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今朝の日経の一面に「最長景気に乱気流」という記事が出ていた。
以前からずっと感じていることなのだけど、現在の「好景気」を実感できている人ってどれくらいいるんでしょうか。政府はもちろんGDPの数値によって景気の良し悪しを判断しているわけですが、そのような数値によって示される「景気の良さ」が人々の実感値と乖離しているのであれば、それはすでに「社会の状態を示すモノサシ」としてGDPが適切でなくなってしまっているということなのではないか、と。
僕は最近、いろんなところで「モノが過剰になる一方で、問題が希少化している」ということを言っていますが、この状況は必然的に「量的指標の無意味化」という事態を僕たちに突きつけることになります。
原始時代から20世紀の半ばまで連綿と続いた「モノが不足している時代」であれば、「量」というのは、対象のパフォーマンスを図る上でとても便利なモノサシでした。後述しますが、GDPというのはもともと「どれくらいモノを作れるか」を図る指標ですから、モノが不足している社会の「豊かさ」を示す指標としてはとても便利だったわけです。しかしGDPがある一定の水準を超えてしまうと、幸福度などの質的評価とGDPにはほとんど相関がなくなり、指標として意味をなさなくなります。この「量的指標の無意味化」という問題は、様々な領域で発生しています。
例えば寿命を考えてみましょう。平均寿命は長期的な伸長トレンドにあり、おそらく近いうちに百歳に届くことになると思われますが、ではこの数字をそこから先、さらに伸ばしていくことにどれだけの意味があるかと問われれば、多くの人が答えに窮するのではないでしょうか。平均寿命が四十歳だった社会を六十歳に伸ばすことの意味合いと、平均寿命が九十歳の社会を百十歳にすることの意味合いは全く異なります。むしろここで問われるのは「老齢期の人生の質」という問題です。つまり、寿命についてはすでに「量」の問題から「質」の問題へと重点はシフトしており、「質」の問題が改善されないままに、これ以上「量」の向上を図ったところで、大きなメリットはないということです。
自動車の性能を表す馬力についても同様です。人と荷物を載せて快適・安全に移動するという自動車の目的に照らせば、百馬力もあれば十分でしょう。今日、製造・販売されている自動車の大半は百馬力以上の馬力を有しており、これ以上馬力を求めることの意味合いは大きくありません。五十馬力の自動車を百馬力にすることの意味合いと、三百馬力の自動車を三百五十馬力にすることの意味合いは、全く異なるということです。
このような現象、つまり「量が増加すればするほどに、増加一単位当たりの効用が小さくなっていく」ことを経済学では「限界効用逓減の法則」といいます。「法則」ということはつまり、この現象は普遍的に観察される現象だということなのですが、私たちは相変わらず「量的な単一指標」を用いて、モノゴトの良し悪しを判断してしまう傾向があります。しかし、先述した通り、様々な領域でこれ以上の「量的な改善」がほとんど意味をなさない世界において、様々なモノゴトのパフォーマンスを量的な指標を用いて測って一喜一憂するのはオールドタイプの思考モデルとなりつつあります。
これはつまり「単一のモノサシを使い続けることの限界」がきているということなんですね。最近、さまざまなところで「成長経済か、定常経済か」という議論がなされています。これはこれで重要な論点だとは思うのですが、いささか懸念している点があります。それは、「成長が大事だ」と訴える側も「定常へ移行せよ」と訴える側も、いずれにせよ「GDPという量的モノサシが議論の前提になっている」という点です。
両者は、一見すれば真っ向から対立する意見を交わしているように見えますが、「あるべき社会の状況を規定するモノサシとして経済という一つの指標を当てる」という考え方において、まったく同じなのです。しかし、量的な経済指標のみで社会のあるべき状況が規定できる時代はとっくのとうに終焉しています。つまり、
本当に問わなければならないのは「成長か、定常か」という問題ではなく、「経済に代わる、あたらしい質的な指標はなにか」という問題であるべき
だということです。
この問題についてはすでにさまざまなところで議論が始まっていますが、あらためてここで指摘しておきたいと思います。今日の日本では「GDP」に代表されるような経済指標は、社会の健全性や厚生度合いを示す指標としてほとんど意味がありません。このような状況で、ひたすらに経済指標だけを追い求めるのは典型的なオールドタイプの思考パラダイムと言えます。私たちは、経済という指標とは別に、社会の健全性や幸福の度合いを複眼的に計測し、管理するための指標を用いるべき時期に来ています。
よく知られる通り、そもそもGDPは百年ほど前のアメリカで、「大恐慌を食い止める」という目的のために、「問題の大きさ」を定量化することを目的にして開発されたものです。当時の米国大統領、ハーバート・フーバーには大恐慌をなんとかするという大任がありましたが、手元にある数字は株価や鉄などの産業材の価格、それに道路輸送量などの断片的な数字だけで政策立案の立脚点になるようなデータではありませんでした。
次々と企業が破綻し、ホームレスが日に日に街に増えている現状を目の前にすれば、明らかに「何かがおかしくなっている」ということだけはわかったものの、「国全体がどのような状況なのか、それは改善しているのか悪化しているのか」については全く雲をつかむような状況だったのです。
次々と企業が破綻し、ホームレスが日に日に街に増えている現状を目の前にすれば、明らかに「何かがおかしくなっている」ということだけはわかったものの、「国全体がどのような状況なのか、それは改善しているのか悪化しているのか」については全く雲をつかむような状況だったのです。
議会はこの状況に対応するために1932年、サイモン・クズネッツというロシア人を雇い、「アメリカは、どれくらい多くのものを作ることができるか」という論点について調査を依頼します。数年後にクズネッツが議会に提出した報告書には、現在の私たちがGDPと呼ぶようになる概念の基本形が提示されていました。つまりGDPというのは、もともとは「問題の大きさ」を図るために開発された指標だということですが、これが「豊かさ」を表す万能のモノサシのように扱われてしまっているわけです。
注意しなければならないのは、もともとクズネッツが依頼されたのは「どれだけのモノを作れるのか」という調査だったという点です。本書ではすでに考察した通り、現代を生きている私たちにとってすでにモノは過剰な状況になっており、この指標の目盛りをさらに高めることの意味合いはすでに無くなっています。
いやむしろ、この指標を高めようとすることによって、かえって「意味」を有さないクソ仕事が蔓延し、大量のゴミが生み出され、環境に大きな負荷をかけていることを考えれば、むしろ弊害の方が大きくなってきている、というべきでしょう。すでに経済指標は「本質的な豊かさ」を示す指標としては機能しなくなっています。現在の日本では「モノ」から「コト」へ、「コト」から「意味」へと、「豊かさの源」がスライドしている時期にあり、だからこそ世界に先駆けて、経済と並ぶような新しい社会指標を打ち立て、それをしなやかに使いこなすニュータイプが求められています。
さて、このように指摘すると、これは「ダメなシステムを別のシステムに切り替えよう」という「代替=オルタナティブ」の思考ではないか、と思われる向きもあるかも知れませんが、私が言っているのはそういう意味ではありません。私がここで言いたいのは、ある単一のモノサシから別のモノサシへの転換ということではなく、むしろ「複数のモノサシを同時に当てる」という考え方です。
オールドタイプが量的な単一のモノサシを当ててモノゴトの「良い・悪い」を判断できると考えるのに対して、ニュータイプは単一の指標でモノゴトの「良し悪し」を判断する単純さを拒否します。つまり、複数のモノサシを当てながら、決定的なカタストロフィを避けながら、バランスの取れた成熟を目指すのがニュータイプだということです。
振り返って考えてみれば、そもそも、複数のスタンダードを同時に当てて絶妙なバランスを取る、というのは日本が得意としていることでした。山本七平氏は、著書「空気の研究」において、自分が収容された捕虜収容所のなかで、米国人の兵士から進化論の講義をされたエピソードについて記述しています。
米国兵としては、現人神である天皇を信じている無知蒙昧な日本人に対して、人間は神から生まれたのではなく、猿から進化したのだということを教えようとしたわけですが、山本七平をはじめとする日本兵が「そんなことは知っている」というと、米国兵は非常に驚いて「それならなぜ天皇が現人神だというのか?」と聞き返してきたというのですね。結局「それはそれ、これはこれ」というしかないわけですが、これは日本人が持つ「マルチスタンダードの特徴」がよく現れたエピソードだと言えます。私たちにとってこんなにも当たり前の「それはそれ、これはこれ」という感覚が、米国人にとっては驚くべき思考様式に見えたわけです。
米国兵としては、現人神である天皇を信じている無知蒙昧な日本人に対して、人間は神から生まれたのではなく、猿から進化したのだということを教えようとしたわけですが、山本七平をはじめとする日本兵が「そんなことは知っている」というと、米国兵は非常に驚いて「それならなぜ天皇が現人神だというのか?」と聞き返してきたというのですね。結局「それはそれ、これはこれ」というしかないわけですが、これは日本人が持つ「マルチスタンダードの特徴」がよく現れたエピソードだと言えます。私たちにとってこんなにも当たり前の「それはそれ、これはこれ」という感覚が、米国人にとっては驚くべき思考様式に見えたわけです。
このマルチスタンダードという特徴がシステムとして表現されているのが私たちの言語です。私たちは4つの文字を日常的にチャンポンにして用いるという実に器用なことをやっている。日本はもともと無文字の文化でしたが、古墳時代ごろ、中国から大量の漢字や仏教経典などが入って来るようになります。
現在の私たちが、このような場合になれば、おそらくは英語を学ぶのと同じように、中国語を学んで彼らとコミュニケーションを取ろうとするでしょう。しかし当時の日本人は中国語をそのまま取り入れることはせず、当時日本人が使っていた喋り言葉をそのままに、そこに漢字を当て字で当てはめていくという、実に器用な対応をしたわけです。最終的には、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットという四種類の文字を日常生活の中で適宜組み合わせて使いながら、しかも漢字については「音読み」と「訓読み」という、それ自体が既にマルチスタンダードになっているという、とんでもなく複雑なことを平気でやっているわけです。
世界には第一公用語と第二公用語というかたちで、二つ以上の言語を使いこなしている国はあります。これは二つのシステムが排他的に機能しているという点で、まさにダブルスタンダードなんですが、私たちのシステムはそうではない。一つの大きなシステムの中に、複数の出自のものが渾然一体となって溶け込んでいるわけで、だからマルチスタンダードなのです。様々なものを海外から取り入れながら、海外の多くの国のように単独したシステムとしてそれを扱えなかったということはつまり、私たちにとってシングルスタンダードというのはもともと得意なことではなかったということです。
日本というのは「マルチスタンダード」、つまり複数のモノサシを同時並行的に扱うことで、一つのモノサシだけを視野狭窄的に追求することで発生してしまうカタストロフィを巧みに回避するということをやってきた民族でした。それを明治以降は捨ててしまい、もとからあまり得意ではなかったことをずっとやってきて現在のような閉塞状況に陥っている。この点について、私たちは再び考えてみる必要があると思います。