「一万時間の法則」に振り回されないために

10月に出す新著で、かなりの紙幅を割いて「努力は報われるのか」という論点について考察しています。結論については本をお読みいただきたいのですが、ここでは、よく言われる「一万時間の法則」について、紙幅の関係で本には書ききれなかった内容を紹介したいと思います。

「努力は報われる」と無邪気に主張する人たちがよく持ち出してくる根拠の一つに「一万時間の法則」というものがあります。「一万時間の法則」とは、米国の著述家であるマルコム・グラドウェルが、著書「天才!成功する人々の法則」の中で提唱した法則で、平たく言えば、大きな成功を収めた音楽家やスポーツ選手はみんな一万時間という気の遠くなるような時間をトレーニングに費やしているというものです。

この指摘自体は当たり前すぎて、「はあ、それはまあそうでしょうね」と反応するしかないのですが、重要なのは、グラッドウェルが「一万時間よりも短い時間で世界レベルに達した人はいないし、一万時間をトレーニングに費やして世界レベルになれなかった人もいない」と主張している点です。

これはつまり「何かの世界で一流になりたければ、一万時間のトレーニングをしてごらんなさい。そうすれば、あなたは必ず一流になれますよ」という、もし本当であれば相当にトンデモナイことを法則として提案しているわけです。

ところが、これだけ大胆な法則を提案しているにもかかわらず、同書の中に示されている法則の論拠は、一部のバイオリニスト集団、ビル・ゲイツ氏(プログラミングに一万時間熱中した)、そしてビートルズ(デビュー前にステージで一万時間演奏した)についてはこの法則が観測されたというだけで、論拠は非常に脆弱で、率直に言えば考察が乱暴なんです。

ちなみにこういった「乱暴さ」は、「才能より努力だ」と主張する多くの本に共通していて、例えばデイビッド・シェンクによる「天才を考察する」では、「生まれついての天才」の代表格であるウォルフガング・モーツァルトが、実際は幼少期から集中的なトレーニング=努力を積み重ねていたという事実を論拠として挙げて、やはり「才能より努力だよね」と結んでいるのですが、これはよくある論理展開の初歩的なミスで、実は全く命題の証明になっていません。

「才能より努力」を証明したければ、「モーツァルトがものすごく努力していた」という事実はどうでもよく、逆に「モーツァルトと同じような努力をして世界的な音楽家になれなかった人は歴史上一人もいない」ということを証明しなければなりませんが、過去に遡及して「ない」ことを証明することは非常に困難であり、この命題は証明不可能です。

同じような間違いは、あちらこちらにあって、最近話題になったフロリダ州立大学心理学部教授のアンダース・エリクソンによる「超一流になるのは才能か努力か?」でも、同じようにモーツァルトはこんなに訓練を受けていた、だから天才は訓練によって生み出すことができるのだという、同様のミスを犯しています。

まず、真の命題は次のようになります。

天才モーツァルトは努力していた

この命題に対して、逆の命題、つまり

努力すればモーツァルトのような天才になれる

を真としてしまうという、よくある「逆の命題」の間違いです。

正しくは

天才モーツァルトは努力していた

という真の命題によって導出されるのは、対偶となる別の命題、つまり

努力なしにはモーツァルトのような天才にはなれない

で、「努力すればモーツァルトのような天才になれる」という命題は導けません。

シェンクもエリクソンもアカデミックキャリアを築いてきた人なので、おそらくそれなりに論理のトレーニングは受けてきていると思うのですが、こんな幼稚で初歩的なミスを主著で堂々と展開しているわけで、これはかなり痛々しい。誰か編集者が指摘しなかったのかしら。

彼らのように成熟した思考力を持つ人々が、このように初歩的な論理展開のミスをする原因は痛々しいまでにはっきりしています。それは、彼らにとって「努力は報われる」というのは、科学的検証によって導き出された命題ではなく、一つの信条であり世界観、つまり「そうであって欲しいの」ということです。だったら最初からそう言えばいいのにねえ、下手に証明などしようとするから墓穴を掘ってしまうんです。

さて、話をグラッドウェルの主張に戻してさらに進めてみましょうか。

「一万時間を費やして世界レベルになれなかった人はいない」とグラッドウェルが主張する論拠は、調査対象となったバイオリニスト集団においてだけ言えることで、他の集団や個人についてもそれが成立するかどうかはわかりません。では他の集団や個人も調査すれば、この仮説が証明されるかというと、それは難しいでしょう。先述したとおり、過去に遡及して「ない」ことを証明するのはとても難しいからです。

普通に考えれば、バイオリニストの集団で、一万時間の法則が観察されたのは理解できなくもありません。それはバイオリンの演奏が非常にフィジカルな行為で、創造性や論理性などの思考に関連する要素がほとんど入らないからです。

楽器演奏というのは、やったことがある人はわかると思いますが、初心者に型を教えて、その型にどんどん自分を合わせていくということをします。これはバイオリンでもピアノでもトランペットでも同じで、このように「決まった型をフィジカルに習得していく」というような種類の競技や職業であれば、一万時間の法則は成立する可能性があります。

ところが、私たちのほとんどは、フィジカルな要素がほとんどない職業についているわけで、そのような職業において、単に一万時間を修練のために投入しても、それで花開くかどうかは「センスのあるなし、才能のあるなし」によるでしょう。

と、ここまでは私の直感なのですが、実際のところどうなんだろうと思って調べてみたら、やはりありました。プリンストン大学のマクナマラ准教授他のグループは「自覚的訓練」に関する88件の研究についてメタ分析を行い、「練習が技量に与える影響の大きさはスキルの分野によって異なり、スキル習得のために必要な時間は決まっていない」という、素直に考えれば誰でも思い至るであろう結論を、一応は科学的に論証しました[1]

同論文は、各分野について「練習量の多少によってパフォーマンスの差を説明できる度合い」を紹介しています。

            • テレビゲーム:26
            • 楽器:21
            • スポーツ:18
            • 教育:4
            • 知的専門職:1%以下

思った通り、楽器に関しては、練習が上達に与える影響度は、相対的に他の職業や種目に比較して高いですね。テレビゲームの数値が高いのも、多くの人にとっては感覚的に納得できると思います。テレビゲームはそもそも「間口は広く、奥行きを深く」するのが大事で、わかりやすく言えば「誰でも時間をかければ上達する」ように設計されています。

難しすぎて、時間をかけてやり込んでも全然上達しない、あるいは簡単すぎてサクサクとクリアできてしまうというゲームは、ゲームバランスの悪い「クソゲー」とされ、市場で評価されません。市場で評価されるゲームは、適度な負荷と難易度があり、挑戦する楽しさと一定量の時間でそれを超克する楽しさの両方をバランスさせているのです。

現在の日本では、相当数の人が現実世界の競争で勝者になることを諦めてしまい、ゲームの世界に耽溺することでウサ晴らしをしていますが、その理由は、現実世界では必ずしもそうではない「練習すればするだけ、上手になっていく」という成長実感が、ゲームの世界ではちゃんと得られるからなのかもしれません。

さて、ここで注目したいのが専門職の1%以下という数字です。これは端的に言えば、ある知的専門職において個人が成功するかしないかは「努力の多寡」はほとんど関係なく、それ以外の要素で決まってしまうということです。本論文は端的に「自覚的訓練が重要でないとは言えないが、これまでに議論されてきたほどには重要ではない」と控えめに結んでいますが、1%以下という数字を見れば、もう結論は出ているようなものです。

この数字を見ればグラッドウェル氏の主張する「一万時間の法則」が、いかに人をミスリードするタチの悪い主張かということがよくわかります。「努力は報われる」という主張には一種の世界観が反映されていて非常に美しく響きます。しかしそれは願望でしかなく、現実の世界はそうではないということを直視しなければ、「自分の人生」を有意義に豊かに生きることは難しいでしょう。



[1] Brooke N. Macnamara(Princeton University), David Z. Hambrick(Michigan State University), and Frederick L. Oswald(Rice University), [Deliberate Practice and Performance in Music, Games, Sports, Education, and Professions: A Meta-Analysis[], Association for Psychological Science 2012.