけた、などと寝言みたいなことを行ってね。

小林秀雄X河上徹太郎「歴史について」より


「リベラルアーツを学びたい」という人へ

最近、よく「リベラルアーツを学びたいんですが、何から学んだらいいでしょうか?」という質問を受けます
で、このように質問されると返答にすごい困って仕舞うんですよね。
だいたいの場合は「何というか、まず、あなたが言うリベラルアーツって何を指してますか?哲学や歴史を指してるのなら哲学や歴史を学べばいいだけで、美術や音楽を指しているのならまた然り。ですからリベラルアーツを学びたいっていう時に、あなたが意味しているそのリベラルアーツの内容次第かと思いますけど・・・」と答えています。
で、そのように答えると「なんか違うんだよなあ・・・そういうんじゃなくてさ〜もっとこう・・・うーん、この人に聞いても無駄か」という表情をされて「ありがとうございました」と終わるケースが殆どです。
何だかなあ、と。やりとりかわかるのは、こういう人たちは「リベラルアーツとは何か」という像すらはっきり描けていない、何かそういう新しいテーマというかコンセプトが出てきて、それが流行りらしいと感じてこういう質問をしているわけです。要するにマーケティングとか財務とか、経営学の一分野みたいに功利的かつ実用的な学問としてリベラルアーツを考えているんです。
でもねえ、リベラルアーツってそんなものではないでしょ?
このブログを読んでいる人たちはそんなことは百も承知なので、こんなところでそれを独白しても愚痴以上のものではないんですけどね。あえて言えば「今すぐに役に立たないこと」は全てリベラルアーツになり得るんですよね。ロック?リベラルーアーツでしょ。義太夫?リベラルアーツだよねえ。風俗?もちろんリベラルアーツになるよ。登山?もちろんリベラルアーツの、それもハードコアだあね、と。
なんでもリベラルアーツになるんですよ。だからジャンルが問題なのではなく、態度の問題なんです。態度があれば風俗遊びだってリベラルアーツになるんです。そこを履き違えている人がものすごく多いんですよね。
結局、リベラルアーツを学びたければ、好きなことをおやりなさい、ということなんでしょうね。女遊びだってカサノバの域までやれば人間性の本質が透けて見える眼力を得て文学も哲学も自在でしょう。人から与えられたマニュアルなんかを読んでないで、好きなことを突き詰める。その先に「もののあはれ」が見えてくる。これがリベラルアーツの一番良い学び方だと思うんですよね。

日本で今後コンプラ違反が続出するだろうな、と思うその理由

新幹線のなかでボーッと考えたことをメモ代わりに。

国際的にはルールをよく守る国民性として知られる日本だけど、僕は個人的には今後、日本では企業によるコンプライアンス違反が続発して社会問題になる可能性があると思っています。

そう思う理由は大きく五つあります。

一つ目。宗教的な基盤を持っていないために、進退極まった際に判断の基準となるようなよって立つ倫理の枠組みがない。

二つ目。雇用の流動性が低くて転職しにくく、コンプライアンス違反を強要された際に「違反して人格を崩壊させるくらいなら倫理観にしたがって会社を辞める」という決断をしにくい。

三つ目。会社がアイデンティティを確認・保持するためのコミュニティ=ムラ社会になり、コミュニティの存続と自己実現が多くの人にとって同一化している。

四つ目。世間体を気にする見栄っ張りが多く、会社で出世して年収をあげること以外に生きがいを見つけられない人が多いために、出世を諦めてコンプラ違反を断るか、コンプラ違反にコミットして上司と運命共同体になるかを迫られると、多くの人が後者を選択してしまう。

五つ目。経営陣や管理職の質が低く、ワクワクするようなビジョンや戦略を示して人を牽引することはせず、目の前の数字の漸進的な改善に強い圧力をかけることでしか組織を牽引できないため、やがては実現が極めて難しい数値目標を組織に課してしまう。

1〜4は、以前からあった話なのですが、ここ最近コンプラ違反が増えてるのはやっぱり5の要因が大きいと思ってます。もともと潜在的にはコンプライアンス違反を犯しやすい特質があったんだけど、経済成長がその潜在的なリスクを封印していたんだろうと思います。フタが取れちゃったんですよ、為替も人口ボーナスもなくなっちゃったんで。

以前、倫理的にも許されない重大なコンプライアンス違反を犯した自動車会社のプロジェクトを担当したことがあったのですが、まあ無残としか言いようのない、人格を崩壊させてしまった人々の末路を見ました。

「ルールをよく守る国民性」という表面的なイメージと、「コンプラ違反を世界で最もやりやすい組織風土」というのは一見すると矛盾して見えるけど、実は根っこは同じなんですよね・・・要するに「周りから浮いてしまうのが嫌だ」というだけなんです。

山岸俊男先生は『安心社会から信頼社会』で、実は日本人が「他者への信頼」ということで調査してみると先進国ではダントツに低い数値であり、「治安の良さ」は倫理に根ざしているのではなく、「他者からの排除への恐れ」でしかないと指摘していますよね。こう言う社会で、無理な数値目標を押し付けて、しかも多くの人は逃げ場がない、となると何が起こるか・・・これから日本は大変なことが起こっていくと思います

会社を守って自分が壊れるんじゃ、意味ないよね。皆さん、くれぐれもご自愛ください。

葉山での生活 通勤について

葉山に暮らしはじめてほぼ二ヶ月ほどになります。長く暮らしてしまうと、おそらく最初に感じた印象も忘れてしまうと思うので、いま心に思い浮かぶことを備忘録として少しずつこれから書き残していきたいと思います。




まず、総論として思い浮かぶのは、他人が言うほど大変ではないな、ということです。おそらく多くの人は通勤のことを思い描いてそう言っているのだと思うのですが、以前に暮らしていた世田谷の深沢と比較して、うーん、確かに通勤時間は多少長くなったかも知れないけど、あんまりそれが大変だとは思わないんですよね。

どうしてなのかと考えてみたのですが、一つには「時間の質」があるのではないかと思っています。たとえば、深沢からオフィスまで、だいたい50分程度かかっていたと思うのですが、そのあいだはずっと立ちっぱなしで、かつ乗り換えも何度かあり、落ち着いて本を読んだり音楽を聴いたりということは難しい時間でした。要するに時間の逐次分散投入になっているわけです。本を読んだりメモを書いたりという知的作業には一定の臨界量が必要になります。つまり、ある程度のまとまった時間を投入しないと、効率が上がらないということですね。そういう意味では、乗り換えをしながらの通勤時間=50分という時間は、知的生産におけるインプット、あるいはアウトプットにも用いるのが難しい時間で、ただ単に無為に過ごすしかなかったわけです。

で、葉山に暮らし始めてどうかというと・・・

これが自動車通勤と電車通勤とでかなり時間が変わるのですが、まずは自動車通勤から話しましょうか。

驚かれることが多くて、逆に僕が驚くのですが、クルマで通勤すると葉山から新橋のオフィスまでは、だいたい正味で一時間ちょっとです。距離と時間って相関しないんですよ。ちなみに、僕の知人は軽井沢に住んでいて、そこからミッドタウンのオフィスまで毎日通っていますが、通勤時間は正確に1.5時間だそうです。距離と時間は相関しない。覚えておいてください。

で、話をもとにもどせば、葉山から新橋まで、運転しているあいだは、だいたい三つのことに時間を使っています。一つ目は放送大学の講義を聴く。先日はニーチェの『ツアラトゥストラ』に関する講義がとても面白く、オフィスについてもクルマを降りずに駐車場でずっと聞き入ってしまいました。放送大学のいいことは、無目的に新しい学びに出会う、ということだと思っています。いわゆるセレンディピティですね。科目によっては、あまりにも自分の理解の範疇を超えているなと思われるものもあるのですが、そういう場合でもじっと耳を傾けていると、いろいろな知的刺激が得られます。放送大学、お奨めデスよ。これが一つ目の時間の使い方。

二つ目は、オーディオブックを聴くことです。たとえば批評の神様と言われた小林秀雄さんには多くの講演録が残されているので、こういったものをずーっと聴いているととても刺激になります。いま聴いている講演録はじつは以前に活字で読んだことがあるものなんですが、これが実際に小林秀雄の肉声で聴いてみると、まったく受ける印象が違うんですよね。情報量が多いという、まあそういうことなんですけど、こんなにも厳しく、激しい人だったのかということが、音声だからこそ腹にしみこむようなところがあって、これは電車のなかで文庫読むのと全然違いじゃないか、と思ってます。

三つ目が英語の勉強かな。これは実にクダラナイというか、その日のBBCやEconomistのストリーミングや、あるいはTEDのPodCastを聴いています。殆どがつまらない内容ですけど、まあ外資系に務めてるんで仕方がありませんね。

以上の三つは、知的生産における「インプット」に該当するわけですが、では「アウトプット」はどうか、と。インプットをしていると当然ながら色々なアイデアが思い浮かぶわけですが、これを記憶していて後でメモに残しておこう、などと悠長なことを考えていると、ご想像の通り、そのアイデアは霞のように消えてしまいます。したがって、クルマを運転しながら、思いついたアイデアを都度記録していくインフラが必要になります。

では、どうしているのかというと、すいませんなんの工夫も無く、SIRIを用いてiPhoneのメモに音声で記録しています。変換精度のレベルはどの程度かというと、後で残った原稿を見てみて、「はて、これは一体なにを言おうとしたのだろうか」と思うレベルといえば伝わるでしょうか。率直に言って、職業作家が口述筆記をするための道具としては「使い物にならないな」というレベルです。とはいえ、通勤時間をつかいながら口述筆記で原稿を書いているというのも、「備忘録の備忘録」というか、なにかを書こうとしたらしい、という程度の備忘録にはなっているし、そもそも口述筆記というのはチャーチルのようでなかなかカッチョいいじゃないか、と思うわけで、まあ懲りずにやっています。

電車通勤の場合、時間は一気に1.5時間に増えます。葉山から逗子まで、バスで15分。逗子から新橋まで横須賀線で50分。新橋からオフィスまで15分。待ち時間等のバッファを加えると〆て1.5時間ということになります。で、これはよく知られていることですが、横須賀線は逗子駅で四つの車両を増車するので、一本くらい見送れば必ず坐れます。これはかつて田園都市線の通勤地獄を長いこと味わった僕にとってはとても有り難い。この1.5時間をなにに使っているかというと、1:本を読む、2:パソコンを開いてメールのチェックをする、3:音楽やオーディオブックを聴く、4:寝るのどれかということになります。ま、これはこれで生産的な時間ですよね。とくに、オフィスに着く前に一通りメールの返信が出来てしまうのがいい。一時間くらいって、丁度そういう作業にいい時間ですよね。

で、ツラツラと書いてきましたけど、最終的になにが言いたいかというと、多くの人は住む場所を考えるに当たって、通勤時間の「量」の問題だけを過剰に重視する一方で、「質」を軽視しすぎている、ということなんですよね。しょっちゅう乗り換えがあって、かつギュウギュウ詰めになる50分の通勤と、自分の好きなコンテンツを聴きながら自動車で通勤する1時間は、どっちが中長期的にROIが高いのか、ということを考えてみたらいいのではないかな、ということです。

では、また。

平等社会は地獄の世界か?

すでに確認したように同類の間には比較が必ず起き、格差が現れます。したがって下層に位置する人間は自らの劣等性を否認するために社会の不公平を糾弾する必要がある。すなわち平等主義イデオロギーは、個人主義的人間像が必然的に引き起こす自己防衛・正当化の反応です。平等を理想として掲げる民主主義社会の出現に際して、フランスの思想家トクヴィルは矛盾をするどく指摘しました。

同胞の一部が享受していた邪魔な特権を彼らは破壊した。しかしそのことによって、かえって万人の競争が現れる。地位を分け隔てる境界そのものが消失したのではない。単に境界の形式が変化したにすぎない。不平等が社会の常識になっている時には、最も著しい不平等にも人は気づかない。それに対して、すべての人々がほとんど平等になると、どんな小さな不平等であっても人の気持ちを傷つけずにはおけない。だからこそ平等が増大するにしたがって、より平等な状態への願望は常にいっそう癒しがたいものになり、より大きな不満が募ってくる。(Anderson, 1999, p.305)

同期入社した同僚に比べて自分の地位が低かったり、給料が少なかったりしても、それが意地悪な上司の不当な評価のせいならば、自尊心は保たれる。格差の基準が正当ではないと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないですむ。平等が確定された正しい社会ほど恐ろしいものはありません。社会秩序の原理が完全に透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。

小坂井敏晶『社会心理学講義』p215-216


人の世の切なさは相も変わらず


カナダの作曲家Robert Farnonの隠れた名曲『I Loved You』を、知る人ぞ知る名アレンジャー、クラウス・オガーマンがアレンジし、それをアカペラシンガーのユニットとして名を馳せるSingers Unlimitedが歌ったものです。どうですか、美しいでしょう?

クラウス・オガーマンという名前を聴いて「ああ、彼か」とわかる人はかなりの音楽マニアでしょう。ジョージ・ベンソンの『ブリージン』あるいはビル・エバンスの『ビル・エバンス・トリオ・ウィズ・オーケストラ』でオーケストラアレンジをやった人と言えば、イメージが湧きますかね。

そう、あの独特の浮遊感、機能和声から遊離してずっと解決しない和声進行が続くストリングアレンジの、あの人です。楽譜見てみるとちゃんとドミナントも使ってるんで、フランス印象派なんかの和声、それは例えばサティなんかが典型ですけれども、ああいうのとも違う、彼ならではの独特のエクリチュールですよね。大好き。

僕はこの曲のことを脳が溶けるほど好きで、学生時代からずっと聴き続けていたのですが、ふと「歌詞は誰が書いたんだろうか?」と気になったのが数年前のこと。で、調べてみてビックリしたのですが、これ、なんと歌詞はプーシキンなんですよね。

ええ?、知らない!?という人はこのブログの読者には居ないと思いますが、一応書いておけばアレクサンダー・プーシキンはロシア近代文学の創始者と云われる人です。ロシアというのは不思議な国で、国民文学と云えるものが出てくるのがやっと19世紀になってからなんですよね。日本では、一般に8世紀がその時期だと云われていますけど、それだけ「国」としてアイデンティティを確立しにくかった、ということだったんでしょうね。ところが、このプーシキンの後はトルストイ、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、そして極めつけはドストエフスキーと、マシンガンのような勢いでキャラの立ちまくったスゴい作家を世に叩き出していきます。遅咲きの狂い咲き、しかも百花繚乱という、まあそういうことですね。

で、話を元に戻せば、このプーシキンの書いた詩が、ものすごく切ないんですよね。もちろん英訳でオリジナルはロシア語ですが、つぎのような内容です。是非、歌を聴きながら読んで欲しい。

I loved you,
I love you still too much;
But forget this love
That pressed sadly against you will.
I loved you in silence, without hope,
But true, jealous afraid.
I pray that someone
May love you again the same way.

これはねえ、やっぱりこの短さでちゃんと文学になっているんですよね。なぜこの短さで文学として成立しうるか、煎じ詰めれば「語り切らない」ということになるのだと思います。余韻というか、これは日本の美学の根幹でもありますけどね。コンサルティングではつねに「語り切る」ことが求められますけどね。まったく逆なんです。

I loved you in silence, without hope,
But true, jealous afraid.

って、なにがあったんだろうなあ・・・

「I love you」と語る歌は数あれど、「I loved you」というのが、ねえ。似た様なニュアンスの曲にABBAの『The winner takes it all』がありますが、やっぱりこちらのほうがずっと切ない歌詞だよなあ、と思います。

19世紀ロシアで人生を送って最後に妻に云いよる男との決闘の果てに若くして死んだ詩人が書いた詩が、まあ音楽のせいもあるんだろうけど、これほどまでに21世紀を生きる日本人のこころに沁みいるというのは、やっぱり

人の世の切なさは相も変わらず

なのだなあ、とおもわせるのですよね。

葉山へ、家づくりの視察に

ごく親しい知人にはお伝えしていますが、今年の夏に葉山の一色に移住します。今日は、家の基礎をつくっている職人さんへのご挨拶と、子供を通わせることになる学校をチェックしに葉山へ。

場所は葉山御用邸の目の前です。一色海岸から歩いて一分の距離ですが、高台で津波の心配はないという理想的な場所。基礎はこんな感じですが、ぶっちゃけよくわかりません。






二階からは目の前の山が抜けて見えて、三階からは向かって右側に海が見渡せるという作戦なのですが、はてさてどうなるか。


その後、通うことになる小学校へ行ったのですが・・・うわああ校庭が広い!都内の学校としては相当に広い深沢小学校と比較しても1.5倍はあるでしょうか?ちなみに向こうに見える山も学校の敷地内で山登りの演習などがあるという・・・マジか。




アスレチックの施設を見つけたこどもたちは当然「遊びたい!」と。寒風の中を突っ走るのを見て、環境さえ与えればゲームよりも運動を選ぶんだなあ、と。


長女。


長男。


次女。


世田谷の深沢も都内では臨み得ないほどに緑の多い場所ですが、やっぱりこちらと比べてしまうとね。

家にかえって夕食の後、読了した本に貼ってあるポストイットのうち、大して重要ではない、と思える箇所を間引きする作業をやっていたらいつのまにか深夜に。間引いたポストイットが「意味の墓標」みたいになってますね。ナンマンダブ。でもこのポストイットはいずれ別の本の重要箇所に貼られることになるんだお、輪廻転生。どうでもいいけど、この写真、絞り開け過ぎですね・・・被写界深度が浅すぎる。




有意義な一日ではありました。

虚数の音楽としてのビル・エバンス

まず虚数と言われて定義がわからないという人へ。自分も含めて文系の人には、自浄すると、おっと違った、二乗すると「-1」になるという数値のことだと捉えられているけど、これは少し乱暴な定義で、もう少し正確にいえば「二乗するとゼロ未満の実数になる複素数」ということになる・・・、んじゃないかな? 間違ってたら誰か指摘して下さい。

で、その虚数が音楽とどう関わるのか、と思うわけだけれど、ちょっと待ってね。上に述べたのは代数的な定義だけれど、これを幾何学的に定義すると音楽との関わりが見えてくる。

まず西から東へと向かう一本の直線を思い浮かべて欲しい。これを実数の軸、実軸と名付けよう。そして、あなたがいまいる点をゼロと名付け、東に向かうと1、2、3と数値が増え、西に向かうと−1、−2、−3と数値が減っていくと考えてみる。このような軸上では、-1をかけることは、絶対数値をそのままにして軸を180度回転させるということになる。5という実軸上の位置があったとして、それに「-1」をかけると-5になるわけだけれども、これはゼロの点から東側に5目盛りのところにあった貴君を、180度切り替えて西側に5目盛り、つまり-5のところに移すということになる。

虚数を乗じるというのは、この転換を90度行う演算、ということになる。どうしてかって?だって二回続けるとマイナスになるのだから。マイナスを180度のひっくり返し、と考えれば、虚数をかけるというのは90度のひっくり返し、ということになる。

でね、ながながと説明してきたけど、音楽の表す表情を「明るい、元気」を東側=+の側、「暗い、消沈」を西側=ーの側とすれば、そのどちらでもないという領域にこそ、本当の意味で「よい音楽」の領域があって、その筆頭はやっぱりビル・エバンスのこれであって、これはやっぱり、プラスでもマイナスでもない音楽、つまり虚数の音楽ではないかと思ったわけですよ。別に二回聞いてもマイナスにならないんだけどね。


ということで、これほど「明るいのに悲しい」という曲もないんでないかなあ、と。
とても哀しい曲です。ビル・エバンスの中ではあまり人気のある盤ではないですが、僕は晩年ならではの「締念」が横溢していて、とても好きなのでもし興味があれば。

日本人の「論理性のなさ」を武器にするという逆転の発想

グローバル化の文脈ではよく「日本人の論理性のなさ」が慨嘆されることが多い。

でもね、モノゴトに白黒を付けたがるという、特に欧米に顕著に見られる傾向が、世界中で起こっている様々な紛争や摩擦の原因になっていることを考えれば、モノゴトに白黒をつけずにグレーゾーンに留まりながら共感と義理人情によってコトを処理していく日本人の「論理性のなさ」こそ、今こそ世界中の問題を解決するために求められているのではないか、という考え方もあると思うのですよ。

これは今さらなんですけど、改めて強調すれば、競争戦略では常に「強みを活かして差別化する」ことが求められますよね。で、果たして日本人が論理性を身につけるというのは、強みを活かすことになるんですかねえ、と。

モノゴトにはかならず裏表がありますよね。日本人が決定的に論理的でないとすれば、その特徴を裏返してみたときにどういう強みが浮かび上がってくるのか、その強みがいまの世界の文脈のなかで、どのように「より良い世界」の建設に貢献できるのか、ということを考えてみることが知性の使い方であって、日本人には論理性がない、だから論理性を身につけよう、なんていう幼稚な論理に振り回されてはいけないと思うんですけどね。