歴史の大勘違い

小林:君は彼(ポール・ヴァレリー)のパラドックスを持ち出していたな。作者が作品を作るんじゃなくて、作品というものが作者を生むのだ、という考え。君は、あれをそのまま歴史に当てはめていた。人間が歴史を作るんじゃなくて、歴史の方が、人間を作っているんだ、と。僕は全く同感なんだが、このパラドックスが生きている所以を感じるものは感じるが、感じないものにわからせるのはむつかしい。

河上:歴史というのは、人間のそばに流れているもので、これは人間に作れるようなものじゃない・・・

小林:人間のそばに流れている、悠々たる大河・・・

河上:うん。だけど、僕がさしあたり言いたいのはもっと鄙俗なことなんだ。近頃の歴史小説はつまらない、ということを言っているんだよ。つまり、人間が、歴史作家が、歴史を作れると思い上がったところがある。つまらない風潮だ・・・・ということをいっているんだ。それが一番言いたいことだよ。

小林:それで、とういう風につまらなくなるものかね?

河上:作り物になっちゃう。勝手に歴史を創作してるんだよ、みんな。・・・そんなものじゃないんだよ、歴史って怖いもんだ。人間のそばに悠々と流れてはいるが、それで必ずしも歴史が人間をつくるとも言えないんだ。人間と関係なく生きている。だから、こうも言える。歴史は美しくない・・・これはまた逆説だけれどもね、作品は完結しなければならないが、歴史には完結がないから。

小林:なるほど。それもパラドックスにちがいない。・・・作品の完結性なり完璧性なりを仮定しないで、作品鑑賞という行為はないからな。しかし、歴史は違う。ところで、現行の歴史小説に見られる奇妙な大勢的傾向は、歴史について、そういう作品鑑賞の行為を平気で行ってそれに気がつかないところにある、と君は言いたいんだな?

河上:うん、そうだ。ヴァレリーの逆説だが、つまり歴史というものは、そんなところに澱んでいるもんじゃないだ。別に流れているんだよ、人間とは別にね。怖いものだが、決して美しいものではない。それを歴史小説かは「美」に仕立てあげようとするんだよ。そして、成功したつもりでいるんだ。資料にはできるだけ忠実たることを心がけた、などと寝言みたいなことを行ってね。

小林秀雄X河上徹太郎「歴史について」より