へうげもの

千利休から茶道を受けついてこれを発展させた古田織部の物語。

自分は武人なのか、それとも茶人として生きて行くのか、という点についてふらふら迷っているところが実に共感できて面白い。

特に、物欲の煩悩が強い僕には、名物に垂涎する古田の姿が痛ましくも共感できてしまって悲しい。自分も同じ時代に産まれていたら大変だっただろうな。今みたいにマスプロダクションじゃなくていい品って一品ものだからとにかく手に入れるのが大変。

信長の寵愛を受ける様な戦功をあげるか、商売で大もうけするしかない。

生きにくい時代だ。

でも、その生きにくい時代を、美意識と政治をバランスさせながらなんとかやっていった男の話で、共感できますよ。

面白い

千利休について読んで思ったこと


千利休に関して何冊か読んで学んだこと、考えたこと  

■権力と美意識の邂逅によって拡大する文化の地平 

千利休というのは日本における芸術文化史にそびえ立つ巨塔というイメージがありますが、実際に何をクリエートしたのか、という点になるとどうも議論はあいまいになってしまうのではないでしょうか。 

利休自身は堺の魚問屋という出自で大工でも陶工でもありませんでした。待庵も楽茶碗も彼自身の手で作られた物ではありませんが、彼の美意識に基づいて、今風に言えばプロデュースされたものです。言ってみればラルフ・ローレンやグッチを再生したトム・フォードみたいなもので、自信が考える「クール」な美意識に従って生活のプロセスをデザインした人です。

利休は当第一の目利きという評判から様々の方面から茶器や掛け物の鑑定を頼まれ、彼が気に入った物が「利休好み」として高額の値がつく様になります。これは、まあ権力と美意識の極点が重なったことで産まれた一種のフェノメノンですね。

一方で、こういうフェノメノンを起こそうと思ったら、何が必要かというと「全権をゆだねろ」ということです。 今のプロダクト開発のプロセスは、様々な人が開発に関与します。一番駄目な関与者は、調査やグループインタビューという名目で参加する消費者ですね。消費者の美意識は正規分布していなくて下方に拡大しているから平均の誤謬が発生して、調査をすると必ずセンスの悪い人に合わせた商品が出来上がってきます。  

利休の場合、このセンスの悪い消費者のメタファーはそのまま一人の人物が役割を負っています。そう、秀吉です。育ちも良くて小さい頃から質の良い品々に囲まれていた利休にとって、田舎もんの成り上がり、成金の秀吉の趣味は耐え難かったと思いますが、彼は秀吉の趣味を全否定するでも無く、全肯定するでもなく、うまく距離感を取りながら自分の美意識と、秀吉というスポンサーの満足度をバランスさせて行きます。

この美意識を完全に捨てきらない、というところが、今のビジネスマン、なかんずくマーケッターには必要なのだと、ハッと気づかされた次第です。  

■神格化することに依って利益を得る人々 

利休の文化芸術史的な位置づけというのは僕にはよくわかりません。感性の問題と言ってしまえばそれで終わりなのですが、なぜこれほどまでに日本史において巨大な位置づけを持つに至ったのか。その点を考えるときに、利休を神格化することで大きな利益を享受することが出来た権威があったことを考えない訳には行きません。  

ヨーロッパのカルト教団の多くが教祖や教義の出自をテンプル騎士団に求めるのは、由緒あるオリジンを持つことが非合理的な周囲に対する圧迫力を現出させるということについて極めて彼らがセンシティブだったからです。 利休を神格化することは、当然利休の周りにいた人、なかんずくその流派を継いでいった人々、さらに言えばその子孫たちに暗黙の権威を与えることになります。  


■進化の泊まってしまった文化をどう考えるか 

楽茶碗は、利休の美意識に基づいて長次郎が開発した焼きのメソドロジーですが、驚いたことにこの楽茶碗の焼き方は一子相伝で、かつその焼き方は利休の頃と釉薬、窯、土も変わらないということが、非常にポジティブに語られています。

この点について二つ考えてしまいました。  

まず、一子相伝ということに何の意味があるのか?という点。

本当にいいメソドロジーであればそれを解放してより良い作品がたくさん産まれることが社会に取ってはプラスのはずです。一子相伝というのは、いわば著作権が無限に持続して、しかもオリジナルのみならず、同じ方法論を用いて作られる文物すらすべて否定する、という態度です。

これは、現在の世の中の趨勢であるコピーライトフリーの流れとは真っ向から反対する考え方です。  

長次郎という人物の焼き物の才能がどうであったか、を考察することは現在は非常に難しいようです。というのも、利休と長次郎の関係は、デザインコンセプト=利休、実際の作業=長次郎というほど単純化した関係ではなかったらしいのです。恐らく実際には、コンセプトメークと実作業がないまぜになったプロセスの中 で利休と長次郎が感応し合うことであの楽茶碗が産まれているのだと思います。

長次郎には恐らく「ただ焼いた」というだけ以上の、美意識のセンス、芸術家・クリエイターとしての素養があったのでしょう。 それはわかる。ただ、このメソドロジーを一子相伝にしている、というのは、要するに自分で「センスは初代にかなわない。後代はただの人。だから、このメソッドを公開してしまうと”楽茶碗の創設者”という利権を楽家は維持できない」ということを認めてしまっているのと同じではないでしょうか。

確かに楽茶碗は壮烈に美しいと思います。僕自身は曜変天目よりも美しいと思っています。ただ、これを何代にも渡って子孫が作りうるほど、芸術家の血というのは子孫を超えて伝承されるものだとは、僕は考えません。 

例えば音楽でも絵画でも、世代間に渡って歴史のヤスリに耐え抜く様な強かな作品を残し得た「血」というのは殆どありません。唯一の例外がバッハくらいのものでしょう。殆どいないんですよね。モーツァルトもレオナルドもピカソも、その末裔から歴史に名を残した芸術家は産まれていません。  

恐らくここに、日本の文化がある段階で急速にフリーズドライされてしまうことの要因があるのではないでしょうか。そんなにいいメソッドなら解放すればいい。自信があるのなら、解放したメソッドを使ってなお楽本家としての存在感を出したいのであれば人より修行を積めばいい、と思ってしまう僕は偏屈なんでしょうか。 その結果、気になっている二点目である「窯も釉薬も土も利休のころと変えていません」ということをポジティブに宣言するという滑稽な事態が発生して来るのだと思います。  

これって何の進歩もしていないってことですよね。 だって利休が活躍したのって1500年代ですよ。1500年代って、音楽はまだグレゴリオ聖歌の萌芽が出始めたころで、まだポリフォニーすら産まれていない。音楽の父って言われているバッハが活躍したのが1700年代ですから、今の西洋音楽の基礎がやっと産まれようかって言う時期の200年前に進化が止まっちゃったってことですよね。絵画で言えば、まあルネサンスの頃ですね。ラファエロが丁度活躍してきて、これからフェルメールやジョルジュ・ラトゥールが出てきて、この後でゴヤや印象派が出てくる、という、まあそういう時期で止まっちゃっていることを、恥ずかしいとは思わずに宣言しちゃう神経というのはどこから出て来るのか、と考えると、やはりこれは「利権」を守る、神格化した存在を神格のまま維持して行く、というミッションを負っているから、と考えられないでしょうか

グーグルに勝つ広告術2

前著「グーグルに勝つ広告術」に続く、続編をそろそろ書きませんか、という有り難いお誘いを光文社の編集者の方から頂いた。

近々、実際にお会いしてどのネタで行くか、という方向性の擦り合わせをすることになりますが、何らかの形で20世紀後半にほぼ完成した経営学の枠組みが、なかなか今後は難しいのではないか、という様な話が出来ればと考えています。

かといって経営学の基礎を勉強しても意味がない、ということを言っているのではありません。

武道では「守・破・離」という言葉がありますが、これの「守」をやるだけでは競争に勝てない時代になった、ということです。

1970年代くらいまでは、日本では米国で開発された最新の経営科学に関するリテラシーが低かったので、一種教条的に教科書を勉強して実践すれば、勉強していない人や会社に対してアドバンテージが産まれていました。

つまり、上記で言う「守」だけで勝てたんですね。「守」というのは、師範に教わった型をしっかりと守って行くことを指しますから、ビジネススクール等で学んだ教科書的なマーケティングを行うだけで勝てた時代だったと言えます。

ところが、90年代以降くらいになってリテラシーのばらつきが少なくなってくると、今度は「守」だけでは勝てなくなってくる。型を覚えた上で、あえてそこから外れる。「離」が必要になってくる。

その典型的な例をアップル社に見ることが出来ます。
アップルはもともとスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックによって創業された会社です。ジョブズもウォズニアックも、経営学の素養は無い、一種のギークです。米国の創業経営社には良く見られることですが、二人はアップルがある程度以上の大きさになった段階で、プロの経営者を招き入れること決定し、その結果CEOに就任したのが当時ペプシの社長をやっていたジョン・スカリーです。

ジョン・スカリーはもともと広告代理店につとめておりペンシルバニア大学ウォートン校のMBA保有者でした。ウォートンはそれほどマーケティングに力を入れている大学ではないですが、まあ経営学の素地としてはジョブズやウォズニアックと比べるべくも無いでしょう。ちなみに、この時のジョブズのジョン・スカリーへの口説きは、三国志において劉備元徳が諸葛亮孔明を口説いたエピソードを思わせます。

ジョブズは、スカリーに対してこう迫ったと言われています。
このまま一生、砂糖水を売りつづけるのか、それとも世界を変えるチャンスをつかみたいか?
Do you want to sell sugar water for the rest of your life, or do you want to change the world? 

そして、その後の経緯はご存知の通りです。当初はDynamic Duoとして理想の補完関係と言われたコンビは、結局スカリーによるジョブズ追放という第一幕の終演を迎えますが、アップルの経営はその後悪化し続け、ジョブズの復帰による再生という第二幕の途上に、今はあります。

僕は様々な場所でこれを言ったり書いたりしていますが、ジョブズのマーケティングはムチャクチャです。つまり型破り、「破」なんですね。一方でスカリーの経営は、基本的に「守」にです。それも極めて完成度の高い「守」。その完成度の高さは、彼リーダーシップの元、ペプシの売り上げがついにコカコーラを抜くまでになった、ということでも証明されています。

しかし、その完成度の高いマーケティングの技術を持ってしても、現在の競争環境で勝利を収め続けるのは難しい・・・・では、何をどう考えて行けばいいのか?

それを、読者と一緒に考えて行く様な本を書ければいいかな、と思っています。

差別化の事例

岐阜県内を走る養老鉄道というのがあって、ここが車内で薬膳料理を提供する様になって劇的に経営が改善しているらしい。まあ差別化の成功事例ということなのでしょうね。

これ、単なる思いつきの企画がたまたまうまく言った、ということなのかも知れませんが、以外に針に糸を通す様なバランスで出来上がっている、と思います。

マーケティングプランニングの基本的な流れは
1:環境分析(市場、自社、競合の分析)
2:市場のセグメンテーション
3:ターゲッティング
4:ポジショニング
5:4Pの作成
6:実行
7:検証に基づくプランの修正

になりますが、養老鉄道のこの企画って、まずターゲッティングをシニア層にしぼった、というところに勝因があると思います。これってスゴく勇気のいることなんです。上記の流れでいう3と4って結構「可能性を捨てる」作業になるので、市場を小さくしていくっていうことなんですよね。養老鉄道の場合、多分女子大生を狙うとか、青春18切符で旅するちょっとエキセントリックな若者を狙うとか、若手OLを狙うとか、そういう考え方が、多分関係者の間でもあったんですが、ここをあえてシニア層狙いにしぼって行こう、という考えに収斂できたのが良かったのでしょう。

ここで収斂するのに何が必要かと言うと、上記の1の環境分析で、ここをしっかりやっておくから「OLや女子大生狙ってもウチは絶対に勝てない」という「前向きのあきらめ」が出てくるわけで、それが結局ターゲットを絞る、ということにつながったのだと思います。

シニアにしぼっているから、出す料理も薬膳にこそなれ、地方でよく出される出来損ないのフレンチやイタリアンにならなかったということでしょうか。

つまり、自分たちの強みをより活かす形で、ターゲットと提供するサービスをパチっと合わせて展開した、ということになりますね。誰かセンスのいいマーケッターがいたんでしょうか。

以下、Yahoo!からの抜粋

岐阜県内を走る養老鉄道の「薬膳(やくぜん)列車」が好評だ。年々乗客が減少し赤字経営が続く中、「乗客ではなく空気を運んでいるような状況」を脱出しようと企画。3月から運行したところ、予想を上回る人気ぶりで、現在は7月前半までの予約がほぼ埋まったという。
 薬膳列車は3両編成の1両を利用。乗客に薬膳料理を味わってもらいながら、濃尾平野や養老山脈など雄大な自然の風景を楽しめる大垣−桑名間を約1時間半で走る。
 料理は生薬をブレンドした食前酒に始まり、地元で採れた季節の野菜の天ぷらや煮物、黒ニンニクチョコレートとタンポポ茶のデザートまで計15品。食事の合間には、薬膳の効用や観光スポットの案内があり、薬膳グッズも販売される。
 毎週木曜と土曜の昼時に1本ずつ運行し、定員は15〜40人。毎月1日に翌々月分の予約が始まる。料金は同鉄道の一日フリー乗車券付きで大人5000円、小児4500円。

日本人の好み

「我々は宝石や金銀を宝物とするが、日本人は古い釜、ひび割れた陶器や土器を宝物とする」
(イエズス会宣教師 ルイス・フロイス)

知識欲というマーケット



性欲という本能が風俗産業を形成して、食欲という本能が外食産業や食品産業を形成しているのと同じ様に知識欲を満たす産業って有り得ないんですかね。

出版はそうなんじゃないの?

そう、多分出版産業市場の一部は知識欲に依っているけど、もっと実際的で体験まで含めて提供できる様なサービスが有り得ないかと思っています。

例えば、最近「茶」が気になっています。
加藤茶ではないですよ。煎茶とか抹茶とかの、お茶のことです。

昔から感じていたのですが小生はコーヒーと体質が合わないらしく、飲むと体調が、実に微妙な変化なんですが、悪くなります。一方でお茶は、これはむしろ良くなる、ような気がする。生理学的にどういう変化が起こっているのかはいまいちわからないんですけど。

あと、コーヒーが持っているパワフルなイメージとも、ちょっと自分は合わないかな、と思っています。コーヒーと馴染みの深い国と言えばアメリカとイタリアでしょうか。イタリア料理を食べたときには、さすがに食後にエスプレッソを飲みますけれども、特にアメリカ的な、ああいうパワフルなイメージ、というのも、なんか自分には合わないかな、と。かれこれ10年アメリカの会社に居るんですけど、まあとにかく、茶の方が人格にも体質にもあっているんですよね。

で、いろいろと調べてみると、これが実に奥深い。

まず、上質な茶葉になればなるほど、熱湯でいれてはいけないとか、日本茶も烏龍茶も紅茶ももとは同じ葉っぱだけど、発酵の度合いが異なるとか、日本茶は無発酵なのでビタミンも栄養素もすべて残っているけど、紅茶になるとこれが殆どなくなるとか、一煎目で殆どの栄養分やうまみが出てしまうとか、選ぶ水によって雲泥の差が出るとか、いろいろです。

お茶を美味しく楽しめる人生は豊かだ、と考えたときに、これを一種のエンタテインメントとして、体験的に学習させてくれるサービスっていうのがあったら、僕は利用するだろうな、という気がするんですね。

例えば同じお茶で同じ条件で煎れたのに、水が違うと「こんなに違う!」というのを、体験させてくれて、美味しいお茶のいれ方やお茶に関する基本的な知識の体験を教えてくれる様な機関があったら、結構面白いんじゃないかと。

先日、人にこれを飲ませていただいて本当に日本の美味しい物の神髄って恐ろしいな、と思ったのがきっかけです。
https://shop.ippodo-tea.co.jp/shop/goods/index.vm?_pageNumber=4&_sort=2&_sortType=3&_categorySeq=8&_searchFlag=2&_goodsSeq=10215


もっと言えば、そういう勉強が出来るのに加えて、「こういうのって楽しくないですか?」という、気付きのネタを提供してくれる様なソサイエティがあったら、すごく楽しいのではないかと思っています。

そういう機関を、なんか作りたいんですよね。営利団体ではなく、有意の人が、お互いに人生を豊かにするために集まって学び合い、体験する場。Society Liberal Artsという感じでしょうか。もともと、一般教養と誤訳されてしまったLiberal Artは、古代ギリシアでは市民(自由人=非奴隷)に必須の教養であり、最終的には人をして自由にする教養、の意味ですからね。

ちなみにお茶に関しては、下記のHPが楽しいですよ。
http://ocha.tv/how_to_serve/nihoncha/

アスペンの若手版

アスペン・インスティテュートという組織をご存知でしょうか?

Aspen Instituteと英語では書きますが、簡単に言うと、経営者向けに経営学ではない、一般教養=リベラル・アートを教える研究・教育機関です。

日本アスペンの代表はゼロックスの小林陽太郎さんがやられていますが、コンサルティング会社のパートナーの多くが、アスペンのファシリテーターをボランティアでやっています。

具体的なプログラムは僕もよく知らないんですが、ものすごく単純化して言うと、その筋の専門家が、古典を解説してくれる、というプログラムです。古典って言うのは論語とか、ガリア戦記とか、リヴァイアサンとか、そういうもんですね。

戦略コンサルティングをやっていると肌感覚で感じるのですが、経営技術がどんどん細分化・専門化していて、会社という社会的存在を時間軸・空間軸でどう位置づけるか、ということを全体的に考えるポジションの人が、すごく少なくなってしまっていて、「それではいかんのじゃないか、経営というのは、社会に大きな影響を与えることである以上、その責任者である経営者は、人類の英知について無知で居ることは許されない!」という問題意識で産まれたのがアスペンで、経営者教育という観点では、圧倒的なプレゼンスを獲得するに至っています。

僕が今考えているのは、20代後半から30代、40代前半くらいまでの、まだ人となりが固まっていないビジネスマン向けに、アスペン的なことを教えたり研究したりする機関が必要なんじゃないかな、と思っていて、そういう会社を作れないかな、とちょっと思っていたりします。

僕はグロービス経営大学院でも講師をやっていますが、ああいうばりばりの経営学というよりかは、もうちょっと全人格的な教育に近いところを出来る場所を作れない物かと思っているんですよね。

そんなに資金の居る話じゃないので、少しずつ前に進めようと思っています。

レオナルドのコンプレックス

レオナルドの素描集を眺めてると、彼が様々なデッサンの対象物のディメンジョンを図ってメモしているのを見ることになります。

例えば人間の足を題材に、その足の大きさとくるぶしから膝かしらまでの距離の比率や、脚の長さに閉める太ももの長さなどを事細かく記録して、その比率を計算してメモしています。

通常、こういったことはデッサン力のない画家が、自分の画力の低劣を補うために一種の補助として用いるためのものですが、言うまでもなく、レオナルドは美術史においてはピカソと並ぶ「デッサンの名人」でした。

恐らく、レオナルドという人は今で言う一種の障害者、奇形の一種だったのだろうと思います。トム・クルーズとダスティン・ホフマンの共演で話題になったレインマンは、サバン症候群の患者の異常な記憶力の良さを映画の中で記述していますが、レオナルドも同様にして、一種の脳の奇形に依って以上な能力を獲得していたのではないでしょうか。映像として脳に入力された信号そのままに手を動かしてそれを再現する、という能力の秀で方が、当時はおろか時代を通しても異常といわざるをえない水準に達している様に思えます。

デッサンに関して、歴史上空前絶後と言えるだけのパフォーマンスを発揮したレオナルドが、なぜあれほどまでに、対象のディメンジョンを事細かに記録することに拘泥したのか。

これほど単純でかつ深遠な(僕にとっては)問いを、実は古今の殆どの美術史学者は研究のテーマとして取り上げていません。

ウィトルウィウス的人間、という有名な図像があります。正方形に各四辺に接する円の中に人体増が描かれている図ですが、レオナルドは、人体をはじめとした「美しい図像」に何らかの原理的な法則を見いだそうとしていたのかも知れません。

ダ・ビンチコードのなかでは「黄金比」という言葉で語られていますが、美学的に人に訴えかける物は何らかの数学的な均衡を持っている、というルネサンス的なテーゼにもとずいて考えているにも関わらず、自分はそんな計算をしなくともどんどん美しいデッサンが出来てしまう、というのがレオナルドのジレンマだったのかも知れません。

マニエリスムまでのヨーロッパ美術の特徴は黄金比とシンメトリーと言い表すことが出来ます。一方で、日本の美術は黄金比はともかく、シンメトリーとは無縁でした。龍安寺の石庭が象徴的ですが、まあ一見何の秩序も無い様に見えるし、ブルーノ・タウトが涙した桂離宮もシンメトリーとは無縁ですね。

そういう20世紀初頭に起こった西洋美術否定のムーブメントを考えると、レオナルドが既に西洋的な美術の限界を考えながら、非シンメトリックな「美」の有り様を、自分の直感に基づくデッサンを超えて思考しようといたことが伺われます。

なぜ、僕のデッサンはこんなに美しいのだろう・・・・わからない
と考えて、そのデッサンに共通する「何か」をディメンジョンの比率から、帰納的に求め杳としてなのではないでしょうか。

:黄金比については下記を参照
http://ja.wikipedia.org/wiki/黄金比

鉄鼠の檻 京極夏彦 読了

京極夏彦さんの小説を初めて読んだけど面白かったです。

アマゾンで買ったので厚みがわからなかったのですが、届いてみたら文庫本にも関わらず1500ページの大部で厚さが6センチもあり、うわあ読み切れるかな、と思ったのですが、あっという間に最後まで読み切ってしまいました。

和漢古書を専門にする古本屋「京極堂」主人にして、その実体は陰陽師という中禅寺秋彦が主人公で、この人が、箱根仙石原の山奥深くにある禅寺を中心にして起こる僧侶の連続殺人事件に挑む、という話ですが、いわゆるトリック解きの探偵物とは異なります。

本好きの方ならピンと来るかも知れませんが、設定は碩学ウンベルト・エーコの傑作「薔薇の名前」と非常によく似ています。薔薇の名前では、僧院が収蔵している「本」が物語の謎を解く鍵になってきますが、こちらの話も同じです。

主人公をして、「ここにあってはならない」と言わしめる本があることによって、事件が起こると、まあそういう話です。

まとめてしまうと古寺を舞台にした探偵小説ということなのですが、同じ様な舞台設定が多い横溝正史と異なるのは、こちらは禅や仏教に関する膨大なリサーチが前提になっていて、読み進めるうちに日本の仏教史、曹洞宗と臨済宗の違い、禅における思考様式などがある程度見えてくる、というのが面白いところです。

よく、禅宗の和尚さんが「ほにゃらららほにゃらら、これいかに?」とか訊いて、若い坊主がそれに答える、みたいなシチュエーションがありますが、あのクイズ、というかパズルみたいな質問は「公案」と言って、その場で考えた物ではなく、基本問題がちゃんとある、というのも面白かった。だから有名な「公案」というのもあって、この小説の中では「狗子仏性」(くしぶっしょう、と読む)というのが出てきます。

簡単に言うと、

ある日、雲水が趙州和尚に「犬に仏性はあるか?」と訊くと「ない」との答え。
別の日に、雲水が趙州和尚に「犬に仏性はあるか?」と訊くと「ある」との答え。
さあ、この矛盾をどう解く?

というものです。これは「アル」と「ナイ」の二元論をどう考えるか、という問題ですね。
二元論はアリストテレスがまとめた形式論理学の世界ですが、禅はそれとは異なる認識の知性を持っている様です。

あともう一つ面白かったのが「南泉斬猫」という公案で、これは

ある日、若い坊主たちが猫に仏性はあるかないか、ということで議論していた。
騒がしいので南泉老師が出てきて問うて曰く、

「禅を一言で言い得てみよ。言い得なければこの猫を斬る」

雲水たちは静まり返り、一言も発せない。老師は猫を斬った。

その夜、老師は若い別の雲水(上の狗子仏性で和尚だった趙州の若い頃)に、同じことを訊いたところ、趙州は草履を頭の上に乗っけてすたこらさっさと逃げてしまった。

それを見て南泉老師は「お前が昼に居たら猫を斬らずに済んだのに・・・」と嘆息した。

という話です。

まったく意味が分かりません。猫が可哀想。

本節の謎解きも面白いのですが、禅寺での殺人事件ということで、こういった禅にまつわる話が謎解きの鍵として出て来るので、それを追っかけて行くだけでも面白いですよ。


グランドからアップライト



30年連れ添ったグランドピアノを売却して、アップライトピアノを導入しました。

理由は・・・まあいろいろですが、下記が主なポイントです

1:グランドがあると部屋のレイアウトの自由さが奪われる
2:黒のアップライトを弾くのはジャズメンみたいでかっこいいと前から思っていた
3:単純に使い込まれた黒のアップライトのたたずまいが好き
4:もともとのグランドのYAMAHA的なカキーんとした音より、丸くて明るい音が欲しかった
5:もともとのグランドの重く、ストロークの長いタッチが、弾きこなしにくい

母に譲ってもらったグランドだっただけに思うところもあったのですが、今回、前から検討していたアップライトへのリプレースを決断したのは、大橋ピアノの出物があったからです。

・・・大橋ピアノ

かつてベヒシュタインのもとで修行を積んだ大橋氏が開いたピアノ工房で手作りされ「国産最高」の名を欲しいままにした、あの大橋ピアノのアップライトです。その生産台数は4000余り。材料のコスト高と職人の教育問題、そして何よりも大橋氏自身が二代続けて急逝したことでメーカーとしては解散してしまいました。

私が購入したのは、初代大橋氏が組み上げた物でサステインとソステヌートの二本ペダルでそれとわかります。二台目大橋氏の組み上げた物はそれに弱音が加わり、三本ペダルとなります。

フェルトにレンナーが使われている等、主要パーツはスタインウェイやベヒシュタインと同じドイツのメーカーのモノが使われています。

今日、30分ほど試し弾きをしてみましたが、ピアノの箱全体が共鳴して柔らかい響きを出してくれて大変感激しています。

1枚目が去り行くグランドです。今まで有り難うございました。
2枚目がやってきたアップライトです。これからよろしく御願いします。


CG禁止令

さっき、ナイキが作成した、というよりかWieden & Kennedyが作成した、NikeのサッカーのCMをYouTubeで鑑賞していたのですが、その中の一つに、ロナウジーニョの神業をフューチャーしたCMがありました。

本当にスゴい。

http://www.youtube.com/watch?v=w891tt4OkYc

で、スゴ過ぎるが故に「これってCGなんじゃないの?」っと思ってしまいました。

もともと特撮やCGは、人のイマジネーションを具体化する極めて有力な武器として登場してきたわけですが、浸透しすぎた結果、どれが「本当の人間の努力と天才によって達成された業」で、どれが「単にフィルムやプログラムの加工」に依って産まれた物なのか、区別がつかなくなってしまっているのが現状です。

正直に言うと、僕は、上記のNikeのCMのロナウジーニョの業は、あまりに人間離れしているが故に、あ、これはCGだな、と思いました。

これって、映像やコンテンツがインフレを起こしちゃっているってことですよね。いかにもアメリカらしいんですけど、普通にセックスや対話で得られる快感、つまり脳内に分泌されるドーパミンやβエンドルフィンでは飽き足らずに、薬物の力で抑制中枢を弛緩させることで、それらの快感物質、興奮物質がとめどなく流れる様に「人工的に」してしまうのと、同じことですよね。

痴漢で逮捕された田代まさしは、覚醒剤をして「一度覚えてしまうと、これなしの人生は考えられない。覚醒剤をやってセックスすると、脳に鳥肌が立つくらい気持ちいい」と供述していますが、CGや特撮を覚えてしまった人類にとって、人間が繰り出す「人間技」の感動喚起力はずいぶん目減りしてしまっているんでしょうね。

人間業のスゴさを目減りさせた映画の典型例は「マトリックス」と「小林サッカー」が筆頭でしょう。こういうのを見ちゃうと、普通(普通じゃないんだけど)に繰り出されているスポーツ界の神業がずいぶん陳腐に見えてきてしまいます。

これは畢竟、その世界に憧れる予備軍のモチベーションの低下につながります。

CGが発達すると、人間業が退化する・・・・こう考えると、もしかしたら特撮やCGには、ある種の規制が今後必要になって来るのかも知れませんね。


Esquire休刊に思うこと


Esquireが休刊になってしまいました。

昔、代理店の営業局に居た身からすれば、部数的にも広告営業的にもなかなか難しいだろうなとは思っていたのですが、嫌な予感は的中する物ですね。

今の雑誌業界の抱えている問題は構造的にはテレビの優良番組が「視聴率が取れない」という理由で打ち切りになるのと同じです。 要するに視聴率、雑誌で言えば部数になりますが、を同じ単価でしか広告主に売れていないという点が問題なわけです。


視聴率や部数といった数字の先にあるものについて、代理店をはじめとしてテレビ局や出版社が、長いこと説明責任を放棄してしまっていたことも、今回の事態を招いたことの遠因の一つなのではないかと感じています。

かつてのWhole Earth Catalogueの様な、多数派ではないけれど社会の先端を切り取ってくれる様な媒体がなくなって大衆迎合的な雑誌のみになってしまったら社会はとても味気ない物になってしまうことは間違いありません。
一方で、文化とか芸術性の剣を振りかざしても、マスメディアが広告主という事業体に広告費を依存している以上、これはせんないことです。

問題は、視聴率や部数という数字以外に、広告単価を設定する話法を持っていないということなのではないでしょうか?
マスコミ業界が、「アテンションの量」以外の値付けのロジックを生み出さない限り、少数が淘汰されるという非常に不健全な流れは押しとどめられないと思います。

HPのマグクラウド

HPが個人で雑誌を作れるサービスを始めたらしい。

その名もマグクラウド。

http://magcloud.com/

規定のフォーマットに則って自分で作ったページをアップロードすると少部数でも印刷、販売、郵送までしてくれる。

これで21世紀のWhole Earth Catalogueでも作ろうって人は出てこないですかね

未来に残したいもの

ジャスパー・モリソン曰く

プロダクトそのものよりも小さな地域の社会システムの保存に興味があります。

そのために、自分の暮らしているエリアの小さな店で、なるべく買い物をするようにしています。

もし、買い物の手段が大型店やCVSだけになってしまったら街の環境は荒廃するでしょう。


Art for the bottom billion

コンビニの弁当は棄てられる。

日持ちしないからだ。

でも余ったCDやプリントは別に腐らない。

だったら、一日一ドルで暮らす10億人の人たちに、それを届けられないだろうか?