読了

「マズローの心理学」と「イエスという男」を読了。

大変面白かったです。

実はここ2年程読書はハズレが多かったのですが、今から考えると「自分がこの先なにをテーマにやっていくのか?自分の興味と自分の仕事を、どう重ね合わせていくのか?」がまったく見えていなかったことがその原因なのではないか、と思われます。興味深いと思っても、自分とその本の関わりがよくわかっていないと、やっぱり本から「引き出せ」ないように思えます。ここ半年程で、また「自分が掘り下げるべきでない領域」と「掘り下げて行くべき領域」というのが少し見えて来て、それが読書の実りを豊かにしてくれているのだと思います。もう少しキザな言い方をすると、広い意味で「希望」がないと、読書から実りを得られない、ということなのだと思います。

マズローの心理学
フロイトは病的な人ばっかり研究したので、「病的な人の心のシステム」を構築したけど、この領域の研究をいくらやっても「自己実現」への道は見えない。ということで、「病んでいる人」よりも「自己実現」した人を研究すべきであって、この「自己実現した人」をいろいろと調べると、共通項が見えて来て、それってこういうことんだよね、という本です。

フロイトの「精神分析入門」を初めて読んだのは中学生のときです。かなり変な中学生ですが、そのときに覚えたフロイトの学説に対する非常に強い違和感の原因を初めて他者から解説された気がしました。フロイトは、なぜかくも有名かつ高名なのか?恐らく「無意識」というものの影響の大きさを初めて指摘した、という点が大きかったのではないでしょうか。パイオニアというのは、全体としての作品の完成度や思想を別にして、往々特別扱いされるものですよね。これは美術史でも同じで、例えばジョン・ケージとかクセナキスなんかは手法そのものが革命的に新しかったので人口に膾炙するようになりましたが、作品そのものの完成度はそれほど高くないですよね。

マズローは、心理学のフロンティアを切り開いた巨人=フロイトのアプローチを「壊れた時計ばかり見て、時計がどう動くのかを研究しようとしている」と論難し、人が幸せな人生を生きるのに資する様な心理学を打ち立てようとすれば、研究の対象は「自己実現した人」であるべきだ、と指摘します。そして、このアプローチから見えてくる人間性の地平は、フロイトがえぐり出した残酷で露悪的な本性とは全く異なります。フロイトについては、僕は子供のときから「こいつは正直、ホンモノなのか?」と思ってたのですが(要するに、人間性の本性が残酷で動物的なんじゃなくて、アナタが残酷で露悪的なんじゃないの?と思っていた)、マズローだけでなく、フロイト後の心理学者の多くがフロイトの理論をこきおろしているのを読んで30年来の溜飲を下げました。

イエスという男
新約聖書の福音書は、イエスと親交があったりなかったりした人が、ビミョーに人の話を訊いたり、教会の都合を考えたり、ローマ政府のご機嫌を損ねないように気を使いながら、いろいろと工夫して作った物語です。で、このビミョーに、物語の内容を左右している部分を、タマネギの皮をむくように歴史学の手法を用いてハガしていったときに、史実として「人間イエス」が何をどのように考え、どのように発言したのか、ということが見えてくる。

これもフロイトじゃないけど、新約聖書の記述も、そのまま飲み込めばいいのかも知れないけど、僕は昔からそれができなくて、咀嚼して理解しようと思うとどうしても筋が通らないところが、実はものすごく多いんですよね。

漱石の「それから」に、こういうやりとりがありますね。

代介:「お父さんは金の延べ棒ばかり呑んでいるからそういうことをおっしゃるんです」
父:「金の延べ棒とは?」
代介:「延べ棒のまま呑むから、延べ棒のまま出て来るんです」

帝大を出ていい年に成っているにもかかわらず相変わらず働こうとしない代介に対して、古人の名言をもって説教する父に対して、代介が言う「金の延べ棒」とは、孔子や老子の著作に書いてある文言、つまり「金言」を、自分の立場なりに咀嚼せず、そのまま反射している、つまり「金言を砂金に噛み砕くことをせず、延べ棒のまま、丸呑みしている」ので、人に説教するときにも、その人也にアドバイスすることが出来ない、つまり「自分が読んだまま、訊いたままのことを言う=延べ棒のまま出てくる」ことを揶揄しているわけですが、多くの聖書の文言にもこれは当てはまります。聖書も、延べ棒のまま呑んでいる人が多い。

新約聖書には、多くの「イエスが語ったとされる文句」が出てきますが、実際に本人が語ったことが明確になっているものは、そのうちのごく一部であって、また実際にそれが語られた文脈が、聖書に記載されているものとは異なることも多い様なんですね。

僕は前から聖書に興味があって、ずっとこの長編の大河ドラマを読んでいますが、やっぱり「不自然だな、なんでこういう対応になんのかな」、「この台詞と解説だとまったく論理的に整合がつかないな、どうしてこういう解説になっちゃうのかな」と思って悩むことが、多かったんですよね。で、それをどう考えたらいいのか、と長いこと悩んでいたのですが、そのポイントのことごとくに、「それって、後の福音書作者が教会の権力を増すため、ないしは当時社会を支配していたローマの検閲をくぐるために、こういう表現にしたのであって、実際の意味は、こういうことですよ」という解説を加えていて、これがまた死ぬ程納得感があるんですよね。

この本を読んで、ずっとイエスという「人間」が立体的に、親近感を持って浮かび上がるようになりました。おすすめです。

キャリアについて


最近、あるきっかけがあってキャリアについていろいろと考えています。

まず、古典的な大家の話から。

心理学者で組織開発のグールーでもあるエドガー・シャインは、仕事選びのポイントとして下記の3つを考えろ、と言っています。

1:自分は何が得意か?
2:自分は何がやりたいか?
3:社会的意義がある、と感じるのはどのような活動か?

で、同様にこちらも有名人ですが、マイケル・アーサーはどう言っているか、というと

1:自分ならではの強みはどこにある?
2:自分が何かをしたいと思うとき、なぜそれがしたいのか?
3:自分はこれまで誰とつながり、どのような関係を築いてきたか?

の3つなのですが・・・

普通に仕事人生を生きて来た人にとって、これらの問いは答えることは率直に言って非常に難しいですよね。例えばエドガー・シャインの問いの2なんて、それがそもそもわかっていたらキャリア論なんて考えないし、マイケル・アーサーの問い2に至っては、それを本気で考え始めたら深すぎて働いてなんていられないよ、ってくらい深遠な問いですよね。この問いを答えるために仕事を犠牲にするのであれば哲学者にはなれるかもしれませんが、仕事で何事かなすのは難しそうです。まあそれはそれでいいキャリアなのかも知れませんが。

ということで、古典的な大家の宣う「キャリアの考え方」に非常に違和感を感じていたところ、なるほどな、と思う論考に出会いました。それがジョン・クランボルツの「プランド・ハップスタンス」という理論です。これ、簡単に言えば

「人生で重要なことは偶然で決まる。だから偶然をまず受け入れよう」

という考え方です。漠としたものであっても自らに望む大きな方向性がなんとなくあるのであれば、自分にとって都合のいい偶然を起こせる様な、何らかの準備や働きかけは出来る、ということです。これは先日紹介した書籍(してないか??書いた気がするけど)である「その幸運は偶然ではないんです」(原題:Luck is no accident)でも同じ主張が展開されていました。

クランボルツは、このPlanned Happenstance Theoryを実際に展開する上で、重要なポイントとして下記を挙げています。

1:好奇心
自分の関心を、狭い範囲にとどめないこと。ある程度関心のある領域に沿って、広く好奇心を持つこと
2:こだわり
自分にとって譲れない点や信念は大事に
3:柔軟性
当初の計画よりずれていても、それが自分の興味や価値観の範囲内であれば、受け入れてみる
4:楽観
どのような結果になっても、得るものはあった、と考えるようにすること
5:リスク
受け身でもリスクは向こうから来る。であればこちらから迎撃せよ

ということで、殆ど精神論なのですが、個人的には「なるほど」と思える点が多いです。これは日本における組織論/人的資源の大家である神戸大の金井先生もほぼ同様のことを指摘されてらっしゃいますね。

キャリア論を勉強して気づいたのですが、キャリアを勝ち負けで捉え、艱難辛苦を乗り越えて理想の仕事を手にしようと思って頑張るというのは実は非常に危険だ、ということです。こういうアプローチで実際に「勝ち」を手に出来る人はほんのごく一部であって、殆どの人はむしろそのような態度を取ることによって「挫折感」のみを残すことになる。この挫折感が、せっかくつかんだ中程度の成功や幸せを、そうと感じさせなくしてしまっている、という側面があるように思います。勝間和代さんが煽る様なキャリアの考え方、というのは非常に危険なんですよね。

完璧でも美しくもないものだけれども、それを慈しんでいるとそれはいつの間にかかけがえのないものに変わる、という話を、以前にもフローベルの短編を題材にして、人生とはそういうものなのではないか、と書きましたが、仕事もまたそういう側面があるのではないでしょうかね。

※:イメージはジョルジュ・ド・ラトゥールの「大工の聖ヨセフ」です。そうヨセフも、そしてイエスも大工だったんですよね。でもヨセフは大工としての人生を全うし、イエスは途中で大工としての活動から宣教活動に入りました。イエスは、大工から宗教家にキャリア・チェンジしたわけです。

Merry Christmas


子を失った母親、伴侶の病気に苦しむ人、親から暴力を受けている子どもたち、仕事を失った父、将来の不安に苛まれている人、・・・・世界はまだまだ切なくなる様な哀しみに満ちているけれども、希望を失わずに生きていくことが、このような時代だからこそ大事なのではないでしょうか。

イエス・キリスト誕生の下りは新約聖書の中ではマタイ伝とルカ伝の二つに、よく似ているけれども細部が異なるエピソードとして記録されています。

「恐れるな。私は民全体に与えられた大きな慶びを告げる。今日ダビデの街で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」(ルカ伝2.8)

古代のパレスチナの状況が、現代とどう違っていたかを細かく考えることは、意味があるとも言えるし意味がないとも言えます。もちろん新約聖書の記述やイエスの言葉を深く理解しようと思えば、当時の風俗や社会状況に関する理解は必須ですが、しかし世界を覆っている嘆きや哀しみの種類について言えば、それは今とほとんど変わりがないとも言えるのです。

僕は新約聖書を読んでいて、2000年という時間を感じさせない「哀しみのビビッドさ」に心打たれることが、よくあります。そういう意味では、当時の人々も今の我々と同じ様な葛藤や悩み、哀しみを抱えていたのだと思います。

そのような時代にあって、先述した天使の言葉「恐れるな・・・」が、どのように人々の心に響いたのだろうか、ということを考えてみたりするのも、クリスマスイブならではですね。

メリークリスマス

WIKIPEDIAへ寄付しますか?



最近、ウィキペディアが盛んに寄付を募っています。

ファウンダーであるジミー・ウェールズさんのお願いの文章も掲載されています。驚くべきことに創立者を始め、運営に携わる全ての人がボランティアであって、対価を受け取らずに運営しているのだそうです。これを読むと、ウィキペディアから多大なる恩恵を蒙っている僕みたいな人は「1000円くらいだったらいいかな」と思ってしまうのですが・・・・

ちょっとよく考えてみよう。

WIKIPEDIAがどんどん成長して、いろいろな情報が全部タダで手に入るようになると誠実に図鑑や辞典を出版している出版社は経営に行き詰ってしまうでしょう。そして、こういう会社の経営が行き詰ってしまえば、中長期的にはWIKIPEDIAに供給される「新しい情報のフロー」は止まらないまでも、非常に細ってしまって、世界は「情報のフロー」から「情報のストック」に軸足を移していかざるを得なくなります。

ここまで考える必要はないのかも知れませんが、WIKIPEDIAに寄付する、ということは「社会が高コストをかけて新しい情報が生み出すよりも、低コストで既にある情報を自由に使えるようにするほうがいい」ということの意見表明である、とも言えます。

ストックの情報が誰でも自由にアクセスできる、というのは非常にリベラルな社会に聞こえるかも知れませんが、一方で、新しい情報を生み出す、ということを生業として成立させなくする(させにくくさせる)というのは、結果としてはナチが行ったような焚書と同じような事態を招く可能性があります。

つまり、一見リベラルな活動に見えるけれどもWIKIPEDIAが大きな情報を蓄えるようになればなるほど、新しい情報を社会に送り出す、というプラットフォームとしての出版という産業はどんどん衰退していってしまうわけですね。

ここまで論を進めると、でも出版というプラットフォームにウェブがとって代わるわけだからいいのではないか?という意見も出てくるかも知れません。この点を考えるには「市場には”知性”を生み出す力があるのか?」という問いに向き合わざるを得ません。

つまり、これまでの人類の歴史の中でプロ編集者が担ってきた、「知性を生み出す人を見出し、それを磨き、世の中に喧伝し、送り出していく」という機能を、マス市場が代替しうるのだろうか?という問いですね。

で、この点に、僕は悲観的なんですよね。ケータイ小説とかは出てくるのかも知れないけど、プロ編集者による「選択・研磨・提示」というプロセスがなくなるとドストエフスキイもキルケゴールも夏目漱石も、生まれてこないんじゃないか、という気がします。でも、WIKIPEDIAがあらゆる情報を提供するようになれば、編集者を食わすプラットフォームは崩壊しちゃいますよね。

ということで、

1:ストック情報は、(ネット環境にある限り)誰でもアクセスし、無料で利用できるけれども、新しい知性は生まれにくい社会

2:ストック情報は、「知」を購える人々にのみ解放されるのみだが、継続的に新しい「知」が、選択・研磨・提示のPFは維持され続ける社会

の、どちらがいいのでしょうか?ということかと思いますが・・・悩ましい・・・

23年



高校生のときに参加した短期留学のプログラムの同窓会が、なんと23年たって初めて開催されることになって参加してきました。

日本からの参加者は25名ほどだったでしょうか?殆どが慶応義塾高と慶応女子高からの参加で、そのうち15名程が懐かしの再会を果たしました。

衝撃的だったのが、見た目については殆どみんな変わりがないということ。ちなみに僕は「ものすごく痩せた」と言われたのですが、はて、そんなに体重変わっていないのですが、顔の肉が落ちたのかしら・・・?

慶応高校から引率のために参加されたシャペロンの松原先生もいらっしゃいました。これまた変わらない・・・・なぜなんだ?

僕はずーっと自分が所属する組織、かつて所属した組織に対する愛着が薄いタイプだ、と思ってたのですが、このときは心底「慶応ってやっぱりいい学校なんだな」と思いました。こういう体験、つまり17歳の高校生を集めてハワイに一ヶ月間送り込んで向こうの家族と生活をさせながら、韓国やタヒチその他の高校生と一緒に学校に通う、という体験をする機会を与えてくれた慶応に感謝したいと思います。

最近、いろいろなことが「節目」を感じさせるんですよね。年齢とか家のこととか仕事のこととか。今回の同窓会も、いつもと違う「脳の別の部分」を刺激されるような不思議な余韻がずっと続いていて、とてもいい刺激になりました。

あと感じたのはいい意味で年を取った、ということかな。10年前にこの会があったとしたら、きっと楽しかったかも知れないけど、色々な感情、それは劣等感とか虚勢とか偏見がないまぜになって心底解放できなかったんじゃないかと思います。40歳という年齢だからこそ、肩肘張らずにため口でバカを言い合えるんだと思うんですよね。

本当に、久しぶりに心底楽しいな〜と思えた時間でした。幹事に感謝です。



神学と理論物理学

ヒッポのアウグスティヌスは「神と格闘すること」の中に、純粋な知的興奮を見いだしました。
彼は、理性のエロス、つまり神の本質とそのあり方についてもっと良く理解しようと欲する「あこがれ」、「よろこび」について語っています。

一方で、アインシュタインは、違う言葉をつかいながら、ほぼ同様のことを言っています。曰く、

わたしは、神のパズルを解きたい

と。

この両者は、目に見えないシステムを理解することに情熱を傾け、そして何よりその行為を愛したということで紙一重なんじゃないでしょうかね。

建築家の本はなぜつまらないのか?


建築家やデザイナーが著した書籍って、世の中にごまんとあって、僕もかなりの数を読んできたと思うのですが、その都度、不思議の思うことがあったんですね。

なんで、面白いと思ったのに、読後に何も残らないんだろう?

という疑問です。

読後に何も残らない、というのは現象的な言い方で、もうちょっと厳しい言い方をすると、なにも学びがなかった、ということです。

これは、自分が建築家でないから、ということではないと思うんですね。歴史家や政治家の書いたものでも、面白いものはやっぱり面白いし、学べるところがたくさんあるんですけど・・・

まだ答えが出ていないのですが、多分大事な「問い」なので備忘録と思ってここに記しておきます。誰か、仮説があったら教えてください〜



「理想の会社」はあるか?


理想の会社というのは、まあ存在しないんだな、ということを最近になってやっと皮膚感覚でわかるようになってきました。

心理学では「イニシエーション」という概念を大事にします。これは、ウィリアム・ブリッジスが指摘している「終わらせられない病」の話でもあり、まさに彼が著書「トランジット」の中で指摘している「チェンジとトランジットは違う」ということもそれなんですが、自分にとっては「理想の会社はない」とやっと思えたというのは、イニシエーションなんですね。つまり「あるかも知れない」という気持ちと決別する・・・「終わらせる」ということです。

で、これは結局は人生も恋人も家族も同じではないか、と。

理想の人生を思い浮かべて、自分の人生とのギャップにため息つく人はたくさん居ると思います。華々しい人生を送る人が居る一方で、自分は・・・・という考え方ですね。でも、そういう人生でも愛してあげて欲しい、というのが、僕自身は聖書、というかイエスが言おうとしているコアなメッセージの一つなんだと思うんですよね。あんまり大そうなことは言っていないんです。

例えばフランスにフローベルという作家が居て、この人の短編の中にこんな話があります。

ある日、雪のふる寒い日に聖人が歩いていると路端にライ病の乞食がハダカで居る。寒かろうと思って聖者は自分の外套をやると乞食はまだ寒いという。そこで上着をやる。まだ寒いという。そこでついには下着までやってしまうのですが、それでもまだ寒いからお前が抱いて暖めてくれ、という。そこでハダカの聖者が抱いて暖めてうちに、この乞食がイエスに変わった

とそういう話なんですね。遠藤周作先生は高校時代にこの短編を読んで「ばかばかしい、フローベルはアホだ」と思ったそうですが、確かに不条理ですよね。一体この話は何を伝えようとしているんでしょうか

解釈は人それぞれなんですが、この乞食というのは、僕の、または貴方の、いやこれまで地球上で生を営んで消えて行った何十億、何百億もの人々の人生なのではないか。汚れていてみすぼらしい。でも、そういうものを一生懸命に慈しんで欲しい。イエスというのはつまり「愛」ですから、そうすることによってそれはいつか「愛」に変わる。それを慈しんでくれれば、それはいずれかけがえのないものに変わるからということを伝えようとしている、というのが遠藤周作先生の解釈です。

で、これはフローベルが人生をメタファーで語ったものですが、僕らにとってはそれは会社であれ、見た目であれ、家族であれ、住んでいる場所だれ、生まれた家系であれ、みんなそうなんですよね。自分でも満足のいく完璧なものなんていうのは殆どなくて、よくてまあどっか欠けている、普通は直視したくない、まあ人に見せたくない、という感じですよね。

でも、そういったものを自分のものとして取り込んで、慈しんであげる、その慈しんで行く過程自体が人生の意味なんだよ、と最近いろいろなものから言われたり、示唆されたりしている気がします。アウシュビッツに収容されながらも運良く生き延びてその後心理学者になったV.E.フランクルも

「人生の目的何てない。生きることそれ自体が目的なんだ」
「殆どの人は、人生に何かを求めてしまう。でも本当は、貴方自身が人生から何かを求められているんですよ」

と言っていますね。これも最近引っかかっている言葉。

気になる向きには是非「夜と霧」を。

駒沢ラン


週末。

ジビエの鹿肉に当たったりして体調を崩して以来、しばらくランニングからご無沙汰していたのですが、一ヶ月ぶりに駒沢公園を走ったら、紅葉のトンネルがすでに崩れかけていました。

惜しいことした・・・・

もう少し早かったらもっときれいだったのにな。でも十分きれいで木々を見ているだけでもずっと走れそうです。

駒沢公園のランニングコースは一周2.2キロ。自宅からの距離が300メートルくらいでしょうか?家からの行き帰りも含めて2週で5キロという感じです。夕食前にさっと走ってくるとビールが美味しいです。

幸福論と広告代理店とうつ病

世の中には様々な「三大〜」というのがありますが、幸福論にも「世界三大幸福論」というのがあります。

1:バートランド・ラッセルの「幸福論」
2:アランの「幸福論」
3:カール・ヒルティの「幸福論」

の3つなのですが、皆19世紀半ばから20世紀にかけての人物です。19世紀から20世紀にかけて「幸福とは?」という論議が出て来たのは面白いですね。というのも、19世紀というのは生活水準が産業革命によって急激に上昇した時期ですから、その前の時代に比較して遥かに「暮らしやすい」時代になっているはずですから。

マズローは人間の欲求に段階があることを指摘して、食欲・睡眠欲といった低次の欲求が満たされると、所属・承認・自己実現と高次の欲求にシフトすると説いています。

19世紀に幸福論が社会的に議論されるようになったのは、裏を返せば多くの人が「幸福がわからない。自分は幸福じゃない」と感じていた、ということです。産業革命を経て社会全体の豊かさが高まって、過去の人々があれほど望んでいた「安全で豊かな暮らし=基本的な欲求」が満たされたにも関わらず、あまり幸福を感じられないのは何故なのか?ということだったのではないでしょうか。

ここに幸福というものの有り様を考える一つの鍵があります。その鍵の一つが「仕事」です。

「世界三大幸福論」にはいくつかの共通性があって、その最たる点が「仕事の幸せ」です。どの本でも「仕事をせずに遊んで暮らすのは不幸」であって、幸福になるための大事な要件として「仕事」が挙げられています。これは何もゴージャズでかっこいい仕事、ということではなく「畑に出て6日は朝から晩まで働く」ということを推奨しているわけです。語感的にはむしろ「労働」といった方が正しいかも知れません。

三大幸福論が共通して示唆しているのは、肩書きとか会社のステータスが大事だとかいうことではなくて、恐らく「世の中に確固とした価値を提供している。誰かの役に立っている、必要とされているという実感」が、精神の健康を保つためには必要なのだ、ということだと思うんです。

それで思い出したのが、古巣の電通では最近「こころの病気」にかかってしまう若い人が多いという話なんですね。これって、上記の点になぞらえて言えば、それはそうだろうな、と思ってしまうんです。

電通にかぎらず、広告代理店ってテレビや新聞といった媒体の購入手数料で儲けるビジネスモデルですが、一方で中の人達がなんであんなにアタフタ忙しそうにしているかというと、そことは全然関係のないマーケティング関連のプランの策定とかTVCMの企画とかイベントの実施とか、要するに「媒体の取引=儲け口」とは関係のないところなんですね。で、そういった「アタフタする仕事」はほぼ無料で提供して、その代わりにものすごく儲かる媒体取引をうちにやらせて下さい、というのが基本的なビジネスモデルです。

で、そういう会社において「こころの病気」になる人が増えている、というのは、これはどういうことかと考えるとやっぱり、

自分の仕事に対して、お客様からちゃんとお金を頂く

ということが大事なのではないか、と思った次第なんですよね。広告代理店の今のビジネスモデルでは、みんなで「アタフタ」して作ったりやり遂げたことっていうのは「タダ」なわけですから、それを活用するもしないもお客さん次第なわけですし、そもそも費用が発生しないものについては人間はやっぱりアプレシエイトしないと思うんですよね。で、先述した通り「労働」がもたらす幸福感の本質が「誰かの役に立っている、価値を提供している」という実感によってもたらされるのであれば、このビジネスモデルというのは構造的に「労働による幸福の充足」というのは形成できない、ということになりますよね。

給料の額よりも、本当に「労働」をさせてくれるところを選ぶ、というのが人生を幸福に歩むためのポイントなのではないでしょうか。


グロービス堀学長とディナー

昨晩はグロービス経営大学院の堀学長と、ファカルティ数名での夕食会。題して、

「プレジデント・ディナー」。

堀さんの目線の高さに感服しました。本当に国を憂いてらっしゃるのですが、やはりアントレプレナーだな、と思わせるのが、憂いているだけでなく、実際に動いているという点です。

具体的には、CEOアジェンダになぞらえ、「国のアジェンダ」作りを財界人・政治化を巻き込んで始めている様で「日本が打つべき100の対策」というリスト作りをしているのだそうです。

社会福祉のミニマム化、公務員の大幅削減、憲法9条の改正等、アジェンダはなかなか刺激的でした。とにかく衰退をとめないと、とお考えの様ですね。

日本の衰退が叫ばれてもう10年ほどになりますが、過去の歴史をひもとくかぎり 「歴史上、衰退論が叫ばれている国で、実際に衰退した国はない」 と、政治学者の中西輝政先生は言っています。

曰く、

古くは18世紀のスペインが、近世では19世紀末のイギリスでは盛んに衰退論が議論されましたが、その時点では実は衰退していなかった。

衰退が実際に始まるのは、逆に「衰退論がタブーになるとき」。スペインでもイギリスでも衰退論を述べる人が叩かれる様になり、誰も衰退論を叫ばなくなってから、実際の衰退が急加速で進んでいった。

ということのようです。

今の日本ではまだまだ衰退論がかまびすしいですが、一部には「ネガティブなことを言うな!」と能天気なことを言う財界人・政治家も出てきています。

「本当の衰退」が始まるまでの時間はあまり残されていないようです。

Don't settle!

(写真は勝海舟)

スタンフォード大学でアップルのCEOスティーブ・ジョブズが行ったスピーチが一時期話題になりました。僕も何度か聴いたのですが、その中で特に印象に残ったのが

Don't settle!

というメッセージです。

これは、日本語にすると「定住するな」ということになりますが、文脈を踏まえて意訳すれば、「丸くおさまるな、落ち着くな」といったようなことになるかと思います。

では「落ち着くな」というメッセージを、キャリア上の問題としてどう考えてみればいいのでしょうか?僕は、この言葉は「自分の人生を変化させる様な機会があったら変化する方向へ積極的に舵を切れ」といった意味で捉えるといいのではないかと思います。つまり「オープンで居る」ということです。

しかしそうなると、これはなかなか心理的にはしんどいということになりますね。オープンということは、未知の領域に踏み出していくことも多々あるということになるわけですが、未知の領域に踏み出すのはやっぱり不安だし、踏み出してみると強いストレスがかかることは容易に想像できます。

なので、この

Don't Settle

というメッセージを実現するためには、「未知の領域に踏み出すことの不安に耐えられる、もしくはそもそも不安にならない」様にしないといけないわけです。

では不安にならないために何が必要なのか、というと、これがいわゆる「スキル」になるわけですね。世の中で仕事を成し遂げていくために求められるファンダメンタルなスキルセットが、もしその人にあるのであれば、その人はオープンな状況を楽しめるようになるはずです。

この「スキルセットがあるからオープンな状態を楽しめる」という人物の典型像が坂本龍馬と勝海舟ですね。

この二人は二人そろって非常にオープンな人ですよね。人と出合ったり、人を出会わせたりすることに躊躇なく突進していきます。自分を憎んでいたり、嫌っていたりする人にも平気で会いに行っちゃう。何でこんなに躊躇なくオープンで居られたのか、ということを考えてみると、やっぱり剣術の達人であったということが、非常に大きく利いていると思うんですよね。

龍馬は、よく知られているように千葉道場で北辰一刀流の免許皆伝を取っていますね。ものすごく強いわけです。なので、人に会いにいくときに「乱暴な人だったらどうしよう・・・斬りかかって来たら、こうやって逃げるか・・・?」といった様なことは、恐らくあまり考えずに、パッパッパとフィーリングで会いに行っちゃっていると思うんですよね。なぜなら無茶苦茶強いから。これは、よくわかる話ですね。

では勝海舟は?ということになるのですが、こちらは実はあまり知られていないのですが、勝も直心影流の免許皆伝なんですよね。実は無茶苦茶強い。人を斬るかどうかはともかく、人から「絶対に斬られない自信」はあるわけです。だからあんなにオープンに、自分を殺そうとしているかも知れない人とも、どんどん会っちゃうわけですね。

勝海舟は、自分が直心影流の免許皆伝でありながら、自分の刀の「つば」と「さや」を和紙をよってつくった「こより」で結んでいました。強く刀を抜こうとすればこよりは切れます。ただ、そこに一瞬の心のブレーキがかかる。斬ればさらなる恨みを買って敵を作る。斬って目の前の敵をねじ伏せても日本の問題は解決しない。斬るより逃げる、説得する。心にそう決めて自分の免許皆伝の腕を封印したんですね。ただ、いざとなれば少なくとも「斬られない自信」はある。その自身が彼のオープンさの礎になっているのだと、僕は思うんですよね。

勝のオープンさを支えた剣術の技術は、現在では語学であったり、問題解決の技術やマーケティングの知識だったりします。そういう、どこの会社に行っても自分が発揮できる「自分の剣」を持つことが、この時代においてオープンで居続けることの、やっぱり必須の条件なんだなと思う次第なわけです。

残すバブルと残さないバブル

90年のバブル崩壊以後、日本人は自信を失ってしまった、という物言いには、多分に「過去=是、現在=非」というノスタルジーが含まれている様に感じます。ウィリアム・ブリッジズは、「人が何か新しいことを始められない、という時、それは「始まり」の問題ではなく、実は「終わらせられない」という問題なのである」と言っていますが、このもの言いもそう。分かれた女のことをグジグジ言うのと同じですね。

しかし、ここでよく考えてみて欲しいのですが、日本にあの80年代末のバブル期の狂乱が再度やってくることは、我々が豊かで幸せな人生を過ごす、ということに照らして、本当にプラスなのでしょうか?そもそも、日本人がバブル崩壊以後、失ってしまったという「自信」とやらは、本当に自信と言える程のものなのでしょうか? そんなものが本当にあったんでしょうかね??

さて、人類はその歴史の中において、数多くのバブルを経験しています。狭義で言えば代表的には17世紀のオランダのチューリップバブルや、18〜19世紀の鉄道熱やゴールドラッシュがそれに当たるでしょうが、すこし間尺を拡げ、資本の流動性が過剰に高まっている状態をバブル前期と考えてみると、例えばルネッサンス前期や19世紀、ヴィクトリア期の英国もそれに当たるでしょう。

こういった時代と日本の80年代末のバブルを比較すると愕然となる事実があります。これらの時代が、例えばルネサンスがレオナルドやミケランジェロを、ヴィクトリア期がターナーを生み出したことと比較して、なぜ日本のバブルは、ああも無惨なものしか残せなかったのでしょうか?

実に不思議なことに、政治学も経済学も経営学もまったくこの問題について無頓着に見えます。多少問題意識を絡めて発信をしているのがアートの世界ですが、残念なことにアーティスとの殆どは、今の現実世界を構成しているルールやシステムの強かさをよく分かっていないので、提言が非常にナイーブであったり的外れになってしまい、実際に世の中を動かす側の人たちを動かす程の力を持ち得ていないのが現状です。

なぜ、日本のバブルは、人類にとって、「バブルはよくなかったって?でも○○を生み出したんだからいいじゃない」と言えるものを、残せなかったんでしょうか?

ここで鋭い方は、もしかしたらこの質問そのものに違和感を感じたかも知れません。 そう。そもそも経営の目的は「残す」ことなのか?「残せなかった」ということを、そもそも経営の失策として考えるべきなのか?という疑念です。

実はここにこそ、我々の周囲の風景の無惨さと、経営という、20世紀から現在にかけて、我々が人生や自然資源を莫大につぎ込んでいる営みの折り合わなさがあります。

ぶっちゃけて言えば、経営というのは「残させない」というのが目的の営みであって、「残す」ということのアンチテーゼなのです。

「残す」より「残させない」のが経営の神髄、と言われて「?」と思われる方も多いでしょう。このことを分かりやすく説明する事例を、一つ紹介しましょう。

私が以前在籍していた電通に、「鬼十則」という一種の行動規範が存在しました。電通中興の粗である四代目社長の吉田秀雄が自らを律するために書き起こしたもので、私が電通に在籍していた時代には、多くの社員がほぼ全文を暗記していて、ことあるごとに取り上げられるほど社員には浸透していました。

一方、その同じ電通社内に、1970年に「戦略十訓」なるものが存在していたことは、余り知られていません。鬼十則が行動規範なら、こちらは一種の戦略ツールとでも言えばいいのでしょうか?広告主のキャンペーンを成功させるための、「考え方の切り口」を例示しているものですが、ここに、なぜ経営という営みが、モノを残せないのか、ということのヒントがあります。

電通 戦略十訓
1:もっと使わせろ
2:捨てさせろ
3:無駄使いさせろ
4:季節を忘れさせろ
5:贈り物をさせろ
6:組み合わせで買わせろ
7:きっかけを投じろ
8:流行遅れにさせろ
9:気安く買わせろ
10:混乱をつくり出せ

パっと見て分かる通り、これは米国の社会学者のヴァンス・パッカードが1960年代に、消費者にモノをどんどん買わせるために米国企業が行っている手法であるとして分析、批判した内容とほぼ同様のものです。いわば米国の学者の物言いを、批判を転換してポジティブな手法としてパクったわけで、今の電通には考えられない話ですが、1960年代という時代故に許された、または殆どの人に気づかれなかったということなのでしょう。

電通というのは毀誉褒貶する会社ですが、一種の空恐ろしさを感じるのは、21世紀の今という時代になって初めて見えてきた20世紀型マーケティングの本質が、ほぼこの10のルールの中に入っているということです。1970年代の段階で、その是非は置いておくとして「現代のマーケティングの本質」を彼らは気づいていた、ということなのでしょう。構成はともかく、その内容には端倪すべからざるシャープさがあると思います。

ここに、経営という営みがモノを残せなかった理由があります。ひと言で言えば、経営のパラダイムに置いては、モノは「残ってもらっては困る」のです。

旧約聖書のすすめ

最近、旧約聖書を一度ちゃんと読まないとな、と思い、ゆっくりとしたペースながら少しずつ読み進んでいます。

以前から「キリスト教徒かどうかの如何を問わない。一度は読まないとダメ」と、様々な人から言われていたので、ようやく重い腰を上げたという感じですね。

「一度は読まないと」の理由は大きく二つあります。

一つ目。キリスト教にまつわる筋で言えば、新約聖書の内容が、そもそも旧約聖書と一種の対構造をなすものであって、本当に新約を理解しようと思ったら、旧約聖書を読んでおかないとわからない、ということがあります。

読み始めて200頁程ですが(旧約聖書は続編も含めると何と2000頁の大部です)、たしかにこれは読んでみるとそこかしこに、「ああ、だからイエスはああいうことを言ったんだな」というのがわかる文脈になっていることがわかります。

例えば、新約においてイエスは十字架刑で処刑されますが、これは「人類全体の罪を背負う生け贄として神に捧げられた」という神学的な解釈がなされています。で、旧約を読んでみると、この「何かの罪を背負って生け贄になる」というコンセプトは、これでもか〜という程、よく出てくる考え方なんですね。例えばレビ記の16節には、そのまま「こうして彼は、イスラエルの人々のすべての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のために贖いの儀式を行う」とあります。

また、新約においてイエスは、現代のマザーテレサがまさにそうであった様に、当時の社会において忌み嫌われ、排斥された人々にこそ、むしろ積極的に手を差し伸べて接触しようとしたことが語られています。そういった排斥された人々の中に「長く血漏をわずらった女」を触れることで治癒する、というエピソードが出てきます。

血漏というのは僕自身は知らない病気なのですが「きっとつらく苦しい病気だったのだろうな」とか「触れて直すっつーのはいわゆる、こりゃ「気」だな、うむ」とか思うわけですが、このエピソードが言い表そうとしている本質的なポイントは、やっぱり新約だけ読んでいるのでは伝わっていなかったんだな、と思うんです。

というのも、旧約を読むと「血漏の女は汚れている。その女に触れた者も、また汚れている」。ということで、従って触れた者は「浄められなければいけない」とする律法が、ガシっと書かれているわけですね。つまり「直した」ということよりもむしろ「触った」ことの意味が大きいわけです。共同体のルールの中で、タブーと言われていることを積極的に犯していく、信念に従って動く、というのがイエスの特徴です。

一方で、旧約聖書に書かれているこの「病気の人に触れると汚れる」と主張する点は、日本人が宗教という言葉からイメージされる寛容さとずいぶん乖離があるように思えますが、旧約聖書は「差別ルールのオンパレード」と言える部分があって、とにかく「あの病気のやつは汚れている、この病気をしているヤツは汚れている、あれに触ったヤツは汚れている、これを食ったヤツは汚れている」ということで、とにかく「汚れた人」をいっぱい生み出しちゃうルールというか、律法なんですね。

で、当のイエスは、そういうことを、一見無視して手を差し伸べているように見える。

じゃあ、旧約に規定された律法を否定しているのか、ということに、当然なるわけですが、ところがどうもそうではないらしいんですね。

例えば新約聖書のマタイ福音書の第五章で、イエス本人は

「わたしが来たのは律法を廃止するためではない。それを完成させるためである」

と言った上で、

「律法に書かれている言葉で、一つもムダになるものはない」

とまで言ってるんですよね。これはヘーゲルが言うところの「止揚」なのかも知れませんが、何ともよくわからない。よくわからない、というのはつまり形式論理学を否定している、ということです。触れると汚れる、と言いながら触れる、で律法は間違っていない、と説くのは形式論理学的には成立しません。これは、よく考えてみると、例えば仏教における「禅」も同じことが言えますね。例えば有名な禅の公案である狗子仏性。この問題は「狗に仏性はあるか、ないか」という問いで、形式論理学的には「ある」か「ない」かのどちらか、ということに答えはなるわけですが、実際には「あってない」し「ないがある」ということで、これを心底「わかった」と思えるのが、いわゆる「悟り」になる(ちょっと乱暴な解説ですが)わけで、もしかしたら似た様な思考の構造なのかも知れませんね。

ただ、こういう「よくわからん」というところが、僕は聖書の魅力だなと思っていて、やっぱりこれは新約を読んで、で旧約を読んで、で「え?え?え?どいうこと??」と考えるところに、やっぱり蘊奥があるのではないか、と。

で、前段が長くなりましたが、二つ目の「キリスト教にまつわらない」話で言えば、これは単純に美術史の勉強をしていたので、旧約を読んでいないと、「絵のモチーフがわからない」ということです。

例えば典型的なのはミケランジェロのダビデ像でしょうか。フィレンツェでご覧になった方も多いかも知れませんが、あれは右手に小石を、左手に布を持っていますね。あれを何に使ったのか、というのを文脈も含めて知っておかないと、美学はできないでしょ?ってそりゃそうだわな、と。

ということで、楽しみながらゆっくりと読み進んでいます。

あと加えるとしたら、旧約でものすごく違和感を感じるのは「血」に対する嫌悪かな。とにかく血を呑んだり食ったりするのをものすごく厳しく戒めているんですよね。これはどういう理由なのかわからないんだけど。不思議に思うのはフランスでもイギリスでも血を使った料理ってありますよね?フランスだとブーダン・ノワールが、イギリスだとハギスが、それぞれ内蔵に血をつめたものですから、これ旧約的にはアウトなんじゃないかと思うんですが、その辺はどうなんでしょうかね??

なかなか奥深いです。



エクストリームなことをやろう

高校時代の同級生で今は外資系の金融機関に勤めている大親友の大山君と広尾のイルブッテロ で夕食。

3ヶ月ぶりの情報交換だったのですが、その間に彼が「24時間の制限時間で72キロ走る」というマラソンに参加し、見事完走したことを聴く。

細かい話は割愛しますが、72キロ走るっつーのは、それだけで他の人には得られないユニークな体験ということで、ここから得られる学びも、やっぱり聴いていて実に面白くて、ユニークなものなんですよね。

最近になってよく考えるのですが、何でもいいからエクストリームにやってみると、その人なりの輝き、というのが出て来るのではないか、と思っています。人に深みを与えるのは何であれ極端な体験、エクストリームな体験なのではないかと思うんですよね。

逆に言うと、エクストリームな体験をあまりしてこなかった人って、よほど頭のいい人でない限り、どんどん話がつまらなくなりますよね。

40代のエクストリームな体験を、どうデザインするか、しっかり考えないとな、と思わされた夜でした。


Happy Halloween




今日はハロウィン。家の近所の瀬田の丘ではインターナショナルスクールが複数校集まっている関係で外国人の居住者が多く、多くの家がハロウィンパーティをやっています。

その瀬田の丘を、夕食前に子供たちと一緒に街を回ってきました。

写真は衣装に身を包んだ子供たち。長女用のドレスはバーバが苦労して丈を詰めたもの。長男はなんかメキシコ人みたいな感じですが、両人はご満悦で今日は朝からずっと家でこの格好でした。かご一杯のお菓子をもらって大満足の一日だった様です。

人生の豊かさの積み重ね方


戦略コンサルティングファームに在籍して既に7年になるのですが、最近ちょっとこの職業が強制する「豊かさのあり方」に疑問を感じています。

単純に言えば、戦略ファームに居て味わえる豊かさというのは

3ヶ月間はコンビニ飯+連夜の残業+休日出勤でがまんし、休みのときには高級リゾート+高級レストラン+ラグジュアリブランドショップでの買い物を楽しむ

というもので、古典的には「大統領の様に働き、王様の様に遊ぶ」というライフスタイルを理想とする考え方です。大統領が働いてばっかりで、王様が遊んでばっかりなのか、という疑問が浮かばないわけではないのですが、まあ要するに極端にメリハリのついた生活ということですね。

で、その生活スタイルを理想とする風潮そのものに、これはどうなんだろうと最近思い始めています。端的に言うと、人生を総決算として〆たときの収支に、もっとも大きく影響するのは、ごく普通の毎日の営みをどれだけ小さな豊かさで積み重ねられるか、ということなのではないか、ということです。

例えば戦略ファームのプロジェクトでは、佳境に入ってくると会社の行き帰りがハイヤーになり、食事も殆ど仕事しながら取る、という形になります。そうなると当然、家族との対話や季節の移り変わり、それは例えば秋であればキンモクセイの香り、春であれば栴檀の香りといったもの、あるいは読書や音楽を楽しむ、といった時間とは無縁の生活になります。こういった極めてドライな時間の後に、人によりますが

:六本木のキャバクラでクリュッグを頭からかぶる
:パリに滞在し、グランメゾンで毎夜連続フォアグラを食い、尿酸値を跳ね上げる
:バーニーズ・ニューヨークでフロア丸ごと買い切る

といったことで人生のバランスを取ろうとするのが戦略コンサルタントや投資銀行マンですが、昔はかくいう僕も嫌いではなかったのですが、最近は「疲れる」ということで、オフの時は

:家でチェロの練習をし、音色に酔いしれる
:コレクションのシングルモルトを、好きな音楽を聴きながら楽しむ
:自転車で知らない街まで遠出する
:阿部謹也先生の中世に関する研究論文を読む

といったことの方が、ずっと幸せを実感できる様になってきてしまっているんですよね。

で、これは間違いなく断言できるのですが、今が、これまで過ごしてきた人生の中で、間違いなく最も幸福なんですよね。それは何故かというと、心がけて一日一日に小さな豊かさを積み重ねて行く様にしているからなのではないか、と思うのです。

今日一日を、丁寧に、大事に生きる

ということが、結局は「幸せな人生」につながるのではないでしょうか?今日は捨てるけど明日で取り戻す、ということが出来ないのが人生の難しさなのだと思います。



ウェスティン龍天門でディナー



現在のプロジェクトで担当しているお客様の若手現場の方と、恵比寿Westin Hotel内の中華料理店「龍天門」で懇親会。

お客様の方から「30分遅れるので先に始めていてください」との連絡あり、まずはビールをということで最近の定番:「サントリーのプレミアムモルツ」を頼もうとしたところ、場所が恵比寿だけに「サッポロしかない」との答え。しかし、さすがホテルのホスピタリティで、こちらが「うーん・・・・」と考えているのを見て即座に「何とかします」。

結果、「上階のバーにありました」とのことでわざわざ僕のために取り寄せてくれました。

今回のお店はお客さんが選ばれたので知らなかったのですが、一番安いコースでも1.5万円、シェフのお薦めコースが5.3万円という価格にびっくり。銀座のロオジェや京橋のシェ・イノ、青山のナリサワといったいわゆるフレンチの最高級店=グランメゾンで食べると、まあワインにもよりますが大体一人4〜5万円で住むので、価格的にはああいったところよりも高いことになります。んで、こんな料理食べに来ているの、どんな人達なんだろうと自分を差し置いて周りに居るお客さんに俄然興味がわいて来てしまって、ぐるーっと見回してみると接待やらデートやら家族の食事やら、という感じですね。前二者はわからないでもないのですが、幼い子供と家族で3万円のコース食いに来ている30代風と見られる夫婦、一体どんなご職業なんでしょうか?

高級ホテルって、お伺いするといつもそうですがホスピタリティやファシリティがものすごくファンシーな反面、都市のダークサイドに生きている人が集うような独特の雰囲気がありますよね。表社会の人と闇社会で生きている人が出会う交差点の様な感じ。

楽しく食事し、他のお客が全て帰った後も紹興酒をかっくらって、最後に「そろそろ時間なので」と追い出されるまで満喫しました。感謝です。

冒頭の写真はWestin Hotel入り口のクリスマスツリーです。飾り付けが本当に奇麗でした。

買い物は楽しい




昼休みを使って銀座の麻布テーラーで冬物のスーツを作りました。生地はサキソニーで、チャコールに白のストライプが入っているものです。ここ2〜3年はスーツはなるべく作らず、吊るしを来ていたのですが、どうも僕の極端になで型の肩には合わない様でラペルが浮いたり、シャツの襟がラペルの上に出たりしてどうもしっくりこないんですよね。全体的な形が細身で「おにいちゃん風」なのも、クラシックでエレガントな形の方が好きな僕にはやっぱり愛せないな、と。で、ちょっと予算の枠を広げてオーダーしてみました。生地を英国から取り寄せてからの仕立てになるので出来上がりは12月になります、と言われましたが楽しみです。

一枚目の写真は対応してくれた店員の皆さん。大事なことだと思うのですが、皆さんものすごくダンディなんですよね。クラシカルでいい色合いの組み合わせの服を来ていらっしゃって、こういう店員さんを見るとスーツだけでなく、日常使いの服もオーダーで作りたくなります。

尊敬している電通の大先輩である白土謙二さんから聴いたのですが、数年前、ユニクロの柳井さんから依頼されて分析した「ユニクロの売り上げを2倍にするための課題」について、一番最初に彼が問題だと思ったのが、「店員さんの服の組み合わせがよくない。服を着ていて幸せそうじゃない様に見える」という点だったそうです。ファッションビジネスにおいて、最高のエバンジェリストは店員である、ってそりゃそうだろうな、と思った次第。

そして店から出てみると何と雨。1年程愛用していたドイツのワンタッチ折り畳み傘を先日タクシーの中に置き忘れて以来、傘を常備していなかったのですが、目の前にあるバーニーズニューヨークで傘を物色してみたら、非常にユニークな傘に出会い、衝動買いと相成りました(2枚目の写真)。

この傘、SENZというオランダのメーカーのものなのですが、うたい文句が「風速100キロでもさせる傘」ということだそうで、これが折りたたみになると風速60キロになるらしいのですが、まあどっちでもいいやということで折りたたみを購入しました。

風速の問題はともかく、この傘、ご覧の通り形が楕円形になっていて、傘をさした時に背中や蹴り出す脚の後ろ側が濡れません。町中で傘をさして歩く、というのは余り楽しい時間ではありませんが、エンジニアリングに優れていて、ユニークなデザインの傘を手に入れたことで、その「余り楽しくない時間」をうきうきするものに変えることが出来ました。




不可能の建築物と最脆弱点


様々な企業が知恵を絞って戦うと付加価値とコストのトレードオフは均衡点に集まる。
似た様な製品を似た様な値段で出す、ところに一旦は落ち着く。

これは、ある見方をすれば「可能」の建築物でもあるけれども、一方で、誰もがそれをやりたいのだけど、残念ながら今の段階ではコストやテクノロジーや規制の問題で出来ない、ということの裏返しの集まりでもあって、そういう意味から言えば、事業=ビジネスというものは

「不可能」(の裏返し)の集積で出来た一種の建築物

とも言える。

で、この不可能の建築物は、一見堅固に見えるのだけれども、その構成物である「不可能性」の脆弱度は実は多様であったりも、する。

その脆弱性を見極めるのが経営者であったり戦略コンサルタントの最も重要な仕事なのだ、と思う。

人間が物理的に移動できる距離、物資を運べる距離には限界があって、軍隊の展開スピードはそれらの関数に支配されていたのだけれども、ここに、食料を煮沸して缶につめる、というイノベーションが発生して、食料を長距離運べる様になった。運んだ先で暖めればおいしい料理が食べられる、というようになった。

以前に書いたけれども、戦闘機の戦術展開エリアはすごく狭かったのだけれども、別の飛行機から燃料を「飛んだまま」分けてもらう、という空中給油のイノベーションが発生して、これもボトルネックで無くなってしまった。

軍隊をどう地理的/時間的に動かすかという学問は、そういう意味で「不可能の建築物」であったわけだけれども、ここに「缶詰」や「空中給油」というイノベーションが発生して、この不可能の建築物は崩壊し、別の部材を使った別の建築物が造られることになった、ということだ。

いま、僕らが当たり前の様に言う「それは無理だよ〜」、「不可能でしょ」、「ありえねー!」という言葉は、建築物の有り様をひと言で表したものなのだけれども、それらを実際に表現した通りにあらしめている要素は建築物の様に要素還元できるはず。それらを「不可能の建築物」たらしめている部材のうち、どこがもっとも脆弱なのかを考えることが、恐らく21世紀の日本には、ものすごく大事なことなのだと思う。

これは、個人にとっても同じだと思う。あなたもぼくも、不可能の建築物であって、その建築物のうち、どこが最も脆弱なのか?あなたやぼくの、どこを変えると、今まで不可能だったことが可能になるのか、ということをよく考えてみるといい。

:我慢強さ?
:語学?
:知識?
:コンプレックス?
:臆病さ?

いろいろあるんではないでしょうかね?




グローバル耐性の計りかた

民主党に政権が変わり、めでたく国の借金が900兆円を超えました。

ということで、以前から指摘している通りなのですが、ますます日本が21世紀のアルゼンチンとなる可能性が高まってきました。

アルゼンチンは20世紀の初頭には一人当たりGDPで世界最高水準にありましたが、あっという間に国債発行しすぎてデフォルトになってから、結局立ち上がれませんでした。

で、日本もそうなるのではないか、ということで、何をやらねばならんのか?ということですが、二つあると思っています。

1:貯金はせず、借金をして不動産や外貨を買う
2:外国語を学んで、国外で食う(または海外に個人としてのブランドを立てる)

1は単純で、デフォルトに陥った国の通貨はいつも紙くずになっているので、円でいくら貯金しても意味がない、ということです。自慢ではありませんが、私は戦略的なので、40になった今も貯金ゼロです。ちなみに借金はもうスゴいです。

で、2についてですが、アルゼンチンで起こったのは、国内での暴力的なまでの雇用縮小です。既に日本を支えてきた家電や自動車の国際競争力=シェアは減少傾向が顕著になっていますね。日本では既に第三次産業がもっとも大きな雇用を作っていますが、この第三次産業の雇用は間接的には第二次産業が作り出しているので、自動車や製造業といった産業が衰退すると、係数効果で第三次産業の雇用も縮小します。

加工貿易という言葉を小学校で習ったそこのあなた!日本の貿易収支が黒字だということを高校生のときに習ったあなた!

2008年に日本の貿易収支が赤字になったのをご存知ですか?実に28年ぶりです!!!

いままで製造業の皆さんが海外から稼いできた金を、広告代理店を初めとする第三次産業にじゃぶじゃぶ使っていただき、広告代理店の社員がそのお金をまた銀座や六本木でじゃぶじゃぶ使うことで、やっとこさ営まれて来た我が国の経済のサイクルが、回らなくなって来ているのですよ!

ということで、マジにそろそろ国外の雇い主に鞍替えして、拠点も海外に移そうかな、ということを考えています。で、そのときにやはり気になるのが、

語学力

ですね。

ということで、あと2〜3年で、海外を拠点にして仕事をしてちゃんと成果を出せる、というレベルの語学力にしなくてはな、と思ったところ、これが方法論としてはなかなか難しい。一応7年間外資系の会社に居るので、いわゆるTOEICとかTOEFLとかのスコアは、上限に近いところにはりついてしまっているのですが、一方で英語で電話会議とかやると何しゃべっているのか、まったくわからん。という状況でもあり「なんなんだこの910点っつーのは?」、「”Native Speakerの域には一歩隔たりがあるとはいえ、語彙・文法・構文のいずれをも正確に把握し、流暢に駆使する力を持っている”はずなのに、なんでこんなにチンプンカンプンなの!?」と混乱した状態で、この先英語力を鍛えるといって、一体何をやったらいいのだろうか、と途方に暮れてしまっているのです。

で、とりあえず考えたのが、「日常的なインプットとアウトプットを、なるべく英語にする」ということで、これは敬愛する茂木健一郎博士も同じことを言っているのですが、なるべく雑誌も本も英語のものを読んで、ウェブも英語のものを見る、プラスできればこのブログも英語で書く、ということ。

で、一つ思いついたのが、日常的にどれくらい英語に自然に慣れ親しんでいるかというインデックスとして、ブラウザの「お気に入り」の中に、英語がマザータングのサイトがどれくらい登録されているかということ。

僕の場合、いくつだったかというと、驚くなかれ、登録された40のうち、なんと

2!!!!!!

グローバルビジネスマンへの道のりは遠い、と実感した次第です。精進します。

I realized it would be very tough to be a global business man.......

つー感じでしょうか。


美徳を押し付ける人たち

年齢が40に届いて最近ハラを立てることが殆ど無くなったのですが、ここ数ヶ月で、ムムム〜と思ったことが二つ。

1:クジラを捕るな、と騒ぐアメリカ人。
2:ヘルメットをかぶれ、と騒ぐロードバイク乗り。

本当に、世界を悪くしているのは君たちなんだよ、自分たちはよくしようと思っているのかも知れないけどさ、と言いたい。

シーシェパードの船長が逮捕されて、グローバルにもこんなひどい活動をしている人の逮捕はきっと歓迎されているんだろうな、と思って海外のサイトを見てみてびっくりしたのですが、日本の捕鯨を非難するサイトって本当に多い。特に、やっぱりというか、アメリカに多い。

アメリカという国は、日本に対してものすごいコンプレックスを持っていると思うんですよね。歴史がない国、永遠に残る様な文化を結局は残せなかった国っていう自意識があって。やはりこうなっちゃうんですね〜。

先日、ドストエフスキーの「罪と罰」に絡んで「聖女と娼婦」というテーマについて書きました。一見、真逆に見えるものが、実は一体だったりする。で、逆に言えば、聖人君主が一方で悪魔でもありうるっていうことがあって、米国というのは、そういう一面をちょっと持っていると思うんですよね。

新約聖書の中で、イエスがもっとも忌み嫌うのは「自分は正しい」と思っている人たちです。当時の律法にガチガチに凝り固まったファリサイ派の人たちなんかですね。病人を安息日に直してやって、「あ、お前ね、これはちょっと問題だよ。安息日はさ、仕事しちゃいけないんだから」というようなことを言う。有名なやりとりですが、イエスはこの言葉に対して、羊飼いが、自分の羊の一頭が行方知らずになったとき、その人は安息日だからといって、その羊を探さないだろうか?」という投げかけをします。これは大好きなシーンの一つだけれども、まあそういうことですね。

こういう「自分は正しい」と思い込んでいることで、残酷性を発揮する、というモチーフは小説の世界にも結構あって、たとえばディズニーが映画化してポピュラーになったヴィクトル・ユゴーの"Hunchbak of Notre Dame"のフロロなんかはその典型ですね。

あと、ちょっとマイナーなところで思い出すのはマーヴィン・ゲイの話でしょうか。僕も大好きなアーティストですが、彼がどういう死に方をしたか、ご存知でしょうか?実は、厳格な牧師のお父さんに、口論の末激昂して撃ち殺されているんですよね。厳格な牧師、という聖性の最たるものにいながら、マーヴィンを幼少期から度を超した厳格なしつけで精神的に虐待して、最後には実際に銃で撃ち殺してしまう。

「罪と罰」では、誰からも蔑まれる「立ちんぼ」であったソーニャが、結局はラスコリニコフの心を救う。一方で、街の誰からも尊敬のまなざしで見られいたコミュニティの牧師が、自分の息子を口論の末に撃ち殺す。

世界の中で最も困るのは、「自分は正しい」と思っている人たちです。

捕鯨を責める人たちや、ロードバイクに乗るときにヘルメットをかぶれ、と他人にうるさく言うような人たち。ホント、困ったものですね。

今週


夏から担当していたプロジェクトが一旦終わり、フェーズ2の開始まで少し時間が出来たので、読書やチェロの練習、ジョグにいそしんでいます。

1:読書
相変わらず一冊の本を集中して読む、という読書スタイルがダメで数十冊の本を同時進行で読んでいます。いくつかかいつまんでご紹介。

:Born to Run 走るために生まれた
一日に数十キロ〜百キロを走る南米の部族、タラウマラ属と、「走る」ことに取り付かれた現代のウルトラランナーの対決を描いたルポです。ウルトラマラソンとは、100キロ〜200キロを争うマラソンですが、通常のマラソンでの常識がいろいろと崩れるのが面白い。例えば女性と男性の差はフルマラソンでは如実ですが、ウルトラマラソンでは殆ど無くなるとか、ね。

面白かったのは、200キロ走るのなら「はだし」が一番いいシューズなのだという科学的な根拠を説明している箇所でした。統計的には、クッションの良い高価なジョギングシューズであればあるほど、故障を起こすリスクが高まるのだそうです。皆が皆、一日に数十キロ〜百キロを走るタラウマラ属は、タイヤを切って作ったサンダルで走りますが故障は皆無なのだそうで、当初は食べ物とか走る場所が土だからとか、色々言われていたのですが、どうもシューズに原因があるらしい。それが証拠に、シューズが進化したここ20年の間で、アマチュアランナーに発生する故障の確率はむしろ上昇しているのだそうです。

アディダスやナイキ、アシックスといったメーカーは、クッション性の良さやかかとのサポートといった機能的付加価値をアピールしてどんどん高価なシューズを出しますが、これらのシューズを使うことによって故障が減る、ということを科学的に立証したレポートは、一つもない、のだそうです。要はマーケティング上の一つのトリックだということですね。

ちょっと信じられないな、と思いながらも、高校時代の自分は日常的に履いていたスニーカーでいきなり10キロマラソンとか出ても、体に何の痛みも感じなかったのが、最近はアディダスの高〜いシューズ履いて10キロ走るとなんか体中がギシギシいうから、本当かもと思ったりもします。単に年のせい、ということかも知れませんが。

:リンドバーグ 世紀の犯罪
リンドバーグの息子が誘拐された上、殺害されたのは有名な事件なのでご存知の方も多いかもしれません。この事件は2年後に犯人が逮捕され、その後電気椅子で処刑されたことで解決されたことになっているのですが、この本は、「それは冤罪であって、本当の犯人はリンドバーグ本人である」ということを様々な証拠を集めて主張しているものです。著者は法律家で、この事件の検証プロセスそのものをプロの目から再検証する、という体裁をとっています。

で、読めば、まあ恐らくそうだったのだろうな、ということをすんなり納得しちゃいます。要するに一種の虐待癖があって、一歳の子供を過失で殺しちゃったんですが、それを誤摩化すために誘拐事件をでっち上げた、ということなんですね。読めば読む程、この20世紀の英雄に対する嫌悪感が募ってきます。

なんで虐待を?

その名前をバンドの名前に冠しちゃったり、そのバンドにまた人気が集まっちゃったりするお国なので、あんまり知られていないのだと思いますが、リンドバーグというのは非常に優性思想に凝り固まった人だった。わかりにくい?要するに白人至上主義者だったということです。

必然的に、当時同様の意見を掲げてユダヤ人をミキサーに入れる様にして処置していたナチス=ヒトラーを礼賛していた。自分は白人の英雄で、白人社会の軍備と人種的優越性が、黒人、黄色人種、褐色人種の進出から世界を救える、とまじで考え、実際にそれをパブリックに発信していたわけです。

で、結婚して子供が出来た。その子は、合指症という先天的な奇形を抱えていた。皮肉なことですが、優性主義に凝り固まった人に、初めて授かった子供に先天的な奇形があったわけです。この子についてリンドバーグがどのように複雑な感情を抱いたのか、それはよくわかりません。ただ、結果的に彼が自分の子供を誤って殺してしまう、という事故に、この複雑な感情が恐らく深く関与しているのだろうな、と思うだけです。

非常に不思議なのは、リンドバーグの奥さんのアンは、非常にリベラルな人で、夫であるチャールズと共に、第三世界を含む様々な箇所に飛行機での冒険に出かけていて、またその冒険を記したルポが大変有名なんですよね。実はアンはチャールズとともに日本にも訪れていて、その美しさ、人々の礼儀正しさに感銘をウケたことを本に記しています。

僕はリンドバーグ本人よりも、むしろ奥さんの残された書籍から、リンドバーグ関連の知識を得たので、この本に描かれている彼の未熟っぷりには本当にびっくりさせられました。

2:音楽
まず音楽関連のDVDを2枚入手してそれが両方とも素晴らしかった。両方ともスティングなのですが、一枚は、16世紀の作曲家/リュート奏者であったジョン・ダウランドの曲を歌:スティング、リュート:エディン・カラマゾフで録音したJourney and LabyrinthのDVD。もう一枚が去年の冬にリリースされた、冬をテーマにしたアルバムIf on a winter's nightのメイキング&ライブDVD。本当に素晴らしい。特にIf on〜の方は、冬のトスカーナにある城で録音が行われるのですが、そこの雰囲気が最高。ライブはイングランドの教会で行われるのですが、これも素晴らしいですね。

このDVDを見て、いろいろと考えさせられちゃいました。一つはスティングという人の知性。ダウランドという人に関する研究や、クリスマスというものについての考え方、「冬」の捉え方なんかですね。

後は、進化するってことかな。スティングって、まあロックミュージシャンですけど、このDVDでは二枚ともクラシックの楽器しか使っていないわけです。それで、スティングらしい音楽をまた新たに作り出す。こういうのが才能っていうんだろうな、と思うわけです。いい顔しているんですよね、スティングが。好奇心が旺盛で仕事が楽しくって仕方がない、という表情。その一方で、今週のBRUTUSに出ていた小室哲哉さんの虚ろな目が、本当に対照的だなと思えました。

今週

9月30日(木)

プロジェクトの最終報告を実施。
その後、会社の後輩と一緒に青山のトラットリア「ドン・チッチョ」に伺いました。
いつも同じ結果を出す、というのも職人の技術だと思うけど、ここの料理もそう。いつも変わらず、美味しい。この日は珍しくカウンター。テーブル席が一杯だったらしい。頼んだ料理はいつもの通りです。

:魚介のフリット
:タコのまりね
:いわしのサルシッチャ
:からすみとあさりのパスタ
:スカンピのグリル
:プラチナポークのグリル

ワインは最初の白がレガリアーリ、次の赤は忘れました。食後にハーブの入ったレモンチェロを頂き解散。久しぶりに強かに酔う。

10月2日(土)
4時起床。先日教文館で購入して来た神学に関する本を読みはじめる。これがなかなか面白い。例えば「復活」。まず、当時のユダヤ教またはユダヤ社会において死者の復活というのは世界の終末とヒモづいた概念であったらしい。従って、終末以前の復活というのは「非常に奇異」なことで、布教をこれから始めようと言う聖書編纂者、ないしは福音書の記者たちが、なぜこのように当時の社会から見ると奇異なことを取り上げたのか、という問いは、それが実際に起こったから、ということでしかやはり答えようがないのではないか、としている。

新約聖書の中でも実際にイエスの人生について触れているのは、いわゆる共観福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカの三福音書で、これらの福音書の中には同じエピソードが記述されているものもあります。例えばイエス誕生の下り、いわゆる「クリスマス」のエピソードは、マタイとルカの両福音書に記述されているのだけれども、復活のエピソードは三福音書にまたがって全てに記載されている珍しいエピソードなのですね。しかし、どれもストーリーの細部が微妙に異なっている点が、いかにも事実を書き起こしたということを伺わせます。

加えて、どの福音書も、この「復活劇」の最初の目撃者が「女性だった」と記述していることにも、重大な注意を払う必要がある、と指摘しています。というのも、当時のユダヤ社会においては、女性の証言は法的な効力をもっていなかったからです。女性の証言は全く信用されなかった。そういう社会的な前提があったにも関わらず、福音書記者たちは、それぞれ別の時代に、別の場所で書き起こした福音書において、復活の最初の目撃者が女性だったことを記しています。この復活劇が、イエスの神性をアピールするための単なる作り話であるのなら、なぜ彼らは敢えて当時の人に取っては受け入れがたい様な文脈を採用したのか?

以上を考えると、やはり復活劇というのは、「イエスの教えが本当の意味で弟子たちの中でわかってきた、生き返った様に心の中で対話することが可能になった」ということのメタファーなのではなく、実際に書かれた通りであったかはともかく、何か彼らの認識の転換を迫る様な衝撃的なことが実際に起こったのではないか、ということを述べています。

ここで「だから復活は本当なんだ」と来ないところが神学の面白いところで、この著者はオクスフォードで分子生物学の博士号まで取った上で、神学に進路を変更、神学でまた博士号とってそのままオクスブリッジで神学の先生やっている、という人なんですが、アプローチに科学的な厳密性があって面白いです。ちょっと経営学に似ているんですよね。テキストを読んで、それを構造化して考えるところが。

3時からチェロ。
最近の課題は、手首の左右/上下のストロークの柔らかさと大きさ。チェロの演奏では手を電車のパンタグラフの様に使います。弦を移動するときは腕を上下させるのではなく、弓を持った指をのばしたり縮めたりして移動するのですが、この移動の幅がなかなか大きく取れないのが課題ですね。時間をかけるしかないでしょう。

もう一点の注意はビブラートを大きくかけるということ。

チェロ購入記

と、いうことで、やはり金策が出来る前に購入してしまいました。

チェロ。

先生からお勧めされた御茶ノ水の下倉楽器で、下倉楽器のオリジナルのブランドのものを購入しました。

先生から出された条件は二つ。

1:ドイツ製であること
2:少なくとも楽器に30万円は出すこと

最近ではネットでルーマニアや中国製のものもかまびすしいですが、先生曰く

「時間が経つと差が出ます」

とのこと。材の乾燥の度合いが違うみたいですね。

ただ、店に行って実際に弾いてみるとドイツ製は如実に価格が高く、ルーマニア製や中国製の30万円前後のチェロと同じ程度の音を狙うとどうしても50~100万円程度になってくる感じで、正直悩んだのですが、さすがに二つ出された条件のうち、最初の一つをのっけから無視、というのもなんだかなと思い、どうせローンだし、ということで結局楽器で50万円前後、弓で10万円前後のものを購入しました。弓も「キリ」は3万円前後から、「ピン」はン百万円まであって悩ましいのですが、幸い手頃な価格のもので手にした瞬間にバランスがピン!とくるものがあったので即決できました。

で、いままでは自宅では先生から借りてきたチェロで練習していたのですが、新しいチェロにしてから練習が十倍も百倍も楽しくなり、今では週末が楽しみで楽しみでしょうがなくなりました。楽器の趣味、お勧めです。

3連休

9月18日

午前、長女をピアノ教室に連れてく。
午後、長女を新体操教室の体験に連れて行く。コーチの言葉遣いが荒いのが気になるが、こういう人も世の中にいるのだ、ということを学べること自体が学びかもと考える。習いたい、というのでしばらく通わせることになったらしい。
その合間を縫ってチェロとピアノの練習。

夜は、友人のインド人夫+日本人妻の夫妻が拙宅を訪れディナー。
この日のメニューは

■前菜
:きのこのガーリックソテー
:グリーンサラダ
:生ハム

■主菜
:牛肉のタリアータ クレソン+トマト+バルサミコソース

生ハムは田園調布のDENENでその場で切ってもらったもので美味しかった。パックモノとは全然違うので機会があれば是非トライを。輸入ビールをもろもろ試してみた後、ワインを3本空けて解散。

9月19日

午前中書斎で仕事。
午後イチ、前夜の酒を抜くために駒沢公園を2週=5キロほど走る。
14時から会社の同僚と電話会議。最終報告のパッケージを相談。問題なし。
夕方、長女の自転車(補助なし)の練習のために再度駒沢公園へ。かなりおぼつかない状況。へとへとになる。
18時尾山台のビストロ「ヌジ・ヴォアラ」で家族で食事。美味しかった。
http://r.tabelog.com/tokyo/A1317/A131715/13008138/
家に帰ってきてから読書しようとしたが沈没。

9月20日
なぜか夜中3時に目が覚める。
最終報告用のパッケージに手を入れて5時から自転車で外出。
早朝の風が気持ちいい。この日は碑文谷~洗足池の辺りを徘徊。雲行きが怪しくなってきたので7時くらいに帰宅。
10時に外出。深沢神社に引越しの挨拶。その後渋谷の黒澤楽器でチェロを物色。80万円のチェロと30万円のチェロの音色の違いに愕然とし、金策を決意。その後新宿のコンランショップで雑貨や家具をもろもろ物色。また田園調布のDENENで食材を購入して帰宅。

この日の夕食は
:瀬つき鯵の刺身
:油揚げ
:ごはん
:あさりのすまし汁
:お新香
でさっぱり。

9時に就寝。

9月14日

BCG時代の同僚、宮澤君と六本木のボン・ムッシュで食事。
色々とキャリアの相談に乗る。

その後、渋谷のロック・バー「グランドファーザーズ」で角ハイボールとおでんを楽しむ。この日も選曲が素晴らしい。

佐藤愛子の「私の遺言」読了。50歳になって手に入れた北海道の別荘で次々に怪奇現象が発生。それまで信じていなかった霊的な世界に正面から向き合わざるを得なくなった後半生の、凄まじいまでの「戦いぶり」を記した本。誰も居ない別荘に帰ってきて、「?はて?なぜか灯りが?」。ドアを開けようとすると中から騒然とした人の話し声。ドアを開けると中は真っ暗で誰も居ない・・・・超怖いですね。

大忙しの週末

金曜日の夜は現在プロジェクトを担当しているお酒の会社の現場の方と一緒に会食。

さすが、酒の会社だけにこだわりが半端ではない。

一軒目は弊社側で負担、ということで二件目は、東京でもここでしか飲めない、というレアモルトを出してくれる店を紹介してくれました。

お店をのぞいてみると大繁盛。不況といわれながらもリーズナブルな値段で美味しいものを出す店はやっぱり混んでいるのだ、ということを最近よく実感させられるのですが、この店もそうでした。

で、いろいろと教えていただきました。

まず、びっくりしたのが赤ワイン用のグラスに大ぶりの氷を入れて、ぐるぐる混ぜて飲むという飲み方。25年白州とか、30年響とかなのですが、通常のショットグラスで飲むより確かに香りがしっかりわかる飲み方でした。ぐるぐるグラスを回すことから「トルネード」というんだそうです。

あとは燻しものが合う、ってことかな。僕はウイスキーすごく好きで自宅でも殆ど毎日少量は口にしますが、ウイスキーに合うのは燻製ものということらしく、当日供されたのはソーセージにせよチーズにせよ魚にせよ全部燻してあるものでした。これも美味しかった。

面白かったのが水との相性、という話で、ウイスキーは必ずチェーサーと一緒に飲みなさい、と教わったのですが、チェーサーにもっともいいのは、ウイスキーの仕込み水なんだそうです。そのウイスキーを仕込むのに使った水が一番美味しいのだそうです。

最後は、銀座でもなかなか飲めないという「響30年」を頂、散会となりました。うまく行っているプロジェクトだと飲むのも楽しいですね。

土曜日。

6時30分起床。自転車で駒沢公園を3周。緑の匂いのなかを駆け抜ける感じでいい気持ち。帰宅して朝食。週日に届いていた本棚を組み上げる。膨大な書籍を効率よく収められるように棚板の位置を悪戦苦闘しながら調整し、なんとか9割方納められるセッティングを発見。部屋がずいぶんスッキリしました。ちなみにこれまで使っていたIKEAの本棚は、棚板がゆがんでしまってグズグズになってしまい、ネットで「荷重30キロまでOK!」というハイスペックの本棚を購入しました。つくりがしっかりしている分、組み立ても面倒なのですが、出来には満足しています。

その後、チェロを1時間ほど練習。だんだん自分のチェロが欲しくなってきました。先生からは最低でも30万円のものを、出来れば50万円程度は・・・と言われており金策が必要。

チェロの練習を終え、本棚からあぶれた本をブックオフに売却し帰宅。

その後、桜新町の「ねぶた祭り」に家族と参加。なぜ桜新町で青森のねぶたなのかは何人かに聞いてみたものの不明。長男を抱えたまま2キロほどパレードに参加、全身に倦怠感。その後、桜新町在住の友人宅に訪れバーベキュー。

10時過ぎに帰宅し、家に届いていた「オペラ座の全て」をDVDで見始めるも、うたた寝し、手にもっていたウイスキーをこぼす始末。結局睡魔に勝てず、視聴を断念。そのまま眠りました。

日曜日
9時30分に起床。9時間以上寝たのは久しぶりで驚く。
大急ぎでシャワーを浴び上野毛教会のミサに参加。自転車でちょうど30分くらいなので日曜日の朝のサイクリングにちょうどいい距離。上野毛教会はお御堂が木造なので雰囲気がいい。

12時に家に帰ると既に来客。一緒にピザを食べ、僕は部屋にこもってまたチェロの練習。

2時からチェロのレッスン。手首の硬さがなかなか取れないのですが、前回よりずいぶんよくなっています、との言葉に勇気付けられる。やっぱり楽器はある程度の密度で練習しないとだめだな、と改めて認識。二週間にいっぺんのレッスンだと全然進捗しなかったけど、最近は毎週通っているので少しずつでも進歩しているのがわかる。この状態をいつまで維持できるか?比較的平和なプロジェクトであればこれを維持できるのですが・・・

却って来て、再度食材の買出しにお出かけ。鯛のいいのがあったので、

前菜1:鯛のカルパッチョ サラダ仕立
メイン:鯛の塩焼き

と簡易に済ましました。

食後はチェロの物色をネットでしながら11時くらいに就寝。

宮本武蔵と空中給油とヤマト運輸


唐突に思うかも知れないけど、この3つの共通項を考えてみて欲しい、と言われたら貴方はどういう言葉を思いつくだろうか?

頭としっぽの二つは日本人なら誰でも知っているけど、真ん中についてはあまり馴染みのない人が多いかも知れない。空中給油とは、航続距離の短い戦闘機が、地上におりずに空中で飛びながら他の飛行機から燃料の供給を受けるシステムのことを言います。原理的には単純で、燃料を満載した親機が燃料を供給するホースをぶら下げながら飛んで、後から燃料の供給を受ける戦闘機が、ゆっくり親機に近づき、飛行機を微妙に操作してホースを燃料の穴に入れ、ドクンドクンと燃料補給を受けるという、まあそういう原始的かつとんでもない仕組みなのです。

で、最初のお題に戻ると、この3つの共通点ってなんだと思いますか?

答えは先取りした、ということ。武術用語で言う「先(せん)をとった」ということです。

戦闘機の航続距離は短い。燃料が丁度切れる地点に見方の中継基地があればいいけど、そうでないと戦術展開の自由度は大幅に制限される。そこで、ちょっとネジの緩んでいる人はこう考える。燃料が丁度なくなるところで、空中でそのまま燃料補給を受けられたらいいのに、と。しかしこんなアイデア、間に受ける人間は殆ど居ない。結局、このシステムが実現したのは、アイデアを思いついた人も偉いけれども、それを保護して育てた人が一番偉いのだと思う。

南極探検隊の隊長を務められた西堀栄三郎さんは、長く東芝の技術部門にも貢献されて日本のモノ作りの哲学を明文化した人だけれども、彼はよく「アイデアに賞を出すのではなく、そのアイデアを保護し、育てた人にこそ賞を出すべきだ。なぜなら日本に欠けているのはアイデアを出す才能ではなく、アイデアを拾い上げ、周りとけんかしてでもそれを育ててくれる人なのだから」という趣旨のことを言っているけれども、ほんとうにそうだと思う。

ヤマト運輸も、まあそういう経緯があったのですが、興味のある方はヤマト運輸のもと社長で宅配便システムを作り上げた小倉さんの著作、その名も「経営学」をお読みになるといいと思いますよ。



プリンシプルとは

白洲次郎は「日本人にはプリンシプルがない」と言った。

で、プリンシプルとはなんだ、ということになるわけだが、なるほどこれはプリンシプルだな、と思った話を一つ先日読んだ。

キューバ革命の志士、カストロの盟友であったエルネスト・「チェ」・ゲバラは、CIAに拿捕され、最後に銃殺されているが、後にこの下手人は目の疾患にかかり、手術費が安い共産国であるキューバに来て、無事手術を終えて米国に帰国している。

誰もが手術を受ける権利がある、というのが、この場合キューバの掲げたプリンシプルであって、それは例え建国の英雄を銃殺した当の本人であろうとも代わりが無い、ということだ。

次郎は、軽井沢ゴルフクラブの理事長として君臨して、時の総理大臣である田中角栄が訪れてゴルフをプレーしようとした際にも、「会員でないから」という理由で追い返している。日本という国で、ここまでルールを杓子定規に当てはめて生きていくには相当な窮屈な思いをしただろう。

ここでいうプリンシプルとは、殆どルールみたいなものだ。ただ、ルールが他人との間で共有されているものであることが前提なのに対して、プリンシプルはまあ自分だけが決めればそれはそれでいいという側面が、ある。

そういう側面から言えば、日本には「ルールがあってないようで、やはりあるのかと思うとどうもないらしい」という側面があって、それを端的に表しているのが、消費者金融に課せられた過払い金の問題だ。グレーゾーン金利は、グレーゾーンといわれながらも法的には認められた金利だった。にも関わらずある日突然違法とされ、これまで課してきた金利を逆に支払えという。この件に怒ってGEファイナンスは日本の消費者金融市場から撤退してしまったわけだが、そのときのアナウンスが非常に分かりやすくて、確か「ルールのない国では金融事業はできない」というものだった。

このグレーゾーン金利の問題も、まあ金融行政側のプリンシプルの問題だろう。

じゃあお前は自らのプリンシプルを決めているのか?と言われると、実は決めていたりする。いくつか挙げると

:お年寄りには親切にする
:保身のために人(特に部下)を裏切らない
:人の善性を信じる
:他人には必ず自分より優れている点があるので、それを見つける努力をする
:「金」より「面白いかどうか」を仕事を選ぶ判断基準にする
:子どもには、常に「人生は面白くて楽しく、生きるに値するよ」といい続ける

といったところだろうか・・・・あまり思いつかない。

こういうルールが、ある程度染み付いてくると、そうそうひどいことに人生はならないのではないか、という気がする。

続き

とさっきはそこまで書いてきて、つまり経済学は何を言っているかというとコモディティの値段は下がり続けて利益は出なくなるだろう、ということで、では値段や給料が下がり続けるのを嫌がるのであれば「差異化」が大事だ、とこう来るわけですね。

確かに、僕は付和雷同とか、組織の論理とかが大嫌いなので、世の中の人がみんな「サイカサイカ」と唱えながら、自分らしさを追求するのはいいことなのかも知れないと思うわけですが、一方で、これは選民思想ではないということをくれぐれもわかっていただきたいのですが、そもそも「差異化」のポテンシャルがある人なんて、ほんとに一握りなんじゃないか、という気もするわけですね。

会社ならともかく、人って何千万人もいるわけで、一方で、仕事で求められる要件とかクライテリアが1万くらいしかないとすると、どうしてもあるクライテリアに関しては競争状況が発生しますよね。差異化って土俵を分けるって話なので、人間が一千万人居たら土俵も一千万必要なわけですが、世の中にはそんなに沢山の土俵はないよね、とこう思うわけです。

で、もしそれがそうなのだとすると、経済学、というか経営学もマーケティングもそうなんですが、「汝自身を差異化せよ」という福音は、これはタイヘン残酷なメッセージを送っている、ということになってしまうわけですよね。

OECD加盟国の中で日本は人口当たりの自殺数が最も多いのだけど、そこの部分と、こういう社会状況はリンクしているんじゃないかと、思うんですよね。

え?差異化が求められているのは日本だけでなく欧米でもそうだけど、欧米の自殺率はそんなに高くないじゃないかって?はい、それはその通りなんですが、何なんだろうな。

ネットって何のため

情報の非対称性が失われる完全市場では、利益は限界まで減ってしまって資本主義は崩壊するだろう、と予言したのはマルクスだったかしら?

インターネットは企業から市民へのパワーシフトを促した、とよく言われて、そういう文脈において例えばスティーブ・ジョブズやグーグルがかつての西海岸カルチャーがなしえなかった革命を達成するかも知れない、と期待を込めて言及されることが多い。

確かに、情報が広く、速く流布することで企業は超過利潤を得る機会を減らすことになる。なんでこんなことを考えたかというと、先日家の荷物を大量に運送する機会があって、見積もりをネットで取ったら簡単に合い見積もりが取れた、ということがあって、あ、これはネットが出てきたせいで世の中は全般的に完全市場に近くなっているのかも知れないな、と思った次第なんですが、そのことと僕個人が、世の中はこうあるべきだ、と感覚的に思っていることに、やっぱりなんか齟齬があるな、と皮膚感覚として実感したから、ということなんです。

それは何かと言うと、荷物の梱包をやってくれたのが、もういい年をしたおばあちゃんたちだったのですが、この人たちに払うお給金は、ネットがもたらす革命的な情報流通力によって、限界まで下がり続けるのだろうな、ということなんです。

僕は、ネットで何社かの運送業者に声をかけて、其々から見積もりをもらう。
そして最も安いところに決める。

このこと自体、何ら責められるいわれはないんですけどね・・・・

ネットは確かに便利なんですが、より完全市場に近くなる、つまり情報流通の量とスピードが高まることによって、本当につらい思いをせざるを得ない状況に追い込まれるのは資本家よりも、その人たちに使われる労働者なんではないか、とふと思ったわけです。

これが、今日未明にふっと目がさめてなぜか思ったことの次第。

残る勉強と残らない勉強と

最近はビジネス書を殆ど読まなくなってしまっているのですが、戦略コンサルティングという職業をやっていくにあたって、これはいいことなのか悪いことなのか、ということをたまに考えます。

自分が顧客の前で話すことの殆どは、どこかで読んだり聴いたりしたことがネタになっているので、ビジネス関連の書籍を殆ど読まなくなっているというのは、これは発酵の材料になるコメや麦を供給していないということなので、どうもマズいのではないかしらん、というのが考え方の一つ目。

一方で、これは何で最近読まなくなっちゃったか、ということとも関係があるのですが、最近書店に並んでいる本の殆どが、ここ1〜2年しか読まれなくてすぐに世の中から必要とされなくなるような本だという気がしていて、それは典型的には一時期流行したセカンドライフとか、今だとツイッターとか電子書籍に関連する本とか、そういうものですが、こんなものを読んで「今、ここだけ」でしか有用でない知識の習得のために貴重な読書時間を投下するというのは、ROIとしてはいかがなものなのだろうか、という気もするんですよね。

以前にもこのブログで書きましたが、エルネスト・チェ・ゲバラが、コンゴに居る自分に送って欲しいと妻にリクエストした書籍のリストは殆どが古典、それもギリシア時代の本であって、現代の本って殆ど入っていないんですよね。何か根本的にモノを考えるとか、変えるとかという時って、やっぱり普遍的なもの、つまりその世界である程度古典として成立しているもの、これは何もギリシア神話だけでなくってビジネスの世界で言えば、産業組織論とか、そういった基本的なものをちゃんと勉強する、という方がいいのじゃないか、という気もするんですよね。といいつつ、じゃあそういう本を読んでいるのか、と訊かれると「まったく読んでません」というのが答えなんですけどね。

あとこれは競争戦略論の話なんですが、よくキャリアアップするためにビジネス書読んでいる人居るんですけど、これも程度問題であって、人と同じ本読んでいたら人と同じ結果にしかならないんですよね、当たり前ですけど。この辺、世の中の人はみんな何考えているのかホント不思議なんですけどね。人と同じ本読んでいたら、人と同じものしか出来ないし、出せない。僕はこの世界の中では相当変わった角度でアウトプットを出す人だと自他ともに認めていますけど、それって何が違うのかというと単純にインプットしているものが違うから、ということなんだと思います。まあ多少プロセッシングが違う、ということもあるのかも知れないけど、プロセッシング自体がなぜ違うのかというと、これも結局はインプットしているものが違うからプロセッシングも違うということになるわけで、畢竟、「必読のビジネス書特集」とかにリストアップされている本を一つ一つ読んで行くっていうのは、これは一体どう考えるとそういうことになっちゃうのかな、という気もするんですよね。

常識として最先端の知識を押さえておく、ということと、人と違うインプットを心がけることで差別化を図って行く、というのは、なかなかバランスが難しいですね。まあ最終的には、どこで自分の強みを出すか、それはつまり「あの人は常に最新動向を知っている」というポジションか、「あの人は常に根源的にモノを考えてアウトプットを出す」というポジションかということなんですが・・・・最後は向き不向きということなんでしょうけど、恐らくもっとも狙ってはいけないのは、「両方のポジションを狙う」ということなんでしょうね。

ココロします

サステナビリティについて



ここでのサステナビリティというのは、最近よく言われる「環境との共生」の意味ではなく、人生についてです。

前々から、戦略コンサルティングの仕事は面白いし、世間一般水準から比べれば待遇も恵まれているのですが、体力的・精神的に負荷が大きく、いつまで続けられるかな〜という気持ちが、まああります。

で、この仕事をやめるとするとやりたいことは山ほどあって、それは

:ラジオ番組のDJ
:雑誌編集者
:著述業
:八ヶ岳で街道レーサーがあつまるカフェオーナー
:講師

・・・などなどなのですが、こういうことをやりながら食うっていうのは「サステナブル」なのかな、と思っている次第です。

で、あるきっかけがあってやっぱり厳しいのかな、と。

そのきっかけっていうのが、ある出版業界の友人から聴いた「勝間さんの本が、最近1万部くらいしか売れなくなって来ているんですよね」という声なんです。

僕は勝間さんの本殆ど読んだことないのですが、あれだけの売れっ子でもやっぱり売れ続けていられる時期ってせいぜい3年なんだな、と思うとモノ書いてお金稼ぐって言うのを一生続けるのは、恐らくホント大変ってことなんですよね。

僕も一昨年に本出したからニュアンスわかるんですよね。ビジネス書としては「かなり売れた」と言われましたけど、それで2万部。印税は10%なので750円の本だと150万円。一般的な高給取りの職業でいう月給の手取り分くらいにしかならないわけですね。ということは月一回のペースで、こういう本を出し続けて行かなければいけないわけで、それってやっぱりサステナブルじゃないよな...と思った次第なのです。

うーん・・・悩ましいですね


日本がダメと言いたがる人々

最近よく、

「なぜ日本企業はアップルになれないのか」

とか

「日本にアップルが生まれない理由」

といったタイトルの本や記事や主張を見かける。

では、そういう人たちに聞き返したい。

「なぜ、アメリカには”第二のアップル”が生まれないのか?」

と。

アップルというのは確かにすごい会社だと思うが、アメリカにおいてさえも特殊な会社であって、この一社と日本の企業を比較することに意味があるとは思えない。

冒頭に記したようなことを言っている人たちの主張は、アメリカにたった一本だけ生えている木を取り上げて、その木が日本に生えていないことを論拠に、土壌の違いや育て方がダメだ、といったことを論じているのに等しい。

なぜアメリカのほかの地域にはその木が育たないのか?ということは論点にならない。

この人たちは、なぜかくも幼稚で不毛なことを主張しているのだろうか?色々と理由はあるのだろうけど、僕が思うにこういったことを言う人々は、ある「病気」に侵されているように思う。どういう病かと言うと「日本をダメだダメだダメだダメだと言いたくてしょうがなくなる」病である。そういう病に冒されてしまうと、上記の様な不毛でイロジカルな主張を口から垂れ流すようになってしまう。

気をつけよう。
三島由紀夫曰く、「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」
ジョブズはアップルを「テクノロジーとリベラルアートをつなぐ会社」にしたい、と言ってる。

これを日本語に訳すと「技術と一般教養」をつなぐ、という意味不明な文章になる。

なぜこんなことになるのか、というと「リベラルアート」に「一般教養」なんていうひどい訳をつけたからだ。だれが訳したのか知らないけど、この誤訳はひどく罪作りな誤訳だと思う。なぜなら最も基底として重要な学問領域が、なんだか世間一般常識と同様な軽いカテゴリーに認識される風潮を作ってしまったからだ。

リベラルアートは、個人をして自由にならせしめる学問、という意味である。

攻めに強い中国

中国はリーマンショックの影響を殆ど受けていない。

その要因の一つに政府の対応のスピードがあったと思う。

リーマンショック発生は2008年の9月15日。

中国の金融政策緩和の意思決定は9月16日。それまでハイパーインフレの懸念がささやかれていた中国はこの日を境に一転して金融政策を緩和側に振っている。

このスピード感こそ、独裁政権の強さだと思う。

同じことはシンガポールにも言える。
シンガポールの税関のスピード、移民誘致に関する優遇制度のラジカルさは独裁国ならではのものだと思う。

そういえば、最近、シンガポールの首相の平均在任期間と日本の首相の平均在任期間の比較という意味不明な分析にお目にかかった。

なぜ意味不明かと言うとシンガポールは独裁政権だからだ。独裁政権というのはつまり、誰がなんと言おうと「オレはやる」と言えば、やり続けられる政治形態を言う。日本は民主国家であるからして、極論すれば、皆がやめさせようと思えば首相なんていくらでも辞めさせられる。こういう政治システムの違いを棚に上げて在任期間の比較をしても意味がないのは明白だ。

一夫多妻制の国と一夫一妻制の国を比較して、子供の平均の数が少ないとわめくのと同じことでしかない。

独裁、恐るべし。

「会社に寿命を作ろう」の会発足

人もモノもいつかは滅びる。
滅びるからこそ愛おしいし健全なのだと思う。

でも滅びないものもある。
その代表が貨幣と企業だ。

貨幣は、モノが放っておけば減価するのと異なって、むしろ増える。
企業は法人で、法律的には「人」だけど寿命がない。

これは不健全なんでは。

ドイツの経済学者のシルビオ・ゲゼルは、モノは放っておけば滅びてゆくのにお金はむしろ増えて行くこと問題視した上で「モノと貨幣で不当競争が行われている」と指摘して「減っていくお金」を提唱した。

そしてそのコンセプトを受け継いだのがケインズだ。いわゆるバンコール。しかしこのケインズ・プランは結局、米国のホワイトプランに破れてグローバルスタンダードになることはなかった。

で何が言いたいかというと、企業も滅びていくことを宿命としてみてはどうか、ということ。例えば、年を経るごとに法人税を高めて行くっつーのはどうか?
ベンチャーは法人税ゼロ。年数を経るごとに増やしていって、100年経ったら強制的に解散。新しく会社作っても新会社と旧会社で人員の重複率は5%以内じゃないとダメ。
こうすると新陳代謝がどんどん起こって日本にもアップルが生まれるかも知れない。

なんかわくわくして来た

青春

僕が子供のころ、恐らく10歳前後の頃だったと思いますが、母は家でピアノを教えていました。

ある日、声を聴いただけで「すごーく年取っているな」とわかるおばあちゃんから、家に電話がかかってきました。

曰く、「家の前のピアノ教えます、という看板を見たのですが、私みたいな初心者でも大丈夫ですか?」とのこと。
「うちは小さい子供ばっかりでみんな初心者ですから大丈夫だと思いますよ」と、その場では答えておきました。

そうして、しばらくしてから、その電話をくれた「すごーく年取ったおばあちゃん」は、家にピアノを習いに通い始めたのでした。

自分の部屋に練習している音が聞こえてきて、それはそれはたどたどしいのですが、子供ごころに素晴らしいことだな、と思ったのを、この頃たまーに思い出します。

最近、またいろいろと新しいことにチャレンジしようという気持ちが、強くなってきていて、それで思い出すんでしょうかね。おばあちゃんは80歳でピアノを新たに習い始めましたが、まあ僕は40なので、何始めるにしても遅すぎるということはないですよね。

ということで、米国の実業家で詩人でもあったサミュエル・ウルマンの詩です。


青春とは人生の一時期のことではなく心のあり様をいう。
若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。
理想をなくした時老いるのである。

歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子供のような探究心・人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。

人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。

自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることができる限り、その人は若いのだ。

感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、人間は真に老いるのである。そのような人は神のあわれみを乞うしかない。

文化産業戦略

4月からお手伝いしていた日本の文化産業戦略の骨子が、産業構造審議会の審議を経てついに昨日、発表になりました。

文化産業を日本の輸出産業の柱に育てるという趣旨で、目標規模も実にアグレッシブです。

議論の焦点だった「産業構造の転換」もしっかり盛り込まれてます。日本のコンテンツ産業の発展を阻害しているのは、旧来型のモデルに固執するマスメディアであって、この構造を解決しない限りコンテンツ産業の発展はない、という再三の指摘をご理解いただいたようです。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20100531-OYT1T00102.htm

古くて新しいロック

ミュージックマガジンで特集されていた「ロックのベストアルバム100」という号が、ずっと積読になっていたのですが先日書棚から引っ張り出してきて読んでみたら、これが面白い。

100のうち、恐らくアルバムを買ってちゃんと聞き込んだのは10枚にも満たない程度なのですが、残り90枚を聞きたくなるような解説なんですよね。

大したもんですね、プロの批評家ってのは。

で、ここ一ヶ月ほど、一週間に五枚程度のペースでツタヤからいろいろと借りてきてその100のリストを塗りつぶしているんですが、これがなかなかいい。

全部90年以前の、まあ古い曲なんですが、自分にとっては古くて新しいというか、非常に新鮮なんですよね。

以前から渋谷にあるロックバーの「グランドファーザーズ」には月に一度くらいのペースでは通っていて、そこにかかる古~いロックをいいな~と思いながら聞いていたのですが、まさにあの音が次から次へと出てくる感じですね。

この年になっても新しい音楽に出会えて、それがまた非常に新鮮だったりすることに感謝してしまう次第です。音楽を作ってくれた皆さん、ありがとう

バカメラ

幼稚園の運動会に行ったりするとわが子の活躍をビデオに残さんとお父さんやお母さんが必死に場所取りしてたりしますね。

本番になるとズームを駆使したりして一瞬たりとも画面から逃すまいと必死にモニターを眺めて子どもを追いかけている。

そうやって撮られた映像は家の中で再三繰り返されるのかも知れません。

でも、その映像は所詮、記録されたもので「生」のものではありませんね。

生のものは、その場限りのモノで、そこにはテレビで再生されるより遥かに多くの情報量が詰め込まれているはずです。

ところが、こういったお父さんお母さんは、「生」の場所ですら、小さいカメラのモニターを通じてしか、わが子のことを見ていない。つまり、一度も「生」のその子の活躍や演奏を見ていないということになります。

「記録」には残せるけど、「記憶」には残せない、ということですね。

小さな舞台の上に頑張って出てくる小さな子どもたちの、その小ささは、ホールと舞台という大きさの対比でこそ際立ってくるもので、その際立ちの故に人は、けなげな子どもたちに愛おしさを感じるのだと僕は思うんですよね。

でも、その風景は手元のハイビジョンカメラのモニターを通じて、しかもズームしてしまうと、全く見えなくなってしまう。

本当に大事なものを見させなくする、カメラっていうのはそういうもんじゃないかと思いますね。

よく、旅行先の名所旧跡で一生懸命にカメラでなんやかや撮ろうとしている人にも同じことを感じてしまいます。カメラで記憶に残すくらいなら、目に焼き付けなさい、と言いたい。特に、携帯を突き出して写真取っている人。こちらの目に映る風景すら貧しくなるからほんとやめて欲しいんですよね。

文化の盛り上がり≠人口増

日本の地方自治体の取り組みを見ていて思うのは、

文化の盛り上がり=人口増加

という等式が、どうも先入観としてあまたの中にあるのではないか?ということです。

町おこし、が成功すれば若い人も戻ってきてくれる、という希望的な観測ですが、世界に目を向けてみれば、それは必ずしも真実ではないことが良く分かります。

例えば、ヴェネチア。

映画においては国際映画祭が、アートの世界ではビエンナーレが世界的に有名ですが、ヴェネチアの人口がここ50年減り続けていることを、「町おこし」を考えている人は認識したほうがいい。

1951年には17万人以上居たヴェネチア島の人口は、1978年に10万人を切って、昨年ついに6万人を切りました。50年で三分の一になっちゃったんですね。

でもビエンナーレも国際映画祭も非常に盛り上がっています。

この場合、盛り上がっている、というのはインバウンドで人がたくさん訪れて、その間にオカネを落としてくれるようになった、ということです。その代わり、人はどんどん減っていった。観光客向けに建物の一階は全てレストランとみやげ物屋になり、観光客が興醒めするような改装は出来ない、ということで住みにくい街になってしまったんですね。

実は、これと同じこと「世界遺産」でもよくありますね。世界遺産になってしまった途端に、

1:観光客が訪れる
2:観光客目当てのスケベ根性の地元民が、やらずもがなのみやげ屋を開く
3:景観が破壊される

ということが起こります。一昨年に訪れた白川郷も、多くの家がみやげ物屋になっていて、人が生活している風景を見る、という民俗学的な面白さはもうなくなっていましたからね。

ガイドさんから「むしろ有名でない近くの集落の方が、昔の生活がそのまま残っている」と言われて訪れた村の、なんと静かで落ち着いたたたずまいだったことか。上がらせて頂いた一軒で、おばあちゃんが孫の女の子を呼んで地元の踊りを披露してくれたのですが、素晴らしかったですね。

村おこし、という抽象的な言葉ではなく、具体的なビジョンとして、何をどう変えるのか?を思い描くことが必要であることはもちろん、「何を、変えてはいけないのか?」をしっかりと押えることもまた、必要なのでしょうね。

国という単位について思うこと

今回、文化産業戦略のプロジェクトを通じて改めて認識したことがあります。

それは、日本というのはつくづく内向きな国だなあ、ということ。

リンカーン風に言うと「日本人の、日本人による、日本人のための文化産業」という感じなんですよね。

これって常識以上の常識、というか空気みたいな当たり前の感覚になってしまっているんですが、海外の企業を見るとそれが歪んだ常識だということがよくわかります。

例えばシャネル。フランスを代表するラグジュアリーブランドの一つですね。ところが、このシャネルの事実上の本社がニューヨークにあることは余知られていません。勿論、登記上の本社はパリなんですが、HQ機能はニューヨークなんです。そこで国際色豊かな人々がマネジメントに携わっています。なぜニューヨークなのか?細かいことはよくわかりませんが、世界中のマーケーティングをコントロールするにはパリよりもニューヨークの方が都合がいいのでしょう。

そしてシャネルのデザイナーは今はカール・ラガーフェルドで、こちらはドイツ人になります。

これをそのまま日本にずらして考えてみると、イッセイミヤケの本社がシンガポールにあって、デザイナーは中国人、経営者は米国人という様なことがあっても、ゼンゼン有りってことなんですよね。

そもそも経営者もクリエイターも希少な人材なので、国内だけから調達しようとすると、それだけで制約になっちゃいますよね。世界中から、Best and the brightestを集めて戦う、という考え方にシフトする必要があります。もちろんその際は社内の公用語も英語になるでしょう。実際、今のユニクロは社内の経営会議は英語になっていますよね。柳井さんも、もともと英語がお出来にならなかったようですが、事情がそうだからということで勉強されて、今はちゃんと経営会議を英語で仕切っておられる。

こういうことがやはり必要なんだと思います。僕は愛国者ですが一方で偏狭な島国根性も死ぬ程嫌いです。愛国者であるからこそ島国根性を捨てろと言いたい。

今の日本に必要なのは、グローバルソーシング、つまり経営上必要な資源や人材を、日本国内だけでなく、広く世界から調達するという形に切り替えることがだと思います。

文化産業創造

ここしばらくお手伝いさせて頂いていた経済産業省さんの「文化産業大国戦略」のプロジェクトが修了して、其の成果が対外的に発表になりました(通常はコンサルティングファームでは依頼主の名は明かせないのですが、今回は特別に許可を頂いています)。

http://www.sankeibiz.jp/business/news/100406/bse1004060503003-n1.htm

http://www.meti.go.jp/committee/materials2/data/g100405aj.html

このプロジェクトの期間中、総勢で50名を超える方にインタビューをさせて頂きました。分野は・・・

:音楽レーベルのプロデューサー
:建築家
:デザイナー
:ゲームデザイナー
:出版社のライツ事業担当者
:映画会社
:広告代理店の地域再生担当
:クリエイティブブティックの広告プランナー
:料理人
:セレクトショップ経営者
:ギャラリーオーナー
:美術品オークション会社経営者 等々

各領域でもグローバルでもトップレベルにある方たちにお話を伺うことが出来ました。皆さん、通常は取って頂いたインタビュー時間でカッチリ終わるのですが、今回はテーマがテーマだけに、頂いていた時間を大幅に超過して問題意識や、打ち手のアイデアを議論させて頂く事が出来ました。

皆さん、やっぱり何とかしたい、何とかできるはず、と思っているんですよね。

感動的だったのは、具体的に計画が動き始めたら、手弁当でもいいから手伝わせて欲しい、と多くの方がインタビューの最後に申し出てくれたことです。よくインタビューの時間すら調整できたな、というくらい世界中を駆け回っている人たちなのですが・・・ありがたく思うと同時に、自らのコミットメントを改めて高めなければと気が引き締まります。

個人的には、これまでの人生で培った人脈より遥かに幅広く、また最前線で戦っている方たちのお話を伺えたと思います。インタビューノートは一生の宝物になるでしょう。

このプロジェクトを通じて、改めて日本の文化競争力の潜在的な力は物凄くあること、それを現状では活かしきっていないことを痛感しました。個人的には、この領域にマネジメントの力を導入し、日本が文化で世界と戦えるようにすることが、自分の後半生のミッションだ!と勝手に盛り上がっています。

手書きとパワポ

「団塊・シニアビジネス 7つの発送転換」より

フランスのポンピドーセンター新館の設計者に選ばれ、パリを拠点に ヨーロッパ、アメリカなど国際舞台で活躍する建築家、慶応大学教授の坂茂氏は次のように言う。

「コンピューターの進化は建築の進化に役に立っていません。むしろ弊害になっています。もちろん、私の事務所もグローバルに展開しているわけでコミュニケーション手段として電子メールなどは使っています。しかし、よい建築をつくることに寄与していません。数値化すると数字に頼るようになり、CADを使うと一本の線を引く間に考えることをしなくなります。コンピューターを使って情報を蓄積するとただそれを寄せ集めるようになり、建築教育にもよい影響はありません。CADはもちろん使っていますが、新人には鉛筆で図面を引かせています。線を書く間にいろんなことを考え、いろんなことに気付くようになるからです」

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そう言えば、安藤忠雄さんの事務所もメール禁止だったな、と思い出しました。

「線を書く間に考えなくなる」と言う指摘が実にいいなと思います。

コンサルティングでも大量のスライドを作成しますが、僕はなるべく今でも手書きするようにしています。もちろん手書きのままクライアントに出すわけではなく、それをパワーポイントに落としてくれるスタッフがいるのですが、最初からパワーポイントで作ってしまうと、まさにこの「書く間に考える、ということをしなくなる」というのがよくわかります。線を引くときに息を止めて「スーッ」と書くとき、頭が全開するの、わかるんですよね。



この感覚を一度つかんだ人がパワーポイントでものを作るのはいいかも知れませんが、手で描きながら、手が考える、という感覚をつかまずにパワポの技術ばっかり磨くとゴミみたいなスライドばっかり作る変な職人さんみたいになっちゃうんですよね。

個人的には手書きのスライドは、手書きのままクライアントに出したい、それくらいにきれいに書くのですが、広告代理店ならともかく、そういうわけにもいかずパワポのスライドを提出しています。

自己防衛機能

最近、プロジェクトがかけもちになっていて大変忙しいのですが、興味あるテーマで非常に楽しみながらやっています。

一つは、某大企業での「10年後の日本はどうなるのか?」の研究プロジェクトで、もう一つが経済産業省さんから受託した「日本の文化産業の競争力向上」の戦略作りのお手伝いです(こちらは名前を出していいことになっております由)。

で、いろいろと考えています。

その考えたことをこれから少しずつここに書こうと思いますが、まず最初。

「若者が消費しなくなった」と言われますが、これって人類の防衛機能が働いているということなのではないでしょうか。中国が経済成長することで環境負荷が爆発的に増大することが懸念されていますが、一方の既に経済成長を遂げた日本の若者がどんどん淡白になっていって、欲しがらない、働かない、となっている。

これは日本の成長ということからすれば困ったことなのですが、環境的には非常にいいことになるわけです。

つまり、彼らはニュータイプなのではないか、ということです。地球の環境負荷を減らすために、今までのパラダイムとは違う思考様式で生まれるようプログラムされている新しい人類なのではないか、と思ったわけです。

また書きますね。

買い物




忙しい。

連載の執筆と進行中のプロジェクトの管理とこれから始まるといいなというプロジェクトの仕込みが3つ(かな?)くらいあって、土曜日も日曜日もほぼフルにワークしてます。

従ってストレスがたまる。ということで一番の解消法であるレストラン&買い物を寸隙を縫って楽しみました。

昨晩は久しぶりに西麻布のビストロ・ド・ラ・シテで食事。トリュフを効かしたコンソメスープ、ジャガイモのスフレに卵とトリュフを合わせたの、美味しかったね。

今日は帰りがけに買い物をいろいろ。

まず本。
仕事上の関係でこれから明日までに読まなければならないのが2冊混じっていますが、後はほぼ趣味の本。

ガルシア・マルケスは初めて買いましたが立ち読みして結構面白そうだったのでチャレンジしました。「わが悲しき娼婦たちの思い出」は90歳の記念すべき誕生日の夜をうら若い処女と狂った様に淫らに過ごしたい、という老人の物語。そのプロットでまず買いました。

「天使と悪魔」は、前作の「ダ・ビンチ・コード」をバカにしくさってずっと読まずに居たのが、パリに出張するときにホテルで読む本がなく、あわてて空港で仕方なく買ったのが望外に面白く、はまってしまったので、きっと面白いだろうと思って買いました。読む時間がなさそう。「ダ・ビンチ・コード」もそうだったのですが、図像がたくさん入っている「愛蔵版」を購入しました。だって図像が入っていないとゼンゼンわからないから。

ほぼ確実に面白そうだと思って購入したのが「マタギを追う旅」。マタギの生活を追いかけたルポですが装丁がいい。さすがに年間で300冊以上購入していると本の目が効いて来る様になります。これは、絶対にいい。

あとはポール・オースターの「ガラスの街」、サリンジャーの「ナイン・ストーリーズ」といったところ。

次が服。
シャツを二枚とパンツを一本。シャツはブルックスとソヴリンです。パンツはインコテックスのチノ。インコテックスのチノを購入してから、白のシャツだと間が抜けているな、と急遽思い立ってブルーストライプとライトブルーのシャツを購入しました。友人の多くが知っている様に、僕はブルックスのボタンダウンが大好きで古いものはもう10年以上着ています。店に来てびっくりしたのですが、棚にあるラインナップのうち8割はノーアイロンの生地だそうです。ノーアイロンの生地の独特の光沢とシャリ感が大嫌いな僕は迷わずオリジナルのオックスフォードの生地を購入しました。店員さんが嬉しそうだったのが複雑な気持ち。

最後がCD。
なぜか購入していなかった坂本龍一+モレンバウムの「CASA」を購入。これはジョビンの曲をフィーチャーしたものです。ジョビンってちょっとドビュッシーに似ていますが、やはりキューバというか、湿った感じがしますね。ここ数年で購入したアルバムでは3本指に入るくらい素晴らしいです。

ということで十分にストレスを発散。


懐かしい曲

皆さんの中で、何人かはよくご存知ですが、実は私は未だに昭和の世界に住んでいます。だって好きなんだからしょうがない。今日もこうして、昭和の曲を聴いて心を溶かしているのですよ。

■フライデー・ナイト・ファンタジー
金曜ロードショーのオープニングに使われていた曲ですね。桟橋から眺める夕日にニニ・ロッソのトランペットが溶けていきます・・・(城達也風に)最高。

■ミリタリータンゴ(アルフレッド・パウゼ楽団)
日曜日の朝に放送していた「バック・グラウンド・ミュージック」のオープニング曲です。残念ながらこの番組は去年に放送終了となってしまいました。世知辛いですがスポンサーがつかなくなってしまったのです。この番組は母のお気に入りで小学生のころの週末は常にこの番組でした。コーヒーメーカーから出る湯気に熱々のトーストとハム。窓から差し込む明るい朝日。幸せな週末の朝の原体験はいまもこの曲とともにあります。

■ミステリームービーテーマ(ヘンリーマンシーニ楽団)
水曜ロードショー、というよりコロンボのテーマ、といった方が日本では通りがいいかも知れません。冒頭の口笛のテーマが有名ですね。刑事コロンボを一緒に見てもいいよ、と言われた日は、大人の仲間入りをしたような気がしたのをよく覚えています。これもまた、幸せだった子供時代を強烈に思い起こさせる曲ですね。冒頭の口笛のメロディは繰り返しのときはトランペットになりますが、恐らくこれもニニ・ロッソの演奏です。ピーターフォークもよかったですよね〜。

幸福な瞬間に聴いていた音楽は、後で聴くとその幸福も一緒に再生してくれます。これと似ているのが匂いかな。不幸なときにかいだ匂いは後で不幸を思い出させるし、切ないときにかいだ匂いはあとでかぐとその切なさまで思い出させるものですよね。幸せなときに聴いた音楽が後で幸福を再生してくれるのであれば、これからもたくさんの幸福な時間を音楽とともに送る、ということだ大事、ということでしょうか?

今から30年後、ただ漫然と過ごしている、今のこの時間を、死ぬ程懐かしいと思い起こす日が、きっと来るのでしょう。そのとき、どんな音楽が再生の鍵になるのか?ということを日々思いながら、今日もいろいろな音楽を探しています。

佐賀よいとこ&今週の読了

昨年の秋に共同新聞社さんで行った講演会にいらしていた佐賀新聞の中尾社長から「同じ内容の講演を社内で是非」とのご招待を受けて佐賀に行ってきました。問題意識の高い人たちとの議論もあり、こちらにとっても大変刺激のある一日となりました。

新聞の苦境が叫ばれていますが、渦中にあって地方紙の業績は比較的堅調な状態を保っています。地方紙は中央紙や、ましてやテレビなどと違って広告に依存する売り上げの比率が低い(だいたい3割程度しかない)ので、広告不況の影響が比較的小さいのです。とは言え若年層の新聞離れといった難問も抱えているのですが。

佐賀新聞は地方紙の中ではもっとも早い時期にネット事業を始めた会社です。座談会の後、中尾社長がごひいきにされている料理店にご案内いただいたのですが、お話を伺っているとまさに開明君主という言葉が浮かんできました。読書と茶道を趣味にして、建築や音楽、美術等にも大変造詣が深い。本当に楽しい食事会でした。高校から大学にかけて作曲の勉強をしていたんですよ、とお伝えすると「作曲というのは建築と同じでしょう?」と本質をずばり突くコメントをされて驚きました。マスコミの経営陣は守旧的かつ保守的な方が多いのですが、こういう方を経営のリーダーとしてもたれている佐賀新聞社さんの中堅〜若手の方は恵まれているなと思いました。

土曜日の昼からオフィスで会議があったために朝の飛行機で帰ってきてしまったのですが、空港に向かう道すがら、道の両側にもやに霞む広大な畑が出てきて実に美しいのです。運転手さんに「これは何の畑ですか?」と伺ったところ、ビール小麦とのこと。佐賀はビール小麦の国内有数の産地で僕らが呑むキリンやアサヒのビールも、もともとは佐賀の小麦なんだそうです。知らなかった。

料理はおいしいし、畑は美しい。また行きたいですね、佐賀。

今週の読了は3冊

1:奇跡のリンゴ
無農薬でリンゴをつくる、というタブーに挑んだ木村秋則さんの奮闘を取材して書かれたノンフィクションです。知らなかったのですが、リンゴというのは大変脆弱な木で農薬を使わないとあっという間にダメになってしまうのだそうです。従って、無農薬に挑戦した木村さんも2年程で収穫がゼロになり、小学生の子供に文具も買ってやれないくらいのどん底の状態に陥ります。そこからさらに9年、ほぼ無収入のまま頑張り続けて最後には成功するのですが、そのどん底ぶりはすごいものがあります。収入がないから農作業が終わった後(農作業といっても当のりんごの木には花が咲かない)、街のバーに行ってよびこみをやる、閑農期には出稼ぎに東京に来るけど金がないから公園に寝泊まりする、といった具合です。

この本を読んで何を学ぶかは人それぞれでしょう。「あきらめないことが大事」とか「情熱をもって取り組めば何事も可能」とかいったことを学びとして挙げる人もいると思いますが、私はあまりそういった点は学びにならないと思います。だって小学生の子供に文具買ってやれないような状況を何年も続ける、しかも、それを改善しようと思ったらすぐに改善できる(農薬を使えばいい)状況でそれを続けるというのは、普通の人には出来ません。あまりに距離感があって学びにならないと思うんですよね。

こういうことを「学び」として整理してしまうと、いざ自分が似たような状況になったときには結局同じことが出来ず、「自分はやはりだめ、木村さんと違う」と考え、かえって自分をダメにする様な気がします。普通に考えても、この木村さんというのは相当な変わり者で、性格破綻者すれすれと言えます。僕は精神分析は専門じゃないのでよくわかりませんが、過去に偉大な業績を上げた人物にも似たような傾向を持つ人がいて、それらの人は往々にして統合失調症だったりするんですよね。異常な偏執性は統合失調症の顕著な症状の一つです。

例えばコロンブス。まあ歴史上は偉人と言われていますが、あの当時にヨーロッパから西へ西へ行けばアジアに着くはず、という荒唐無稽な考えを抱いたり、トスカネリの間違った古いバージョンの地図を頑に信じて絶対に新しい地図を受け入れようとしなかった。「たまたま」アメリカ大陸を見つけたので、まあ結果オーライということで偉人の仲間入りをしたわけですが、あれ、そのまま何も見つからずに帰って来てたら「ただのバカ」ですからね・・・

ということで性格破綻者の人の粘り強さは余り学びにならないし、「これはヤバそうだ」と思ったらさっと身を翻すのも現世の知恵とも言えます。まあ程度問題ですね。

では僕は何を学んだか?この本から学べるのは2つあると思います。

一つは、物事がうまくいかないときは、思考のパラダイムを変えるのが大事だということ。
木村さんは、リンゴの無農薬栽培に挑戦し始めた当初、「農薬に変わる何か」を探し求めることに奔走します。酢、醤油、酒、ミソ、土といったものを「農薬の代わり」に撒く。虫がついたらそれを取り除く。雑草が生えたらそれを抜く。要するに「農薬だけを何かに変える」ことで、同じ育て方をしようとしていたんですね。虫がつくのはよくない、雑草が生えるのは良くない、従って農薬が必要なのだが、農薬は使いたくない。だから農薬に変わって虫を殺し、雑草を殺す何かを探す、ということをしていたわけです。木村さん11年にわたる七転八倒の苦悶は、農薬に変わる何かを探すことに費やされています。最後には殆ど全ての液体や物質を試してしまい完全に行き詰まってしまいます。

もうやるべきことはやった。自分が居ると人に迷惑をかける、ということで死のうと思って訪れた山奥にりんごの木を見つけてます。何故、誰からも面倒を見てもらってないリンゴの木がこんな山奥に・・・・?これがヒントになり、彼は結局、虫を殺し、雑草を殺す、という考え方そのものを変えない限りリンゴの無農薬栽培は出来ないのではないか?ということに気づきます。そして、最後に辿り着くのが「土」の違い。山中に生えていたのは結局はリンゴではなく椎の木だったのですが、その根元の「土」の違いに彼は驚きます。まず温度が違う。山中の土は掘り下げて行っても冷えない。微生物が活発に活動しているからです。一方で木村さんの畑は10センチ掘るごとにどんどん温度が冷えて行く。口に含むと山中の土はいい香りがするのに、木村さんの畑の土は苦い。

結局、そこに気づいた彼は草を刈るのをやめ、放置プレー(というほど放置していないと思いますが)に出て、そこから少しずつリンゴが元気を取り戻し、最後は大成功という話なんですね。言葉にしちゃうとシンプルで陳腐なのですが、やはり「何が善で何が悪なのか」ということを考え直さないと、行き詰まったときは難しいですね。


2つめの学びは、やはり愛が大事、ということかなと思います。
こんなエピソードがあります。無農薬に挑戦して3年目、いよいよ行き詰まりが明確になっていたころ、リンゴの木がどんどん枯れていっちゃうんですね。真夏にもう真冬みたいに立ち枯れてしまう。万策尽きたと思った彼は、夜にリンゴの木一本一本に声をかけていきます。ごめんなさい、僕の育て方がヘタで辛い思いをさせてしまって。でもお願いだから枯れないでください。頑張ってください・・・・と。

それを目撃したのは彼の奥さんだったそうです。さすがの木村さんも昼間にそれをやったら病院送りになると思ったらしく、夜半に家を抜け出してこっそりやっていたんですね。道路際の木や隣の畑に隣接している木も避けて、一目につきにくいリンゴの木に、こうやって声をかけていった。結局、半分程のリンゴは木村さんの奮闘もむなしく枯れてしまうのですが、不思議なのは、声をかけなかった道路際や隣の畑に面しているリンゴの木はことごとく皆枯れてしまったそうなのです。

新約聖書の中には、イエスが病人を癒すエピソードが数多く描かれています。触れると直っちゃう。末期医療の病院では、もうモルヒネも効かなくなった患者さんに看護士の人たちが交代で手を当ててあげます。すると不思議に痛みがひいてくるというんですね。まさ「手当て」するわけです。

不思議な話だけれども、もっともこの本の中で印象に残ったエピソードでした。

以下は今週に読んだ別の本。
2:「都市縮小」の時代 矢作弘
アメリカや欧州において、既に人口縮小を迎えた都市の取り組みを紹介する本。単なる取り組みの羅列で、かつ何が効果があって何が効果がなかったのかの整理がされていないので極めて頭に残りにくいです。ただ、100万人の人口が半分以下になっているデトロイトの惨状とか読むと人ごとではないな、とは思いますが・・・

3:最強のプロ野球論 二宮清純
飛行機の中で読むために買いました。「論」というほどのものではなく、「史上最速の球を投げたピッチャーは誰か?」とか「もっとも怖い強打者は誰か?」といった飲み屋で話される話題について、プロからの意見をいろいろと紹介した本です。沢村というのは本当に速かったとか、長島よりも中西の方がすごいらしいとか、杉浦のフォークは1メートルくらい落ちたとか、まあそんなことが書いてあるのですが・・・

微笑ましいというか、苦笑してしまうのが重鎮プロ野球OBの言葉ですね。「金田の全盛期は160は出ていたね」とか「沢村のデビュー?軽いストレートで150は出ていたよ」とか、要するに「今の松坂とか野茂なんて大したことないよ」というニュアンスが、そこかしこに出ているんですよね。

スピード計測装置がない時代にどうして「○○は出ていたね」なんてさも確実そうなことを平気な顔して言えるのか、ちょっとその神経がよく分かりません。目測で球速を図らせて誤差が2%以内に収束しているとか、そういう証明があるのならまだいいのですが(例えば目測で150キロだったとして、誤差2%なら147キロは許される)、ちょっと信じられないですよね。

まあ楽しませていただきました。


「のもの」議論の不毛

ついに「釣りバカ日誌」が最終を迎えるらしい。

この映画、オリジナルを中学時代の同窓生の父君が監督しており、実は第三話かなんかに、僕の母なんかもエキストラで出演させていただいています。

まあ、そんな話はどうでもよくて、ちょっと気になったことがあります。

映画の中で社長を演じている「スーさん」は、創業オーナー社長という設定で、これがついに引退することになるのですが、引退演説で「会社は創業者のものではない。ましてや株主のものでもない。社員のものだ」という趣旨のことを述べ、社員が感動する、というシーンがある(らしい)のです。

脚本家やディレクターにしてみれば、昨今のグローバリズムの風潮に対するアンチテーゼとして、こういう台詞を打ち出したのかも知れませんが、そもそも会社を「○○のもの」と言い切ろうとすることそのものに疑問を感じます。

そもそも「○○のもの」といったときの「のもの」とはどういう意味なんでしょうか?

所有している、ということなのか?では「所有」とは何か?「所有権」を保持しているということなのか?であれば法的に会社は株主のもの、ということになっていて議論の余地はない。では、「所有」と「のもの」とは異なるということなのか?所有はしていないけど「のもの」とは、ではどういう意味なのか・・・・?

会社はだれのものなのか?という議論の際には、この「論点」に含まれている「のもの」とは、一体どういう意味で使っているのか?ということを明確化させることが必要だと思います。

その上で、更にもうひと言。

なぜ、みんな「会社は誰のものか」ということに答えを出したがるのでしょうか?

会社は社員のもの、という定義、というかテーゼは、会社は株主のものというテーゼと同じ様にデジタルなものです。「のもの」という言葉のあいまいさを残したままでも、「のもの」という言葉は、形式論理学的に言えばテーゼを両立させない、ということはなんとなくわかります。

つまり何がいいたいかと言うと、会社は社員のもの、と言いたがるのは、会社は株主のもの、と言うのと、基本的には同じ極端な単純化主義であって、もっと言えば思考の放棄だろうと思います。

会社は誰のものなのか?なんて考えたことがなかった人たちのところへ、鐘を鳴らしながら「会社は株主のも!」と叫ぶ人たちが乱入してきて、しかもそういう人たちは、往々にしてそうとう美味しい生活をしていたりする。この人たちに対する心理的な反抗がマグマのようにたまって、それが「会社は社員のもの!」という同レベルの単純化とアンチテーゼが醸成された、ということなのでしょう。

藤原正彦さんの「国家の品格」は、お好きな方もいらっしゃるようですが、僕は読了できませんでした。あまりにロジックがむちゃくちゃでページごとの論理構造が破綻していて、正直、何を言っているのかわからない、というのが一つ目の理由。二つ目の理由が、文章の下に流れる「美味しい生活を送っている人に対する劣等感」、ニーチェが言うところのまさにルサンチマンを、ものすごく感じたということです。それが、同様に「会社が株主のものという言い分は理解に絶する」という彼のコメントにつながっているのだな、と思います。ま、それはいいとして。

なぜこんな単純化が行われるのか?現代人の思考様式は、基本的にはデカルト以来の合理主義に則っていますが、たとえば禅では形式論理学的な思考が採用されていません。禅の公案では、しばしば「○でもあり×でもある」と考えざるを得ない話が出てきます。例えば狗子仏性なんてそうですね。別に「○○のもの」なんて決める必要がないんじゃないでしょうか。

個人的な答えを書かせてもらえば、

会社は社会や株主や従業員や取引先や顧客、みんなのものであって、一概に社員のもの、とか株主のもの、なんて言うのは難しい。だいたい、あんたが言っている「のもの」ってどういう意味なの?

ということでいいんじゃないかと思います。
「会社は誰のものか」の議論は、二十世紀における禅の公案になるかも知れません。だって、形式論理学では成立しない下記の命題が成立しちゃうんだから。

1:誰かのものであるとき、その誰か以外のものではない
2:会社は従業員のものである
3:会社は顧客や取引先のものである
4:会社は地域住民のものである
5:会社は株主のものである

禅の公案で有名な「狗子仏性」は、下記をご参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E5%AD%90%E4%BB%8F%E6%80%A7

アンドロイドサイエンス

読了。

自分とそっくりのアンドロイドを作り、ジェミノイドと名付けた阪大の石黒浩先生の本。

アンドロイドサイエンスの最前線にいる石黒先生の試行錯誤ぶりを通じてはっきりとわかったのは、人間がいかによく出来ているか、ということ。80年代に人工知能がホットに騒がれた時期がありましたが、この本を読むと人間とコミュニケートできて多様な用途で活躍できるようなアンドロイドはここ10年とか20年とかの時間軸ではとてもじゃないけど実現しないということがよくわかります。

”人間に近いロボットを作れば作る程、いかに人間がよく出来ているかということがわかるようになる。進化すればするほど、人間と遠のいて行く感じがする”

”ゼロックスのパロアルト研究所で「パーソナルコンピューター」という概念を初めて生み出したアラン・ケイにロボットの将来性について訪ねると「おまえはロボットを開発する立場の人間だろ。その人間がそんなことを聞いていてどうする、と言われた。ケイ曰く、今のインターネット社会はケイがパソコンの概念を生み出したときから想像した通りのものだ。なぜならケイは自分が思い描いたコンセプトを実現することに努力してきたから。だからすべてが予想通りだと、こう言うのである。これにはアタマをがつんと殴られた気がした。ロボットの開発をしながらも、ロボットがなかなか普及しない、キラーアプリケーションが見つからない中で、自分はどこか評論家になっていたのかも知れない”

”世界で最初となった小学校のロボット実験は様々な発見をもたらした。最初の発見はロボビーは一週間で完全に飽きられる、ということである。最初の三日間はつねにロボットの周りは子供たちであふれていた。しかし三日を過ぎるとだんだん遊ぶ子の数が減って、一週間もするとごく少数の子供だけがロボビーと遊ぶ様になり、その数は二週間をたっても一定であった”

”面白いのは、一人の子供がロボビーと遊ぶ時間は逆に日を追うごとに増えるということだ。残った子供は辛抱強くロボットと遊んだ結果、ロボットからいろいろな動作を引き出すことが出来る様になるらしい。ロボビーには300近い動作パタンがプログラムされている。しかし。周りにたくさんの子供がいて視聴覚機能が安定的に使えない状況ではロボビーの動作はかぎられてくる”

”もっとも驚きだったのは、アンドロイドの動作によって不気味さがまったく変わることである。たとえば、眠いという感じを表す動作は、非常に自然に再現できた。しかし、たとえばうなずく、という動作はどうしても不気味になってしまう。うなずく、という動作は単に首を縦に振る、というだけなのだが、首を縦に振ると、どうしても体全体が揺れてしまう。首を勢い良く上下させながら体を振動させるその様はまさにゾンビそのものだった。だいたいからして、どこからどう見ても人間なのに、まったく動かずに静止しているということ自体がものすごく不気味である”

”NHKの福島アナをコピーして作られた新型アンドロイド=リプリーQ2は、それほど不気味ではなかった。最初に作った4歳の娘のアンドロイドは、いわゆる「不気味の谷」のどん底に居たが、このアンドロイドは大人にはそれほど違和感がない。これは娘のアンドロイドがもっていた強烈な不気味感とは大きく異なる。事実、あれだけ娘のアンドロイドを嫌がり、「あのアンドロイドがあるのならもう研究室に遊びにいかない」と言っていた子も、リプリーにはそれほどの拒絶感を示さなかった。”



ゼロッックス

オーバーホール


時計をオーバーホールしてもらいました。

写真はオメガのスピードマスターです。大学2年のときに遊びで訪れたニューヨークのメイシーズで衝動買いしたものです。確か当時は円がかなり強く、10万円程度で買えた記憶があります。

もともとは鮫革のバンドがついていたのですが、当時は知識もなく、夏場の汗をかく時期にがんがん使っていたところ、2〜3年でバンドが腐ってぶっちぎれてしまいました。それ以来、合わせるバンドがしっくり来ないことが多く、付ける機会がないままに10年以上ほったらかしになっていたのですが、もともと祖母が買ってくれたものでもあり(ニューヨークから祖母に電話し、おねだりした)、少し後ろめたかったところ、今回思い切ってオーバーホールに出しました。

鮫革バンドがぶっちぎれて以来、ずっとメタルのバンドを付け居たのがしっくり来ず、今回型押しのワニ皮のバンドをつけてもらったところ、非常に落ち着きがよくなりました。個人的にはスピードマスターには黒革のバンドが合いますね。オメガは作りが多少安っぽいところがあるのでメタルのバンドだとおもちゃっぽくなっちゃうんですよね。ほんと、見違えるようにかっちょよくなりました。

購入時期が19歳なので、かれこれ20年選手ですが、これからまた使ってあげたいと思います。

Don't let me think!

という表題の本が、米国で出されたのは多分10年ほど前だったと思います。
これは、ひと言で言えば、多くのウェブサイトは直感的なオペレーションを前提にしていないため、非常に戸惑うことが多いことを非難した本です。

当時僕は電通のAEでしたが、読んで、まあ当たり前だよな、という感想を持ちました。

で、10年経っていまだに当たり前のことが多くの企業にとって出来ないのだな、とやはり思う今日この頃なのです。

例えば、YouTube。「お気に入りに登録」というボタンがあるにもかかわらず、登録した「お気に入り」をどうやれば見られるのか、まったく見当がつかない。そのストレスはすさまじいものがあります。

僕は前著で、グーグルが生み出している価値の本質は時間の節約だ、と指摘しました。マルクスは資本論の中で、労働力が過剰で資本が希少な世界の行く末を描きましたが、現代は資本が過剰である一方、クリエイティブクラスの労働時間が希少な世界になってしまいました(リチャード・フロリダ的に言えば)。

グーグルは、何もコンテンツを生み出しません。ただ、どのコンテンツが誰にとって有用なのかというマッチメークをしているだけです。整理するだけの企業が、時価総額で数兆円をかぞえるに至っている。コンテンツを生み出す企業で、これに匹敵する時価総額を生み出している企業は存在しません。これは非常にシンプルに、コンテンツを生み出す会社より、コンテンツを整理するだけの会社の方が、生産性が高いと、市場が判断している、ということです。

数字で具体的に考えてみると分かりやすいのですが、例えばツタヤの大型店だと映画のDVDは2~3万本の在庫になります。30歳の人が、これから毎日映画を見たとしても、平均寿命である79歳(男性)までかかって、17885本しか見られません。

DVDタイトルの販売履歴、つまり一枚以上日本で去年に売れたCDのタイトル数は優に200万枚を超えるので、要するに一生かかって見られる量の、数百倍のタイトルが既にストックとして存在している、ということです。

従って、今後は大事になるのは、新しい映画をプロモートする機能よりも、過去のストックをいかに効率的にマッチメークするか、ということになります。つまり、極論すればあとは整理してくれる人だけいればいいと思っています。従って「我々のミッションは、世界の情報を整理し尽くすことだ」というグーグルのステートメントは非常にコンフォタブルなのですが、その割にこの使い勝手の悪さはなんなのか?と思わせられます。