ディ・マーケティングの薦め

殆どの商品はいずれゴミになります。

紙コップの様にすぐにゴミになるものもあるし、家の様に30年くらいたってからゴミになるものもあって、そのタイムフレームはモノによって大きく変わるのだけれども、それは時間の問題であっていずれにせよ「殆ど」の商品は最終的にゴミになります。

殆どの、と但し書きをつけたのは、そうならない商品もごくたまにあるからです。例えばスタインウェイのグランド・ピアノやカルティエのライター、ライカのカメラなどといったものが捨てられてゴミになるとは、ちょっと考えにくい。恐らく世代を超えてそれを愛でる人の手の中にあり続けるのだろうと思われます。とは言え、やっぱりこういう商品はごく少数しかなくて、殆どのモノがやがて捨てられてゴミになります。

ということは、企業が一生懸命に作って売っているのは、いずれゴミになるものだということで、それを「準ゴミ」とか「ほぼゴミ」とか「まあゴミ」とか、言い方はいろいろあるのだけど、問題になるのは「どれくらいの期間でゴミになるか」という観点ではないかと思うわけです。

すぐに飽きられたり品質が劣化してゴミになるような商品を売っている会社というのは、「「ほぼゴミ」を売っている」とも言えるわけで、そういう「ゴミになるまでの時間軸」を考えた際に、どのような会社が「ほぼゴミ」を売っていて、どのような会社が「ほぼ製品」を売っているのか、というのは商品を選ぶ際の大きな基準に、本当はなるべきなんではないだろうか、と思うわけですね。出来れば、なるだけ長い間ゴミにならない商品を、本当は選びたいところです。誰だって恐らくそう思うでしょう。ところがこれがなかなかできない。

で、これが一番言いたいことなんですが、マーケティングというのは本質的には「「ほぼゴミ」をどう売るか?」という論点のもとに構築された学問、というかスキルの体系で、これはよくよく考えてみると今時こんなスキルというのは物凄く反社会的だし、少なくとも非常にカッコ悪い考え方だ、と僕は思うわけです。

よく考えてみると、職人が心をこめて丁寧に作って出来あがった製品が、世代を超えて人の手を渡っていく、というようなことが、マーケティングの発達とともに失われて行ってしまっている様な気がします。だって日夜ゴミになるような商品を作って売ることに一生懸命になっていれば、世の中を真の意味で豊かにするような製品というのは生まれるわけがないんですよね。

ジャスパー・モリソンは、大資本のスーパーやメーカーではなく、なるべく個人商店から、個人が作った様なプロダクトを買うことを自分に課していることを公言していますが、世界がゴミに覆い尽くされて、次世代に継承できるような真の意味で豊かなプロダクトが生まれないといった状況を覆すためには、20世紀後半を支配していたマーケティングのパラダイムを置き換えるような新しい考え方、ここではディ・マーケティングといっていますが、という考え方が必要になるのではないでしょうか。

オリンパス批判の批判

オリンパスの問題について手厳しく批判している人やメディアを最近よく見かけるけど、誰もが良くないと思っていることを更に上乗せして批判するのは時間のムダだと思うし、少なくとも僕は余りそこに意味を感じません。

スーザン・ソンタグやまあニーチェもそうだけど、批判は、「誰もが悪さに気づいていないんだけど、それを見過ごすことは大きな過誤につながる」という時に行うことでこそ意味があるわけでね。今回の様な明白なスキャンダルを批判するのはオバちゃんの会話っぽくて僕は嫌いです。時間の無駄でしょ。

ということでというわけでもないんですが、僕はむしろ「怖がる」方が健全な反応なんじゃないか、という気がします。何を怖がるのかって?僕自身が、彼ら、つまり「飛ばし」を主導した人達の様になってしまうこと、ダークサイドに落ちてしまうことを、です。

こういったスキャンダルを主導して来た人の殆どは、ごく普通に学生生活を送って、ごく普通に社会人人生を過ごして来て、ごく普通の家庭生活を営んでいる、ごく普通の人だったと思うんですが、ある状況や文脈に身を置いてしまったためにこういうことになってしまったわけで、そこに想像を巡らせれば、人間というものがいかに脆弱で多面性を持ったものか、ということに想い至ります。

「イノベーションのジレンマ」の著者であるハーバードのクリステンセンは、ビジネススクールの卒業生に向けて「監獄に入らずにキャリアを全う方法」についてアドバイスしていますね。本人自身、「どうしてそんなアドバイスをするのかと訝しがるかも知れない」と学生にも言っていますが、クリステンセンのビジネススクール時代の同期数人が、現在監獄に入っているという事実を告げられて始めて、生徒たちは「自分がそのような状況になるはずがないと考えていること自体が既に危険である」ことを意識させられるわけです。

闇に落ちた人を見て批判するのに時間をかけるより、全うな社会人として成功したキャリアを歩んで来た彼らが、なぜその闇に落ちてしまったのか?その闇に自分が落ち込まないための方策は何か?を考える方が建設的だと思います。

情報が増えてるって本当なんでしょうか?

インターネットが普及してから、情報量が増えてるってことを色々な人が言っていて、何となくそれに違和感を覚えています。

もっともダメだなと思う意見が、現代の人間は古代の人間の○○倍の情報にさらされている、といったもので、こういう意見を言う人は恐らくイマジネーションがないんだろうな、という気がします。

例えば現代人が天気予報を見て一日の天気の行方を考えるのと、古代人が朝の空気の湿り気や雲の具合、日の出の色や草木のしなり具合、蛙や鳥の鳴き声から一日の天気の行方を考えるのとで、どちらの方が処理している情報の量が多いかと考えると議論の余地は無いように思うんですよね。

市場情報の数値や競合分析をもとにして新たなビジネスのネタを考えるのと、豚やイノシシの行動パターンを想定しながら、その日の狩りの戦略を立てるのとで、どちらの方が情報処理の方が多いかと考えると、これもまた議論の余地がないように思うわけです。

以前、宗褊流のお家元に庭を案内して頂いたことがあるのですが、その際、厚く茂った苔の上に裸足で触れたときの脳を直撃するような感覚が忘れられません。後から色々と考えてみたのですが、あれはやっぱり情報量の多さ、ということに脳がびっくりしたということに尽きるのではないかと思っています。

ここ10年くらい、クラシック音楽でも古楽と言われる、作曲された当時の姿に近い楽器で演奏したCDをよく聴いているのですが、これが最新の楽器と何が違うかというと、すごい濁りがあるんですよね、音に。で、これがさっきの苔と同じ感じがするんですね。密度が濃くて脳がザワザワとさざめくというか、そういう気持ちよさがあります。

現代人の僕らは、音でも物質でも色でも、表面を平滑でツルツルでペカペカしたものにしたがりますが、そうすることで脳に快感を与える様なリッチな情報というのはどんどん失われてしまうのではないか、という気がします。

そして、そういうものに囲まれて、自然を解釈するということをしなくなった現代人の僕らが、古代の人達に比べてずっと多くの情報を処理しているのだとは、僕はどうしても思えないんですよね。


iPodを使うとどんどんバカになる

最近、自分で自分の生活に合う音楽を選び出す能力がものすごく低下してきている様に感じています。

膨大な量の音楽や映画や書籍に接して、ある生活文脈の中で過去のストックから適したものを選び出して、そこに場合によってはオリジナルとは異なる意味を与えて提示する、というキュレーションの能力が自分の持ち味で、プロジェクトのアウトプットでも書籍でも、いいと言ってくれる人は恐らくその点を評価してくれているのではないかと思っているのですが、iPodを使い始めてから、あるいは読んだ書籍のメモをデジタルアーカイブにするようになってから、その能力が際立って落ちている様に思うんですよね(単に年のせい、という話もありますが)。

なんでこういうことが起こるのかというと、やっぱりこれは「選ばなくていい」ということが、どれだけ脳をダラけさせるかということの証左だと思うわけです。例えば夕食にどのCDをかけるかというのは、例えば僕の場合手元に1000枚強あるCDの中から、「これ!」という一枚を選択しなくてはいけないわけで、これはやはり脳に相応のテンションを与える行為だと思うわけです。ましてやそれが意中の女性との夕食だったりすると、CD一枚の選択、あるいは複数枚の流れの作り方次第で、起こるべきはずのことが起こらなかったり、あるいは起こると思ってもいなかったことが起こったりしてしまうこともあるわけで、これはもうトンでもないテンションがかかるわけですね。

もう少し別の角度から言うと、例えばテープに気に入った音楽を集めて自分なりのコンピレーションアルバムを創った経験って、30代半ば以上の方なら経験があると思うんですけど、これだって考えてみれば相当知的に負荷のかかる行為ですよね。自分の持っているCDのアーカイブの中から、流れと全体のテーマを考慮しつつ、一曲一曲を選んで行くわけですから・・・。

記憶を外部化して、それを丸ごとポータブルに持ち歩くことが出来る様になる。これは80年代から言われて来た一つの未来像の実現ではあるのですが、そうなることによって得られたものにばかり光が当たっている昨今、そうなることで失ってしまったものにも僕らは注意をするべきなのかも知れません。

そして、完全に新しいものが生み出しにくい世の中で、キュレーションという行為の重要性が高まっている中、僕らは日常生活の中ではむしろキュレーションのための基礎筋力をどんどん失って行く方向に傾いていっていること、いわば知的に怠惰になっているんだということ、を認識した上で、その筋力の低下をどういうエクササイズによって鍛えて行くのか、ということを考えて行かなければいけないのかも知れませんね。すいません、例によって答えはなく、問いかけだけなんですが。

絶対君主がイノベーションを加速する

「スティーブ・ジョブズ 下巻」を読了し、同時期に読んでいた「チャーチル 危機のリーダーシップ」と併せて思ったのですが、イノベーションというのは絶対君主型の組織でないと実現できないのかも知れません。

ジョブズの本を読むと、いかに彼が無理難題を押し付けて組織を限界までストレッチし、イノベーションを実現してきたかがよくわかりますし、チャーチルの本を読むと、彼が第一次世界大戦に際して海軍大臣という「海軍しか動かせない立場」のために、いかに苦労したか、一方で第二次世界大戦の際には首相と国防大臣を兼務したことで、軍事、経済、政治の三つを統合的に動かすことでスピードと戦略的整合性を維持できたかということがよくわかります。

日本でイノベーションの上手な企業と(かつて)言われたのはソニーやホンダですが、これも強烈な個性を持つ創業者に引っ張られてのものですよね。よく知られるようにウォークマンは技術者やマーケティングセクションの人間が「まったく売れないからやめとけ」と考えていたのに、創業者の盛田昭夫が「こういうのが欲しい」と頼んで生まれたものですし、ホンダについても、まだ四輪車作ったことないのに「F1で優勝する」と宣言するとか、まあそういう引っ張り方をするわけですね。

と、こういうわけで、イノベーションは強烈なリーダーのもとでないと加速しない、という仮説をサポートするファクトが沢山集まってきてしまっていて、こうなるとどうも独裁的でビジョナリーなリーダーの元でないとイノベーションは加速しないのではないか、と思わざるを得ないわけです。

これはつまり、逆に言えば、90年代以降に流行ったカンパニー制や権限委譲は、イノベーションをむしろ停滞させる要素になるということです。確かにカンパニー制をいち早く導入して経営学者の礼賛を浴びたソニーで、それまでの様なイノベーションが一気に停滞していますし、グーグルでもそういう傾向が(外から見ると)ある様に感じられます。事業部制の組織にして権限を委譲すると、横串を通して各事業のシナジーを生み出すのは経営トップの仕事になるわけですが、当時の出井社長の様な求心力のないサラリーマン社長だとそれも難しかった、ということなのでしょう。

これは組織は民主的でフラットであるべきだという、論理を超えた哲学を持っている僕の様な人間には大変残念なことなのですが、少なくとも世の中の事実を集めればイノベーションというのは一定程度軍隊的な機能別組織でないと加速できないのかも知れません。

多重人格生活が携帯に邪魔される



携帯電話が普及したことで僕らの行動は大きく変わったけれども、最近は心の持ち様みたいなものも変わって来てしまっているのではないか、ということを考えたりします。

これは、待ち合わせのときに詳細に時間と場所を決めないとか、そういうことではありません。

人間が、ある程度心地よく行きて行こうとすると、一種の多重人格性が必要なのではないか、という気がしていて、携帯が、それを持ち得ない様な息苦しい方向に世の中を変えて来ている様に思うんですよね。

人は、所属する会社や学校、家庭や友人関係、SMクラブや自治会といった組織やコミュニティの中に、いろいろな立場や役回りを持っているわけですが、それらは必ずしも一貫したアイデンティティを有しているわけではありません。昼間は強面で鳴らすおっかない管理職が夜には新宿でムチで打たれて喜んだりしているわけで、そこに(一見すると)通底したキャラクターを見いだすことはなかなか難しい。

でも、それでいいと思うんですよね。

立場や役回りを縦のサイロと考えた場合、そのサイロに横串は通さない方がいい。サイロそのものは自分で建てようと思って建てるケースもあれば、人生の流れでいつの間にか建ってしまったものもあって、必ずしも全てのサイロを納得づく持っているわけでもないんですが、全体としてはそのサイロのポートフォリオによって多くの人は人格のバランスを維持していると思うんです。

ところが携帯電話というものが出て来たことによって、このサイロに強烈な横串が通り始めている気がします。例えばイジメというのは恐らく古代からあったことだと思うのですが、いまになって問題の深刻度が増しているのは、子どもたちが学校と家庭という二つのサイロを使い分けられなくなってきていることに理由があると思っています。いじめられっ子は、学校でどんなにつらいイジメにあったとして家に帰ってくれば物理的にも心理的にも学校とは一旦距離を置くことが求められるわけですが、携帯電話というバーチャルな横串は学校というサイロから心理的に分離することをいじめられっ子に対して許容しません。

これはサラリーマンが家庭と職場と個人という三つの人格要素、ユング的に言えばまさに「仮面=ペルソナ」ですが、を使い分けることが難しくなって来ていることにもつながっています。物理的にどのような場所に居ようと、どのような社会的な立場(例:地元の釣りコミュニティの幹事、変態クラブのVIP客、湾岸の夜の帝王等)にあろうと、会社人としてのペルソナや家庭人としてのペルソナがついて回ることになります。こうなるとサイロのポートフォリオでうまくバランスをとって行きていく、という人類が古代からやってきた生きる戦略そのものが機能しないことになるわけで、これは実は多くの人が考えているよりずっと大変な問題なのではないか、という気がしているんですよね。

もしそういう方向に流れて行くのだとすると、結論は単純でサイロのポートフォリオでバランスをとる戦略はもう機能しないので、一つ一つのサイロそのもののスクラップ&ビルド、つまり気に入らないサイロ、ストレスレベルの高いサイロは避けるということになるわけですが、このサイロが一つしか作れなかった、というケースがまさに「引きこもり」ということなので、なかなかこれは厳しいんですよね。すいません、結論はないんですが。

CM礼賛

最近、テレビは全く見なくなってしまったのでどんなテレビCMが流れているかも全く知らないのですが、そんな僕にとっての、CM礼賛論です。

結論から言えば、これは「残らないものの力を借りて、残るものを作る」プラットフォームだ、ということです。

例えば大好きな坂本龍一「Dear Liz」や「Floating Along」といった曲は、もともとは百貨店や自動車の宣伝で使われたものです。前者は確かPARCOの、後者はセドリックのCMだったと思います。そしてセドリックはもうなくなってしまったけど、恐らくFloating Alongは、永遠とは言わないまでも、セドリックよりかなり長く残って、多くの人の耳を楽しませてくれると思うんですよね。

ここでは主客が逆転しています。

もともと、広告というのは商品という主に対する客の立場であって、であるからこそ、長いこと広告会社の地位は低かったわけですが、それは経済活動を短期に見ているからそうなのであって、それをもっと長いスパンで見てみると、実は殆どの商品というのは消えていってしまう一方、CMによって生み出された音楽や景色や感性というのはずっと残る上、その残ったものを苗床にしてさらに新しい文化を生み出していくとことになります。

僕はもともと音楽を作ることを生業にしたくて音大の作曲科を受験したりしていたわけですが、最後に電通という会社をわりと感覚的にしっくり来て選んだのも、直感的にその主客逆転の構造を見越していたんだろうな、という気が今はします。つまり、大企業の潤沢な予算を、どうせいずれ消える商品をダシにして使って残したい音楽や映像や感性を生み出す、ということです。

こう考えていくと、最近の広告会社の就職ランキングや転職マーケットでの地位の低下もむべなるかな、という気がします。本質的な魅力が主客逆転の構図であったのに、最近はクソまじめに主である商品の経済的成功をサポートすることに向き合いすぎていると思うんですよね。

残らないものの力を使って、やはり残らないものを作っている。

こんな仕事は世界で一番むなしいと、誰もが思うんじゃないでしょうか。

やはり、残らないものの力を使って、残るものを作るという矜持を、広告関係の人たちには持っていてほしいですね。

スティーブ・ジョブズくを読んで

話題の「スティーブ・ジョブズ」を読んでみました。

全二巻のうちの上巻しか読んでいないので、下巻を読むとまた印象が変わるのかも知れませんが、まず持った印象が、スティーブ・ジョブズという人は完全な人格破綻者だな、ということです。恐らく周りも大変だったでしょうが、何より本人自身が本人に悩まされたのではないかな、と。会社にこんな人居たらとてもじゃないけど(僕は)一緒に仕事できないな、と思います。

で、そうなると出てくる疑問が、なぜこんな人と一緒に仕事をしてられるのだろう、ということです。

結局のところ、柔和な人格者と一緒に当り障りのない仕事をやって人生を無為に過ごすよりも、底意地の悪い人格破綻者と一緒でも、歴史を捻じ曲げるような大きな仕事を選ぶ人が少なくない、ということなのでしょう。

これは僕個人にとっても思い当たる節があります。社会人になってそろそろ20年になるかという年ですが、自分があの時期に伸びたな、とかいい仕事が出来たな、と思えるのはやっぱり強烈な個性を持った上司の下で思いっきりストレッチしていた時期だった様に思います。

非常に難しいのは、そうやって僕自身を鍛えてくれた人の多くは、そのエッジーな性格が災いして組織の中では結局は余り偉くなれなかったということです。これは、ジョブズが(最終的には返り咲いたものの)アップルにおいて閑職に回され、最終的に追放されたのと同じことです。

イノベーションを先導するのは偏執狂的な人物だけれども、そういった人物は組織の中で長い間主導権を持つ立場に居続けられない。これは、リーダーシップ論、組織開発論、イノベーションを研究している僕の様な立場の人間にとっては大変悩ましいパラドックスです。