「リベラルアーツを学びたい」という人へ

最近、よく「リベラルアーツを学びたいんですが、何から学んだらいいでしょうか?」という質問を受けます
で、このように質問されると返答にすごい困って仕舞うんですよね。
だいたいの場合は「何というか、まず、あなたが言うリベラルアーツって何を指してますか?哲学や歴史を指してるのなら哲学や歴史を学べばいいだけで、美術や音楽を指しているのならまた然り。ですからリベラルアーツを学びたいっていう時に、あなたが意味しているそのリベラルアーツの内容次第かと思いますけど・・・」と答えています。
で、そのように答えると「なんか違うんだよなあ・・・そういうんじゃなくてさ〜もっとこう・・・うーん、この人に聞いても無駄か」という表情をされて「ありがとうございました」と終わるケースが殆どです。
何だかなあ、と。やりとりかわかるのは、こういう人たちは「リベラルアーツとは何か」という像すらはっきり描けていない、何かそういう新しいテーマというかコンセプトが出てきて、それが流行りらしいと感じてこういう質問をしているわけです。要するにマーケティングとか財務とか、経営学の一分野みたいに功利的かつ実用的な学問としてリベラルアーツを考えているんです。
でもねえ、リベラルアーツってそんなものではないでしょ?
このブログを読んでいる人たちはそんなことは百も承知なので、こんなところでそれを独白しても愚痴以上のものではないんですけどね。あえて言えば「今すぐに役に立たないこと」は全てリベラルアーツになり得るんですよね。ロック?リベラルーアーツでしょ。義太夫?リベラルアーツだよねえ。風俗?もちろんリベラルアーツになるよ。登山?もちろんリベラルアーツの、それもハードコアだあね、と。
なんでもリベラルアーツになるんですよ。だからジャンルが問題なのではなく、態度の問題なんです。態度があれば風俗遊びだってリベラルアーツになるんです。そこを履き違えている人がものすごく多いんですよね。
結局、リベラルアーツを学びたければ、好きなことをおやりなさい、ということなんでしょうね。女遊びだってカサノバの域までやれば人間性の本質が透けて見える眼力を得て文学も哲学も自在でしょう。人から与えられたマニュアルなんかを読んでないで、好きなことを突き詰める。その先に「もののあはれ」が見えてくる。これがリベラルアーツの一番良い学び方だと思うんですよね。

日本で今後コンプラ違反が続出するだろうな、と思うその理由

新幹線のなかでボーッと考えたことをメモ代わりに。

国際的にはルールをよく守る国民性として知られる日本だけど、僕は個人的には今後、日本では企業によるコンプライアンス違反が続発して社会問題になる可能性があると思っています。

そう思う理由は大きく五つあります。

一つ目。宗教的な基盤を持っていないために、進退極まった際に判断の基準となるようなよって立つ倫理の枠組みがない。

二つ目。雇用の流動性が低くて転職しにくく、コンプライアンス違反を強要された際に「違反して人格を崩壊させるくらいなら倫理観にしたがって会社を辞める」という決断をしにくい。

三つ目。会社がアイデンティティを確認・保持するためのコミュニティ=ムラ社会になり、コミュニティの存続と自己実現が多くの人にとって同一化している。

四つ目。世間体を気にする見栄っ張りが多く、会社で出世して年収をあげること以外に生きがいを見つけられない人が多いために、出世を諦めてコンプラ違反を断るか、コンプラ違反にコミットして上司と運命共同体になるかを迫られると、多くの人が後者を選択してしまう。

五つ目。経営陣や管理職の質が低く、ワクワクするようなビジョンや戦略を示して人を牽引することはせず、目の前の数字の漸進的な改善に強い圧力をかけることでしか組織を牽引できないため、やがては実現が極めて難しい数値目標を組織に課してしまう。

1〜4は、以前からあった話なのですが、ここ最近コンプラ違反が増えてるのはやっぱり5の要因が大きいと思ってます。もともと潜在的にはコンプライアンス違反を犯しやすい特質があったんだけど、経済成長がその潜在的なリスクを封印していたんだろうと思います。フタが取れちゃったんですよ、為替も人口ボーナスもなくなっちゃったんで。

以前、倫理的にも許されない重大なコンプライアンス違反を犯した自動車会社のプロジェクトを担当したことがあったのですが、まあ無残としか言いようのない、人格を崩壊させてしまった人々の末路を見ました。

「ルールをよく守る国民性」という表面的なイメージと、「コンプラ違反を世界で最もやりやすい組織風土」というのは一見すると矛盾して見えるけど、実は根っこは同じなんですよね・・・要するに「周りから浮いてしまうのが嫌だ」というだけなんです。

山岸俊男先生は『安心社会から信頼社会』で、実は日本人が「他者への信頼」ということで調査してみると先進国ではダントツに低い数値であり、「治安の良さ」は倫理に根ざしているのではなく、「他者からの排除への恐れ」でしかないと指摘していますよね。こう言う社会で、無理な数値目標を押し付けて、しかも多くの人は逃げ場がない、となると何が起こるか・・・これから日本は大変なことが起こっていくと思います

会社を守って自分が壊れるんじゃ、意味ないよね。皆さん、くれぐれもご自愛ください。

葉山での生活 通勤について

葉山に暮らしはじめてほぼ二ヶ月ほどになります。長く暮らしてしまうと、おそらく最初に感じた印象も忘れてしまうと思うので、いま心に思い浮かぶことを備忘録として少しずつこれから書き残していきたいと思います。




まず、総論として思い浮かぶのは、他人が言うほど大変ではないな、ということです。おそらく多くの人は通勤のことを思い描いてそう言っているのだと思うのですが、以前に暮らしていた世田谷の深沢と比較して、うーん、確かに通勤時間は多少長くなったかも知れないけど、あんまりそれが大変だとは思わないんですよね。

どうしてなのかと考えてみたのですが、一つには「時間の質」があるのではないかと思っています。たとえば、深沢からオフィスまで、だいたい50分程度かかっていたと思うのですが、そのあいだはずっと立ちっぱなしで、かつ乗り換えも何度かあり、落ち着いて本を読んだり音楽を聴いたりということは難しい時間でした。要するに時間の逐次分散投入になっているわけです。本を読んだりメモを書いたりという知的作業には一定の臨界量が必要になります。つまり、ある程度のまとまった時間を投入しないと、効率が上がらないということですね。そういう意味では、乗り換えをしながらの通勤時間=50分という時間は、知的生産におけるインプット、あるいはアウトプットにも用いるのが難しい時間で、ただ単に無為に過ごすしかなかったわけです。

で、葉山に暮らし始めてどうかというと・・・

これが自動車通勤と電車通勤とでかなり時間が変わるのですが、まずは自動車通勤から話しましょうか。

驚かれることが多くて、逆に僕が驚くのですが、クルマで通勤すると葉山から新橋のオフィスまでは、だいたい正味で一時間ちょっとです。距離と時間って相関しないんですよ。ちなみに、僕の知人は軽井沢に住んでいて、そこからミッドタウンのオフィスまで毎日通っていますが、通勤時間は正確に1.5時間だそうです。距離と時間は相関しない。覚えておいてください。

で、話をもとにもどせば、葉山から新橋まで、運転しているあいだは、だいたい三つのことに時間を使っています。一つ目は放送大学の講義を聴く。先日はニーチェの『ツアラトゥストラ』に関する講義がとても面白く、オフィスについてもクルマを降りずに駐車場でずっと聞き入ってしまいました。放送大学のいいことは、無目的に新しい学びに出会う、ということだと思っています。いわゆるセレンディピティですね。科目によっては、あまりにも自分の理解の範疇を超えているなと思われるものもあるのですが、そういう場合でもじっと耳を傾けていると、いろいろな知的刺激が得られます。放送大学、お奨めデスよ。これが一つ目の時間の使い方。

二つ目は、オーディオブックを聴くことです。たとえば批評の神様と言われた小林秀雄さんには多くの講演録が残されているので、こういったものをずーっと聴いているととても刺激になります。いま聴いている講演録はじつは以前に活字で読んだことがあるものなんですが、これが実際に小林秀雄の肉声で聴いてみると、まったく受ける印象が違うんですよね。情報量が多いという、まあそういうことなんですけど、こんなにも厳しく、激しい人だったのかということが、音声だからこそ腹にしみこむようなところがあって、これは電車のなかで文庫読むのと全然違いじゃないか、と思ってます。

三つ目が英語の勉強かな。これは実にクダラナイというか、その日のBBCやEconomistのストリーミングや、あるいはTEDのPodCastを聴いています。殆どがつまらない内容ですけど、まあ外資系に務めてるんで仕方がありませんね。

以上の三つは、知的生産における「インプット」に該当するわけですが、では「アウトプット」はどうか、と。インプットをしていると当然ながら色々なアイデアが思い浮かぶわけですが、これを記憶していて後でメモに残しておこう、などと悠長なことを考えていると、ご想像の通り、そのアイデアは霞のように消えてしまいます。したがって、クルマを運転しながら、思いついたアイデアを都度記録していくインフラが必要になります。

では、どうしているのかというと、すいませんなんの工夫も無く、SIRIを用いてiPhoneのメモに音声で記録しています。変換精度のレベルはどの程度かというと、後で残った原稿を見てみて、「はて、これは一体なにを言おうとしたのだろうか」と思うレベルといえば伝わるでしょうか。率直に言って、職業作家が口述筆記をするための道具としては「使い物にならないな」というレベルです。とはいえ、通勤時間をつかいながら口述筆記で原稿を書いているというのも、「備忘録の備忘録」というか、なにかを書こうとしたらしい、という程度の備忘録にはなっているし、そもそも口述筆記というのはチャーチルのようでなかなかカッチョいいじゃないか、と思うわけで、まあ懲りずにやっています。

電車通勤の場合、時間は一気に1.5時間に増えます。葉山から逗子まで、バスで15分。逗子から新橋まで横須賀線で50分。新橋からオフィスまで15分。待ち時間等のバッファを加えると〆て1.5時間ということになります。で、これはよく知られていることですが、横須賀線は逗子駅で四つの車両を増車するので、一本くらい見送れば必ず坐れます。これはかつて田園都市線の通勤地獄を長いこと味わった僕にとってはとても有り難い。この1.5時間をなにに使っているかというと、1:本を読む、2:パソコンを開いてメールのチェックをする、3:音楽やオーディオブックを聴く、4:寝るのどれかということになります。ま、これはこれで生産的な時間ですよね。とくに、オフィスに着く前に一通りメールの返信が出来てしまうのがいい。一時間くらいって、丁度そういう作業にいい時間ですよね。

で、ツラツラと書いてきましたけど、最終的になにが言いたいかというと、多くの人は住む場所を考えるに当たって、通勤時間の「量」の問題だけを過剰に重視する一方で、「質」を軽視しすぎている、ということなんですよね。しょっちゅう乗り換えがあって、かつギュウギュウ詰めになる50分の通勤と、自分の好きなコンテンツを聴きながら自動車で通勤する1時間は、どっちが中長期的にROIが高いのか、ということを考えてみたらいいのではないかな、ということです。

では、また。