日本の教育システムについては昨今、教育学者および教育実務に携わっている人たちを中心として活発な議論が行われているので、私のような立場にある人間が「ああせい、こうせい」と細部の具体について申し上げるつもりはありません。ただ、教育の門外漢である一方で、組織開発・人材育成・組織変革のプロジェクトに二十年関わっているコンサルタントとして、外側から、現在進行している、いわゆる「教育改革」なるものを見ていると、いくつか「ボタンのかけ違い」とでも表現するしかない重大な誤謬があるように感じられますので、ここで問題提起しておきたいと思います。
まずは次の抜粋を読んでください。
今後における科学技術の発展や産業構造、就業構造などの変化に対応するためには、個性的で創造的な人材が求められている。これまでの教育は、どちらかといえば記憶力中心の詰め込み教育という傾向があったが、これからの社会においては、知識・情報を単に獲得するだけではなく、それを適切に使いこなし、自分で考え、創造し、表現する能力が一層重視されなければならない。創造性は、個性と密接な関係を持っており、個性が生かされてこそ真の創造性が育つものである。
これを読めば、ほとんどの人が「ああ、最近よく言われていることだよね、で、これがどうかしたの?」と思うでしょう。しかし、これが実際にはそうではないのです。この抜粋は1987年の臨時教育審議会編(p10)から引いたものです[1]。これを読めば、昨今の教育関係者がしばしば口にする「創造性の重視」「個性の尊重」「詰め込み教育からの脱却」といった教育上の課題が、既に三十年以上前の段階でしかるべき筋によってオーソライズされていたということがよくわかります。しかし、ではその後の日本の教育のあり方は、これ以前のものと比較して大きく変わったと言えるでしょうか?厳密な評価はなかなか難しいと思いますが、胸を張って「そうだ」と言える人は一人もいないでしょう。
三十年以上前の段階で「問題=何を変えるべきか」と「解決策=どう変えるべきか」がはっきりとわかっているにも関わらず、幾多の取り組みを経ても眼に見えるような変化が起きていないことを踏まえれば、同じような議論の末に同じような解決策を施したとしても、また同じ三十年を繰り返すことになるだけでしょう。いい加減にこの手の議論はもう止めにしませんか?というのがまずは私の提案ということです。
変えるべき問題が明確になっているにもかかわらず、何度対処しても大きな変化が起こらないというとき、その問題は「複雑なシステム」によって引き起こされていることがほとんどです。ここでいう「複雑なシステム」とは「問題を生み出すシステムが解放系になっており、現象として目に見える範囲以上に広範囲かつ多様な因果関係によって引き起こされている問題」という意味です。
「学習する組織」という概念を提唱し、20世紀の経営科学に最も大きな影響を与えたと言われるMITスローンスクールのピーター・センゲは、このような問題を解決するにあたっては、従来から重用されてきた「全体を部分に分けて悪いところを直す」という要素還元主義的な方法論、いわゆる「論理思考」は機能しないため、全体を統合的に捉える「システム思考」のアプローチが必要だと主張しています。
これはつまり、何を言っているかというと、この問題を解消しようとするとき、問題の原因となる要因は教育という枠組みの外側にまたがって絡まるように存在しており、これらの要因へ対処しない限り本質的な解決は覚束ないだろうということです。特に私は、教育現場における様々な取り組みが最終的に無効化される原因は、教育プロセスよりも、プロセスの出口に位置する就職活動およびその後に続く経済活動・社会活動の中にこそ潜んでいると思います。どういうことでしょうか。
ここで詳細な考察に踏み込むことは避けたいと思いますが、本質的な原因を挙げるとすれば、それは
ホンネでは誰も個性的な人材など望んでいないから
という理由に尽きます。社会の大勢は個性的な人材など望んでおらず、むしろ真逆である従順で実直な人材を望んでいます。そして、この「タテマエとホンネ」の欺瞞を子供達は見抜いており、だからこそ創造性や個性を育む教育が茶番化して空回りをし続けているのです。
このような指摘に対しては、もしかしたら「いや、そんなことはない、自分は個性的な人材を本当に求めている」という反論があるかもあるかも知れません。しかし「社会の多数派は個性的な人材など望んでいない」という「オトナのホンネ」を示す社会のルールや仕組みはそこら中に見つけ出すことができます。
たとえば「新卒一括採用」という、世界的に類を見ない異様な採用方式がいまだに続けられているのはなぜでしょうか。新卒一括採用というのは「皆と同じ時期に、皆と同じような活動をして、皆と同じ時期に入社する」ことが前提となっています。しかも採用する側の企業はご丁寧に「採用活動の解禁日」まで足並みを揃えるというような奇怪なことまでしている。
このような採用方式を主要な人材獲得の手段としているということはつまり「社会のルールに同期できないような“個性ある人材”はウチには要りません」というメッセージを送っているのと同じことです。最近はどの企業も版で押したように「変革を自ら主導できる個性的な人材を求める」といった個性のかけらもないメッセージを労働市場に送っていますが、新卒一括採用という採用方式をとりながら、このようなメッセージを発信していること自体が自己欺瞞そのもので、よくもまあいけシャアシャアと言えたものだと毎回感心させられます。
新卒一括採用というシステムは「短期間に大量の候補者を評価する」ことを前提にして成立しています。
ここに大きな問題があります。というのも、評価には必ず「精度と時間のトレードオフ」が発生するからです。短期間に評価しようとすればどうしても精度が犠牲になり、精度を高めようとすればどうしても時間がかかる。特に「個性」や「創造性」といったパーソナリティに関わる要件は、ペーパーテストで評価することができないため、高い精度でこれを評価しようとすれば膨大な時間とコストがかかることになります。下図をみてください。これは人材育成の世界でよく用いられる典型的な「氷山モデル」を図示しています。
図表:人材要件の氷山モデル
なぜこれが「氷山」のメタファーで表現されるかというと、人材要件は「水面上に出ていて外側から観察しやすい要件」と「水面下に沈んでいて外側からは観察しにくい要件」の組み合わせになっているからです。受験勉強で試されるような問題解決の能力は言うまでもなく「知識」と「スキル」に該当し、これは相対的に外部から評価しやすいため、新卒一括採用においても評価が可能でしょう。
一方で、個性や創造性というのはコンピテンシーや動機・パーソナリティに関わる項目ですから、短期間に外部から評価するのは非常に難しい。コンピテンシーのことを能力やスキルと混同している人がよくいますが、両者は全く異なる概念であることに注意が必要です。コンピテンシーという概念を最初に提唱したのはハーバード大学で行動心理学を教えていたデイヴィッド・マクレランド[2]ですが、彼がなぜこのような概念の導入を提唱したかというと、親の学歴や収入に大きく影響されてしまう知識やスキルで人材を評価すると社会の不公正を拡大再生産してしまうという問題意識があったからです。
これは現在でも同じですよね。高額の塾の費用を負担できる家で育った子供とそのような環境にたまたま恵まれなかった子供では「知識」と「スキル」に差が生まれてしまうのは当然に想定できることです。したがってこのような項目に頼って選抜を行っている企業の採用担当者は、社会の不公正を拡大再生産するエンジンをまさに担っているということですが、このような自覚が当事者にあるのでしょうか。
話をもとに戻せば、マクレランドはこのような不公平の影響を漂白するためにコンピテンシー、すなわち「ある局面に向き合った時、どのようにしてその問題を処理しようとするか」という思考特性・行動特性を測ることで人材を選抜することを唱えたわけです。現在では、特に海外の企業ではインターンを通じた採用が一般的になっていますが、なぜインターン形式が主流になっているかというと、実際の仕事ブリを観察してみないとコンピテンシーやパーソナリティはよくわからないからです。
以上のようなことをつらつらと考えれば考えるほど、結論は一つしかないということになります。それは「誰も個性ある人材、創造性あふれる人材など、本気では望んでいない」ということです。もし本気で望んでいるのであれば、矢も盾もたまらず、このような採用方式は撤廃されているはずだからです。
システム思考の立脚点となるアンカーポイントは「現在のシステムは、現在の結果を生み出すために完璧に最適化されている」という現状認識です。本書をここまで読んだ読者の方なら、まず間違いなく現在の教育システムに大きな問題があるとお考えでしょうから、「現在の教育システムは完璧に最適化されている」という指摘に強い違和感を覚えると思います。しかし私は、これまでに、多くの複雑な問題に関わった経験から、このように指摘しています。
というのも、このような複雑な問題を解くためにシステムを分析すると、多くの場合、人々が実現しているのは、彼らがタテマエとして口にしている「望ましい未来」ではなく、彼らがホンネとして「いま望んでいること」そのものであることがほとんどだからです。これはつまり、私たち全員が、現在の教育システムから少なからず見返りを受け取っており、その見返りが、システムを変えることで失われることを望んでいない、ということを意味します。端的に言えば、現在の教育システムを生み出しているのは、いまこのテキストを読んでいるあなた自身であり僕自身だということです。この認識を真ん中におかず、文科省が悪い、教育現場が悪い、塾が諸悪の根源だと声を荒げたところで、今日の問題が解決することは永遠にありません。
[1] 臨時教育審議会(りんじきょういくしんぎかい)は、教育改革を目的に設置された内閣総理大臣直属の諮問機関。略称は臨教審。1980年代から受験競争の過熱化、青少年非行の増加、校内暴力、いじめ、不登校などに代表される教育環境の荒廃、学歴社会の弊害などが社会問題となり、1984年に中曽根康弘首相の主導のもと、長期的展望に立った教育改革に取り組むため臨時教育審議会が設置された。
[2] デイビッド・マクレランド(1917年〜1998年)アメリカの心理学者。コンピテンシーや社会性動機の理論など、心理と組織行動の問題を関連づける研究によって、後の組織心理学の発展に大きな影響を与えた。(Wikipediaの記述より抜粋、要約、加筆)