あなたには「スピークアップする義務」がある


昨日のTEDのオープニングで、TEDのマスターキュレーターであるクリス・アンダーソンが、こんなことを言っていました。

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政治については、私自身もうんざりさせられるのですが、しかし、向き合わないわけにはいきません。
今回のTEDでも、あちこちで、政治のことには触れます。
しかし考えてみれば、長い目で見ると、世界を本当に変えるのは、科学者や技術者、そしてアイデアではないでしょうか。
政治家たちはやってきて、そして去っていきます。アイデアの命は長く、人類に影響を与え続けます。
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もちろんこのスピーチは、TEDのコンセプトである「Ideas Worth Spreading」を受けてのものです。

政治家たちはいなくなる、でもアイデアは残り、人類に影響を与える。
だからこそアイデアを共有する「場」が大事だということです。

アイデアは、いわばリレーのバトンのように世代から世代へ、文化から文化へと引き継がれていきます。そして、やがて他の人から引き継がれた別のアイデアと結びつき、さらに新しいアイデアを生み出し、それが人類に影響を与えていくことになるでしょう。

そして、いま私たちが、私たちの祖先から受け継いでいる「アイデアのバトン」をあらためて見つめてみれば、その多くが、かつては強く非難・批判されたものであることにも気づきます。

そのように考えてみると、どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、私たちには、自分のアイデアを「声に出す」ことが義務付けられているように思います。どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、その時点で支配的な考えとは摩擦を起こすものであっても、あなたは「自分のアイデアを声にだす義務」がある、ということです。

この義務を多くの人が自覚し、いろんなところでアイデアの摩擦が起これば、日本は今よりもずっと良い国になると思うんですよね。


「逃げる勇気、負ける技術」がなぜイノベーションにつながるのか?

世の中は相変わらず「努力は、報われる」「頑張れば、いつかできる」といった主張にあふれているらしく、身の丈に合わない仕事や理不尽なクソ上司の元で頑張り続け、身体や精神を病んでしまう人が多いようで、本当に痛ましい。

僕はいろんなところで、これからは「逃げる勇気」「負ける技術」が大事で、これは「人生を守る」というパッシブな点だけでなく、「イノベーションの推進」というアクティブな効用にも繋がる、と主張しています。

前者の「人生を守る」というのはわかるけれども、後者の「イノベーションの推進」というのは、ちょっとイメージがつきにくいかも知れませんが、ちょうどいい事例を思いついたので備忘録がわりに共有しておきます。

先日、京都大学の山口栄一先生の「イノベーションはなぜ途絶えたか」という本を読んでいたら、ノーベル賞を受賞された山中伸弥先生の話が出ていて、これはまさに「挫折によるイノベーション」の典型だな、と。

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山中は、スポーツ整形外科医を夢見て87年から整形外科研修医として勤務するものの、2年で挫折して基礎医学を学ぶため薬理学研究科に入学する。しかし、伝統的な薬学にも強いフラストレーションを抱いて、ここでも挫折する。  

とはいえ山中は、薬理学の研究の最中にノックアウト・マウス(遺伝子の機能を推定するために、特定の遺伝子を不活性化させたマウス)に出会って衝撃を覚え、ここに新しいブレークスルーへの道があることを直感する。  

そこで、博士号取得後93年に米国のグラッドストーン研究所に留学して、ゼロから分子生物学を勉強する。ほどなく自ら見つけたNATIというガン遺伝子をつぶしたES細胞を培養したところ、多様な種類の細胞に分化する能力が失われることを発見。道具にすぎなかったES細胞そのものに初めて興味を持った。  

96年に帰国後は、大阪市立大学医学部助手になってES細胞の研究をゼロから始める。当時、ES細胞研究の主流は前述のように分化の研究で「ES細胞からどんな細胞をつくったか」を世界中の研究者が競い合っていた。  ところが山中は「受精卵から培養した生きた胚からではなく、遺伝子データベースからES細胞と同じような細胞を作る」という、まだ誰もやっていない研究に着手する。

できるかどうかわからない。けれど、もしできれば、受精卵を使うという倫理問題と免疫拒絶問題の両方をクリアできる。できなければ、科学者をあっさりあきらめて町医者をやる。99年に奈良先端科学技術大学院大学に助教授として就任したときの覚悟だった。  

こうして高橋和利(1977~ )のアイデアを得ながら、2006年に遺伝子データベースの中から4つの遺伝子を選び、ウィルスを使って取り出した細胞に入れ込むと、どのような組織にも分化可能な細胞、すなわちiPS細胞になることを発見した。京都大学に教授として移ってほどなくのことだった。  

2012年にイギリスの生物学者ジョン・ガードン(1933~ )とともにノーベル生理学・医学賞を受賞した山中のこの業績は、イノベーション・ダイヤグラム上では大変重要なジャンプを呈していることがわかる。発生学が持つパラダイムを破壊したこの達成は、生命情報科学という異なる学問領域から土壌の中に下り立ち、しかも旧来の発生学とはまったく異なる新しい学問領域を築いた。  

山中は挫折を繰り返しながら、孤独の中で「臨床整形外科薬理学分子生物学ガンの研究ES細胞の研究」と、さまざまな分野を遍歴した。iPS細胞の発見は、「回遊」をした果ての「創発」である。

とはいえそれでも、一つの研究分野に腰を落ち着けずに次々に専門領域を変える自分の将来に底知れぬ不安を覚え、たまたま聴講した利根川進(1939~ )の講演会で、その不安を告げた。すると、利根川はこう答えたという。 「研究の継続性が大事だなんて、誰がそんなんいうたんや。面白かったら自由にやったらええやんか」。  

この言葉に、「回遊」による「知の越境」の本質が宿っていると私は思う。
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山中先生が最初に目指したキャリアはスポーツ整形外科医でした。ですが、これは自分に向いていないと考えて、二年後にはキャリアを転向しています。

二年って、結構短いですよね・・・

手術がド下手だったとか、色々と言われていますが、「二年で見切る」というのも、一つの勇気だと思うのです。これが、僕がいつも言う「逃げる勇気」です。

そして、その後、薬理学の世界に身を転じた山中先生はしかし、ここでも挫折してしまう。しかし、この時、のちの研究につながる仮説を得てもいる。

挫折して逃げる。ただし、逃げる時にタダでは逃げない。そこから盗めるものはできるだけ盗んで、次のフィールドで活かす。これが、僕がいつもいう「負ける技術」です。

山中先生のキャリアは、そういう意味で、僕がいつもいう「逃げる勇気、負ける技術」の実践とも言えるものなんですよね。これを実践したことで、イノベーターの条件である「越境」を実現することができたわけです。

もしこの時、世の中によくいる「努力は報われる」「石の上にも三年」などという価値観の人から諭され、思いとどまっていたら、もしかしたら山中先生のノーベル賞受賞はなかったかも知れないわけです。

新しい仕事を始める際に、「せめて三年くらいは頑張らないと」とよく言われますが、この山中先生の事例は、そういう御託に対する強烈なアンチテーゼだと思うのですよね。

世の中で、どうもしっくりこない、なにか違う気がする、という思いが拭えない人は、一度じっくり、もしかしたらそれは頑張っているのではなくって、ただ単に「逃げる勇気、負ける技術」がないからなのではないか、と考えてみてはいかがでしょうか?