イノベーションにアイデアは必須か

ここ一年程、顧客企業から「どうやったらイノベーションがもっと加速するんですかね」というご相談を受けることが多く、最近、組織開発の観点から「どうやったらイノベーションを実現する組織を作れるか」という論点についていろいろと調べたり考察したり、といったことをやっています。

古くは古代の農耕と牧畜、中世では羅針盤や火薬、最近だと電球や自動車、蓄音機といったものの生まれる過程をずっとなぞっているのですが、そこから非常に面白い気付きが得られるなあと思っていて、最近、時間があるとこのことばっかり考えています。

その気付きというのは、言わば「イノベーションにまつわる誤解」ともいうべきものです。これはいままとめているので早ければ今年中にまた本に出来るかな、と思っています。

で、その誤解の一つが、冒頭に掲げた「イノベーションにはアイデアが必須」というものです。これは誤解というより、半分正解で半分間違いといったものなのですが、もちろんイノベーションにはもとになるアイデアが必要なのは間違いありません。

ただ、数多くのイノベーションをざっと並べてみると、イノベーションを実現した人が、アイデアを生み出した人であるケースは、実は殆どないんですよね。例えばイノベーションの体現者として神格化されつつあるスティーブ・ジョブズですが、僕が前から指摘している通りなんですが、彼が自分で生み出したアイデアというのは、実は殆どありません。マッキントッシュの革命性を支えたGUIやマウスといったアイデアは、ゼロックスのパロアルト研究所で既に開発されていたものですし、フラッシュメモリを用いた音楽プレイヤーというのも既に先行プレイヤーがいました。ネットを通じて音楽を細切れに販売するというアイデアも同様です。

スティーブ・ジョブズ以外にも、例えば飛行機はライト兄弟の、電球はエジソンの、自動車もフォードの、それぞれ発案だと思われていますが、これらのアイデアを生み出したのは、実は彼らではありません。先にアイデアを考えていた人が居たのです。

イノベーションの実現者が、必ずしもアイデアの発案者ではない。

この事実は、組織開発の側面において我々に二つの示唆を与えてくれます。

一つ目は、イノベーションを実現しようと思った場合、必ずしもアイデアを自分で生み出す必要はない、ということです。これは逆に言えば、いいアイデアを生み出すプラットフォームや機能、人材を組織の資源として獲得したとしても、それが必ずしもイノベーションを約束するわけではない、ということです。最近、よくご相談を受ける顧客からは、「やはりもっとクリエイティブな人材を雇うべきでしょうか?」とか「彼らがリラックししてアイデアを生み出せる様に、やはりグーグルの様な遊び心のあるオフィスにするべきなのでしょうか?」といった質問を受けるのですが、上記の示唆を踏まえれば、こういった施策が必ずしもイノベーションを約束しない、ということがおわかり頂けると思います。

二つ目の示唆は、もしそうなのであれば、アイデアを生み出すために資源を投入するよりも、アイデアは他人に考えさせて、それを盗む方が経営の効率から考えたら優れているかもしれない、ということです。事実、スティーブ・ジョブズはゼロックスからアイデアを盗んだわけで、それを別に隠そうともしていません。そこに見えて来るのは「勝てば官軍」という心性です。パブロ・ピカソも「凡庸なアーティストは模倣する。偉大なアーティストは盗む」と言っている通り、美術や音楽の過去の歴史をひもとけば、それはひいき目に言って剽窃、悪く言えば盗作の歴史でもあります。坂本龍一さんも、現代の音楽産業は「パクリ合戦」と喝破していますしね。

ということで、イノベーションにまつわる最初の誤解「アイデアを生み出さないとイノベーションは達成出来ない」に関する論考でした。

続きはまた。

文化リレーのアンカーとしての日本

中国や韓国がどんどん元気になってくる一方、日本の元気はしぼむ方向にあり、一部の人はそれを由々しき事態だと言って大騒ぎしていますが、意外にいいことなのかも知れない、というのがこの論考の趣旨です。

ユーラシア大陸の地図上に、西欧から東洋に文化が流れていく様を北方、南方それぞれのルートで描きこんでみます。で、この地図を、ヨーロッパを上側に、日本を下側してグルっと回してみると、丁度パチンコ台の様になります。欧州から弾き飛ばされたタマが、様々な場所を経由しながら、日本という穴に吸い込まれていく、というイメージですね。

これは多くの論者が指摘していることですが、日本というのは世界の最果ての、そのまた海の向こうに位置取りしていて、やってくるものを全部飲みこんで醸造してきた国です。よく教室なんかで自由に座らせると必ず一番後ろの、しかも窓際に陣取るヤツが居ますが、そういうクールな、冷めた位置取りに僕らの国は建国前からあって、しかも外からやってくるものは、だいたい「よきもの」と思って受け止めていた節があります。

例えば、日本人は大陸から漢字を受け入れて、それを元にひらがなとカタカナを作ったわけですが、もとから受け継いだ漢字を、では棄ててしまうかというと棄てない。漢字もひらがなもカタカナもちゃんぽんでごちゃ混ぜに使うわけです。僕は民俗学は専門ではないので、断定的なことは言えませんが、こういう民族はちょっと類例がないんじゃないかと思います。

その上で、漢字とひらがなの序列の構造はどうなっているかというと、これは「漢字>ひらがな」なんですね。漢字の方が偉いんです。自分たちで作ったものはInferiorである、と。どこにそれが出ているかというと、ひらがなもカタカナも「仮名」といっているからです。「仮名」というのは「仮」ということですから、本物ではない、ということです。本物は漢字であると。自分たちの作ったものは偽物であると、そういう認識をしているということです。

まとめると、紀元前660年の日本建国以来、日本はずっとこのクールな位置に居て、世界の人々の手を経て洗練されてきた様々な文物を受け取って、更に洗練・成熟させるという、いわば文化のリレーにおけるアンカーの役割を果たしてきた、ということが一つ。その上でさらに、アンカーとして奢ることなく、前走者の生み出してきたものを「よきもの」として、リスペクトしてきた、ということです。ここに日本が世界に類例をみないほどに洗練した文化を生み出してきたという、大きな構造的・地政学的な要因があります。

ところがここ100年で色々なことがあって、このクールな位置取りが全然出来なかった。一つは、これまでの文化の流入ルートが無茶苦茶になって、中国や韓国から全然パチンコのタマが落ちて来なくなったこと。中国や韓国ではなく、タマの出所である欧州や米国に直接ネタを仕入れに行ったり(明治時代)、あるいはそこの文化を全否定したり(太平洋戦争時)した結果、外からやってくるものを虚心に受け取って、洗練・成熟させるという、過去連綿と日本が果たしてきた「文化リレーにおけるアンカー」という役割が、全然機能しませんでした。これは、やっぱり日本にとっては結構つらいことであったわけですが、ことここに至ってまた希望が見えてきている、というのが僕の仮説です。

それは、また中国と韓国が元気になってきたので、またもとの通り、世界の辺境に位置するクールな国として、中国や韓国からやってくるよきものを、虚心に受け止めるという、本来の日本のポジショニングに戻ることが可能になるかも知れない、という希望です。そういうポジショニングでこそ、本来は強みを発揮できる国が日本なのだ、と考えてみると、これはあながち悪いことなのではないかも知れない、というのが昨今考えていることです。

写真は正倉院御物の一つですが、これはペルシア文化の影響を色濃く受けています。