インターネットは「窓」か「鏡」か?

インターネットが登場したことで、知の偏在が是正される、といったことがかつてよく言われました。

グーテンベルクの発明したとされる活版印刷(厳密には間違いで、活版印刷は遥か昔に中国で発明されていましたけど)が、筆写によってのみ可能だった聖書の複製を可能にしたことで、教会の権威の崩壊を促進した様に、知的エリート層にのみ限定されていた情報を解放することになるだろう、という語り口です。

Power to the People

という言い方ですね。

これは、ここ10年くらい色々なところで書いたり話したりしているのですが、知ってる人にはくどいかも知れませんが、僕は前からその意見に懐疑的でした。

上記の、これまで知的エリートに限定されていた情報を多くの人に開放した、という考え方は、世界を覗くための「窓」としてインターネットを捉える態度に立っています。

でも、本当にそうなんでしょうか?

インターネットで情報を取得するためには基本的に必ず一度主体者側でアクションを起こさなくてはなりません。グーグルが如何に情報を整理してくれるとしても、検索ワードを入力しなければ、何も返ってきません。

キリスト教の神は、遠藤周作が小説「沈黙」で書いた通り、どんなに問いかけても何も返してきません。沈黙したままです。ですからグーグルは神よりは親切だということも出来るのですが、問題は、

グーグルが返してくれる答えは、入力した検索ワードに応じたレベルでしかない

ということなのです。

貴方が、もしグーグルの検索窓に、流行語や売れっ子タレントの名前やスキャンダルの当事者等の、下らない情報しか入力出来ないのであれば、グーグルが返してくれる答えもまた、下らないものでしかないでしょう(グーグルの検索ワードのランキングは定期的に発表されているので見てみると面白いですよ。その貧しさに戦慄しますから)。

貴方が、もしグーグルの検索窓に、有意義で豊かな問いを入力出来れば、グーグルはそれに見合った形で、世界中の知見を返してくれるでしょう。

つまり、グーグルは知の不公平を是正するどころか、知っているものは益々豊かに、知らないものは益々貧しくなる、という仕組みではないのか、ということです。

ネットサービスの両雄の片割れであるアマゾンでも同じことが言えます。アマゾンの推奨機能は大変便利で有用ですが、これも基本的に過去の自分の購入履歴に基づいて、他人の購買情報も含めた上で推奨を作成してくれるということですから、基本的に「今の自分」と「今の自分と同程度の書籍を読んでる人」がベースになっているわけで、畢竟、アマゾンが推奨してくれる様々な書籍は「身の丈」に合ったものにしかなり様がありません。

つまらないことを勉強している人には、つまらない推奨しか来ませんし、豊かな読書体験を送っている人には更に豊かな推奨が来るでしょう。

ここでも、インターネットは「窓」というよりは、過去の自分を映し出す「鏡」でしかない、ということになります。

こう考えてみると、結局はネットというのは図書館と同じだな、と思うのですよね。図書館を上手に使いこなす人は検索用語をうまく組み合わせて良い本を探り出しますけど、そういうリテラシーのない人にとっては、ネットというのはむしろ「相対的な知のポジション」を悪化させるツールになるだろう、ということです。

では、相対的な知のポジションを悪化させないためにはどうしたらいいのでしょうか?結局のところ、勉強するしかないんでしょうね。勉強してモノごとを覚えても、ネット上に記憶が外部化されるようになれば意味ない、という妄言を吐く人も世の中にはいますが、これは非常に危険な考え方で、むしろ頭の中の情報をどんどんネットに外部化すればするほど、ネットそのものから得られる便益も相対的に縮小してしまうでしょう、というのが僕の考え方です。


時間泥棒とのたたかい

ここ一ヶ月程しっちゃかめっちゃかに忙しくて全然ブログを更新出来ませんでした。
今週から少し落ち着いて、ああこのまま年末に入れるといいなあ、と。

今は夜の10時、サイモンラトル指揮のマーラーを聴きながらこれを書いています。

最近、改めてやっぱり人生というのは時間配分が全てだな、ということをよく考えています。
つまり、時間を何に使うかということが、貴方がどうなるかということの全てを決めるということです。

もし貴方が、自分にとって価値ある活動に時間を投資出来れば、貴方は時間の使い方に応じて色々な意味で豊かさを獲得していくでしょう。

もし貴方が、自分にとって価値のない活動に時間を投資してしまえば、その時間が生み出したであろう豊かさは、貴方の時間を奪った誰かにスライドしていくことになります。

この「時間を奪う誰か」は、例えばかつてのテレビ局であり、現在はソーシャルゲームの事業者です。

だから彼らの収益性はとても高いでしょう?なぜ彼らの収益性がこんなにも高いかと言えば、それは「人の時間を奪ってそれを卸売りしている」からです。

大好きなミハエル・エンデの「モモ」には、灰色の服を着た時間泥棒が出てきますね。彼らはまさに人の時間を奪ってそれを卸売りしているわけです。

エンデの原作では、もちろん時間泥棒はモモの敵として描かれているわけですが、資本主義社会においてその是非を判断することはなかなか難しい。実定法主義的に言えば、適法の範囲内において彼らは企業価値を最大化させるための活動をしているわけで、それ自体は責められることではありません(好き嫌いはありますけどね)。

結局は自己責任ということになるのかなあ、嫌な言葉だけど。

自分を一つの事業として考えてみた場合、投資出来る資源は時間しかありません。だから、何にどれくらいの時間を使うかという意思決定は、企業における投資の意思決定と同じ、とても重要な論点だということを努々忘れてはいけない、ということなんでしょうね。


なぜソーシャルにハマるのか?



イノベーションに絡んで、組織論における報酬システムについていろいろと考えているのですが、ちょっとした気付きがあったので備忘録がわりに書いておきます。

なぜ、人はソーシャルメディアにハマるのか?という問いに対して、報酬系で説明が出来るかも知れない、と思ったからです。

報酬系に関する研究の嚆矢にスキナーという人がいます。大学で心理学の授業をとったことがある人はバラス・スキナーの名前を聞いたことがあるかも知れません。あの有名な、レバーを押し下げるとエサが出る箱=スキナーボックスを作って、ネズミがどういう行動をするかを研究した人です。

スキナーは、次の四つの条件を設定し、ラットがもっともレバーを押し下げる様になるのはどの条件下か、という実験を行いました。

1:レバーの押し下げに関係なく、一定時間間隔でエサが出る=固定間隔スケジュール
2:レバーの押し下げに関係なく、不定期間隔でエサが出る=変動間隔スケジュール
3:レバーを押すと、必ずエサが出る=固定比率スケジュール
4:レバーを押すと、不確実にエサが出る=変動比率スケジュール

さあ、貴方はどれが答えだと思いますか?

スキナーの実験によると、レバーを押し下げる回数は、上記の4→3→2→1の順で減少することがわかっています。

これはいわゆる「行為の強化」に関する実験ですが、行為は、その行為による報酬が必ず与えられるとわかっている時よりも、不確実に与えられる時の方がより効果的に強化される、ということです。

翻って、この実験結果を人間に当てはめて考えてみると、「不確実なもの程ハマりやすい」という生理的傾向が、社会の様々な側面に応用されていることがわかります。

まずわかりやすいのがギャンブルです。ラスヴェガスのスロットマシンも日本のパチンコも確率を変動させながら報酬を与える仕組みになっていて、これにハマる人が後を絶たない。

最近問題になったコンプガチャも、まさに変動比率スケジュールによってレアなガチャが出る、という仕組みになっているわけで、こういう領域で色々とサービスを開発している人の鋭さには本当に呆れるというか、まあ感服させられますね。

そして最後に思いつくのがツイッターやフェースブック等のソーシャルメディアです。もしかしたら「ソーシャルメディアが報酬系」と言われて違和感を覚える方も多いかも知れません。スロットマシンやパチンコはお金や景品という報酬があるけど、ソーシャルメディアにはどんな報酬があるの?という疑問ですね。確かにソーシャルメディアは金銭的報酬を与えてくれません。

ソーシャルメディアが人に与えてくれる報酬はドーパミンです。

気がつくとツイッターやフェースブックばかり見ている。メール受信の通知を見ると中身を確認せずにはいられない。こういった行為はドーパミンのなせる技だと考えられています。ドーパミンは、もともとはスウェーデン国立心臓研究所のアルビド・カールソンとニルスオーケ・ヒラルプが1958年に発見した物質です。

長いこと、ドーパミンは快楽物質であると考えられてきました。しかし、最近の研究では、ドーパミンの効果は人に快楽を感じさせることよりも、何かを求めたり、欲したり、探させたりすることであることがわかってきています。ドーパミンが駆動するのは覚醒、意欲、目標志向行動などで、その対象には食べ物、異性などの物質的欲求だけでなく、抽象的な概念、つまりすばらしいアイデアや新しい知見といったものも含まれます。

ちなみに最近の研究では快楽に関与しているのはドーパミンよりオピオイドであることがわかっています。ケント・バートリッジの研究によれば、この二つの系=欲求系ドーパミンと快楽系オピオイドは相補的に働くらしい。つまり人をコントロールするエンジンとブレーキの様な役割ということです。欲求系=ドーパミンにより特定の行動に駆り立てられ、快感系=オピオイドが満足を感じさせて追求行動を停止する。

そしてここが重要な点なのですが、一般に欲求系は快楽系より強く働くため、多くの人は常に何らかの欲求を感じて追求行動に駆り立てられているのです。

ドーパミンシステムは、予測出来ない出来事に直面したときに刺激されます。予測出来ない出来事、つまりスキナーボックスの実験条件=4の場合、ということです。

ツイッターやフェースブック、メールは予測出来ません。これらのメディアは変動比率スケジュールで動いているため、人の行動を強化する(繰り返しそれを行わせる)効果が非常に強いのです。

なぜソーシャルにはまるのか?それは「予測不可能だから」というのが、近年の学習理論の知見がもたらせてくれる答えだということになります。

一番上の絵はテオドール・ジェリコーの「賭博狂いの女」。ルーヴルを訪れたら是非見てみて下さい。何かにとり憑かれた人に特有の虚ろな目つきの表現がスゴいでしょ。こんな目にならない様に、みんなも気をつけてね。

経営学はゴミ以外のモノを残せるか?

20世紀が終わって、21世紀も最初の10年を経過しましたが、さて21世紀は「人類の遺産」と言える様なものをどれだけ残せるだろうか?と考えるとなかなか暗澹とした気持ちになってしまいます。

米国で生みだされた経営学が世界を席巻することで、人類はますます「何も残せない社会」になっていくだろうなあと、改めて思うからです。

ファイナンス理論を勉強した人はよくご存知の通り(勉強というか、本を2〜3冊読めば十分理解出来る程度の奥行きですが)、企業価値は、なるべく短期間に商品を陳腐化させ、再購買してもらうことで大きくなる、という性格を持っています。

再購買、つまり一度買ったものを、いかに速く「ゴミ」にさせるか、という論点です。

例えばアップルとスタインウェイを比べてみるといい。スタインウェイのグランドピアノは、未だに50年前に製造されたものが高額な値を付けて中古マーケットで取引されています。スタインウェイのピアノが提供する実質的な便益は恐らく100年経っても殆ど変わらない、どころかむしろアンティークとして高まっていくことさえある。

一方で、現在世界最高の時価総額を謳歌しているアップルの製品の100%は、間違いなく50年後には、粉砕されてゴミ処理場に埋められて環境汚染の元凶になっているでしょう。

こう書くと「でも殆どの商品はいずれゴミになるわけで、スタインウェイの様な会社が特殊なんじゃないの?」という疑問が呈されるかも知れません。

そうその通りなのです。

スタインウェイも含めて、僕らが膨大な英知と労力を注いで日々生み出している商品は、長い目で見れば全てゴミになります。結局僕らは、究極のところ「いずれゴミになる、今現在は○○と呼ばれるモノ」を作って売っているに過ぎません。

問題は、それがどれくらいの時間でゴミになるか?ということです。

この点について僕が指摘しているのは、

1:アップルの製品は10年でほぼ100%ゴミになるけど、スタインウェイのピアノは10年後もほぼ100%、新品時と同じ便益を維持している

ということと

2:1の結果として、アップルの時価総額はスタインウェイより大きい

ということです。

つまり、ファイナンス理論に則って抽象化すれば、

3:パッと見、ものすごくクールに見えたり格好良く見えたりするものを作り
4:実はすぐに価値がなくなってゴミになるものを作って売る

というのを繰り返すことが、時価総額を大きくするには大事だ、ということです。

ゴミになる期間を短くすればする程、企業価値は大きくなり経営者は礼賛される。

そしてそういうテクニック=経営学をしっかり学んでいる人ほど、転職市場で高く評価される。

こういった現状を鑑みると、21世紀の世界が、人類にとっての遺産と言える様なものを残せるとは、とても思えないわけです。

20世紀において経済活動の規模は歴史上最大になったけれども、人類にとって本当に豊かな遺産を、その経済規模に見合った量だけ残せたか?と聞かれて、貴方はどう思いますか?

あるいは20世紀の100年間を通じて、一貫して最大の経済規模を誇った米国が、人類にとって本当に宝と言える様な文化やプロダクト、それはつまり平安文化やルネサンスやロマン主義が僕らに残してくれたような音楽や絵画や文物ということですが、をどれくらいその「規模に見合ったかたち」で残せているのか?と聞かれて、貴方はどう思いますか?

別に解があるわけではないですし、自分もその米国流の経営学の枠組みに則って日々コンサルティング業務を行っているので、忸怩たるものがあるのですが、少なくとも自分が立脚してる、あるパラダイムが、上述した様な極めて重大な問題をその構造に孕んでいるということに、我々は意識的であるべきだと、僕は思っています。

この根本的な構造的矛盾をなんとかしない限り、あまり明るい未来は人類にはないんじゃないか、と思うんですけどね。。。。

曖昧さが生み出す豊穣



あまりにカッチリキッチリしているものよりも、ある種の「曖昧さ」を宿しているシステムの方が、奇跡的な豊かさを生み出せるのかも知れない、とぼーっと考えています。

例えば音楽における「記譜法」がそう。

写真は、シューマンの交響曲四番の第一楽章29小節目から、あの有名な第一主題が始まるところだけれども、同じ十六分音符の音形の繰り返しでも、オスティナートを強調して弾くのと、そうしないのとでは全く出てくる音楽は異なることを僕らは知っています。

全く同じ楽譜を演奏しても、出てくる音は結果的に非常に多様である、という事実は、記譜法というシステムにはある種の「曖昧さ」が存在することを意味しています。

この「記譜法が包含するある種の曖昧さ」故に、僕らは、作曲家が想定し得なかった様な様々な演奏のバリエーションを楽しむことが出来、また音楽家たちは自己の存在意義を、これまでに存在する膨大な「名演」を横目に見ながらも、確認することが出来ます。

記譜法が、今以上に厳密な再現性を持っていたら、クラシック音楽はこのような豊かさを持つことは出来なかったでしょう。

曖昧であるがために産まれる豊かさもある。

この様に考えてみると、企業が産み出す豊かさ=イノベーションも、意図的にルースなガバナンスを取り込んだシステムの方が、何か予想も出来ないような豊かさを生み出すのかも知れません。

ただし完全に曖昧だと、それは記譜法を持たない音楽、つまり邦楽のように、弾く人によって全く出てくる音楽が異なってしまうということになって、それはそれで何かを得られるのだけれども、少なくとも再現性は失われてしまう。

ある、絶妙な幅の「あいまいさ」が必要なのでしょうね。

ダブルメジャーの薦め

イノベーションでは多様性が重要になる、とよく言われます。

なぜ多様性が重要かというと、異なるアイデアが出会うところにこそ新しいアイデアが生まれるから、というのが良く言われる理由です。

確かに、ビジネスにおいて「新しいものの組み合わせ」はアイデアを得るための有効な方法論と考えられていますが、では、このアプローチは「イノベーションが真に求められる領域=科学」においても成り立つような普遍性のある仮説なんだろうか、と考えて少し調べているのですが・・・これがなかなか面白い。

例えば、2010年にワシントンで行われた米国科学振興協会(AAAS=科学雑誌Scienceの発行母体)のカンファレンスで、同会会長のアラン・レシュナーは「専門分野別の科学はもう死んだ」と主張しています。

レシュナーによれば「近年の主要な科学の進歩は、複数分野が関わっているケースがほとんどで、著者が一人だけという論文自体が最近は珍しいし、著者が複数の場合、それぞれが異なる分野の研究者であることが非常に多くなってきた」というのです。

うーん・・・

確かに、これと同様のことは以前から指摘されていました。

例えば、米国の科学史家トーマス・クーンは1962年に出版された彼の主著、そして歴史的名著である「科学革命の構造」において

「本質的な発見によって新しいパラダイムへの転換を成し遂げる人間のほとんどが、年齢が非常に若いか、或いはその分野に入って日が浅いかのどちらかである」

と指摘しています。

レシュナーは複数の科学者について、クーンは単独の科学者について述べているわけですが、両者の主張は基本的に「異なる分野のクロスオーバーするところにこそイノベーティブな思考が生まれる」ということで一致しています。

確かに、近年において科学界を揺るがす様な成果を挙げた科学者には「ダブルメジャー」が多数観察されます。

例えばチャールズ・ダーウィン。

ダーウィンは進化論における、いわゆる自然選択説を提唱したことで知られているため、一般には生物学者として認識されていますが、最初から生物学者だったわけではなく、しかも本人によれば最後まで生物学者ではありませんでした(本人は死ぬまで地質学者と名乗っていた)。

ダーウィンは、もともと大学で医学を志していました。しかし、なかなか身が入らず、途中で180度方向を変えて神学部に転部して牧師を目指したりしています。しかし結局こちらも本気になれず、最終的に昔から好きだった地質学の研究を行う様になります(もともと地質学をやりたかったのに、成功した医師だった父親の希望を横眼でにらみながら学部を選択したため、どれも中途半端になったということらしい。牧師になろうとしたのも、牧師だったら余暇が沢山あるだろうから、その時間を使って博物学の研究が出来るというのが理由だったそうで、キャリア論の専門家としては「ちょっとソコに座れ」と言いたくなる)。

その後は、よく知られている通りビークル号に乗り込んでガラパゴス諸島を訪れ、そこで自然選択説の最初のインスピレーションを得ることになるわけですが、ここで注意してほしいのが、生まれてから自然選択説を発表するまで、ダーウィンは結局のところ一度も「生物学者」だったことがない、という点です。

人類史上、最も科学に大きな影響を与えた生物学上の仮説が、生物学者ではなく、地質学者から提出された。

この事実は、イノベーションというものを考察するに当たってトテツモなく重大な何かを示唆しています。実際のところ、ビークル号には別に生物学専門の科学者も乗り込んでいました。しかし、この生物学者は集めた標本をそれまでの生物分類に沿って整理することに熱中していて、ダーウィンが抱いた様な仮説を持つに至りませんでした。

なぜ専門の生物学者がこの仮説に気づかず、ダーウィンが気づいたのか?

それはまさに「彼が専門の生物学者でなかったから」なのでしょう。

ダーウィンは、自然選択説を思い当たるに当たって、二つのインプットが重大な契機になったと述懐しています。

一つはライエルの「地質学原理」でした。同著にある「地層はわずかな作用を長い期間蓄積させて変化する」というフレーズに接し、動植物にも同様なことが言えるのではないか、という仮説をダーウィンは考えたらしいのです。

そしてもう一つが、マルサスの「人口論」です。「食糧生産は算術級数的にしか増えないのに人口は等比級数で増えるため、人口増加は必ず食料増産の限界の問題から頭打ちになる」という有名な予言=「マルサスの罠」を提唱した著作ですが、この本を読んでダーウィンは、食料供給の限界が常に動物においても発生する以上、環境に適応して変化することが種の存続において重要であるという仮説を得ています。

そしてこれら二つの仮説が、結局「自然選択説」という理論に結晶化するわけですが、ダーウィン自身の専門も、また彼にインスピレーションを与えた書籍も、どちらも「生物学」に無縁であったということに注意して下さい。

ダーウィンは、クーンの言う「パラダイム転換を成し遂げる人間のほとんどが、その分野に入って日が浅い人物だ」という指摘の正しさを証明する代表的サンプルと言えます。

こういったことは他分野においてもよく見られます。

例えば、20世紀の科学界において、なぜ恐竜は絶滅したのかということは長い間大きな謎でした。理由としては、恐竜が花粉症になったという説から、新しく出現した哺乳類との競争に負けたという説、ただ単に体が巨大になりすぎたという説まで、いくつもの仮説・珍説が大真面目に議論されました。

そんな中、白亜紀の終わりに直径10キロの隕石が地球に衝突して、これが恐竜絶滅の原因になったのではないかという仮説を出したのが、ノーベル物理学賞受賞者のルイ・アルバレスでした。

その仮説とは、「隕石の衝突によって大量の粉塵が空高く舞い上がり、これが地球の大気をすっぽり覆って太陽光を遮断したために地球の気温が下がり、やがて進化の系統樹の枝を丸ごとボッキリ折る様にして恐竜を絶滅においやった」というのです。

この仮説は、結局現在において恐竜の絶滅を説明するためのもっとも有力な仮説とされています。

もちろん、多くの古生物学者は、長い地球の歴史の中で、多くの小惑星や隕石が地球に衝突していたことを知っていました。では、なぜ、彼らは恐竜絶滅の原因として、隕石説を提案しなかったのでしょうか?

一言で言えば「思いつかなかった」ということです。

何故、多くの古生物学者が気づかなかった仮説に、アルバレスは気づいたのでしょうか?

これにはアルバレスの息子がどうも関わっている様です。アルバレスの息子は地質学者でした。アルバレスは地質学者の息子とともに、白亜紀から第三紀の境界の粘土層に含まれるイリジウムの濃度が際立って高いことを発見し、この時期に巨大な隕石が地球に落ちた公算が強いこと、その時期が恐竜絶滅の時期と重なっていることから、これが恐竜絶滅の主要因ではないか、という仮説を持つに至ったのです。

ダーウィンの時と同様、ここでも「物理学(天文学)」と「地質学」が出会うことで、もともと関係のなかった「古生物学」における重大な仮説が提示されている、ということに注意して下さい。

さすがにくどくなってきたのでここらでやめにしますが、こういった例は枚挙にいとまがありません。DNAのらせん構造を発見したクリックも、もともとは物理学が専門だったしね。

日本では「一意専心」とか「この道一筋」といった態度が尊ばれますよね?

高校生も、野球部に入ったら野球だけ、卓球部に入ったら卓球だけ、というのが常識ですが、米国ではシーズンごとに夏は野球、冬はバスケットボールとスポーツを分けるのが当たり前で、ここらへんにも「ダブルメジャーカルチャー」の浸透度の違いが見える気がします。

日本がイノベーションで停滞しているのも、この「ダブルメジャー忌避」の心性にもしかしたらその原因があるのかも知れません。

結婚相手選びの数学

意思決定における満足化ヒューリスティックの問題の中に、有名な「秘書問題」というのがあります。

ここに100人の秘書候補がいます。採用者側としては、この中で是非とも一番優秀な秘書を採用したいわけですが、試験の都合上、一人一人と順番に面接し、その場で採用/不採用の通知をしなければなりません。不採用を通知した人は、後からそれを撤回して採用することは出来ません。

さて、ここで問題です。この100人の中から、最も優秀な人材を採用するためには、どのような選択をすればいいでしょうか?

統計学者のジョン・ギルバートとフレデリック・モステラーは、1966年にこの問題に対して数学的な解を与えました。

それは下記の通りです。

1:まず最初の37人は、どんなに優秀だと思っても採用しない
2:次に38人目以降で、最初に会った37人より優秀だと思える人が現れたら、この人を採用する

この様に選択することで、この100人の中から最優秀な人材を採用できる期待値が最大化されます。

この考え方は、色々なシチュエーションに適用できますよね。

例えば、レストラン選び。

パリを訪れてレストランを探していて、腹具合からすると、あと一時間くらいでレストランを決めてしまいたい。

一時間で10件くらいのレストランを見て回れるとして、もっともいいレストランを選択できる可能性を高めたいとすれば・・・

最初の3件は見るだけにして、4件目以降で最初の3件より素敵だと思えたレストランがあったら、そこに入る、というのが解になります。

・・・・・・・・・

ということで最後に、この満足化ヒューリスティックの問題を結婚に当てはめて考えてみます。

生涯で深く付き合うことになる恋人が10人現れるとして、この中の何番目で結婚を決意するか、という問題ですね。

この場合、解としては

1:まず最初の3人は、どんなに素敵だと思っても結婚しない
2:次に4人目以降で、最初の3人より素敵だと思える人が現れたら、その人と結婚する

ということになります。

独身の皆さん・・・いま付き合っている人、生涯で何番目ですか?

もし相手が4番目以降で、以前の恋人よりその方が素敵だと思えるのなら、

迷わず結婚せよ

というのが、数学上の解ですよ。

うーん・・・・

ちなみに心理学や実験経済学では、この「秘書問題」を実際の人間を使って実験し研究してきているのですが、その結果として、

人は、多くの場合、あまりにも早く決定を下してしまう

ということが分かっています。

これは対象を評価するコストがその理由の一部と考えられています。

この結果を実世界に適用して考えてみると、人間は逐次的に判断を下す必要のある場面で十分に検討しないまま、意思決定を行ってしまっている可能性があることが示唆されます。

この示唆を、結婚相手選びという文脈で考えれみれば、人は

選び過ぎて良い相手を逃してしまうよりも、短兵急にイマイチな相手と結婚してしまう

ことが多いということになりますが・・・・さてさて。


年功序列制度の限界と、新しい「わからない方」


年功序列制度には功罪があって、そう単純に「いい」とか「悪い」とか、決着を付けられるものでもないと思うのですが、こと「イノベーションを促進する」という観点からすると、今後、この制度は相当に足を引っ張ることになるだろうな、と思っています。

というのも、これだけ世の中の変化が早くなってしまうと、10年前の業務経験というものは、価値が殆どないどころか、むしろ害悪になってしまう可能性があるからです。

例えば、僕が昔従事していた広告販促のプランニングは、これだけソーシャルメディアや携帯電話、デジタルサイネージが普及した今ではすっかり様変わりしてしまっているだろうことは容易に想像ができます。こういう時代に、昔の成功体験を持ち込まれて「ああだこうだ」と小煩いアドバイスをする管理職なんてむしろ邪魔なだけでしょう。

これは、逆に言えば、いま現場で業務に携わっている若手が、日々の業務から学んでいるノウハウやスキルも、10年後にはオブソリートなものになってしまう、ということです。

この様な時代において、僕らは「学習」というものをどのように考えたらいいのか、という問題が出てきます。

これは全然まだ整理出来ていないのですが、恐らく、二つのことが鍵になってくるだろうと思っています。

一つ目は、日々の業務体験から、抽象度を高めた学びを得て行くことが重要になって来る、ということです。仕事や学習から得られた表面的なスキルやノウハウはあっという間に陳腐化してしまうわけですから、いかに「汎用性の高い学び」を日々の体験や学習から得て行くかが鍵になってきます。

これは、一つの職業でキャリアを全うすることが難しくなってきているという点からも重要な能力です。ある職業経験で得られた表面的なスキルやノウハウは、その職業の中でしか価値を創出しません。こういった学びを蓄積していった人が、ある日突然「キャリアショック」(=不可避の理由によって大きく仕事内容が変化する事態)を経験したら、トランジットはとってもタフな体験になってしまいます。

二つ目は、学んだことを捨てて再学習する力です。

どんどん社会環境が変化してスキルやノウハウが陳腐化していく以上、「過去に学んだ知識を捨てて学び直す」ということに対して柔軟であることが求められます。

福沢諭吉は適塾でオランダ語をマスターしましたが、横浜を訪問したところ、オランダ語を話す人が殆どおらず、英語を話す人ばっかりだったのを見てショックを受け、その後すぐに英語の学習を開始していますね。数年かけてマスターした語学が実は世界的にはスタンダードではなかったことが判明する、というのはかなり凹む状況だと思うんですが、横浜でこの状況に直面した福澤は相当嬉しそうだったそうなので、まあ「学んだことを捨てて(別に捨ててないけど)新たに学び直す」というのが、本当に自然に出来た人だったんでしょうね。

で、そこでは「わかっていない」ことを、いかに「わかっていない」か、正確に把握する能力、言わば

新しい「わからない方」

が必要になって来ると思っています。

デザイナーの原研哉さんは、知ってると思うことをいかに知らないかをきちんと認識する、「Information」ではなく「Exformation」が大事なんだ、と言っていますが、ほんと、そういう時代がもう来ちゃっているんですよね。

一方で、そういう状況下において、キャリア教育と言えば、相も変わらず戦略とか財務とかマーケティングとかを一生懸命教えるだけで、本質的で汎用的な「学びをつかみ取る力」、「学んだスキルやノウハウを捨てる力」、新しい「わからない方」を全然教えられていない、というのも何なんだという気がしています。

僕が手伝っているグロービスも、旧態依然としたMBAのカリキュラムを提供していますが、役に立たないとは言わないものの、本当に大事なものは、そういうことじゃないんじゃないか、という気が最近はしているんですよね。何か、ああいう表層的な知識の下に、より時代の変化に対して堅牢でタフなコンテンツというものがあるのに、誰もそれをきちんと提供出来ていないんですよね。

年々歳々花相似、年々歳々企業不同

表題はもちろんパロディで、実際は

年々歳々花相似、年々歳々人不同

という唐詩選の歌です。

意味は・・・栄華は移ろいやすいものだ、という感じでしょうか。

実際には、

洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花
飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家に落つる
洛陽女児好顔色  洛陽の女児 顔色好し
行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢うて長歎息す
今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり
明年花開復誰在  明年花開くも復た誰か在る
已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧けて薪となるを
更聞桑田変成海  更に聞く 桑田(そうでん)の変じて海と成るを
古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く
今人還対落花風  今人還た対す 落花の風
年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり
歳々年々人不同  歳々年々人同じからず
寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子
応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁

という長い詩の一部です(赤字部分)。

で、ちょっとしたことを思い出して、これは「人不同」とするよりも「企業不同」とした方が面白いな、と思ったものですから遊んでみました。

そのちょっとしたこと、というのはバブル絶頂期、1989年の時価総額世界ランキングの順位です。

これを今から見返してみると、上位20社のうち日本企業がなんと15社となっています。一位はNTT、二位が日本興業銀行となっていて、以下、日本企業がズラ~と並んでいます。

まさしく、世界最強の経済国家だったんですねえ・・・日本興行銀行の時価総額は、当時のゴールドマン・サックスのおよそ10倍となっていて、もちろん金融機関の時価総額としては断トツの世界最高額です。

巨大で稠密でパノラミックな作品で知られる写真家のAndreas Gruskyは大好きなフォトグラファーの一人ですが、彼の作品に東京証券取引所を俯瞰で取った一枚があります。


人やモノや家畜やゴミがワシャ~ッ!と集まった場所を俯瞰で撮る、というのがグルスキーの十八番だから、これもその一環で取られた一枚だと思うのですが、やっぱり一流の写真家の嗅覚というのはスゴイものだな、と改めて考えさせられるのが、この写真をグルスキーが撮ったタイミングです。

グルスキーは、まさしくバブル絶頂期の1989年にわざわざ日本を訪れてこの写真を撮っています。

日本の強さが永久に続くと、当の日本人はもちろんのこと、世界中の人が考えていた時に、なぜ、このタイミングで東京証券取引所の写真を残しておこうとグルスキーが考えたのか?

それはわかりませんが、撮るべきタイミングをやはり逃さないな、と改めて思うわけです。何かに引き寄せられたのかな?東京証券取引所を突き抜けていくリビドーの総量は、この時期が最高だったでしょうからね。

一方で、Marketgeekが先日発表した2012年3月時点での時価総額の世界ランキングを見てみると、上位20社の顔ぶれは、
米国企業=13社
中国企業=03社
あとはオランダ、英国、韓国、ブラジルが一社ずつとなっています。

日本企業はトヨタ自動車の36位が最高位ですね。

ふう・・・

たった、20年ちょっと前の話ですよ・・・

だから、年々歳々花相似、年々歳々企業不同、と思ってしまったんですよね。

でも、これって逆のことも意味していますよね。

たった20年でランキング上位の日本企業は、ランキング外に脱落するどころか、破綻したり消滅したりしている会社も多くいのですが、ということは逆に現在上位にランクインしている米国企業が、20年後にやっぱりそうなっているかも知れない、ということです。
僕らに出来ることは、昔は良かった、とノスタルジーに浸ることではなく、20年でランキングなんていくらでもひっくり返る、つまり、ファイヤーアーベント風に言えば、

Anything goes!

だということではないでしょうか。

ライターから見えてくる「エラー恐怖症」の恐怖

このブログを読んでいる人の中には、僕が完全なノンスモーカーだと思っている人が多いと思うのですが、実はストレスレベルがすごく高まったり、あるいはとても気持ちのよいことがあったりすると、今でもたまに吸ったりしています。

で、この間久しぶりにタバコを吸っていて気づいたのですが、ライターの着火がとてもやりにくくなっているのです。これはどうしたことか、と思って調べてみたところ、子供が火遊びをして焼け死ぬ事故が数年前に発生してから、各社が対策として容易には着火できないようにした、ということらしいのですね。

ちなみにフランスの定番ライターであるBICも調べてみたのですが、こちらは相変わらず同じデザインで、この改良がおこなわれているのはどうも全て日本製のライターの様です。

うううううん・・・・

確かに痛ましい事件だとは思うのですが、年間3万人が自殺で死んでいるのを、のほほんとして看過している日本において、ライターの火遊びによる事故が数件あった=つまり社会的には稀有というべき事故、が発生して、メーカー各社が一斉にライターの改良(改悪?)に走るというのは、日本企業の独特の癖を表している様に思うんですよね。

それは「エラー恐怖症」ともいうべきものです。

一度こういうことがあった以上、対策を打たないと怠慢だ何だとマスコミに糾弾される。とにかく、なんとか対策を打て!ということだったと思うのですが、しかしライターに上記の様な改良を施せばコストは高まり、使い勝手は悪くなり、当然に商品としてのグローバルな競争力は低下します。

しかし、本当にそんな対策が必要なのか?

ライターなんてものはそもそも危険なものであって、子供が火遊びしないようにしっかり管理しろ、というのがまずは真っ当な対応策だろうと思うのですが、なぜか、そうならず、親が払うべき管理コストを社会全体で負担するという構図になっているわけです。

大上段に振りかぶりますが、僕はこういった「過剰なエラー対策」というのは、グローバル競争において物凄くネガティブに働くことになるだろうと考えています。

例えば米国の医療制度がいい例です。米国の国際競争力は今でも世界一ですが、「エラー恐怖症」に冒された産業だけを取りだして見てみると、実は物凄く国際競争力が低い。

例えば代表的には医療サービスがそうです。

アメリカでは医療過誤訴訟一つで病院がつぶれかねないので、訴訟を避けるためにありとあらゆる検査や治療を行う「防衛医療」が異常に発達した結果、医療費が世界最高になっています。それでも訴訟リスクが避けられない場合は患者を拒否しますしね。

つまり医療サービスを一つの産業と捉えた場合、米国のそれは全く国際競争力がないということです。これは米国のサービス産業では珍しいことですが、つまりエラー恐怖症に冒されるとそういうことになるということの格好の事例だと言えるでしょう。

ライターに話を戻せば、何十年かに一回の割合で起こった、しかも管理の問題こそ真因と糾弾されるべき事件をきっかけにして、そういったことが二度と起こらない様な対策を高コストをかけて実施し、社会全体にそれを負担させるという様なことをやっている限り、この国の様々な分野における国際競争力は全然高まらないと思います。

結局は常識の問題だと思うんですけどね。私が非常識なんでしょうかね。

お金とプライド



組織開発の実務家にとって、報酬というのは非常に扱いの難しい微妙なものだな、ということを改めて感じています。

お金は、そのもらい方によって自分そのものを変えてしまうという、非常に厄介な性質を持っています。

例えば、離婚における慰謝料。

慰謝料は多いにこしたことはない、たくさんもらった方が独立して生活を軌道に乗せるのだって早いはずだ、と浅薄な合理主義者は考えがちです。しかし、この考え方は「お金」というものの厄介さを全く理解出来ていないとても危険なものと言えます。

実は、慰謝料はもらえばもらう程、その後で離婚の傷跡を引きずってしまい、うまくトランジット出来ない、という傾向があることが知られています。

どうしてそうなるのでしょうか?

「慰謝料の額面が、自分のプライドの値段なんだ」

と無意識に認めてしまうからです。

ところが本人としては、自分の傷ついた体験というのはこんなものじゃない、こんな金額で私の気持ちをリセットなんて出来ない、とも思っているわけですから、これは大変混乱することになるわけです。

京大名誉教授の臨床心理学者である東山紘久さんも、その著書で「離婚からなかなか立ち上がれない、次のステージにトランジット出来ない人は、慰謝料をふんだくることに一生懸命だった人が多い」と指摘していますが、これも同じことでしょう。

朝鮮戦争の時、米国の捕虜が悉く赤化(共産主義に洗脳される)されて帰って来るのに米国の心理学者は愕然として、どうやったらこんなに上手に人の「こころ」を操作できるのか、という論点で様々な研究を行いました。

で、その結果は色々な意味で大変面白いのですが、こと報酬に関しては

洗脳においては報酬は有効である。しかし決して大きい報酬を与えてはいけない

という学びが非常に深い。

捕虜収容所では、共産主義に関する作文のコンテストが行われていました。強制ではありません。あくまで自発的に参加したい人は参加してもいい、というコンテストです。この作文コンテストにおいて「共産主義のここがいい」といったポジティブで説得力のある作文を提出した人には、タバコや葉巻程度の「ちょっとした報酬」が与えられてしました。

この「ちょっとした報酬」というのがポイントです。

一週間労働免除とか、ビール付きの豪華ディナーといった「大きい報酬」を与えると、「自分の本心で書いたのではない、この報酬のためだったらああいうコトを書いてもしょうがないさ」と自分で合理化してしまうのです。

一方、タバコ程度のちょっとした報酬のために、何度も何度も「いかに共産主義が優れていてアメリカ流資本主義が腐っているか」ということを書いているとなると、そういった「報酬のために、本心ではなく書いているんだ」という合理化は成立しません。

これを繰り返しているうちに、これは報酬をもらっているからではなく、自分が本当にそう考えているからなのだ、という統合を行ってしまい、そのうち筋金入りの共産主義者が出来上がる、というのが大まかに言うと中国共産党の戦略でした。頭いい。

人があって、それに対して報酬がある。
過失があって、それに対して賠償がある。

と浅薄な合理主義では考えますが、人間はその様には出来ていません。

報酬があって、人が報酬なりに出来上がる。
賠償があって、それに対して過失と心の傷の大きさが決まる。

という側面もあるのだということを、我々は意識しておく必要があります。


小さなリーダーシップが世界を変える





多くの人は、自分が世界の変革に影響を与えられる、とは考えていません。

世界を変えるなんていうことが出来るのは、大統領か大企業経営者か革命家であって、毎日会社勤めしながら世知辛い悩みに身をやつしている自分に、そんなことできるわけがないでしょ、という考え方です。

つまり、世界を変えるのは「大きなリーダーシップだ」という考え方です。

これはこれでわかるのですが、実は世界という船が大きく舵を切るきっかけになるのは、意外や「小さなリーダーシップ」だったりするんじゃないか、というのが最近考えていることです。

例えば米国の公民権運動のきっかけになったのは、たった一人の黒人女性=ローザ・パークスが、バスの白人優先席を空ける様に命じられた際、これを断って投獄された、という小さな小さな事件がきっかけになっています。

いわゆるバス・ボイコット事件ですね。

ローザは当時工場に勤める女工さんで別に運動家だったわけでははありません。この事件も、別に革命を起こそうとか公民権運動を主導しようといった意図があって起こしたわけではなく、ただ単に「疲れていたから立ちたくなかった」と彼女は述懐しています。ただし、席を立て、と言われた時に、自分の中の価値観やルールに照らして理不尽だと感じた彼女は、それに従わなかった、ということです。ここで発揮されているのはごくごく小さなリーダーシップでしかありませんが、その小さなリーダーシップがやがてアメリカの歴史そのものを変えていく様な大きなうねりになって全米の運動につながっていくことになります。

サイエンスライターのマーク・ブキャナンは、その著書=歴史は「べき乗則」で動く、の中で第一次大戦ン勃発の原因となったオーストリア皇太子の暗殺が、皇太子を乗せた自動車の運転手の道間違いによって発生している事例を取りあげて、歴史というのは大きな意思決定よりも、どこかで毎日行われているようなちょっとした行為や発言がきっかけになって大きく流れを変えるという、カオス理論で言及されるところのバタフライ効果について論じていますが、バス・ボイコット事件もバタフライ効果の発露と言えるかも知れません。

世界を変える?そんなのは政治家や大企業経営者の考えることだよね。僕にそんなこと出来るわけじゃいじゃない、と殆どの人は思っているかも知れません。

ですが、このローザ・パークスの話は、もしかしたら、あなたのオリジナルな価値観に基づく行動や発言が、100年後の世界のあり様を「それがなかった時」とは大きく変えることになるかも知れないということを示唆しています。そう考えると「自分の中のルール」に従って、世の中に対してアンチテーゼを提案して行く、というのが僕らの発揮できる「小さなリーダーシップ」の第一歩なのかも知れません。

写真はローザ・パークス氏。

キャリアのピークをどこに持ってくるか?

キャリアのピークをどこに持ってくるか?という論点を立ててるけど、そもそもそんなもの自分でコントロールできるのか?ということについても僕は確信をもっていないのですが、それは横に置いておいて。

最近、改めてその作品をザーっと横に並べてみて、これは面白い、と思ったのが、以下の三人です。

1:バッハ
2:ベートーベン
3:ラヴェル

皆、音楽史の転換点において、その曲がり角の行き先を指し示してくれた巨人ですが、彼らの人生の年代譜にそってその作品を並べてみると、「傑作」と後世呼ばれることになる作品を人生のどのタイミングで生み出していたかがそれぞれ違って中々面白い。

で、ものすごく端折ってまとめると、こうなっています。

1:バッハ(65歳で死去)
→30代~60代まで、一貫して最高レベルの作品を生み出し続けている

2:ベートーベン(57歳で死去)
→50代の人生最後の数年間に飛躍的に作品の深みが増している

3:ラヴェル(62歳で死去) 
→30代でほぼ傑作は出揃い、50代~死去までは殆どまともな作品を残していない(ボレロくらい)

自分の年齢が今42歳なので、30歳がキャリアのピークだったラヴェルのことを考えると空恐ろしい気もするのですが、5年前の自分と比較して今の自分が創造性や知的生産のレベルで劣っているとはとても考えられず、まあ今のところ坂を上っている状態ではあるのかなと思ったりもしながら、いやいや、もしかして裸の王様になっているんじゃないかと危惧したり・・・・ふう。

以前、このブログでもビートルズのジョージ・ハリソンを取り上げて、成長カーブの傾きとピークポイントの絶対的な高さは必ずしも相関しない、ということを書きました。ジョージの成長カーブは明らかにポールやジョンのそれよりも緩やかだったわけで、本当に初期の2~3枚のアルバムは聞けたものじゃないですけど、それがリボルバーとかホワイトアルバムの頃からやっとキックし始めて、最後のアビーロードでレノン・マッカートニーと本当に並ぶレベルになった。

だから、そう考えるとビートルズというバンドが本当の意味で完成したのは皮肉にも最後のアルバムを出したアビーロードの時期だったんじゃないか、という話ですが、今回取り上げた三人の音楽キャリアは、傾きのカーブとピークポイントの高さ以外に、キャリアのピークをどれくらい高原状態で保てるかは、人によって大きな開きがある、ということを示唆しています。

で、この差は何に起因しているのか?という論点が出てくるわけですが、僕はこれは

「贈与」

の問題にもしかしたら行きつくのかも知れない、と思っています。

贈与論は、もともとはフランスの文化人類学者のマルセル・モースが打ち出したものですが、一言で言えば、人の行動は贈与によって起動されるものであって、それは経済学が言っている様な「等価交換」とは異なる、ということです。経済学は、この年齢になってみて改めて本当にダメな学問だなと思うのですが、それは贈与の問題をまったくフレームに取り込めていないからです。労働価値説とか効用価値説とか言っているけど、人間の活動を全く説明できていないでしょう?

バッハは、自分の音楽を神を賛美するために書いていました。自分の中にあるものとか自分の効用ではなく、純粋に音楽を神に「贈与」していたんですね。

ベートーヴェンは、自分の音楽をより高い人間性を賛美するために書いていました。バッハとその対象は異なりますが、やはり自分の中にあるものとか自分の効用ではなく、音楽を「贈与」していたわけです。

ところが、こういった「贈与」の態度が、ラヴェルには見られません。彼は近代人ですから、世の中のルールに従って作曲活動をしてお金を稼いでいい暮らしをしていたわけですが、音楽を作るという行為に関連して「贈与」のパッションというものが感じられない。

で、これは、やっぱり弱いな、と思うわけです。

最近は年収を高める、あるいは起業して一攫千金を掴む、というのが非常に定型化されたゲームみたいになっていて、そのゲームの勝ち方を学校で勉強して一生懸命やっている人も多くて本当に辟易させられるわけですが、そういう方向性を追求しても本質的な意味でキャリアのピークを高原状態に保つことは出来ないと、僕は思っています。

キャリアのピークを長く続けるには、一言で言うと「大きなアジェンダ」が必要なのです。

大きなアジェンダ、それは神を賛美したいとか、人間性の高貴さを訴えたいとか、理不尽な世界を変えたいとか、貧困をなくしたいとか、なんでもいいんですけど、そういった大きなアジェンダをもっていない人は、やっぱり長持ちしないんじゃないでしょうか。

ということで、よりビジネスマンとして、息長く、キャリアを楽しみたいと思ったら、なんでもいいので、他者から与えられたゲームのルールや価値観に従うのではなく、自分なりに取り組める「大きなアジェンダ」をもつことが大事だ、という話でした。










説得と納得

広告業界に身を置いていた人に共通の性癖として、

「説得が嫌い」

というのがあると思う。

実際のところ、僕も説得なんていうのは最もダメな行為の一つだと思っています。

なぜかというと、説得されても人は100%のポテンシャルを発揮して動くことはないからです。

人が100%のポテンシャルを発揮して動くには「説得」ではなく「納得」が必要になります。

平たく言えば「共感」が必要になるんですね。

考えてみれば、全てのコミュニケーションの目的は、この「共感を形成する」という点にある、と言えるかも知れません。

では共感の形成には何が必要かというと、それは「物語」になると思うんですね。

残念ながら「論理」ではなく。

ここが、コンサルティングファームで華々しく活躍した多くの人が卒業後、実社会に大きなインパクトを出せずに評論家や大学教員といった「実際のとこ」が試されない場に逃げ込まざるを得ない状況になってしまう大きな要因があると思うのです。

ロジカルシンキングも大事だけど、物語を歴史や社会性を踏まえて形成する思考力、いわばナレティブシンキングといったものが、本当は物凄く大事なんだと、思うのですよね。

学びにおける「身体性」



日本の経営学者は全般的に元気がないよね、というやりとりをここ数年、職場の仲間やクライアントとするのですが、だいたいそういう文脈において出てくるのが、日本の経営学者は研究ばかりやっていて臨床をやっていないからダメなんだよ、という話です。

あまり知られていないことなのですが、有名なハーバードのマイケル・ポーターやクレイトン・クリステンセンといった人たちは自分の会社をもっていて、そこで戦略コンサルティングファームも顔負けの高額のフィーでコンサルティング活動を行っています。つまり、大学での研究と実業界での臨床との、両方の活動をやっているわけで、これが大きな違いだと、まあそういう主張なんですが、僕もその通りだと思います。

1980年代から90年代にかけて、人工知能がホットな話題になった時期がありましたね。立花隆さんなんかが著作のなかで、早晩人間の子供くらいの知能レベルになるんじゃないか、と書いたりして、その天使的な楽天さが関係者にひんしゅくを買ったりしていた時期ですが、その後、人工知能はあまり話題にならなくなってしまいました。

一言で言うと、壁にぶつかって進歩しなくなってしまった、ということなのですが、その際、人工知能の進歩の問題を「身体性」という問題から論じている人が、僕が知る限り数人いらして、それは非常に説得力のある仮説だと思っています。つまり、人工知能というのは要するに「脳」を作る、という研究なわけですが、脳だけ作っていても知能が進化しないのは、身体がないからではないか、ということです。

脳と身体の関係は、単純に「脳=指令者」、「身体=被指令者」といった一方向的なものではありません。確かに脳は意思決定を下して身体に命令を下すわけですが、身体活動の結果得られた色々な情報が、脳にフィードバックされることで脳が進化する、という側面もまたあります。

これは小さな子供を見ているとよくわかるのですが、最初はヨタヨタしながら歩いていて、すぐ転んでしまうのが、数カ月もするとかなりうまく歩いたり走ったり出来る様になります。つまり、脳が作る「歩く」とか「走る」といった動作プログラムを、うまく歩けなかったり、転んでしまったりという体験を通じてどんどんバージョンアップさせているわけですね。子供を見ていると、人工知能が身体性をもたないが故に進化しない、という仮説は非常に納得感があるわけです。

で、最近、これもまた「頭だけで考えると、やっぱりダメなんだな」と改めて思いだされたのが、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの話です。

ボーヴォワールは20世紀フランスの哲学者ですが、むしろそういう肩書よりもサルトルの奥さんだった人、といった方が通りがいいかも知れません。このボーヴォワールという人は、今で言うフェミニストの走りで、社会的な圧力によって押し込められる女性の可能性の解放を激烈に謳った人です。で、そういった主張がてんこ盛りになっている「第二の性」という著作があるのですが、その本の冒頭で彼女は、”On ne naît pas femme, on le devient=人は女に生まれるのではない、女になるのだ”と述べているんですね。この言葉は、アフォリズムとしても簡潔でわかりやすいこともあって、20世紀後半には様々な場所で人口に膾炙することになったわけですが、これはやっぱり、「頭だけでモノを考えた人」の言葉だなあ~、と最近しみじみと考えてしまうのですよね。

なぜかというと、ボーヴォワールには子供が、それも女性の子供がいなかったからです。

実際に女の子を育てたことがない女性が、女性がどのように女性になるのかというジェンダー論を展開していて、あの様なコメントを残しているわけですが、実際に二人の女性を子供に持つ僕からすると、ボーヴォワールのこの主張は、なんというか、痛々しく思えてしまうんですね。というのも、実際に女の子を育ててみれば、彼女たちが「女性」というステロタイプで社会的な鋳型に嵌められることで女性らしさ=いわゆるジェンダーを形成する、という側面ばかりでもないことが、皮膚感覚としてわかるからです。

すごく単純な話で、一歳の女の子は、一歳の男の子と全然違うのです。例えば、うちの下の女の子はいま一歳ですが、既に大好きなモノは「靴」、「ハンドバック」で、これはもう明確にリトル・レディなんですよね。

ボーヴォワールは大変な秀才で、上級教員試験=アグレガシオンを全国二位で通過していますが(ちなみに一位はサルトルだった)、いくら頭の良い人でも、机の上で考えるばかりでは真実は理解できない、ということをこのことは示唆しています。そしてそれは経営学の世界でも事業の世界でも、まったく同じことだと思うんですよね。これは自戒の意味も込めてここに書くのですが、本やパソコンのモニターを通じて世界を体験するということと実際にその場に行ってみたりやってみたりして、自分という楽器を思いっきり鳴らす様な体験をするということでは、学びのクオリティという点では天と地の開きがあるのです。

ということで、言葉にしちゃうと陳腐なのですが、現地現物主義、研究と臨床のバランスというのを改めて心掛けていきたいと思ったのでした。

写真はチェ・ゲバラと対談するボーヴォワール。隣はサルトルですね

チェロ購入記 その後




このブログで「チェロ購入記」を報告したのが2010年の秋ですから、ほぼ2年後の「その後」についての報告です。

で、結論から言うと、やっぱり買って良かった、と思っています。

前回も書きましたけど、先生からの「是非、ドイツ製を」との指導を守り、色々な店で試し弾きさせてもらいましたが、作りの丁寧さ、音、表面の色合いや木目の好みなど、総合的に勘案して下倉楽器がドイツの工房に依頼して作っているオリジナルブランドのチェロを購入しました。

価格は50万円程度だったかな?ちょっと自分には高いかな、とも思ったのですが、「道具はいいものを選ばないと、どうせすぐいいものが欲しくなる」という個人的に何度もしている失敗から得られた教訓を踏まえて奮発しましたが、正しい判断だったと思っています。まだローンが残ってますけどね。トホホ。

本当にゆっくりとしたペースでしか練習が出来ていないのですが、継続は力なり、でなんだかんだ言って今はバッハの無伴奏チェロ組曲まで来ています。最初の一年くらいで苦労したのは何と言っても「右手の形」です。チェロの演奏では、弓を持つ右手をパンタグラフの様に使って、腕の動きは最小限にしながら弦の間を移動して行くのですが、これが難しい。今は出来る様になってしまったので、逆に何が難しかったのか、よく思い出せないのですが、これが安定するまでに一年半くらいかかったと思います。後は筋力かな。これはピアノも同じことですが、筋肉が出来上がらないと曲の途中で疲れちゃうんですよね。こればっかりは練習時間がとれないので何とも仕様がないのですが。

バッハの同曲は、小生がチェロをやってみたいと思ったきっかけの曲でもあるので、ついに来たか、と感慨もひとしおです。写真の楽譜は今練習している同曲の一番です。

この曲に取り組むことになったのは曲折がありまして、実は先生からは、次はベートーヴェンのチェロソナタを、と言われてしばらくそっちに取り組んだのですが、僕はまったく曲の魅力が理解できず、本当に練習が辛くなってしまって、ある日「先生、ぶっちゃけ、この曲嫌いなんですけど。バッハの無伴奏じゃダメですか?」とゴネて、曲を変更してもらいました。

チェロに関して言えば、バッハの同曲が旧約聖書、ベートーヴェンのチェロソナタは新約聖書と言われているくらいに、両曲でもってチェロ殿堂の伽藍は支えられているということになっているのですが、僕にしてみればその評価はいささか不当で、バッハの同曲に並び立つ弦楽器楽曲というのは、同じバッハのバイオリンソナタとパルティータくらいで、あとはちょっと他に並ぶものがないと思うんですよね。僕の耳が悪いだけかも知れませんが。

ということで、なんだかんだで続いているチェロの趣味に関してのご報告でした。


アクティブノンアクションの恐怖


忙しい、それなりの充実感もある、だけれどもどこかに空しさも感じている、というような場合、あなたは「アクティブ・ノンアクション」に陥っている可能性があります。

アクティブ・ノンアクションとは、ロンドン大学教授のスマントラ・ゴシャールの命名です。

厄介なのは、この罠に陥るのは、組織の中で「出来る人」と評価されている人達が多い、ということでしょう。しかもアクティブ・ノンアクションにはモメンタムがあって、一度その中に絡めとられてしまうと加速度がついてそのまま走り続け、ついにはモメンタムの中にいることすら見失ってしまう傾向があります。

つまり、そのままキャリアのピークを超えてしまい、晩生になってから「あれ?」と気づくことになる、ということです。

大好きなミハエル・エンデの傑作「モモ」には、灰色のスーツを着た「時間泥棒」に少しずつ時間を奪われていく大人たちが描かれていますね。時間泥棒と戦うモモの姿にドキドキした人達も、大人になって自分たちがアクティブ・ノンアクションの罠に絡めとられて灰色のスーツの男たちになってしまっていることに、なかなか気がつきません。

ゴシャールの調査によれば、マネジャー層の約4割がアクティブ・ノンアクションに陥っていることがわかっています。結構な人達が灰色のスーツの男たちになってしまっているわけですね。

そういえばギリシアの哲学者セネカもアクティブ・ノンアクションの危険性を指摘していましたね。セネカはその著書「人生の短さについて」において、アクティブ・ノンアクションを絶妙に「怠惰な多忙」と表現しています。

セネカ曰く、

「多忙な人間は何事も十分に成し遂げることが出来ない。多忙な人が「よく生きる」ことは稀である」

あるいは

「諸君は永遠に生きられるように生きている。満ちあふれる湯水でも使う様に時間を浪費して」

マルクス・アウレリウスもまた、「自省」によって、よく生きる術を見いだすことを説いた人でした。

そしてまた現代においても、例えば経営者の行動を深く研究したヘンリー・ミンツバーグは「忙しい現代人に本当に必要なのは、知識やスキルを積み込むためのMBAやブート・キャンプではなく、自分を内省する経験だ」と一貫して強く主張しています。

毎日を多忙に過ごしているにも関わらず、本当に人生にとって重要で意義があり、真の充足感をもたらしてくれる何かについて、自分は見えていないな、と思われたなら、もしかして貴方もアクティブ・ノンアクションの罠に絡めとられているのかも知れません。

キャリアにおける「逆張り」のススメ

先日出版した「天職は寝て待て」にも書いたことですが、いわゆる専門家の予測というのは、実はかなり外れることがわかっています。

例えば過去に提示された、人口、石油価格、景気に関する予測は殆どが大きく外れている、ということが、先日出版された「専門家の予測はサルにも劣る」にも、これでもか、という程の豊富な事例とともに示されていますね。

で、つまり「予測というのは外れるものだ」ということなのですが、思考を「ああ、そうですか」というところで止めてしまうと、あまり面白くない。その先にさらに「外れることがわかっているのに、皆それを必死に求めようとする」ということを考えてみると、いろいろと戦略面での示唆が出てくると思うのです。

例えば、この二つを組み合わせると「逆張りせよ」というのが、回答になります。

そう言えば思い出したのですが、古巣のBCGでも、ユニークな戦略とは往々にして逆張り発想から生まれるもんだよ、と指導されていました。

そういうことを考えてみると、昨今、よく雑誌で特集されている「10年後食える仕事」とか「人気の資格ランキング」とかいうのも、逆に利用する考え方の方が面白いかも知れません。

考えてみれば、150年前の古典派経済学の時代から、報酬は雇用の需要と供給のバランスで決まる、と教えているわけで、「人気の資格」とか「食える仕事」とか言って、人がたくさん集まったら、当然給料も下がるし雇用の需給バランスも供給過多に振れるに決まっているのにな、と思うんですけどね。

僕は前著で「10年後に食える仕事」とか「将来人気が出る資格」なんて言う予測は結局外れるんだから、目の前にある面白そうな仕事に一生懸命取り組む以外にキャリアを作る方法なんてないんだよ、と述べましたけど、よりはっきりとそういった予測が外れるのであれば、むしろそういった予測の中で「10年後食えない」とか「人気が絶不調」といった職業を、敢えて選ぶというのも、ありなのかも知れませんね。

民主主義とイノベーション

組織開発の実務家という立場から、イノベーションの研究をしたり、イノベーションを加速したい企業のコンサルティングに従事したりしてひしひしと感じているのが、多数決で決まったアイデアにロクなものはない、ということです。

これは、最近出版された「イノベーションの理由」(武石彰、青島矢一、軽部大:有斐閣)にも描かれていることだけど、成功したイノベーションの多くは強烈な個性をもった人材(皆が右行くならおれは左というタイプ)によって主導されています。

つまり、イノベーションというのは集合的な意思決定のメカニズムによっては生み出せないということです。

このことはつまり、民主主義というのはイノベーションとなじみが悪い、ということでもあります。

ここで出てくるのが、いわゆる熟議制民主主義の体現国家である米国が、なぜイノベーションにおいても世界をリードしているのだろうか、という疑問でしょう。だって矛盾しているでしょう?

熟議とはつまり、議論をつくす、ということですね。敵対的な意見をもった他者とでも議論をつくすことで、全体にとってよりよい意思決定をやっていく、というのが熟議制民主主義の考え方ですが、イノベーションというのはそういうプロセスで生み出されるものではないことが、これまた様々な研究からわかっています。

一方で、熟議を尽くす事が苦手で、いまだに未成熟な民主主義でなんとなく社会を動かしている日本では、イノベーションがうまく起こせていない。

つまり、民主主義とイノベーションは折り合いが悪い、というのは外形的にわかっているのだけど、世界を見渡してみると、バカ正直に民主主義を信奉してマジにやっている国=米国においてこそ、い野ベーションは活性化していて、なんちゃって民主主義でこなしている国=日本では、なぜかイノベーションが停滞している、とこういう構図になっているわけです。

これはどういうことなのだ、と。

一つカギになるのが、意見の多様性と意思決定のリーダーシップという問題ではないかと考えています。熟議制民主主義では、自分の思ったことを「口に出す」ことが求められます。スピークアップしろ、ということですね。これがあって初めて、様々な立場にある人の様々な意見が表出し、その情報をもとにすることで、多数決でもクオリティの高い意思決定が出来るということですが、これは実はイノベーションにおいても同じことが言えるのかも知れません。

イノベーションにおいては、多様な意見の表出がカギになることがわかっています。要するに民主主義とイノベーションの違いは、後半の決めるところ、つまり民主主義は多数決で決める、イノベーションは誰かが一人が決める、という点での違いだけであって、前半の「議論を尽くす、スピークアップする」という点では求められるものが似ているのかも知れません。

すいません、全然まとまっていないんですけどね・・・・

コレクティブパワーは権威を凌駕するって本当?


個々の力は弱くても、集合すればすごい力になる、というのがcollective powerの考え方で、このアイデアは、ネットが登場して以来、とても人気がある。

で、その事例として、食物連鎖の中で劣位にある鳥類の群れが、上位にある捕食者を駆逐する映像を用いたプレゼンテーションがTEDに流れていた。

http://www.ted.com/talks/don_tapscott_four_principles_for_the_open_world_1.html

これは、映像的には大変美しく、また弱い鳥が捕食者を駆逐する様は非常に印象的でもあるのですが、本当に鳥の群れの様な集合的力が、大きなパワーや権威に打ち勝てるのかどうか、となるとなかなかこれは難しいよ、というのが僕の考え方です。

というのも、もともと鳥の群れは、

1. 他の鳥が多くいる方向に移動する=Cohesion
2. 障害物や他の鳥とは一定の距離を保つ=Separation
3. 近くにいる鳥の向かうのと同じ方向とスピードを保って飛ぶ=Alignment

という条件付けでシミュレーション出来ることがわかっています。

クレイグ・レイノルズは、1986年に開発した群れの行動をシミュレーションするプログラム=Birdoid(鳥モドキ)で、上記の条件付けでコンピューター上に鳥の群れを再生させたわけですが、しかし、こんな条件を組織の成員に対して課したら、それこそ全体主義になってしまいます。

同じところに皆がどっと集まる、同じ方向に向かって飛ぶ、というのはそれこそ戦前の日本やドイツで起こったことで、つまりファシズムです。

カモメのジョナサンじゃないけど、群れがあっちに飛ぶならオイラはこちら、という個性がイノベーションには必要わけで、鳥の群れの様な行動を組織に課しても日本の停滞を止めることにはならないと思う。

上記のプレゼンテーションは大変人気があるみたいで、色々なところで引用されていますが、映像の美しさや印象の深さと、その群れを動かしている実際の意思決定の仕組みとそれがもたらす影響については分けて考える必要がありますね。




僕らは全てハンディキャップトである


英語では障害者のことを「handicapped」といいますね。

「ハンディを負った人」ということですが、しかし、そういう言い方をすれば、そもそもハンディなんて程度問題であり、ハンディのない人なんてこの世に居ない、とも言えます。

要するに障害者は、Significantly handicappedということで、まあ普通の人はFairly handicapped、恵まれた人ではSlightly handicappedということになるのではないでしょうか。

例えば、どうしようもなく顔が悪い、メチャクチャ足が遅い、極端に脚が短い、ド短気、そばによりたくない程の汗っかき、信じがたいほどの口下手、救いようがないほど服のセンスが悪い、目つきがゴルゴなみに悪い・・・こういったことは全部、そうでない人に比べて

Handicapped

と言えるのではないかということです。

で、そう考えてみて、自分にとっての意味合いが変わって来るのが「パラリンピック」です。

あれは、大きなハンディを負った人が尚、そのハンディを乗り越えてパフォーマンスを発揮しようという意欲を持って挑戦する場であるけれども、彼らと比較して僕たちの多くが、なんとまあハンディを「しょうがないよ~」と言って安易に受けて入れてしまっているか・・・

We are all handicappedなんですよね、だって僕らは人間で神様じゃないんだから。そういう「欠けたもの」だからこそ、神は僕らを愛おしんでくれる、というのが聖書の教えだしね。でも、そのハンディを乗り越える勇気を、あのイベントは与えてくれるんですよね。

パラリンピック、是非日本で見てみたいものです。



「生きにくさ」と「多様性」と「コンビニ」

昨今、生物多様性がよく取り上げられますが、イルカとかクジラとかも大事かも知んないけど、生物の中でも最も喫緊に多様性を回復すべきなのは「日本人」じゃないか、という気がしています。

多様性が許容されるということは「あなたがあなたらしくある状態の、そのままでいいんだよ」ということですよね。ところがここ何十年も、日本はどんどん「個人が個人らしくあること」を許容できる社会ではなくなっていて、ある特定の科目や領域が得意な人だけが他者や社会から認められて、その他の人は、その「認められる人」の様になれ、という圧力を、子供のころからずっと受け続けるという状態になっています。圧力を受けている当人も、認められる人の仕事のやり方を真似る様なマニュアル本を買って、一生懸命ないものねだりをしていたりして、本当になんだかなあ、という気にさせられます。

この閉塞感が、日本の自殺率の高さにもつながっていると思うんですよね。

日本の自殺率はOECD諸国の中でも最高位に高く、絶対数値としては年間で3万人の人が自ら命を絶つという、実に痛ましい状況がずっと続いています。

これがどれくらいの人数なのか、みんな感覚がマヒしているんじゃないかと思うのですが、例えば政令指定都市の人口は、那覇が30万人、鹿児島が60万人なので、10年で「那覇市の人口の全員が自殺して街が消滅」、20年で「鹿児島市の人口の全員が自殺して消滅」という状況なんです。とんでもないですよね・・・

で、すぐには解消できない問題なのかも知れないけど、個人的には、いろいろな個性を持った人が、その個性なりに幸せや人生のやりがいを追求できるような社会にすることで、この問題の解決の一助にしたいと思っていて、そのために、「人格多様性礼賛」を、いろいろなところで書いたり発言したりしている昨今です。

僕自身、相当イレギュラーな人格で、子供のころからはみ出してばかりいたせいで、殆どの学校の先生からは蛇蝎の様に嫌われていたのですが、幸いに非常に鈍感だったり、たま~に認めてくれたりする人がいたせいで、なんとか角を丸められずに生きて来られたという実感があります。で、多くの人にもそうあって欲しいな、と。

社会全体で価値観の多様性を回復させようとした時、大きく問題になって来ると思っているのがコンビニです。コンビニの棚をご覧になればすぐわかる通り、いろいろなジャンルの商品の中でも、基本的に一位、まれに二位までの商品が入っているだけですよね。これはつまり、ある商品カテゴリーについて「一位」と「二位」以外の存在は認めない、というシステムです。

例えばオレンジジュースを取り上げて考えてみると、いろいろな人が居て、いろいろなオレンジジュースの好みがあって、いろいろなオレンジジュースをつくる、いろいろな人が居る、というのが健全な姿だと思うのですが、コンビニにはオレンジジュースは一種類か二種類しかありません。現在のコンビニの飲料流通におけるシェアは大変高いので、コンビニに入らないということは既にその時点で飲料メーカーとして、そのブランドを存続させることは難しいということなんですよね。

つまり、コンビニの棚に一位と二位のオレンジジュースしか入らない、ということは、極端に言えば「世の中にあるオレンジジュースは二種類でいい。それ以外の存在は許さん」とコンビニが規定しているということです。これは何もオレンジジュースに限ったことではなく、あらゆる商品カテゴリーにおいてそうなっています。これは「世界における多様性の回復」という点から考えた場合、まさにトンデモない事態だと思うわけです。

コンビニが一位と二位の商品しか基本的に扱わないというのは、狭い店舗に様々な商品カテゴリーの商品を機会損失をミニマムにしつつ置こうとするからで、これを解決するにはコンビニの店舗そのもののスタンダードサイズをデカくするか、あるいは商品カテゴリーごとに専門店舗をつくって、それを集積させることで利便性は維持する、ということが考えられます。

店舗サイズを大きくすると土地の面積も建設費も、サイズの増分に比例してリニアに増加しますが、一方、収穫逓増の法則が働くため、サイズが大きくなって品ぞろえが増加した分ほどには売上はリニアには増加しません(三位、四位の商品を置くための棚を設けても一位、二位の商品ほどには売れない、ということ)。従って、店舗サイズを大きくすると恐らく企業全体の収益性は悪化するので、この方法は上場企業が多いコンビニには難しいでしょう。

そうなると、後者に是非トライしてもらいということなのですが、いかがでしょうかね・・・
少なくとも僕は、なるべくコンビニで買わないで、いろいろなものを地元の専門店で買う様にしています。ささやかな反逆ですけどね。

KYのすすめ

いま、ある消費財企業のお客様と、イノベーションの推進というテーマでプロジェクトを行っているのですが、ひしひしと感じているのが、
「止める勇気」
についてです。
社会学を学ばれた方は、聞いたことがあるかもしれませんが、グループダイナミクスという概念があります。
全体の議論がある方向に流れ始めると、そこにイナーシャが生まれて少数の反対意見が呑み込まれてしまう、あるいは反対意見を云える雰囲気すらなくなってしまい、全体が持っている思考の多様性が、組織運営に活かされなくなってしまう、という考え方です。
で、僕は常々、日本人はグループダイナミクスに対して脆弱だと思っていて、これが日本企業の成長を阻害する大きな要因になっていると考えています。
空気が読めない、というのは一時期ダメサラリーマンの特徴みたいに言われたことがありますが、空気を読む、というのはまさにグループダイナミクスを理解するということなので、空気を読むのが得意な人ばっかりになったら、とてもじゃないけどイノベーションなんて起こせません。
空気を読む、ということの弊害を一番強く感じるのが「開発中止」の局面です。誰がどう見てもうまくいかないだろうという商品が、なぜか開発されてしまう。関わった人に後になって聞いてみると「いやあ、うまくいかないだろうと思ってました」と、異口同音に言う。ではなぜ、開発のストップを上申しなかったのか、ということになるのですが、ここで出てくるのが「空気」なんですよね。皆さん、グループダイナミクスに支配されてしまって、本当に言いたいことが言えなくなってしまう。
これはかつての日本軍で起こったのと同じことです。
是非、皆さんも、空気など読まず、ひどいと思った企画には「なにこれ、ヒドイね。誰が買うの?あり得ないでしょ」と、堂々と主張しましょう。その行動について、僕は責任取れませんが、皆さんがそのように行動することで、確実に日本は少しだけ、強くなりますから。

安易病の蔓延

最近、ますます「安易病」が蔓延しているように思います。
例えば、本屋をぶらついていると、やたらと「一日で身につく論理思考」とか「英語はたった四つの単語で話せる」といった、「すぐに出来ますよ」系の本が目に付きませんか?
これらの本の著者にとって、論理思考が出来るとか、英語が話せるというのが、どのレベルのことを差しているのかわからないのですが、日常の仕事で論理思考を使いながら、海外のお客さんや同僚と英語で仕事をしている人にとっては、そんなことがあり得ないのはお日様が西から昇らないのと同じくらいに自明なことであって、こういった書籍を買って読む人は本当に気の毒だな、と思ってしまいます。
英語も論理思考も地道な修練を長年積み重ねることで初めて使いこなせるようになるもので、それを避けて手っ取り早い要領ばかり学んでも結局は時間の無駄になるだけでしょう。
この場合、罪作りだと思うのが、こういった「安易系」の知識やノウハウをいくら小口で勉強しても、それが積み重なって高いビルになることは決してない、という点です。小説やビジネス書を原書で読む、映画を英語字幕で見る、といったことは、とても小さな学習効果しかないかも知れませんが、繰り返していればやがてそれが積み重なって大きなビルになります。しかし、こういった安易系の小さな努力ではそれを期待できないのが哀しいところです。
軍事においては、戦略資源の逐次分散投入は最も忌避されるものですが、こういった安易系の努力はまさに、自分の時間と頭脳という戦略資源を逐次分散投入し、無為に浪費していることに他なりません。

セキュアベースとストレスとパフォーマンス


ストレスレベルが高まるとパフォーマンスは高まるけれど、ストレスレベルがある一線を超えてしまうとパフォーマンスはむしろ低下する。従って、組織のパフォーマンスを向上させるには「適度なストレスレベルの維持」がポイントになる、というのは以前から組織開発の専門家の間では常識となっています。

ここで難しいのは、この「パフォーマンス最大点」のストレスレベルが、人によって異なる、ということです。人によって異なるということはつまり、世代によっても異なるということで、ここが最近、いろいろな会社で問題になっているのではないか、というのが僕の仮説です。

例えば、古巣の電通では、残念なことに最近心の調子を崩してしまう人がものすごく多いと聞いています。クライアントからの相談でも、昔の様に「もう後がない」という状況に追い込むと、かつては奮発してすごいパフォーマンスを上げていたのが、最近では却ってつぶれてしまうことが多い、という悩み事をよく伺います。

もし、世代間の特徴として、「ストレスレベル×パフォーマンス」の相関カーブが、ストレスレベルのより低いところにピークが移って来ている傾向があるのであれば、リーダーシップのあり方、マネジメントのあり方そのものを変えないと、組織全体のピークパフォーマンスは引き出せないということになるのかも知れません。

ここで問題になって来るのが「セキュアベース」という概念です。

幼児の発達過程において、幼児が未知の領域を探索するには、心理的なセキュアベースが必要になる、という説を唱えたのはイギリスの心理学者、ジョン・ボウルビイです。彼は、幼児が保護者に示す親愛の情、そこから切り離されまいとする感情を「愛着=アタッチメント」と名付けました。そして、そのような愛着を寄せられる保護者が、幼児の心理的なセキュアベースとなり、これがあるからこそ、幼児は未知の世界を思う存分探索出来る、という説を主張しました。

この概念を現在の企業社会に援用してみると、何をやっても大丈夫、最終的には自分は守られる(=キリスト教的な概念で言えば、you will be forgiven)という感覚が強くどこかにあれば、ストレス×パフォーマンスの関数は、よりストレスレベルの高い段階でピークパフォーマンスを発揮するカーブを描くことになるだろうことは想像に難くありません。

一方で、現在の様に、自分の身分が極めて不安定なものであると認識せざるを得ない状況では、セキュアベースが確保されない分、ストレスレベルのより低いレベルでピークパフォーマンスを、低いレベルで発揮するというカーブにならざるを得ません。

欧米の場合は、最悪、自分が今居る会社において失敗したとしても、雇用の流動性は十分に高く、いくらでも出直しが効くという安心感、まさにセキュアベースがあるわけですが、日本においてはそのような感覚は持ちにくい。

そうなると、失敗が許されない、より減点主義的な会社が増加することで、ストレス×パフォーマンスカーブは全般的に、より低いストレスレベル、より低いパフォーマンスレベルに落ち着くことにならざるを得ないことになります。

こういう状況に対して仮説として対応策は二つ考えられます。

一つは、より早期にピークを迎えるカーブに対応したリーダーシップ、マネジメントのあり方を、上位管理職の人々が身につけるということです。昔の様に、千尋の谷に放り投げて、上がってこなければお前は終わりだ、という教育方針を採用していたら、誰も谷から上がってこなかった、ということになりかねない時代になってきているのです。せめて谷の登り方をレクチャーするとか、苦労している子が居たら、その場まで降りて行って「ここはこうやるんだ」といったコーチングが必要になる、というのが一つ目。

もう一つは、「この会社でダメだったら次で頑張ればいい」という、セキュアベースを社会全体で作ってあげる、という打ち手です。

もちろん個別の会社において、打ち手1を実践して行くのは必須の課題として必要だと思いますが、僕は、先日出版した書籍(=天職は寝て待て)でも同様のことを主張している通り、これからの日本はどんどん雇用の流動性を高めて、何度失敗しても、いずれ自分の生き場所を見つけられればいい、というリラックスのための材料を、社会的に形成してあげることが必要だと思っています。

ブリコラージュとICU


先日、レヴィ・ストロースの説いたブリコーラジュがイノベーションにおいて重要なコンセプトになる、という話を書いて、ではその実際の事例が何かということを考えていたのですが、一つ思いついたのが米国による宇宙開発がそれなんだよな、ということで、備忘録としてここに記しておきます。

米国における宇宙開発のリーダーシップはケネディに端を発していて、ケネディ嫌いの僕としてはずっと、あれは莫大な税金の無駄遣いだったと、小学生の頃からずっと(親の影響もあって)思っていたのですが、最近、宇宙開発は典型的なブリコラージュの事例なのかも知れない、と思うに至っています。

米国におけるアポロ計画は、いろいろと毀誉褒貶がありますが、僕が知る限り、現代の社会に莫大なプラスインパクトをもたらしている点が、少なくとも一点あって、それは医学の領域なんです。

何だとおもいますか?それはICU、Intensive Care Unitなんですよね。

ICUというのは、患者の身体に、生命に影響を及ぼす様な変化が起こったらすぐにそれを遠隔で医師や看護士に知らせるというシステムですが、このシステムは、宇宙飛行士の生命や身体の状況を、やはり遠隔地からモニターして、何か重大な変化が起これば即座に対応するという、アポロ計画の様な長期の宇宙飛行においての必要性から生じた技術なんです。確かに、アポロ13を映画で見ていると、身体の内部と外部の環境をモニターして、大きな変化があると即座に手を打つという、ICUに求められるシステムが、そのまま実現されていることがわかりますよね。

アポロ計画の様な、壮大な無駄使いに見えるような取り組みからでも、人類にとって必要欠くべからざる様な技術やシステムが、生み出されているということを、(僕を含めて)多くの人は実は知らないんですよね。これは典型的なブリコーラジュと言えます。ケネディの脳内に、この宇宙計画によって、派生的に人類にとってものすごく有用な智慧が生み出されるはずだという確信があったとは、とても思えないのですが、この計画を完遂することによって、何か重大な智慧が、それを完遂するものにもたらされるはずだという「曖昧な予感」がもし、関係者の中にあったのだとすれば、まさにそれは、マト・グロッソのインディオたちがもっていた野性的な知性だったのだと思わざるをえないのです。

翻って、現在のグローバル企業においては、「それは何の役に立つの?」という経営陣の問いかけに答えられないアイデアは、資金供給を得られないことが多いのですが、ちょっと待って。世界を歪める様なイノベーション(©スティーブ・ジョブズ)は、「何となく、これはすごい気がする」という直感に導かれて実現しているのだということを、我々は決して忘れてはならないのだということを、改めて考えるわけです。

イノベーションとブリコラージュ




最近、多くの企業、それも日本を代表する様な大企業から、「イノベーションを加速するための組織開発、人材開発を手伝ってほしい」というご相談を頂きます。

で、色々な経営者の方、R&Dセクションの責任者の方とお話する機会があるのですが、どうもイノベーションというものについては、相当誤解が蔓延しているなあ、という印象を持っています。

これは恐らく、MBA的な、経営管理の側面が強い知識が普及したことの悪影響なのだと思うのですが、一言で言うと、「イノベーションは体系化できる」という誤解を持っていらっしゃ方が多いんですね。で、我々の様な会社に「その体系を教えてくれ」ということでいらっしゃるのです。でも、これは難しい。

スティーブ・ジョブズは、ビジネスウィークの記者から「あなたはどうやってイノベーションを体系化したのですか?」と聞かれて、「そんなことはしちゃだめだ」と即答していますが、僕もそうだと思います。

経営学の教科書とは逆に、人文科学全般の、あるいは自然科学における過去の大発見の過程は、イノベーションそのものをマネージすることは出来ない、ということを示唆しています。イノベーションが起こりやすい組織をマネージによって生み出す事は出来ますが、イノベーションというのは花の様なもので、それ自体を人為的に生み出す事は出来ないのです。我々が出来るのは、花が育ちやすい土壌と環境を整えて十分に栄養と日光を注いでやることだけです。

じゃあ具体的に、その体系化の中に、どんな誤解があるかということなのですが、大きなものの一つとして「用途市場を明確化してからイノベーションを目指すべきである」という仮説が挙げられます。確かに、経営学の教科書をいくつかめくってみると、開発の初期段階からターゲット市場、ターゲットユーザーを明確化することが、ある種のルールとして書かれていることが多い。しかし、こんなことをしたらイノベーションは起きません。歴史をひも解いてみればすぐにわかることで、過去の偉大なイノベーションは、本来意図した用途市場とは全く別の用途で、花開いているケースが多いのです。

例えば飛行機。現在と同様の原理で飛ぶ飛行機を発明したのはライト兄弟ですが、では彼らが飛行機の発明によって、人物や物資の運搬を行う今日の航空産業を思い描いていたかというと、実はまったくそうではないんですね。ライト兄弟は、飛行機の発明によって戦争を終わらせたいと考えていました。航空機が真に民主的な政府の手に渡れば、偵察の範囲も広がるために奇襲等も不可能になり、戦争の抑止機能になるだろうと考えたのです。しかし実際にはご存知の通り、飛行機は、米国による広島、長崎への原爆投下やベトナムへの枯葉剤散布等、人類史にも例を見ない様な残虐行為に用いられることになります。余り知られていないのですが、ライト兄弟は、最終的に飛行機を発明したことを悔いていたんですよね。

あと分かりやすい例で言えば蓄音器でしょうか。これはエジソンが発明したわけですが、エジソンは、蓄音器の用途として「速記」や「遺言の記録」といったことを考えていたようで、これが音楽産業という巨大な市場になるとは夢にも思っていませんでした。

うーん、じゃあ用途市場を明確化せずに、無駄なことでも許容して研究するべきなのか?ってことになるわけですが、さすがに、どんなものになるのか見当もつかない研究をやっていたら会社も持たないでしょう。ここで重要になるのが「何の役に立つのかよくわからないけど、なんかある気がする」というグレーゾーンの直感を大事にする心性です。これは人類学者のレヴィ・ストロースが言うところの「ブリコラージュ」です。

人類学者のレヴィ・ストロースは、南米のマト・グロッソのインディオ達を研究し、彼らがジャングルの中を歩いていて何かを見つけると、その時点では何の役に立つかわからないけれども、「これはいつか何かの役に立つかも知れない」と考えてひょいと袋に入れて残しておく、という習慣があることを「悲しき熱帯」という本の中で紹介しています。

そして、実際に拾った「よくわからないもの」が、後でコミュニティの危機を救うことになったりすることがあるため、この「後で役に立つかも知れない」という予測の能力がコミュニティの存続に非常に重要な影響を与える、と説明しています。

この不思議な能力、つまりあり合わせのよくわからないものを非予定調和的に収集しておいて、いざという時に役立てる能力のことを、レヴィ・ストロースはブリコラージュと名付けて近代的で予定調和的な道具の組成と対比して考えています。

レヴィ・ストロースは、サルトルに代表される近代的で予定調和的な思想よりも、それに対比されるより骨太でしなやかな思想をそこに読み取ったわけですが、実は近代思想の産物と典型的に考えられているイノベーションにおいても、ブリコラージュの考え方が有効であることが読み取れるのです。

この野性的でしなやかな知性=ブリコラージュの能力が、現代企業のイノベーションにおいても重要なんだと、僕は思います。

イノベーションにアイデアは必須か

ここ一年程、顧客企業から「どうやったらイノベーションがもっと加速するんですかね」というご相談を受けることが多く、最近、組織開発の観点から「どうやったらイノベーションを実現する組織を作れるか」という論点についていろいろと調べたり考察したり、といったことをやっています。

古くは古代の農耕と牧畜、中世では羅針盤や火薬、最近だと電球や自動車、蓄音機といったものの生まれる過程をずっとなぞっているのですが、そこから非常に面白い気付きが得られるなあと思っていて、最近、時間があるとこのことばっかり考えています。

その気付きというのは、言わば「イノベーションにまつわる誤解」ともいうべきものです。これはいままとめているので早ければ今年中にまた本に出来るかな、と思っています。

で、その誤解の一つが、冒頭に掲げた「イノベーションにはアイデアが必須」というものです。これは誤解というより、半分正解で半分間違いといったものなのですが、もちろんイノベーションにはもとになるアイデアが必要なのは間違いありません。

ただ、数多くのイノベーションをざっと並べてみると、イノベーションを実現した人が、アイデアを生み出した人であるケースは、実は殆どないんですよね。例えばイノベーションの体現者として神格化されつつあるスティーブ・ジョブズですが、僕が前から指摘している通りなんですが、彼が自分で生み出したアイデアというのは、実は殆どありません。マッキントッシュの革命性を支えたGUIやマウスといったアイデアは、ゼロックスのパロアルト研究所で既に開発されていたものですし、フラッシュメモリを用いた音楽プレイヤーというのも既に先行プレイヤーがいました。ネットを通じて音楽を細切れに販売するというアイデアも同様です。

スティーブ・ジョブズ以外にも、例えば飛行機はライト兄弟の、電球はエジソンの、自動車もフォードの、それぞれ発案だと思われていますが、これらのアイデアを生み出したのは、実は彼らではありません。先にアイデアを考えていた人が居たのです。

イノベーションの実現者が、必ずしもアイデアの発案者ではない。

この事実は、組織開発の側面において我々に二つの示唆を与えてくれます。

一つ目は、イノベーションを実現しようと思った場合、必ずしもアイデアを自分で生み出す必要はない、ということです。これは逆に言えば、いいアイデアを生み出すプラットフォームや機能、人材を組織の資源として獲得したとしても、それが必ずしもイノベーションを約束するわけではない、ということです。最近、よくご相談を受ける顧客からは、「やはりもっとクリエイティブな人材を雇うべきでしょうか?」とか「彼らがリラックししてアイデアを生み出せる様に、やはりグーグルの様な遊び心のあるオフィスにするべきなのでしょうか?」といった質問を受けるのですが、上記の示唆を踏まえれば、こういった施策が必ずしもイノベーションを約束しない、ということがおわかり頂けると思います。

二つ目の示唆は、もしそうなのであれば、アイデアを生み出すために資源を投入するよりも、アイデアは他人に考えさせて、それを盗む方が経営の効率から考えたら優れているかもしれない、ということです。事実、スティーブ・ジョブズはゼロックスからアイデアを盗んだわけで、それを別に隠そうともしていません。そこに見えて来るのは「勝てば官軍」という心性です。パブロ・ピカソも「凡庸なアーティストは模倣する。偉大なアーティストは盗む」と言っている通り、美術や音楽の過去の歴史をひもとけば、それはひいき目に言って剽窃、悪く言えば盗作の歴史でもあります。坂本龍一さんも、現代の音楽産業は「パクリ合戦」と喝破していますしね。

ということで、イノベーションにまつわる最初の誤解「アイデアを生み出さないとイノベーションは達成出来ない」に関する論考でした。

続きはまた。

文化リレーのアンカーとしての日本

中国や韓国がどんどん元気になってくる一方、日本の元気はしぼむ方向にあり、一部の人はそれを由々しき事態だと言って大騒ぎしていますが、意外にいいことなのかも知れない、というのがこの論考の趣旨です。

ユーラシア大陸の地図上に、西欧から東洋に文化が流れていく様を北方、南方それぞれのルートで描きこんでみます。で、この地図を、ヨーロッパを上側に、日本を下側してグルっと回してみると、丁度パチンコ台の様になります。欧州から弾き飛ばされたタマが、様々な場所を経由しながら、日本という穴に吸い込まれていく、というイメージですね。

これは多くの論者が指摘していることですが、日本というのは世界の最果ての、そのまた海の向こうに位置取りしていて、やってくるものを全部飲みこんで醸造してきた国です。よく教室なんかで自由に座らせると必ず一番後ろの、しかも窓際に陣取るヤツが居ますが、そういうクールな、冷めた位置取りに僕らの国は建国前からあって、しかも外からやってくるものは、だいたい「よきもの」と思って受け止めていた節があります。

例えば、日本人は大陸から漢字を受け入れて、それを元にひらがなとカタカナを作ったわけですが、もとから受け継いだ漢字を、では棄ててしまうかというと棄てない。漢字もひらがなもカタカナもちゃんぽんでごちゃ混ぜに使うわけです。僕は民俗学は専門ではないので、断定的なことは言えませんが、こういう民族はちょっと類例がないんじゃないかと思います。

その上で、漢字とひらがなの序列の構造はどうなっているかというと、これは「漢字>ひらがな」なんですね。漢字の方が偉いんです。自分たちで作ったものはInferiorである、と。どこにそれが出ているかというと、ひらがなもカタカナも「仮名」といっているからです。「仮名」というのは「仮」ということですから、本物ではない、ということです。本物は漢字であると。自分たちの作ったものは偽物であると、そういう認識をしているということです。

まとめると、紀元前660年の日本建国以来、日本はずっとこのクールな位置に居て、世界の人々の手を経て洗練されてきた様々な文物を受け取って、更に洗練・成熟させるという、いわば文化のリレーにおけるアンカーの役割を果たしてきた、ということが一つ。その上でさらに、アンカーとして奢ることなく、前走者の生み出してきたものを「よきもの」として、リスペクトしてきた、ということです。ここに日本が世界に類例をみないほどに洗練した文化を生み出してきたという、大きな構造的・地政学的な要因があります。

ところがここ100年で色々なことがあって、このクールな位置取りが全然出来なかった。一つは、これまでの文化の流入ルートが無茶苦茶になって、中国や韓国から全然パチンコのタマが落ちて来なくなったこと。中国や韓国ではなく、タマの出所である欧州や米国に直接ネタを仕入れに行ったり(明治時代)、あるいはそこの文化を全否定したり(太平洋戦争時)した結果、外からやってくるものを虚心に受け取って、洗練・成熟させるという、過去連綿と日本が果たしてきた「文化リレーにおけるアンカー」という役割が、全然機能しませんでした。これは、やっぱり日本にとっては結構つらいことであったわけですが、ことここに至ってまた希望が見えてきている、というのが僕の仮説です。

それは、また中国と韓国が元気になってきたので、またもとの通り、世界の辺境に位置するクールな国として、中国や韓国からやってくるよきものを、虚心に受け止めるという、本来の日本のポジショニングに戻ることが可能になるかも知れない、という希望です。そういうポジショニングでこそ、本来は強みを発揮できる国が日本なのだ、と考えてみると、これはあながち悪いことなのではないかも知れない、というのが昨今考えていることです。

写真は正倉院御物の一つですが、これはペルシア文化の影響を色濃く受けています。