Saturday, August 5, 2017

人工知能がすごいのではなく、単に将棋や囲碁が簡単だったという話

人工知能の進化は私たちの想像を絶するスピートで進化しており、近い将来、現在人間が担っている理知的・論理的な知的活動の「かなりの部分」を代替する可能性があります。このような状況において、私たち人間には、労働市場においてどのようにして人工知能と戦っていくのか、という論点が突きつけられています。

この論点を考察する材料の一つとするべく、現在「人工知能に仕事を奪われるのはどんな職業か」という問題について、様々な研究者が考察を発表していますが、こういった予測の大半はどうせ外れることになるのであまり振り回されない方がいいと思います。

「いまの小学生の65%は、現時点で存在しない職業につくだろう」と予言したのはデューク大学教授のキャシー・デビッドソンでしたが、職業そのもののポートフォリオが社会の変化に伴って大きく移り変わっていく中で、個別の職業にフォーカスを当てて「どれが人工知能に代替されるか」などを考えるのはあまり生産性の高い営みとは思えません。

重要なのは、個別の職業の代替性を考えるよりも、「人工知能は本質的に何が得意で、何が不得意なのか?」という点を考えること、言うなれば人工知能との戦いにおける「骨太な戦略ストーリー」を掴むことが重要です。僕は、この戦略を検討するポイントは二つあると思っています。

一つ目のポイントは、近い将来、人間が担うべき仕事は「人工知能を奴隷として使う仕事」と「人工知能に奴隷として使われる仕事」の二つになる、ということです。

そして二つ目のポイントは、その二つの仕事は「創造性」というキーワードによって峻別される、ということです。

この点を考察するにあたって、まずは象徴的な「事件」からおさらいしましょう。

チェス界のスーパースターだったガレリ・カスパロフを、IBMのスーパーコンピューター=ディープブルーが破って大騒ぎになったのは1997年のことでした。当時もっぱら言われていたのは、チェスについては人工知能が人間を凌駕したものの、将棋に関してはあと十年、囲碁に至ってはあと五十年、人間の優位が続くだろうということでした。

ところが実際にどうだったかというと、将棋についてはその5年後に、元名人で永世棋聖の故米長邦雄氏が「ボンクラーズ」という、なんとも間の抜けた名前の将棋プログラムに敗れ、囲碁については20年後の2016年、グーグルが開発した囲碁プログラム「AlphaGo」が、世界トップクラスの棋士である韓国のイ・セドル九段と対局し、541敗という好成績でこれを下してしまいました。

このニュースは人工知能の驚くべき進化スピードを示すものとしてセンセーショナルに各種のメディアで報道されたので、ご存知の方も多いでしょう。チェス・将棋・囲碁という「最高度の知性が求められる競技」において、人工知能が人間を凌駕しつつあることが明らかとなり、多くの知的労働が人工知能に取って代わられるのではないかという悲観的な議論に火を付けました。

しかし、一方で忘れられているのが、これだけ圧倒的な知的パフォーマンスを発揮するに至っている人工知能が、音楽や絵画などの芸術的表現の分野に関しては、率直に言って「センスの悪いアマチュア」の水準に、ここ数十年のあいだ留まり続けている、ということです。

たとえば、囲碁の世界ではトッププロを凌駕する人工知能を開発したグーグルは、並行的に「作曲する人工知能」の研究開発も進めていますが、その作品の水準は今のところ、贔屓目に言って「小学校低学年の作品」といった程度でしかありません。

Google A.I. just created music (CNET Update)



なんというか、がっかりを通り越して唖然とさせられた、というのが本音でしょうか。

古代ギリシアの時代から、もともと音楽と数学は大変相性が良いと考えられていました。よく知られている通り、ピタゴラスの定理を発見したピタゴラス教団は数学と音楽を表裏一体のものとして研究していましたし、例えば現代に目を転じても、ギリシア出身の作曲家であるヤニス・クセナキスをはじめとして、ポアソン分布や群論などの数学的手法を用いた楽曲は数多く作曲されています。

ところが現実には、どうもそう簡単ではない、ということが明らかになりつつあります。

今日では、先述したグーグルをはじめ、様々な研究機関が人工知能に作曲・演奏させた音楽を発表していますが、総じて「大人の鑑賞に耐えられる」水準に達しているものは皆無であり、これらが近い将来においてバッハやドビュッシー、あるいはビートルズやピンクフロイド、あるいはビル・エバンスやマイルス・デイビスの音楽に比肩しうると思わせる兆しは、残念ながら全くありません。

人工知能に音楽を作らせるという試みは1950年代から本格的に取り組まれており、すでに70年近い蓄積があります。90年代の半ばには、バッハやモーツァルトの楽曲データを大量に記憶させ、その傾向を解析することで「バッハ風」「モーツァルト風」の音楽を自動生成するシステムがすでに作られていました。当時、大学の学部生だった私は、富士通の研究所でそのプログラムを見せてもらったことがあるのですが、自分がお遊びでつくったバッハ風の変奏曲と比較しても、確かに「それっぽい感じ」になっていることに感心したことをよく覚えています。

しかしその後、囲碁や将棋といった領域では飛躍的な進化を遂げ、事実上人間の能力を凌駕するまでに至った人工知能の進化は、音楽の作曲や演奏といった領域では停滞してしまいます。どうも、私たちが考えるほど、「人工知能に音楽を作らせる、演奏させる」という営みは、簡単ではないようなんですね。

世界には人工知能の発達について極めて楽観的な人が多く、2045年までに人間の知性を凌駕するようになるだろうと予測するレイ・カーツワイルのような人もいるのですが、作曲や演奏といった領域で人工知能がこれほどの長期間にわたって停滞しているという事実についてどのように考えているのか、聞いてみたいものです。

さて、話をもとに戻しましょう。チェスや囲碁の領域では最高度に訓練された人間をすら凌駕する知的能力を獲得しつつあるにも関わらず、作曲や描画といった領域においては「下手なアマチュア」のレベルに低迷し続けているという事実から洞察される結論は一つしかありません。

それはすなわち

チェスや囲碁の手を考えるという知的営為は、作曲や演奏といった芸術行為と比較して、実ははるかに簡単だった

ということです。もちろん、この「簡単」というのはコンピューターにとって、ということです。

労働市場における人工知能との仕事の奪い合いについて、骨太な戦略ストーリーを構想することが重要だという本書冒頭の指摘に戻って考察すれば、当然ながら「人工知能にとって簡単だけれども、人間にとってはとても難しい」という職業は、最も人間にとって競争力を発揮しにくい労働市場だということになり、そのような市場は積極的に回避することが必要だということになります。

では、どのような労働市場がそうなのか?現時点ではっきりしているのは、どうもチェスや将棋や囲碁に求められる「何か」が、共通して求められるような職業では、おそらく人間は人工知能に敵わないということであり、音楽の作曲や演奏に求められる「何か」が、同じように求められる職業では、少なくともしばらくのあいだ、人工知能は人間に敵わない、ということです。

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Saturday, May 20, 2017

「経済学を学ぶ」ことの意味

先日以来、ある企業の依頼で若手社員に向けて「独学の技術」の講座をやっています。
前回のお題は「経済学」だったのですが、文字起こしが上がってきたので。

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経済学を学ぶ意味合いについて、世の中一般でよく言われるのは「社会人としての常識だから」とか「世の中の仕組みが理解できるから」といったことなのですが、僕自身は、そういった「教養としての経済学の知識」について、その有用性を否定はしないものの、副次的なものでしかないと感じています。

ことビジネスパーソンが「知的戦闘能力を上げる」という目的に照らして、経済学を学ぶことの意味合いを考えてみれば、そこには大きく二つのポイントがあります。

一つは、「経済学」が研究対象とする「経済」や「市場」が、ビジネスというゲームの基本ルールを規定しているということです。ビジネスには当然ながら競争という側面があるわけですが、ではその競争の「ルール」は誰が規定していると思いますか?

生徒:公正取引委員会?

確かに、公正取引委員会はいくつかのルールを規定していますが、基本的な仕事は不当な競争をするプレイヤーを摘発するのが仕事ですね。他にありますか?

生徒:市場?

おお、正解。実は、ビジネスにおける競争のルールを規定しているのは市場なんです。市場という、人間が生み出したものが、人間とは個別に勝手にルールを生み出してしまう。そしてこのルールに人間は縛られるわけです。これをマルクスは「疎外」と呼びました。疎外という言葉は聞いたことがあると思いますが、別にそんなに複雑な概念ではありません。人が作ったものとが、作り主である人から離れて、コントロールできないものになってしまう。よそよそしくなってしまうことです。

さて、人がコントロールできないものというと、他にどんなものがありますか?

生徒:天気

そうだね、天気はコントロールできないですね。他には?

生徒:異性の心

おおお!いいね、その答え。確かに、異性の心もコントロールできません。この講座では次回に心理学をやりますけれども、天気については自然科学が、異性の心については心理学がこれを対象とするように、市場を対象として研究するのが「経済学」ということになります。

おしなべて学問というのは全てそうですが、人がコントロールできないもの、独自の振る舞いをするものについて、そのシステムが全体としてどのような振る舞うのかを研究するわけです。経済学は中でも「市場がどのように振る舞うか」を研究するわけで、これがビジネスのルールを理解する上ではたいへん重要だということがよくわかるでしょう?

ハーバード大学のマイケル・ポーターという先生がいますね。この人は「競争の戦略」という、競争戦略の定番テキストを書いたことで大変有名なわけですが、この「競争の戦略」という本は、基本的に経済学の、それも産業組織論の枠組みを用いて書かれています。

マイケル・ポーターという人は、もともと経済学で博士号を取っています。経営戦略の大家なので経営学の博士だと思っている人が多いと思いますが、そうではないんですね。経済学では厚生の最大化を目指します。簡単に言えば、市場に健全な競争が行われて、誰もが良いものを安く買えるような社会を「良い社会」と考え、これを阻害する要因を排除することを考えます。つまり、どのようにすれば、一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況を避けられるかということを考えるわけです。

しかしこれをひっくり返してみて、市場に参加しているプレイヤーの側から考えてみるとどうなるか。一社が独占的に市場を支配し、新陳代謝が起こらないような状況というのは、まさしく理想的な状況なわけですね。つまりポーターという人は、経済学でずっとやってきた研究を裏返しにして、それをそのまま経営学の世界に持ち込んだということなんです。このような事実を知れば、いかに経済学を学ぶことが、ビジネスの世界における知的戦闘能力の向上に繋がるかはよくわかってもらえると思います。

経済学を学ぶことの意味合いについて、二つ目のポイントを指摘したいと思います。それは「価値」という概念の本質について洞察を得ることができることだと思っています。この点をよくよく押さえておかないと、経済学を学んでも「経済学的知識」は増えこそすれ、「経済学的センス」は身につきません。もちろん、知的戦闘能力を向上させる、という点において重要なのは後者です。

具体例を出して考えてみましょう。たとえば「モノの価値」はどのようにして決まるのか、という問題についてはいろんな考え方があります。たとえば、マルクスは「モノの価値は、そのモノを生み出すためにかかった労働の量」で決まる、と言いました。いわゆる「労働価値説」と呼ばれる考え方です。

これはこれで一つの考え方だとは思いますが、現在を生きている私たちの多くにとって、たくさんの手間がかかったからといって、必ずしも「価値の高いモノ」が生まれるわけではないことを知っています。トヨタ自動車の生産性は世界一だと言われていますが、生産性が高いということは「手間がかかっていない」ということです。では手間がかかっていないトヨタの自動車が、他社と比較して価値が低いのかというと、まあそういうことにはならないわけですね。

モノの価値について、現在の経済学では「それは需要と供給のバランスによって決まる」と考えます。同じモノであっても、供給が需要に追いつかない状況では、モノの価値は上昇し、需要以上に供給されれば、モノの価値は低下することになります。これは経済学を学んだ人であれば、誰もが知っている、一種の経済学の定理のようなものです。

しかし、ではこの定理の指摘するところを、ビジネスに活用できているかということになると、むしろ逆のことをやってしまっていることが多い。典型的には広告業界がそうです。これは僕の処女作である「グーグルに勝つ広告モデル」で指摘したことですが、現在の広告業界の苦境は、本質的には彼らの売り物である「広告枠」の供給が拡大したことで、需要と供給のバランスが崩れ、結果として広告枠の値段が下がることで発生しています。

広告枠の値段が下がったとしても、広告枠自体の数が増えればそれはそれで問題ないのではないか、と思われるかも知れませんが、ことはそう単純ではありません。というのも、広告枠を取引するためには必ず一定の業務が発生するわけですが、ここでかかる費用は変わらないからです。

ちょっと難しい言い方をすれば、広告枠については限界売上は逓減するにも関わらず、限界費用は逓減しないということです。「限界」というのは「投入一単位当り」という経済学の概念です。当たり前のことですが、広告枠の単価が下落しても、そこでかかる費用が変わらなければ一件当りの利益率は低下することになります。結果的に、売上全体としてはなんとか維持できたとしても、内部の収益構造はどんどん厳しくなっていってしまうわけです。

では、このような構造的収益低下に陥っている広告業界が何をやっているかというと、一生懸命に新しい広告媒体を作って、売上を上げようとしているわけです。例えば最近では電車内や店舗内で液晶テレビを用いた広告が行われています。専門的にはデジタルサイネージと言いますが、これは典型的に「広告枠の数を増やす」行為ですね。

どうしてこういうことをやっているのかというと、これまでのマスメディア広告、特に新聞広告と雑誌広告が売れなくなってきたからなんですね。広告業界がいま必死になってやっているのは、これまでのマスメディア広告の売上減少を埋め合わせるような新しいメディアの開発で、その一端が店舗や電車内で見られるようになったデジタルサイネージだということです。

じゃあこれで広告業界が復活したかというと、ご存知の通りそうはなっていないわけで、むしろ悪化の一途をたどっている。どうしてこういうことになるのかというと、広告枠の供給量が増えているのに、広告枠の需要が増えていないからです。広告というのは民間消費に直結しますよね。モノが売れれば広告費が捻出できるわけです。ところが、日本の国内GDPはここ二十年ほどのあいだ、年率でせいぜい1%程度の成長しかしていないので、広告の需要は増えません。広告の需要が増えない中で、広告枠だけがどんどん増えているわけで、その結果、当然のこととして広告枠の単価はどんどん下落しているわけです。

先述した「モノの価値は需要と供給のバランスによって決まる」という経済学の基本的な定理を知っていれば、これはありえない戦略です。いま広告業界がやらなければならないのは、広告枠の増加ではなく、全く逆に、戦略的に広告枠を減らしていくことで、一つ一つの広告枠の価値を高めていくことなんですけどね。

実は過去の歴史を振り返ってみて、大胆に供給量を削減することで、モノの価値を飛躍的にあげることに成功した業界があるんだけどなんだかわかるかな?

生徒:石油?

ああ、石油もそうかも知れないね。でももっと意識的に供給量を減らして成功した事例があるんだけど・・・

生徒:金?

惜しい!実は正解はダイヤモンドなんです。これはあんまり知られていないことですが、南アフリカでダイヤモンド鉱山の開発競争が熾烈化した20世紀の初頭、供給過剰に陥ったダイヤモンドの価格はどんどん下落して、「いずれは水晶と同じ値段になる」と言われた時期があったんだよね。

この時、供給過剰の状況を回避したのがアーネスト・オッペンハイマーというユダヤ人の事業家でした。彼は、ロスチャイルド銀行の資金を後ろ盾にして、ダイヤモンド鉱山の採掘した原石を全量買い上げるという、ものすごいカルテルを構想したわけです。

時代は世界大恐慌のあとですから、販売に不安のないこの仕組みを鉱山側は歓迎し、結果的に南アで採掘されるダイヤモンド原石は全てこのカルテルに提供されることになったわけです。その上で、市場に供給するダイヤモンドの量を意図的に絞ることで価格を釣りあげることに成功します。このカルテルが現在のデ・ビアス社の前身だということを知れば、いかに「経済学的センス」がビジネスの世界における知的戦闘能力の向上につながるか、よくわかると思います。



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Saturday, May 6, 2017

「効率化」はなぜ危険なのか?

この度、『人生を守るための最後の時間術』というセンセーショナルな題名の本を出しました。


なぜ「人生を守るため」なのか、なぜ「最後」なのかについては、本書をお読みいただきたいのですが、その理由を一つだけ、本書から抜粋する形でここに紹介しておきたいと思います。

それは、なぜ時間管理において「効率化」という考え方が危険なのか?という問題についてです。以下が本書からの抜粋です。

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忙しいのになかなか成果が出せない、と悩む人の多くが考えるのが「時間の効率化」でしょう。おそらく「最後の時間術」という本書の題名を見て手に取った人のうち、かなりの人はそのようなスキルを本書に期待されていることと思います。

しかし残念ながら、もともと「悪い時間ポートフォリオ」を抱えている人が、いくら時間の効率化を図ったところで、自分の人生を時間泥棒から守ることはできません。理由は実に単純で、効率化によって生み出された時間の余裕の多くは他者の富になるからです。

ここは非常に重要な点なので、よく意識してください。「悪い時間ポートフォリオ」とはつまり、時間の多くを他者の利益のための活動に浪費しているということです。そのようなポートフォリオを持ったまま、効率化を進めたところで自分の「豊かさ」は増えません。

搾取される立場にある奴隷が仕事の効率化をいくらやったところで自由にはなれません。効率化によって得られた富は、すべて奴隷の雇い主のものになるだけです。いささか極端な例えに思われるかも知れませんが、程度問題の比較であって基本的には同じことです。

考えてもみてください。私たちの生活は、多くの領域において、百年前と比較にならないくらい「効率化」されています。かつて8時間かかった東京=大阪間の移動は3時間足らずになり、一週間かかっていた外国の都市との文書のやり取りは、Eメールの普及によって「一瞬」で済むようになりました。

しかし、これだけ「効率化」されたのに、私たちの生活の時間的豊かさは増したでしょうか?ほとんどの人にはそのような実感はないはずです。いやむしろ、効率化が進めば進むほどに、ますます時間がないという実感が増しているのではないでしょうか?なぜこういうことが起こるとかというと、効率化によって達成された生産性の高さは、ごく一部の人、つまり「労働成果を搾取する側」にある人にかすめ取られているからです。


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労働成果の大部分を搾取される立場にある人であれば、効率化を考える以前に、そもそも「搾取される立場」からどう脱却するか、搾取する側からいかに搾取し返すか、を考えるために知恵と時間を使うべきであって、目の前の仕事をどう効率化するか、などという問題に取り組んでも自分の豊かさを増やすことはできないのです。

時間ポートフォリオを意識しないままに、いたずらに効率化を図ろうとするのは、搾取の構図を拡大するだけで、むしろ危険なことだと言えます。

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いかがでしたでしょうか?
興味を持っていただけたのであれば、ぜひ本書を読んでみてください。

Wednesday, April 26, 2017

あなたには「スピークアップする義務」がある


昨日のTEDのオープニングで、TEDのマスターキュレーターであるクリス・アンダーソンが、こんなことを言っていました。

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政治については、私自身もうんざりさせられるのですが、しかし、向き合わないわけにはいきません。
今回のTEDでも、あちこちで、政治のことには触れます。
しかし考えてみれば、長い目で見ると、世界を本当に変えるのは、科学者や技術者、そしてアイデアではないでしょうか。
政治家たちはやってきて、そして去っていきます。アイデアの命は長く、人類に影響を与え続けます。
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もちろんこのスピーチは、TEDのコンセプトである「Ideas Worth Spreading」を受けてのものです。

政治家たちはいなくなる、でもアイデアは残り、人類に影響を与える。
だからこそアイデアを共有する「場」が大事だということです。

アイデアは、いわばリレーのバトンのように世代から世代へ、文化から文化へと引き継がれていきます。そして、やがて他の人から引き継がれた別のアイデアと結びつき、さらに新しいアイデアを生み出し、それが人類に影響を与えていくことになるでしょう。

そして、いま私たちが、私たちの祖先から受け継いでいる「アイデアのバトン」をあらためて見つめてみれば、その多くが、かつては強く非難・批判されたものであることにも気づきます。

そのように考えてみると、どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、私たちには、自分のアイデアを「声に出す」ことが義務付けられているように思います。どんなに素っ頓狂に思えるものであっても、その時点で支配的な考えとは摩擦を起こすものであっても、あなたは「自分のアイデアを声にだす義務」がある、ということです。

この義務を多くの人が自覚し、いろんなところでアイデアの摩擦が起これば、日本は今よりもずっと良い国になると思うんですよね。