Friday, November 1, 2013

読書の正味現在価値

阿部謹也先生の「刑吏の社会史」をあらためて読んでいて「読書の正味現在価値」について少し考えています。

既にいろんなところで書いたり話したりしていますが、僕は新刊のビジネス書をほとんど読みません。何かきっかけがあったり、深い考えがあってそうしているというよりは、読みたいと思う本を感覚的に選んでいたら、いつの間にか新刊のビジネス書がほとんど含まれなくなったということなのですが、最近になって、ある出版社さんで「読書術」というテーマでの連載を持つことになり、読む書籍を選ぶ際に用いている選択基準を意識の底から掬いあげて言葉にする必要性が生じてつらつらと考えてみました。

で、正直にいうと未だにその基準はよくわからないのですが、おぼろげに見えてきたのは、どうも「読書の正味現在価値」という、意外にも世知辛い基準で本を選んでいるらしいということです。

読書を一つの投資と考えてみれば、原資は自分の時間しかありません。時間は限られていますよね。誰にとっても一日に24時間しかない。だから、どの本に自分の時間を投下するかはとても大事な意思決定になります。

一方で、読書がもたらす効用は、「単位時間当りの効用」と「効用の持続時間」の積に等しくなります。この効用の持続時間を、短期と長期に分けて考えてみた場合、ビジネス書のベストセラーというのは、

短期:読んでいる人が沢山居るため、差別化の要因にならず、効用は小さい
長期:殆どの内容が数年で陳腐化するため、やはり効用は小さい

ということになります。

わかりやすい例として2009年にベストセラーになったクリス・アンダーソンの「FREE!」を考えてみましょうか。あの時期、本当に猫も杓子もあの本について語っていましたが、あの分厚い本を読んでその内容について語ったり、考察したりすることの効用は、実はそれほど大きくはなかったのではないでしょうか。少なくとも、皆が同じ様なことを話していたわけですし、しかもその内容は「言われてみれば当たり前」というものが多かったように思います。しかし、他人と代わり映えせず、しかも陳腐でつまらないというのは個人のアウトプットとしては「最悪」というほかありません。

一方で、今から十年後のことを考えると、クライアントのCEOとの会食の場で、あるいは経営幹部候補育成のワークショップの場で、クリス・アンダーソンの「FREE!」からの引用が使えるかというと、まあピンと来ませんよね。殆どの人は「ああ、なんかそんな本、あったよね」という反応でしょう。

出版からたったの四年しか経っていないのに、キーワードの一つだった「フリーミアム」が使用の憚られる「恥ずかしい用語」に早くもなりつつあることを考えれば、見通しは暗いと言わざるを得ませんって、そう思うのは僕だけなのかな。

一方で、アダム・スミスやマックス・ヴェーバーのような、いわゆる古典からの引用はこれから先、十年あるいは二十年のあいだ、同様の場において説得力ある引用を可能にしてくれるはずです。

つまり、ビジネス書のベストセラーによって形成された知的ストックは、短期的には差別化できないために効用が小さく、中長期的には知的価値の毀損が早く、正味現在価値は意外にも小さいのではないか、ということです。そういう判断をどうも無意識にやって偏った読書ポートフォリオになっているらしいと、まずはそこまでは見えてきました。もう少し考えてみると、また違ったことになるのかも知れないけど。

慣用句=ことわざというのは「大人の事情」を匂わせるうさんくさいものが多くて子供のときから僕はずっと違和感を抱えていますが、このように考えてみると「残り物には福がある」ということわざは、一面の真理を指し示しているのかも知れません。一般にこの慣用句は、先物を確保する利権を有する人が、それを持たない人の反発をなだめるために用いるケースが多いわけですが、実は多くの人が手にしたがる先物は差別化が難しく、残り物にこそ差別化を考えるための契機が生まれるということなのだということであれば、それはそれで一つの知恵だと認めざるを得ません。あるいはそもそも、歴史のやすりにかけられた「残り物」には効用があるのだ、という指摘と捉えることも出来ます。

思い出したけどキューバ建国の英雄エルネスト・チェ・ゲバラは大変な読書好きで、彼がコンゴのジャングルから家に居る妻に本を送ってくれる様にお願いした手紙が残っているのですが、このリストがスゴい。

      • ピンダロス「祝勝歌集」
      • アイスキュロス「悲劇」
      • ソフォクレス「ドラマと悲劇」
      • エウリピデス「ドラマと悲劇」
      • アリストファネスのコメディ全巻
      • ヘロドトス「歴史」の7冊の新しい本
      • クセノフォン「ギリシア史」
      • デモステネス「政治演説」
      • プラトン「対話編」
      • プラトン「国家」
      • アリストテレス「政治学」(これは特に)
      • プルタルコス「英雄伝」
      • セルバンテス「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」
      • ラシーヌ「演劇」全巻
      • ダンテ「神曲」
      • アリオスト「狂えるオルランド」
      • ゲーテ「ファウスト」
      • シェイクスピアの全集
      • 解析幾何学の演習(サンクチュアリ*のもの) 
         *ゲバラは自分の書斎をサンクチュアリと呼んでいた由

要するに全て古典です。新しい国を人工的に作るという歴史上嘗てない営みに手を染めつつある人が、そのための参考書として選んだのが、近代市民国家成立以降の啓蒙書ではなく、一番新しいものでも数百年、多くが千年以上前のローマ時代からギリシア時代に書かれた書籍であったことは、同様に将来を見通すことが難しい時代に生きている僕らに対して一つの教訓を示してくれている様に思えまませんか?

そういえば、江戸時代の脅威の碩学、荻生徂徠も父親の失脚に伴って本がほとんどない田舎に蟄居せざるを得なくなり、仕方なしにやっとこさ手に入った少数の古典、なかでも父親が筆写した林羅山の大学諺解を十年以上に渡って繰り返し読んだところ、ついにはそれらを逆さまに読んでも暗唱できるくらいになってますよね。最新の書籍は選べず、古典を繰り返し繰り返し読むしかなかったわけです。しかし、その後、蟄居の命が解けて二十五才の時に江戸に戻ってきたころには既に重鎮の国学者と議論してこれを悉く打ち破るような「知の怪物」になっていたそうだから、最新の知識や情報をなんでもかんでも好きな様に選べるというのは知性を育むという意味ではとても危険なことなのかも知れません。

思い出したけどスコラ哲学の巨人であるトマス・アクイナスや聖書に記述されるイエスもまったく同じだし、ニーチェのツァラトゥストラや達磨も長期間にわたる山中での「Less Input、 More Thoughts」の結果、叡智の獲得に至っています。つまり、自戒の念を込めていえば、最新の知見の膨大なインプットは知的アドバンテージにつながらないどころか、むしろマイナスなのかも知れない、ということです。話題のビジネス書を沢山読んでるという人は気をつけた方がいいのかも知れない。後に何も残らない可能性がある。

最後に、この阿部謹也先生の「刑吏の社会史」は、本当の意味で「深く考えるとはどういうことか」を教えてくれる、とてもいい本だと思います。この本、1978年の初版から既に27刷を経ていますが、いまだにその内容の質はまったく古びていません。阿部謹也先生はもともと一橋大学の中世史の先生でしたが、なぜ商業大学が母体である一橋で中世史が教えられたのかというのが、この本を読むとよくわかります。





歴史という学問は、過去の事象を抽象化することで人間性の最深部について洞察を得ようという営みだと考えることが出来ますが、歴史が対象とする時間軸を縮めてみれば、これはそのまま経営学にも通じることになります。阿部先生は、過去の歴史において、なぜ刑吏が多くの国においてこれほどまでに差別され、賤視されてきたのかについて、様々な確度から考察をされていますが、その知的態度はまさにクリティカルシンキングの好例であって、学問領域を超越した「模範の知的態度」を示しているように思います。読んでいると、一緒に旅をしながら先生の考察を独白で聞いているような気にさせられますよ。お勧め。


Saturday, October 26, 2013

ビジネスとアートのあいだ

ビジネスとアートは一般的に対照的なものだと考えられているけれども、本当にそうなんだろうか、ということをここ最近考えています。

たとえば、ビジネスの世界で現時点の世界チャンピオン(時価総額世界一)であるアップルを考えてみると、前CEOのスティーブ・ジョブズは、経営者でもありまたアーティストであったとも言えます。初代マッキントッシュ開発の際は、フォントの字体や筐体の色に頑にこだわったり、Power Macのデザインでは立方体や透明といったデザイン要素について強迫的といっていいほどの執着を示していて、その思考・行動特性は経営管理者というよりもアーティストに近い。

こういった行動特性を示した人が率いた会社が時価総額世界一を記録しているというのは、一体どういうことなんだろうか?

僕は大学で美術に関する専門教育を受けていて、経営者の伝記よりはどちらかというとアーティストの伝記になじみ深いのでそう思うのかも知れませんが、スティーブ・ジョブズが示したこういった態度は、経営者というよりも美術史の流れを捩じ曲げたような天才アーティストたちの行動特性ととても似ていると思うのです。

つまり、ビジネスマンとして功成り名を遂げた人の中には、非常にアーティスト的なコンピテンシー(©ヘイグループ)を示す人が居るんですね。

一方で、いわゆるド真ん中のアーティストと思われている人々が、意外にビジネスマン的な行動・思考特性を示すこともある。たとえば、東大寺金剛力士像を制作したのは運慶・快慶の二人だ、と日本史で習った人が多いと思いますが、今日では、この二人は制作者というよりもプロデューサーであって、実際に制作に当たったのは慶派に属する多くの職人であったことが知られています。彼らは、クライアントの要望をまとめ、それを予算・時間・人手のリソースに配分してプロジェクトマネジメントを行ったわけで、まったくいま現在のビジネスマンがやっているのと同じことをやったにすぎないのです。

これはルネサンスの工房も同じであって、たとえばレオナルドが最初につとめたヴェロッキオの工房も、やはり貴族やブルジョア(この時代はこういう言い方はしなかったけど)から依頼を受けて絵画や彫刻等の制作を請け負っていた営利組織で、ヴェロッキオが直接に筆を取ることももちろんありましたが、多くの場合、彼の仕事は弟子たちの仕事を管理することだったわけで、今日で言うところのプロデューサーだったのです。

意外に思われるかも知れませんが、当時の工房は美術品の制作以外にも、王侯貴族の親族の結婚式の演出や音楽会やパーティのプロデュースも引き受けており、今日で言うところの広告代理店とほぼ同じような業態を形成していたんですよね。実際にレオナルドはそれらの催しで非常に斬新なアイデアを用いてクライアントを大喜びさせたそうで、今日現在、これらの企画内容がたとえ断片的であっても残っていないのは残念極まるよなあと思うのは僕だけではないはずです。嗚呼、電通にレオナルドが居てくれたら、オリンピックの招致ももっとラクだったのに。

ということで、要するに言いたいのは、アートとビジネスというのは本来はほぼ一体のものであって、それが対照的な概念として扱われるようになったのは恐らく20世紀に入ってから、印象派以降のことで歴史的には「つい最近」なんですよね。そして21世紀に入って、アートとビジネスを対照的に捉える立場の人よりも、これを一体のものとして捉える人によって率いられた会社が、時価総額世界一を誇っているというのは、我々にこの認識を改めるべきときが来ているのではないかと、示唆しているように思うのですよね。

Thursday, August 29, 2013

パチンコとソーシャルメディア

先日、仲良しと神楽坂のLa Tacheで夕食を食べようと思って神楽坂をテクテク歩いていたのですが、ふとレストランに行く前にお手洗いを借りようと思い立って二十年ぶりに目の前にあったパチンコ屋さんに入りました。

で、用を足してから出口に向かって店内を歩いている際に、めったにない機会ということもあって新鮮な気持ちで周囲を観察させてもらったのですが、その瞬間に感じたことからお店に着くまでの二~三分ほどのあいだにアタマを駆け巡った考察を備忘録代りに記しておきます。

パチンコ屋のスツールに座ってうつろな眼でスロットのボタンをひたすらに押し続けるロボットのような人々を見てまず感じたのは、スロットというのは究極的にはドーパミンの分泌を販売しているビジネスなんだな、ということです。これはいつかのポストにも書きましたが、ドーパミンシステムは予測できない出来事に直面した時に刺激されます。予測できない出来事、つまりボタンを押して絵柄が揃うかどうかわからない、揃えば報酬がもらえるよという状況でスキナーボックスのネズミと同じです。

つまりスロットにはまり続ける人とというのは、究極的には「不確実性」にお金を払っているのかも知れない、ということです。こう考えた僕はなんというか、奇妙な気持ちに捉われたんですよね。だって、通常「不確実性」というのは忌避するものであって、求めるものではないでしょう?しかし、目の前のこの人たちはわざわざお金を払ってまで「不確実性」を購入している。

ドアを開けて店を出ます。ここから先は宵の神楽坂を昇りながら考え続ける。

で、思ったのは、彼らがわざわざお金を払ってまで「不確実性」を求めるのは、逆にいえば彼らの生活から余りにも不確実性がなくなっているからなのかも知れないなあ、ということです。

つまり、ルーチンを繰り返すだけの仕事や完全に予測可能な給与水準等、偶有性が介入する隙間がほとんどなくなってしまった人生を与えられると、人はわざわざお金を払ってまでも、ある程度の「不確実性」を手に入れようとするのかもしれない、ということです。

たしかに「不確実性」という言葉は一般にネガティブな含みを持って語られることが多いわけですが、一方で「希望」や「未来」、「幸運」といったポジティブな概念と結びつけて捉えることも出来るなあ、などと考えてみる。

このあたりで毘沙門天の前を通過します。夜風が気持ちいい。

で、そのまま考えを推し進めると、「不確実性」を求めるこういう人々に対して、実ビジネスにおける「不確実性」をともなうタスク、それは例えば為替のディーリングみたいな仕事を細かく切りだしてクラウドソーシングできないかなあ、というアイデアが、まあ出てきます。もしそういったことが可能になれば彼らのドーパミンと社会的な価値生産を結びつけることが出来るのになあ、と。

で、ここまで考えて、例えばどんなビジネスだったら、こういったかたちでドーパミンを対価として払うクラウドソーシングが成立するかなあと考えていて、ハッと気づいたのが、オイオイもう既にそれを思いっきり活用しているビジネスがあるじゃあないか、ということでした。

そう、フェースブックやツイッターを始めとしたソーシャルメディアです。

彼らは一般に新興メディア企業と考えられていますが、実際にはギリシア時代から存在したアテンションエコノミーに依拠するめちゃくちゃ伝統的なタイプのメディア企業です。アテンションエコノミー、つまり集めた目玉の数×時間がそのまま事業価値に直結するメディア企業ということです。ちなみにグーグルはこのモデルとは異なっていて彼らの事業価値の時系列推移は集めた目玉の数×時間の積の推移とまったく相関していません。

ということで、旧来型のアテンションエコノミーに依拠しているソーシャルメディアでは、目玉の数を増やすために沢山の良質なコンテンツを集めることが必要になるわけですが、フェースブックもツイッターもこの業務をクラウドソーシング、つまり僕や皆さんによる書き込みによって調達しています。そしてその報酬は?もうおわかりですね。そう、書いた人の脳内に分泌されるドーパミンです。僕らはドーパミンというエサが欲しくて機長な時間を使いながら彼らのコンテンツを創るために時間を浪費しているわけです。

そう考えるとなんだかフェースブックやツイッターに書き込むのがアホくさくなってくるなあと、ここまで考えてお店に丁度到着したのでした。

ずいぶんワインをいただきましたが忘れないでよかった。
神楽坂のラターシュ、とても美味しく、お値段も手頃でいい店です。
http://tabelog.com/tokyo/A1309/A130905/13040986/


Monday, August 5, 2013

無批判という「悪」


ナチスドイツによるユダヤ人虐殺計画において、六百万人を「処理」するための効率的なシステムの構築と運営に主導的な役割を果たしたアドルフ・アイヒマンは、1960年、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを非合法的にイスラエルの秘密警察によって拿捕され、イェルサレムで裁判を受け、処刑されます。

このとき、連行されたアイヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。
それは彼があまりにも「普通の人」だったからです。

アイヒマンを連行したモサドのスパイは、アイヒマンについて「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマンの戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は一番上の写真に見られる様な、小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったのです。

しかし裁判は、この「気の弱そうな人物」が犯した罪の数々を明らかにしていきます。

この裁判を傍聴していた哲学者のハンナ・アーレントは、その模様を本にまとめています。この本、主題はそのまんま「イェルサレムのアイヒマン」となっていてわかりやすいのですが、問題はその副題です。アーレントは、この本の副題に「悪の陳腐さについての報告」とつけているんですよね。

 

「悪の陳腐さ」。。。。。

奇妙な言い回しですよね。通常、「悪」というのは「善」に対置される概念で、両者はともに正規分布でいう最大値と最小値に該当する「端っこ」に位置づけられます。しかし、アーレントはここで「陳腐」という言葉を用いています。「陳腐」というのは、つまり「ありふれていてつまらない」ということですから、正規分布の概念をあてはめればこれは最頻値ということになり、我々が一般的に考える「悪」の位置づけとは大きく異なります。

アーレントがここで意図しているのは、われわれが「悪」についてもつ「普通ではない、なにか特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。アーレントは、アイヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪や欧州大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして、この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめています。曰く、

「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。

そしてアーレントは、「陳腐」という言葉を用いて、この「システムを無批判に受け入れるという悪」は、我々の誰もが犯すことになってもおかしくないのだ、という警鐘を鳴らしています。別の言い方をすれば、通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図すること無く受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかも知れない、と指摘しているわけです。

僕らは、もちろん所与のシステムに則って日常生活を営んでおり、その中で仕事をしたり遊んだり思考したりしているわけですが、僕らのうちのどれだけが、システムの持つ危険性について批判的な態度を持てているか、少なくとも少し距離をおいてシステムそのものを眺めるということをしているかと考えると、これははなはだ心もとない。

自分も含め、多くの人は、現行のシステムがもたらす悪弊に思いを至らすよりも、システムのルールを見抜いてその中で「うまくやる」ことをつい考えてしまうからです。しかし、過去の歴史を振り返ってみれば、その時代その時代に支配的だったシステムがより良いシステムにリプレースされることで世界はより進化してきたという側面もあるわけで、現在僕らが乗っかっているシステムも、いずれはより良いシステムにリプレースさせられるべきなのかも知れません。ちょっとヘーゲルっぽい考え方で僕はあまりこういう思考の仕方は好きじゃあないんですが、仮にその様にそう考えると、究極的には世の中には次の二つの生き方があると言えるのかも知れません。
  1. 現行のシステムを所与のものとして、その中でいかに「うまくやるか」について、思考も行動も集中させる、という生き方
  2. 現行のシステムを所与のものとせず、そのシステム自体を良きものに変えて行くことに、思考も行動も集中させる、という生き方
そして残念ながら、多くの人は上記の1を生き方に選択しているように思うのですよね。書店のビジネス書のコーナーを眺めてみればわかりやすい。ベストセラーと呼ばれる書籍はすべてもう嫌らしいくらいに上記の1の論点に沿って書かれたものでしょう?

こういったベストセラーはだいたい、現行のシステムのなかで「うまくやって大金を稼いだ人」によって書かれているため、これを読んだ人が同様の思考様式や行動様式を採用することでシステムそのものは自己増殖/自己強化を果たしていくことになります。

でもねえ、ちょっと待って、と。

本当にそういうシステムが継続的に維持されることはいいことなんだろうか?と考えるべきじゃないかと思うんですよね。これはイノベーションの促進という側面にも関わってくると思うのですが、システムというのはどっかで破綻させることで超回復して強さを増していくわけですから、こんなことやっていたらものすごく脆弱になってしまうんじゃないかと思うんですけどね。個人的には、いまの日本社会/日本企業の弱さは、上記1の戦略をとる個人や組織が多くなりすぎていて偶有性が下がりすぎていることにあると思っています。

システムにうまく乗っている限り、その中でどんなことをやっていてもいいんだ、というのは典型的にエリートに見られる考え方ですが、僕はこのアイデアに与しません。むしろ逆を選びたいんですよね。システムの中では反逆児でいたいし、であるがゆえに自分なりの価値観と道徳に沿った生き方を選びたいな、と。実際にそう出来ているかどうかはともかく、ね。

すいません、ほとんど独り言になってしまいましたね。










Wednesday, July 31, 2013

松任谷由実さんの「ひこうき雲」の楽曲分析

以前にこのブログでユーミンの「ひこうき雲」を取りあげたのは二年以上前のことでしたが、ここ一ヶ月くらいで急激にビューが増えていて「なにごとか!?」と思ったら、宮崎駿さんの新作映画で主題歌として使われてたんですね。なる。

http://artsandscience-kipling.blogspot.jp/2011/01/blog-post_07.html

僕がこの曲を始めて聴いたのは小学校高学年の時でしたが、その時に周りの景色が一瞬で凍結する様な不思議な感覚を抱いたことをいまでもよく覚えています。樹の枝が風にしなる様とかね。もの凄いショックというか、感動を通り越した不思議な感覚だったんですよね。こういうのを感じさせられたのは他にビートルズの「レットイットビー」とかジョニ・ミッチェルの「ボースサイズナウ」とか、本当に生涯で数曲しかありません。

まあそれはともかくとして、この「ひこうき雲」、ほんとうにロックとかクラシックとかジャズとかいったジャンルを超えて、これほどの名曲というのはちょっと他にないだろうと思うくらいの傑作だと僕は思っています。

で、そのエッセンスは「切なさ」にあるのではないか、と。

これほどまでに壮絶な「切なさ」を人に感じさせる音楽ってちょっと他にないんじゃないかなあ。少なくとも僕はちょっと思いつきません。切ない曲っていうと、

例えばプロコルハルムの「ソルティドッグ」とか、
Procol Harum  -A Salty Dog-


あるいはジュディコリンズの「アルバトロス」とか、
Judy Collins -Albatoros-


こうやって聞いてみるといい線いってるんだけど、やっぱり比べるとぜんぜん及んでいないよなあ。

で、2年前のブログと重複する部分もあるのですが、あらためてこの曲「ひこうき雲」について、楽曲分析してみたいと思います。

この曲、調はE♭メジャー(変ホ長調)になります(二年前のポストではFメジャーと書いていますが間違いですね。。。すいません)。イントロのアルペッジオも素直にE♭の分散和音から入ってCm7→E♭→Cm7ときて、ここからボーカルが「白い〜」と入ります。

前半は比較的素直ですよね。「しろい〜」から「あの子〜をつつむ〜」までの最初のメロディは

E♭→E♭/D→Gm→A♭→A♭/G→Fm→B♭→B♭/A♭→Gm→A♭→B♭7

という流れです。半音でズルッと下がってポンッと上がるという特徴的なベースの動きを繰り返してB♭7のドミナントで半終止になります。ちょっとプロコルハルムの「青い影」に似てますよね。

で、この進行を「だーれも〜気付かず〜」から「舞い上がある〜」までは繰り返します。
ここからがサビに移るのですが、

「空に〜あこがれって〜」のところは

E♭→Gm7→Cm

となっています。これを機能和声の表記法で書けばⅠ→Ⅲ→Ⅵとなり、T→D→Tの偽終止ということになります。そんなに珍しいものではないですよね。特にユーミンはマイナーコードを使った終止が好きみたいで「恋人がサンタクロース」でも「リフレインが叫んでいる」でもこのタイプの終止を使っています。

で、問題になるのが次の「空を〜かけってゆく〜」のところです。ここ

Gm→B♭m→A♭

という進行なんですが、これ、もの凄く自然に響くのに和声的にどういう構造になっているのか、いまひとつ僕にはよくわからないんですよね。なんでこんな奇妙な進行でここまで奇麗に鳴るのか、まったくわからない。でも本当にパワーありますよね。人からの慰めを振り切るようにして空に登っていく「あの子」の強さが、この「かけってゆく〜」の和音と声に込められているのを感じる。

この後、「あの子の〜命は〜ひこうき雲〜」のところは、

Gm7→A♭M7→B♭7sus4→B♭7

となっていて、ここはまあわかりやすい。Ⅲ→Ⅳ→Ⅴの流れで典型的な半終止ですね。キーがE♭ですからB♭7はドミナントになり、「腰を下ろして小休止する」感覚をここでつくっています。直前がとてもエモーショナルに高ぶる箇所なのでここで少しクールダウンする感じがありますよね。

この後、いわゆるAメロを繰り返して、ふたたび、先ほど「ぜんぜんわかんねえ」と指摘したサビのところに来るわけですが、ユーミンはここでもまた技を繰り出していて、よく聴くとこれ、二回目は微妙にコードを変えてるんですよね。

サビの最初の二小節、「空に〜あこがれて〜」のところのコードは変わらず

E♭→Gm7→Cm

なんですが、その後の「空を〜かけってゆく〜」のところ、ボーカルはここでひときわ高音に振れるんですが、ここの部分のコードは

Gm→Fm7/B♭→A♭M7

となっているんですよね。ちなみに再掲すると一回目は、

Gm→B♭m→A♭

ですから、まあ微妙な違いと言えば微妙なんですが、実際に楽器でならしてみるとかなり色彩感に違いがあることがわかるはずです。

あああこれ、いま弾いてみて気付いたんだけど、要するに調性があいまいになってるんだな。E♭メジャー(変ホ長調)で始まった曲で、どこかで明確に転調しているわけではないんですが、サビの途中から調が浮遊していてA♭メジャー(変イ長調)とのあいだで調性の境目がどっちつかずになってる。

だからサビの最後のコードのA♭は、A♭メジャー(変イ長調)の全終止と考えた方がいいのかも知れません。実際に二つ目のB♭mのコードを、A♭メジャー(変イ長調)のドミナントであるFm/E♭に変えてみると奇麗に鳴るんじゃないかなあ?ああうん、確かにこっちの方がいいかも、というくらい奇麗に鳴りますねってブログ読んでいる人には全然伝わらないですね、すいません。これ、調性をあいまいにするためにわざわざB♭mを使ってるんだなあ、スゴい。

一方、サビの二回目については、真ん中の和音のルートは同じB♭ですが、わざわざFm7/B♭に変えていて、で弾くと明らかに単なるB♭mよりも「突き抜け感」が増すことがわかります。本当に微妙な差なんですけどね。

このサビのあと「あの子の〜いのちは〜ひこうき雲〜」の部分は、

Gm7→A♭M7→A♭/B♭→A♭→B♭m→A♭→B♭m

という進行で終わります。やっぱりそうなんですね。E♭メジャー(変イ長調)で始まった曲ですけど、終わりはA♭なんで、調性が浮遊したまんま終わっちゃうんですね(西洋音楽では基本的に楽曲の最初の和音と最後の和音は同じ和音になります。皆さん、小学校の教科書をもう一回読み直してね♡)。まるで空をふわふわと登っていく様な、そういう浮遊感を生み出したかったんでしょうね。

あとね、最後に指摘すると、この曲、メロディで使っている音とコードの構成音がぜんぜんダブってないんですよね。

例えばサビのところの「空を〜かけってゆく〜」のところなんて、コードが

Gm→B♭m

なのに、メロディは「ミファソ〜ソドシソミ〜」となっていて全然合ってないんです。普通こういうことやるとものすごく不協和に聞こえるはずなんですが、この曲の場合、このメロディならこの和音しかあり得ない、という完璧なフィット感があるんですよねえ。

本当に、つくづくすごい才能だと感服します。
ああ、すっげえ疲れた。

Sunday, July 21, 2013

どうして視覚化すると「わかる」のか?

いま、秋口の出版を目指して「知的生産の技術」というテーマで本を書いています。出版社の人からは「なぜ、○ッキンゼー流では成果が出ないのか?」という副題をつけましょう!と言われていますが、どうなんでしょう、大丈夫なのかな。

まあそれはともかく、その本の中で強調しているのが、知的生産に必要なブレインパワーには4タイプあるという点です。その4つとはすなわち
            1. 論理力
            2. 創造力
            3. 分析力
            4. 統合力

です。この四つのブレインパワーは1と2、3と4がそれぞれ対になる構造になっていて、無理矢理テキストで表現すれば

                  分析力
                   ↑
               論理力←+→創造力
                   ↓
                  統合力

ということになります。

で、これら四つのブレインパワーは、どれかに偏ることなくバランスよく高めることが必要なわけですが、一読しておわかり頂ける通り、ここ十年ほどビジネス界では1と3が大流行りで、最近では論理思考を子供に教えようなどという愚かな営みに手を染める大バカものまで出てきてる次第なわけですが、出版社の方がいみじくも指摘した通り、多くの人は1と3だけではどうもうまく成果が出せないということに気付きつつあるようです。

実はこれは当たり前のことで、僕はこの点についていろいろなところで書いたり話したりしていますが、論理と分析というのは正しくやれば誰がやっても同じ答えに至るわけですから差別化にはまったく貢献しないんですね。せいぜい規定演技で及第点をとれる程度のパフォーマンスにしかならない。ということでカギになるのは、その人らしいユニークな知的成果=自由演技を支えるための「2:統合力」と「4:創造力」ということなのですが、今回は一つこの「統合力」を高めるためのコツについて述べたいと思います。

統合力というのはつまり、集められた断片的な情報や論考を、グワッとまとめて「要するに」とか「つまり」を紡ぎだす能力ということですが、この時、とにかく考えたことや集まった事実を紙に書き出してみて並べてみる、というのが重要なポイントになってきます。

理由は後述しますが、アタマの中だけで一次情報の組み合わせを検討して示唆を出そうとしてもどうしても限界があるのです。紙に書き出してそれを並べてみることで、思わぬ情報の組み合わせから示唆や矛盾が見えてくることがあります。

わかりやすい例を一つ挙げましょうか。

昭和40年代生まれの人には笹川良一が出演していた日本船舶振興会のCMを覚えているでしょう。このCM、業界用語で言うところの15CMの「二階建て」(15CMを二つ連続で流す方式)だったのですが、一つ目のCMでは「世界は一家、人類みな兄弟!」と訴えており、二つ目では「戸締り用心、火の用心!」と訴えているんですよね。

で、こう書くともう皆さんおわかりでしょうけど、この二つのメッセージは矛盾しているわけですね。世界が一家なら戸締りの必要はない。ということで、この二つの情報を視覚化して並べてみると「笹川良一という人は平気な顔して矛盾することをいう人だな」という示唆が得られることになります。

しかし、多くの人はCMを見ていてその矛盾に気付かない。どうして気付かないかというと「音声」で二つの矛盾するメッセージを聴いているからです。音声で聴いているというのはつまり時間軸で順番に情報を処理しているということです。

一方、文字にして二つを並べてみてみるというのは視覚をもちいて空間軸で同時に情報を処理しているということになります。そしてここがポイントなのですが、人間は情報を処理する際に、音声=時間軸と視覚=空間軸で脳の違う部分を使っているんですね。時間軸にそって一度処理した情報でも、空間軸にそって思考してみると違う絵が浮かび上がってくる。

余談ですが、この両者を最もドラマチックに組み合わせているのがギリシア悲劇だ、と指摘したのがニーチェでした。時間軸を代表する芸術形式は音楽や戯曲であり、空間軸を代表する芸術形式は絵画や彫刻です。ニーチェは、前者を情動や混沌=ディオニュソス的なもの、後者を理性や秩序=アポロ的なものとして対立させ、この両者の融合こそがギリシア悲劇の本質だと28歳の若さで指摘したわけです。どういうブレインパワーなんだよ。

ということで(ってぜんぜんまとまっていないですが。。。)、耳で聴いて知っている情報でも、一度視覚化してみることで新たな示唆や発見が得られるのだということ、そしてそれが統合力を支える基本的なスキルなのだというお話でした。

Friday, July 5, 2013

「嫌われること」を恐れてはいけない

最近、メキメキと頭角を現しつつある友人の何人かから立て続けに「いわれのない誹謗中傷を受ける」という相談を聞かされました。

で、自分の経験も含めて、その都度「ああ、それは大抜擢が近い、ということだよ」と回答して元気づける様にしています。

なぜなら僕は、多くの才能ある人が一頭抜けるタイミングで絡めとられてしまう、この「嫌われたくない」という心理的なブレーキこそが、日本でなかなかリーダーシップが根付かない最大の原因だと考えているからです。

ここ数年、いろいろな角度からリーダーシップを考察しているのですが、リーダーシップは「嫌われる」ことと表裏一体の関係にあります。

例えば、リーダーシップ開発のワークショップで「過去の歴史から、素晴らしいリーダーシップを発揮したとあなたが思う人を挙げて下さい」とお願いすると、まず間違いなく下記の人物が含まれることになります。

                ジョン・F・ケネディ
                エイブラハム・リンカーン
                マーチン・ルーサー・キングJr
                マハトマ・ガンジー
                チェ・ゲバラ 
                坂本龍馬

こうして並べてみると、なるほど確かに「変革を主導した志士」として、いずれ劣らぬピッカピカのリーダーシップを発揮したという点で勿論共通しているのですが、一方で別の共通項があることにも、すぐに気付きますね。

そう、全員暗殺されているんです。

つまり「殺したいほど憎い」と多くの人に思われていたということです。過去の歴史において最高レベルのリーダーシップを発揮して世界の変革を主導した人物の多くが、暗殺によってその生命を絶たれているという事実は、我々に「リーダーシップというのは、崇敬とか愛着とか共感といったポジティブな感情だけではなく、必然的に軽蔑とか嫌悪とか拒否といったネガティブな感情とも対にならざるを得ないものなのだ」ということを教えてくれます。このブログの前回のポストでは「作用と反作用」と題して、何か極端なものがあるときは、その背後に逆側に極端なものが存在している、とたまたま指摘していますが、リーダーシップについてもそれは同様だということです。書いてて思い出したんですが、そういえばイエスもそうですよね。

つまり、リーダーになるということ、リーダーシップを発揮するということは、それが高いレベルのものであればあるほど、軽蔑や拒否や嫌悪といったネガティブな感情と向き合わざるを得ない、ということです。

そして、この「ネガティブな感情を認める」という点にこそ、日本におけるリーダーシップ開発のボトルネックがあると僕は思ってるんですよね。「嫌われること」を避けるために、どれくらいの人が、自分の思いやビジョンを封印して可能性を毀損してしまっているかを考えると残念でならない。

幕末の変革を幕府側から主導した勝海舟は次の様に述べています。

なに、誰を味方にしようなどというから、間違うのだ。みんな、敵がいい。敵がないと、事が出来ぬ。国家というのは、みんながわいわい反対して、それでいいのだ。
勝海舟「海舟座談」より

つまり「敵がいないリーダー」なんていうのは有り得ない、ということです。変革には必ず既得権や既成概念の破壊を伴うから、過去のシステムによって利益を享受していた人を敵に回すことになる。つまり「嫌われること」を恐れていたら変革を主導するリーダーなんかには絶対になれない、ということです。

あなたがもし、自分が正しいと思うこと、あるいは間違っていると思っていることがあるのであれば、「嫌われるかもしれない」という心のブレーキをかけずに、どうかそれを口に出して言ってほしいと思います。実際に世界は、多くの人がそうすることで、少しずつ進歩してきたのですから。

ということで長くなりましたが、メキメキと頭角を現しつつある中、言われのない誹謗中傷ややっかみに鬱陶しい思いをしている友人諸氏よ、「突き進め、そのまま!」というのが僕からのエールです。







Tuesday, July 2, 2013

作用と反作用

先日、何度も観ているロンドンオリンピックの開会式をふたたび見返していたのですが、メリーポピンズが空から降りてくる、あの大好きなシーンを観ていて「ハッ」と考えたことを備忘録がわりに。

ここ数年、友人の影響でずいぶん多くのファンタジーを観たり読んだりしているのですが、大人の鑑賞にも堪えられる様な良質なファンタジー、それは例えばメリーポピンズ、ピーターパン、不思議の国のアリス、魔法使いハウルと火の悪魔、ガリバー旅行記、ナルニア国物語、そしてハリーポッターといった作品を並べてみると、実は全て英国産であることに気付きます。

ここでハタと「どうしてイギリスは良質なファンタジーを生み出し続けられるんだろうか」と考え込んでしまったんですよね。で、いま時点での答えは(いわゆる仮説ってやつですね。。。)、「リアリズムがあまりに透徹しているから」というものです。

先日のポストではサンダーバードをとりあげ、イギリスというのは、子供に対しても「情報の重要性」を教え込む様な世知辛い側面がある、という指摘をしましたが、イギリスでファンタジーが異常に発達したのは、この異常に発達した「リアリズム=現実主義」の裏返しなのかもしれない、ということです。

ある一方側に目盛りが極端に振れているというとき、カウンターバランスとして働く別の目盛りが背後に潜んでいるのではないか。

そう考えてみると例えば中国の儒教もそうですよね。科挙の試験に合格するには儒教、つまり孔子・孟子を勉強しなければならないわけですが、合格した後は韓非子、孫子、呉子を勉強させられます。つまり受かる前は「正義とは」「正しいこととは」という建前の勉強をして、受かった後は「世の中はどうやったら動くか」「人間/国家を支配するにはどうしたらいいか」という本音の勉強をさせられるわけです。

韓非子なんて読むと絶句しますよね。正確な引用ではないですけど「あなたを一番殺したがっているのは誰かわかるか?それはあなたの妻だ。あなたを殺して息子を王にすれば、隠然と権力が振るえるし、老いたという理由で放逐されることもない。年取って醜くなれば必ず捨てられると思っているのが女なのだから、彼女はそうされる前にあなたを殺すだろう。あなたは彼女に殺される前に殺さなくてはならない」といったことが平気で書いてある。まあマキャベリズムですよね。

儒教というのは、なんというか、半端な教えですよね。権力や戦略を扱う韓非子や孫氏という「実学」に支えられてフリルのように存在しているという側面がある。儒教は「支配のための学問」ではなく「支配を正当化するための学問」だと言われますが、中国で儒教の伝統が根強いということは、裏を返せばマキャベリズムが異常に発達している、ということでもあります。

これと裏表の関係にあるのがルネサンス期のイタリアですよね。マキャベリズムというのは、文字通りマキャベリが説いた非常に現実的な帝王学ですが、あの時期にあれだけ世知辛い論考が出されたというのは、当時のフィレンツェの権力者があまりに理想主義的で、政治と宗教/道徳を分離せずに扱っていたために戦争や権力闘争にからっきし弱かったという事態の裏返しという側面があります。

これを組織論の枠組みに考えてみると、ある会社で非常に厳格なルールや制度が運用されているということを聞くと、僕らは単純に「へええ、しっかりした会社だな」と思ってしまいがちですが、その様なルールが必要であったということは、逆に言えば業務や社風そのものに本質的にルースな側面があったということの証左でもあります。

これは、前著「天職は寝て待て」にも書いたことですけど、電通の行動規範とされている「鬼十則」は「仕事は自ら創るべきで人から与えられるべきでない」という一条から始まり、他にも極めて攻撃的/能動的な行動規範がこれでもかと綴られていて、読んだ人は「ひえええ、めっちゃアグレッシブやなあ」と思うのですが、実はここにも作用反作用の法則が働いていて、これはつまり電通というのは本来とても「受け身」な会社なのかも知れない、ということです。だから、顧客から言われることのない「自身のビジネスモデルの転換」については、喫緊の課題になっているにも関わらず全く対処できていないでしょう?

何か、極端に目盛りが振れている事象があった場合、その逆側に振れた目盛りもその背後に潜んでいるのではないか、と考えるといろいろと広がりが見えてくる様に思います。

Thursday, June 27, 2013

「金を払って学ぶ」VS「金をもらって学ぶ」


いま、出版社から依頼されている書籍の執筆を三本かかえているのですが、先日やっとこさ「イノベーションと組織」に関する本をほぼ脱稿し、いまは「知的生産」に関する本にフォーカスをシフトしつつあります。ちなみに残り一本はまったく手つかずになってます(すいません、○イヤモンドさん・・・)。

で、これらの本を執筆する過程でしみじみと考えたことがあって、それは「お金」と「学び」の関係です。

一言でいえば
        1. 「お金を払って学ぶ=学校」
        2. 「タダで学ぶ=独学」
        3. 「お金をもらって学ぶ=仕事を通じての学習」
の三つを比べてみた時、一般に「学び」となるとすぐに「1」が意識されがちで、確かに重要な契機になるとは思うのですが、本当にその人の人生に対してインパクトを与えるのは、やっぱり「2」であり「3」なんじゃないか、ということです。

僕の友人知人には学校関係者もいるし、大金を払って海外の大学院に通った人も多いのでこう書くと不愉快に思われるかも知れないんだけど、過去のイノベーションの事例、あるいは学習心理学や脳科学の知見、なにより自分の経験を照らし合わせてみると、どうもそう言わざるを得ないんじゃないかと思うんですよね。

イノベーションの本を執筆する過程で、さまざまな文献、あるいやインタビューでたびたび接したのが「独学」の有効性に関する言及です。過去の多くのイノベーションが交差領域で発生していることはよく知られていますが、この「交差的イノベーション」を起こす人材の特徴として「独学者であること」を挙げたのはポール・マイダーでした。

彼は「ある分野や学問について自分なりのやり方で学ぶことによって、その分野において通常とは異なる観点からアプローチできる可能性が増す」と指摘しています。確かに、こういった事例は枚挙に暇がありません。

例えば、おそらく人類史上もっとも偉大な発明家であるトーマス・エジソンはご存知の通り高等教育を受けていませんでした。彼は、分野を問わずに自分が興味を惹かれた本を手当たり次第に読み、二十歳をこえるころには科学や電気に関する主要な論文や文献をほぼ読破し、そこから得た知識をもとにして実験を行って数々の発明をものにしています[1]。

[1]:但し、であるからこそエジソンの科学知識はとても危ういものでもありました。彼は交流と直流の違いを生涯理解できず、ライバルであるウェスチングハウスが交流を採用したのを知って「奴らはどうやって電気の向きを変えているの?」と周りのスタッフに尋ねて仰天させています。でもそれでいい、つまりイノベーションを起こすのに交流と直流の原理的な違いを理解している必要はない、ということです。余談ですが、米国で電気椅子という奇怪な死刑方法が定着したのは、ウェスチングハウスを潰そうと考えて交流の危険性を世の中に知らしめようとしたエジソンのロビー活動によります。なんというか、まあ敵に回したくない人ですよね。このへんの過程はみすず書房の「処刑電流」につぶさに書かれていて本当に面白いですよ。


あるいはスティーブ・ジョブズもそうですよね。彼が大学を中退していることは有名ですが、エジソンと同様にやはり興味の赴くままに様々な読書や勉強を重ねてきたことが知られています。初代マックの発売時、アップルは有名な「人間の知性にとっての自転車のようなものをつくりたい」というステートメントを打ち出していますが、このステートメントについて、ジョブズは「サイエンティフィック・アメリカンの自転車に関する記事にインスピレーションを得た」と述べています。新興PCメーカーの創業者と科学雑誌というのは意外な取り合わせですが、モグリで受けたカリグラフィの授業のエピソードといい、ジョブズの「広範囲に渡る好奇心」を感じさせるエピソードですよね。

あとはダーウィンかなあ。進化論を提唱して科学の歴史に変曲点をあたえた人物ですが、ダーウィンの学校時代の成績は平均以下のものでした(これはアインシュタインも同じですよね)。彼は学校で教科書を読むより、イングランドの田舎で植物を実際に眺めたり、権威ある学者のもとを訪れて直接議論することに多くの時間を費やしたので、そりゃ成績は上がらないだろうと。ただ結局はその積み重ねが彼の革命的なアイデアに結実したわけで、端的にダーウィンは「思うに私は、価値のあるものはすべて独学で学んだと思う」と述べています。

イノベーションを起こす人材の共通項が「独学者」であることが指摘されているさ中に、一方で「イノベーションを教える学校」に「イノベーションの起こし方」を学びにせっせと通う人がいるというのは、なんとういうか、滑稽ですよね。イノベーションを学校で習おうと考えてる時点ですでにイノベーションに向いてないよ君は、という・・・学校なんて行かずにサッサとやりゃあいいじゃん、と思うんだけど。

次に取り上げたいのが、脳科学や学習心理学の知見です。僕はこの領域については専門ではないので、あくまで十数冊の本を読んで得た知識限り、つまり独学の範囲でということですが、大きく今の学校システムには二つの問題があるみたいなんですよね。

まず、そもそも学校で習ったコンテンツはすぐに忘れるという問題があります。研究にもよりますが、半年から一年後にはだいたい90%以上の内容が忘却されてしまう、ということで研究結果は収斂しているようです。これは多くの方の実感値とも符合するんじゃないでしょうか?なんで忘れるかというと、差し迫ったニーズがないままに知識を得ているからです。レオナルド・ダ・ヴィンチは「必要がないのに学ぶのは、食欲がないのに食うのと同じでカラダに悪いべ」と指摘してますけど、まあそういうことです。ニーズもないのにフォアグラのガチョウの様に知識を詰め込まれているわけで、考えてもみれば忘れて当たり前なんですよね。

で、二つ目の問題が、いまの教育システムが全般に創造性を毀損する枠組みで設計されているということです。脳科学者で「ブレインルール」の著者であるジョン・メディナは「人から創造性を奪いたいと考えれば、いまの大学・大学院の様なシステムの場所に送り込めばいい」と述べています。たしかに先述した偉大なイノベーターの多くは学校に通っていないか中退していますよね。彼らは、よく「学校を出ていないのに」という「But」の文脈で成功を語られますけど、もしかしたらそれは「学校を出ていないからこそ」という「Therefore」の文脈で語られなければならないのかも知れません。

そういえば、これは東大航空学科の加藤寛一郎先生に聞いた話ですけど、高卒と大卒が混じっている自衛隊の戦闘機パイロットのうち、エースパイロットになるのは「殆どが高卒」なんだそうです。「大卒のパイロットは大成しません」というのが加藤先生のコメントで、これは世界的に共通する傾向だというんですよね。でもこの話、成功したアントレプレナーの多くが大学をドロップアウトしているという話と、何かが通底しているように感じませんか?

ということで、最後は自分の経験から、これはとても単純に、僕がいまコンサルティングや講演や執筆というかたちで行っている知的生産のベースになっているストックの殆どは、仕事と独学を通じて形成されたものだという強い実感があるからです。率直にいって大学/大学院で学んだ知識はなんの役にも立っていません。

まあ僕の場合、専攻がビジネスとは何の関係もない「美術史」だったということもあるのかも知れないけど、じゃあこれが経営学になればなにか変わるのかとなると、どうなんだろうなあ。マッキンゼーの採用担当だった伊賀さんは、ご著書「採用基準」の中で「トップクラスのMBAでも授業内容はごく初歩的なもので実務には使えず、高額の授業料をまったく合理化できない」といった趣旨の指摘をしていますから、まあ状況はあまり変わらないのかも知れません。

ということで、クオリティの高い知的生産を行おうとすれば継続的な学習が必須であることは当然なんだけど、その際「では学校で」と考えるのも勿論いいんだけど、まずは「業務経験を通じて良い学びを得る」、あるいは日常生活のなかで「独学で良い学びを得る」ということを意識した方がいいんじゃないのかなあ、ということです。


Friday, June 21, 2013

「よいビジョン」の三要件


最近、あるきっかけがあって「よいビジョン」について考えています。で、考えに煮詰まった時にいつもそうするように、今回も寝っ転がりながら歴史書とか哲学書とかをパラパラとめくって考えを宇宙に飛ばしていたのですが、なにか見えてきたような気がするので共有しておこうかな、と。

なにが見えてきたかというと、

過去の歴史において多くの人を巻き込んで牽引することに成功したビジョンを並べてみると、どうも三つの共通する要素があるんじゃないか、ということです。

その三要素とは「Where」「Why」「How」です。

順に説明していきましょう。

  • Where」を提示する
共感できるビジョンに必要な三要素の一つが「Where」になります。「Where」とはつまり、「ここではないどこか」ということですね。これを明示的に見せることで「そこに行ってみたい」という共感を醸成することが、まずは必要になるということです。

これは以前のポストにも書いたことですが、リーダーというのは「ここ」から「ここではないどこか」へとフォロワーを引っ張っていく役割を担っています。で、ここがポイントなのですが、フォロワーを引っ張る際に「権限」に頼らず「共感」で動かすためには、「ここではないどこか」を、皮膚感覚に訴えるように提示して「自分たちもそこに行きたい」と思わせる必要があります。

この点について、あらためて「お手本だよなあ、これは」と思うのが公民権運動の指導者だったキング牧師の演説です。

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”I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood."

”私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢です。”
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ううむ。こうやって読み返してみると、キング牧師がいかに「ここではないどこか」を感覚的に描き出す事に意識的であったか感じて頂けるのではないでしょうか?

でですね。翻って考えてみると日本企業のビジョンはこの点に関連して大きく二つの過ちを犯している様に思うんです。

一つは、過度に抽象的なビジョンを設定してしまう、という過ちです。

典型的には「○○の技術をフルに活用し、もって社会と取引先の発展に貢献する」といった様なビジョンですね。確かに、書かれていることそのものは絶対善といえるような内容で反論の余地がありません。ただ、ビジョンの要件である「共感」をこの文言からは喚起できないと思うのです。

なぜ?

抽象的過ぎるからです。ビジョンというのはつまり、明示化された「ここではないどこか」ということですが、余りに抽象的なビジョンを打ち出してしまうと「ここではないどこか」と「ここ」の違いが明確化できません。「ここではないどこか」と「ここ」の違いがよくわからない、ということであれば、では「ここ」からわざわざ苦労して動くことないじゃないかと、まあ普通の人は思いますよね。

じゃあということで、もっと具体的なビジョンを掲げようと思いっきり逆側に目盛を振ると、今度は二つ目の過ちを犯すことになります。

それは過度に定量化されたビジョンを設定してしまうというケースですね。具体的には「○○年までに、売上高××を達成する」とか「○○年までに、海外売上高××%を達成する」といったものです。しかしながら、やはりこのステートメントにも共感はできません。

なぜ?

人間は数字に共感できないからです。じっと手を胸にあてて考えてみて欲しい(©テリー伊藤)。もし、先ほどのキング牧師の演説が「わたしの目標値としては上級管理職に就いている黒人の比率を現在の5%か17%へ、また、現在8%と低迷している大学進学率を20%へと上げることを目標に善処したいと考えております」といった内容のものであったとすれば、彼の演説が世界を変ええたでしょうか。

フォロワーを共感してリードするためには、まず視覚に訴えかける様にヴィヴィッドな「Where」が必要になります。

  • 共感出来る「Why」を示す
よいビジョンに求められる次の要件が、共感出来る「Why」です。「ここではないどこか=Where」が示せたとして、わざわざ今いる「ここ」から「ここではないどこか」に移動するには、その移動を合理化するための納得出来る理由が必要です。

なぜ?

殆どすべての人は、長くいればいるほど「ここ」に対して様々な愛着やノスタルジーを覚えるようになるからです。愛着のある「ここ」を捨てて、わざわざ未知の荒野に踏み出して「ここではないどこか」を目指すためには、どうしても強く共感出来る「理由」が必要になります。

しかし、現在の日本において、この要件を満たすビジョンを打ち出せている企業は僕が知る限り殆どないのではないでしょうか。

共感出来る理由を示されないまま、組織内の権力に基づいて無理強いの行軍を強いられている、というのが今の日本企業で働く人々の状況ではないかと。先述した通り、日本企業の多くは具体的な「Where」の明示もしていませんから、これはつまり行き先不透明な場所へ向かって、その理由も告げられないまま、泥沼の中を無理に行軍させられている様なもんです。

グローバル化の推進、企業価値の拡大、顧客提供価値の拡大、売り上げの成長、そしてイノベーションの実現。多くの企業において「ビジョン」として掲げられているこれらの標題について、では「Why=なんのために?」と問われて共感出来る「回答」を提示出来るリーダーがどれほどいるのでしょうか?

人間が陥るニヒリズムについて徹底的に考え抜いた歴史上最初の人物は恐らくニーチェでした。ニーチェは、その著書「意思の力」の中で、人間がニヒリズムに陥るのはまさにこの「なんのために?」という問いに対して答えを持てなくなったときだと指摘しています。そして、今現在の日本企業で働く多くの人が陥っているのもこのニヒリズムなのです。

高度経済成長からバブル期にかけては、組織のリーダーが、この「なんのために?」という問いに対して答える必要はありませんでした。

なぜ?

社会的に共有されたコンセンサスとして「豊かになって幸せになるために」という回答が共有されていたからです。売り上げを伸ばす、コストを下げる、辛い接待に耐える、遅くまで残業で働く、環境を汚染しても生産を優先する、家族を犠牲にしてもモーレツに働く。

なぜ?

だって「豊かになるため」に、だって「幸せになるため」に。

しかし、2013年現在の日本に生きる我々は「経済的豊かさ」と「幸福」が必ずしも相関しないという哀しい真実を既に知ってしまっています。この様な時代において「豊かになること」を「Why」に設定しても、その組織に属する人々のニヒリズムを解消することはできません。

組織のリーダーには、経済的成長以外の目的で「Why=なぜこのままではいけないのか?」という理由を提示することが求められます。

  • 納得出来る「How」を示す
よいビジョンに求められる三つ目の要件が、ではどのようにしてそれを実現するのかの基本方針=「How」です。どこに行くのか?=「Where」、なぜ行くのか?=「Why」を示すだけでは、ビジョンの実現に向けた行動は駆動されません。なぜなら、人間は実現に対して懐疑的な営みには共感できないからです。詳細な実行計画ではなくとも、少なくとも「こうやったら確かにうまく行きそうだ」というパースペクティブがあって初めてエネルギーと生まれることになります。

ところが、この点についても日本企業の多くは、ビジョン(らしきもの)を出すだけ出して実現方法の考察は現場におまかせ、という状況のように思います。

するとどうなるか?先述した通り、多くの企業で打ち出されているビジョンは「過度に抽象的なもの」か「過度に定量的なもの」のどちらかですから、前者のケースであれば、結局何をすればいいのかわからないということになって変化は起きず、後者であれば、売上やシェアの増分だけ余計に働けというメッセージなのね、と受け取られることになります。

ビジョンを実現させるということが「ここではないどこか」に向かうという営みである以上、必然的に組織の構成員は、量と質の両面で「今までとは違う行動」が求められることになります。つまり、ビジョンの実現は最終的には必ず何らかの行動の変化が伴うわけですが、では何をどのように変えていくのかという指針が与えられなければ、彼らは最初の一方を踏み出すことが出来ません。この「最初の一歩」を踏み出すための大きな方向性を規定するのが、ではどのようにして=「How」なのです。

  • よいビジョンの例
これまで、よいビジョンとは共感出来るものであること、共感を形成するためには「Where」「Why」「How」の三つの要素が必要であることを説明してきました。実際に多くの人の心を捉え、行動を変え、結果的に歴史を動かすことになったプロジェクトや組織のビジョンの実例から、上記の三要素の打ち出され方について確認してみましょう。

まずは、ケネディが1961年に打ち出したアポロ計画です。アポロ計画において、ケネディは主にスピーチという形をとって様々な関係者に対して継続的に下記の様なコミュニケーションを行っています。

Where   
1960年代中に人類を月に立たせる

Why     
現在の人類が挑戦しうるミッションの中で最も困難なものであり、であるが故にこの計画の遂行によって米国および人類にとっての新しい知識と発展が得られる

How     
民間/政府を問わず、領域横断的に米国の科学技術と頭脳を総動員して最高レベルの人材、機材、体制をととのえる

アポロ計画は、ビジョンそのものが移動にまつわるものであるため「Where」はそのまま「月」という場所で示されています。後の要素についてもパイオニアスピリットを刺激しつつも極めて簡潔にポイントを押さえていますね。ちなみに米国民に向けてこの計画を最初に発表した際、多くのNASA職員は宇宙計画の縮小を覚悟していたと言われています。その様な状況下で、このスピーチを初めて聞いた時の彼らの驚きと興奮を是非想像してみて下さい。

歴史を振り返ってみれば、大きく社会を動かすことになったムーブメントというのは、明示的か非明示的かを問わず、上記の枠組みにそって人を共感させる理由をはらんでいるように思うんですよね。例えば、中世において度々実施された十字軍は、騎士や諸侯だけでなく民衆まで熱狂させましたが、この営みのビジョンについては下記の様に整理出来るかなあ、と。

Where   
聖都エルサレムを異教徒の手から奪回する

Why     
我々の神がそれを望んでおられる

How     
神の免罪を与えることで最も勇敢な騎士を集め、遠征させる

中世から近世まで、この「Why=神がそれを望んでいる」はいろいろな社会的なムーブメントにおいて「Why」を形成するために都合良く使われていますよね。十字軍は結果的に各地でさんざっぱら極悪非道な所行を繰り返していくので、関係者が本当にこの様な理想を胸に秘めていたかどうかは疑わしいのですが、少なくとも「人集め」の段階では、参加を募る側にも参加する側にも上記の様な合理化が働いていました。


さて、現代に目を転じて、この構造は同様にイノベーティブな民間企業においても観察される構造だといえます。例えばグーグルのビジョンを分析してみましょう。グーグルは時期やメディアによって様々なビジョンやミッションステートメントを出していますが、それらを総合してみると下記の様なメッセージになるかと思います。

Where   
世界中の情報を整理し、誰もがアクセスできるようにする

Why     
情報の格差は民主主義を危うくするものであり、根絶させられなければならない

How     
世界中から最高度の頭脳をもつユニークなタレントを集め、コンピューターとWEBの力を最大限に活用する

なんとも壮大な「Where」ですよね。また「Why」も極めて米国的な「絶対善」の概念に根ざしていてわかりやすく、「How」も具体的です。グーグルのマーケティングや採用活動は極めてユニークなことで知られていますが、このシンプルな「Where」「Why」「How」と個別の企業活動がちゃんとアライン出来ているという点からも、このビジョンが極めて組織成員に対して共感され、浸透していることが伺われます。


最後にお約束ですがアップルを見てみましょうか。アップルも、グーグルと同様に時期やメディアによって様々なビジョンやミッションステートメントを出していて、明示的に「これ」といったかたちでまとめるのは難しいのですが、ここはやや恣意的に僕の好きなコメントをまとめて整理すると下記のようにまとめられるかなあと思います。

Where   
人類の知性にとって自転車になるような道具をつくり、それを普通の人々に提供する

Why     
知は自由にする

How     
テクノロジーとリベラルアートの交差点をレバレッジする

スティーブ・ジョブズが上記の「Where」を打ち出したのは初代マッキントッシュの発表時でしたから(現在でもYoutubeで動画を確認出来ます)、かれこれ30年が経過しているわけですが、いまだに「人を共感させる」という側面で色褪せていませんよね。なぜ色褪せていないかというと普遍的な価値観をそこに含んでいるからです。

二足歩行する人間の移動効率は他の動物と比べてそれほど高いものではありません。しかし、この人間が自転車に乗るとその移動効率はコンドルやチーターばかりか航空機や自動車をも凌ぐことになり、地球上でもっとも効率のよい移動物体になります。あれほどシンプルで安価な、つまりだれでも手に入れることが出来る機械を得るだけで、人間は飛躍的に「ここではないどこか」へ移動する能力を向上させることが可能になるのです。

そしてスティーブ・ジョブズは、コンピュータを、人間の知性にとって同様のことを可能にするものにしたいと考え、それをすべての人に提供しようと企んだわけです。しみじみと、これは本当に人を奮い立たせる様な革命的な「Where」だよなあと思われるのです。

ということで、「よいビジョンの三要件」でした。


Thursday, June 20, 2013

サンダーバードからみえてくる「情報の国、英国」


友人の多くは既にご存知のことと思いますが、サンダーバードのテーマが死ぬほど好きです。

で、先日もいい具合に酔っぱらって、どれどれと思ってもう何十回と観たあの映像、つまりカウントダウンに合わせてサンダーバード五号から一号までを順番に紹介するあのイントロを、あらためてYoutubeで眺めていたのですが、そこでハタと気付くところがあってこのメモを書いています。


気付いたことというのは、サンダーバード五号の存在意義についてです。これ、劇中の映像をよく見てみると「SPACE MONITOR」と書いてあるんですよね。つまり、サンダーバード=国際救助隊の活動を支援するために宇宙から地球上のさまざまな活動やデータをモニターして、それを救助隊に連絡するという情報サービス機能を担っているんですよね。

でですね、子供向け番組に登場する主役級メカの、五台のうちの一台が情報サービスを担うスペースモニターであるということを知って、やっぱりイギリスというのは「情報」に対する感性が日本と違うのかも知れないなあ、と考えこんでしまったんですよね(注:よく誤解されていますがサンダーバードは米国ではなく英国のテレビ番組です!)。

この違いは、おそらく両国にとっての「外交の重さ」の違いから出てるんじゃないかと思うんですよね。

中世以来、イギリスは常に、フランスやスペインといった欧州の大国に怯えながら、針の穴を通す様な緻密で戦略的な外交によって生きながらえてきた、という側面があります。ものすごく単純化して言えば、イギリスというのは常にフランスとスペインという大国間の微妙なパワーバランスの拮抗によって延命してきた国ですよね。従って、どちらかが優勢になると必ずイギリスは弱者側について「ビミョ~」に支援し、パワーバランスの回復を図る様に動いています。

典型的には次の様な事例ですね。

1567年、欧州随一の猛将と謳われたアルバ公に率いられたスペイン陸軍の精鋭五万人がイギリスの対岸ネーデルランド(いわゆる低地地方)に進駐しました。これはもちろんイギリスにとって大きな脅威ですが、イギリスが低地に直接進出してこれを撃退することは国力的に無理があります。当時の国力を考えれば、これが出来るのはまあフランスぐらいしかないわけですが、フランスは当時ユグノー戦争(カトリック対プロテスタントの宗教内線)の真っ最中で、それどころじゃありません。

イギリスとしては、フランスを支援して内戦を一日も早く終わらせ、フランスをプロテスタント国家に仕立てなおした上でスペインに対抗させるというアイデアもありえたのですが、皮肉なことにイギリスにとって宗教的に支援しやすいプロテスタント勢力(ユグノー派)は、一貫して低地地方進出への野心を示しており、これはこれでどうも油断がならないし、そもそも国力の大きいフランスがスペインに代わって低地に居座るようなことになれば、イギリスにとってはより大きい脅威となります。

ということで、結果的にイギリスは下記のような「ビミョ~」な対策を打ちます。
1:スペイン王との個人的な関係(フェリペはエリザベスに惚れてた)を利用した撤退の説得
2:オランダのレジスタンスに対する秘密裏の支援(資金及び武器の提供)
3:海賊へ支援し、駐留スペイン軍への補給を妨害
4:それらしい「噂」を流して金融市場でスペインの信用を傷つけ、軍事資金調達を妨害

なんというか、ほかに言い様がないのですが、やっぱりものすごく「ビミョ〜」ですよね。イギリスの外交政策は、中世から近代にかけていろいろな原則からの逸脱や例外を含んでいますが、一点だけ「低地が軍事大国によって支配されることを許さない」という点については通底しています。

その原則を守るためにこそ、ギリッギリまで耐えながらも最終的にはフェリペ二世のスペインと、あるいはルイ十四世やナポレオンのフランス軍とも戦い、1914年にはドイツによるベルギー侵入を契機に第一次世界大戦への参戦を決めています。これは地政学の問題ですが、要するに「低地」がバッファとして空白地帯になっていることがイギリスにとっての安全保障だったということです。

ということなので、いくら同盟を結んだからといってフランスと共同してスペインと戦うなどというのはエリザベスにとっては悪夢でしかありません。フランスかスペイン、どちらか一方に急激にパワーバランスが傾くことは、そのままイギリスにとっての「死」を意味したからです。前述した通りですが、イギリスの生存要件の基本は、フランスとスペインという隣接する二つの超大国がつねに勢力を均衡させ、緩衝地帯でベクトルが打ち消しあってゼロになっている、という点にかかっていたからです。

つまりイギリスという国は「軍事力」よりも「外交力」によってこそ生き残ってきた国だということです。そして、この様な「精妙な外交力」を支えたのが、英国が保有する高度な「情報サービス機能」でした。英国の情報サービス機能の最大のポイントは、必ず外交官組織とは別系統の情報組織を作って情報をダブルチェックする体制を確保してきた、という点にあります。この基本方針は、現実に外交政策を立案する立場にあるパワーエリートは自己の政策的立場に有利になる様に情報をねじ曲げる傾向がある、という過去からの反省に基づいています。

内閣が直接に情報を取得するために設立されたのが英国情報局、つまりジェームズ・ボンドが勤務している MI6だって知っていました?やってはいけないよと諭すのではなく、人間とはそういうものだ、というシニカルな諦めの上にダブルチェックする体制を整えるというところがいかにも英国らしいですよね。

こういう「民族的な学び」を、子供向けの番組にもちゃんと反映させて、一種の啓蒙活動を行っているということに空恐ろしさを感じるんですよね。だって、子供たちが集まってサンダーバードごっこやったら、五人のうちの一人は「モニタリング=情報収集」の役になるんですよ!

ちなみにサンダーバードには、五号以外にも、人的ネットワークを使って様々な情報を集めてくるレディペネロープという諜報員も準主役キャラとして出てくるのでした。



ロンドン・エージェントだって。恐るべし英国。


Tuesday, June 11, 2013

ベンチャーキャピタルの衰退とアメリカの自浄作用

先日手元に届いたHarvard Business Reviewをパラパラとめくっていたら、興味深い記事を見つけ、いろいろと思うところがあったので備忘録代りに書いておきます。

記事の内容を一言で言えば、米国のベンチャーキャピタル(以下VC)がライフサイクルカーブでいう衰退期に入りつつある、というものです。曰く、

After peaking in the late 1990s, the number of active VC firms fell from 744 to 526 in the decade 2001–2011, and the amount of venture capital raised was just under $19 billion in 2011, down from $39 billion in 2001, according to the National Venture Capital Association.

まあ2001年といえばネットバブルの最盛期だったので、基準点の取り方の問題もあるのかもしれませんが、とはいえ10年で規模が半分以下になっているというのはかなりショッキングな数字ですよね。で、この数値を聞くと、スタートアップ企業への資金供給が難しくなっているのかなあ、と思われるわけですが、どうも事態は逆らしいんですよね。この記事によると、

But less venture capital doesn’t mean less start-up capital. Non-VC sources of financing are growing rapidly and giving entrepreneurs many more choices than in the past. Angel investors—affluent individuals who invest smaller amounts of capital at an earlier stage than VCs do—fund more than 16 times as many companies as VCs do, and their share is growing.

だったり、

Another new source of start-up investment is crowdfunding, whereby entrepreneurs raise small amounts of capital from large numbers of people in exchange for nonequity rewards such as products from the newly funded company.

だというわけです。

加えて、投資規模と並ぶKPIである運用についても状況は厳しいらしく、公表されている範囲内でも9割の VCの運用成績は株式市場の平均パフォーマンスを下回っていて、結果、

Industry's persistent underperfomance is finally causing institutional investors to think twice before investing in venture capital.

だというのですね。

ううむ。

で、ここまで読んで、VCの人にはとても申し訳ないんですけど、これはこれでいいことなのかも知れないなあ、と思ったんですよね。

もともと僕のVCに対する態度は微妙で、功罪が相半ばするよなあ、というものです。この場合、功は「スタートアップに資金供給を行うことで産業の新陳代謝を促す」というもので、一方の罪は「金持ちが金をエサにして情報を集め、その情報をもとに更に金持ちになることで格差を拡大している」というものです。

言ってみれば、生理的に嫌いだけどまあ仕方ないよな、というもので一種の「必要悪」だと思って諦めていたんですね。

ところが、この記事を読む限り、産業の新陳代謝を促す「功」の部分は急速に他の資金調達手段に代替されている。しかも、ここが重要なポイントなんですけど、その代替を担っているのがエンジェルやクラウドファンディングだということで、これはつまり「分散化」が進行しているということなんですよね。資金調達源が分散化するということは情報も分散化するということですから、これは情報の独占による富裕層の拡大再生産というメカニズムの破壊にも寄与することになるんじゃないかと思うんです。

一方、こういうことになると功罪相半ばしていたVCの存在の罪の部分だけが相対的にクローズアップされることになるわけで、今後はいろいろな側面で厳しい局面を迎えることになるのかも知れません。実際に同記事はかなり断定的に、

VCs will continue to play a significant, but most likely smaller, role in channeling capital to disruptive start-ups.

と結んでいます。

ということで、ここまでが記事内容の紹介なんですが、最後に、この記事を読んで少し考えたことを共有しておこうと思います。僕は、もしこの記事の結びに書かれた様なファンディングの多様化が起こるのであれば、それはもしかしたらアメリカという国が本当の意味で自浄作用を持っていることの証拠なのかも知れないと考えています。

かつてのポルトガルやスペイン、イギリス等の経済大国が衰退していく歴史的メカニズムを研究し、その大きな要因の一つを「富裕層の固定化である」と指摘したのは経済学者のキンドルバーガーでした。



彼は、それら「かつての経済大国」の勃興と衰退を精査し、その衰退要因の一つを「金持ちが社会システムを活用して金持ちを再生産する様になり、結果社会全体のバイタリティが低下した」ためだと指摘しています(ただし、例えば歴史家のトインビーはまったく違う要因を指摘してます)。そして、今現在のアメリカは、ジニ係数(=OECD諸国内で四位)や相対貧困率(=OECD諸国内で一位)等の各種の経済指標を見る限り、かつてのポルトガルやスペインと同じ様な「富裕層の固定化」という局面を迎えつつある可能性があります(厳密には格差と固定化は別の問題ですが)。

こういった「決定的な時期」に、政府というリバイアサンに頼ることなく富の再分配あるいは流動化を促すような社会的な変化が起きてきているということは、この国の自浄システムが非常に健全に機能しているということの証左なのかも知れないなあと、思うんですよね。もしそうなのだとすれば、これは本当にスゴいことだと、奇妙に興奮しています。








Monday, June 10, 2013

「現代のベートーヴェン」を聴きたいという心性


今日の午後、母校の経営大学院で「アートと経営学」というテーマで講演してきました。で、講演後にいただいた、個人的にはショッキングな質問について帰路ずっと考えるところがあって、ぜんぜん答えは出ていないのですが、その考察のプロセスをシェアしようかな、と。

どっから始めようかな。。。。

固有名詞を出すといささか刺があるので差し控えたいと思いますが、「現代のベートーヴェン」と言われる作曲家が、最近話題になっていますよね。

以前からその方の作品については一応知ってはいるのですが、個人的な評価については、うーん、なんというか、まあ保留とさせて下さい。僕に歴史的な審判を下す様な審美眼があるとは思えないし、時間というのは便利なもので恐らくあと10年も経たないうちに歴史が勝手に答えを出してくれると思うのでそれを待てばいいと思います。

ただ、最近ちょっと面倒くさいなと思う様になったのは、そういう曖昧な態度をとっている僕のことを「クラシック音楽に詳しい人」と誤解して、講演会やワークショップの後で、評価を求める人が多くなってきた、ということです。曰く「聴いてみたいんですけど、先生はどう思いますか?」と。大学院が美学美術史学専攻だからって専門はキュレーションだし、そもそもこの講演の主題は「イノベーションの起こし方」で全然関係ないはずなんですけど。。。

なんというか、聴いてみればエクリチュールも旋律の作り方も、確かにああなるほどベートーヴェンに似ているかも知れないなあと思うのですが、ただね「現代のベートーヴェン」と言われる作曲家に興味を抱くあなたは、ではまず、どれだけオリジナルのベートーヴェンの曲を知っているんですか?と聴くと、まあ想像通りの答えしか帰ってこないわけですね。せいぜい交響曲の数曲と、有名どころのピアノソナタだけしか聴いたことがないという、まあそういう状況なわけです。

でね、本当に、心の底から不思議だなあと思うんですよね。

ベートーヴェンは生涯で130余りの曲を残していますが、そのうちの片手で数えられるくらいの曲しか知らない人が、「現代のベートーヴェン」とマスコミで吹聴される人の曲を新たに聴いてみようかと思う心性が、すいませんそう思って居る人には本当に申し訳ないのですが、全く理解出来なくて、であればまずは当のベートーヴェンの曲をもっと聴いてみたらどうですか?と思うんです。だって歴史のヤスリにかけられて残っている以上、あっちの方がヒューリスティックに考えてクオリティが高いのは明白でしょう?

と、ここまで書いちゃってますが、メンと向かっては、まあそうは言わないで「ああ面白いかも知れませんね、いいんじゃないですか?」と適当にごまかしてます。

考えてみれば、「現代のベートーヴェン」と同様の構造をもつ「~の○○」というメタファーって、確かに沢山ありますよね。例えば南米のパリ=ブエノスアイレス、田園都市線の学習院=森村学院、森のキャビア=とんぶり、東洋のマイアミビーチ=藤沢市南部海岸(笑)等。

これらの構造を列挙した上で、そこに成り立っている関係性をここに解説する勇気を僕は持ちません。ただ指摘しておきたいのは「現代のベートーヴェン」という言い方が、ここに列挙した構造と同じものになっているんじゃないかなあ、という「感想」は確かにもっています。感想なので人それぞれということで、まあ反論は勘弁して下さい。

ということで、結論はないんですが「現代のベートーヴェン」と言われて、そういう音楽を聴きたがる人の心性が本当に不思議だなあ、だったら最初から古典にいった方が効率も喜びも高まるはずなのになあという気持ちと、これを知っているのはごく一部だけで、だからこそ情報格差が維持できているのかもなあ、と思う気持ちの両方が、焼酎に解けていく初夏の夜なのでした。






Tuesday, June 4, 2013

イノベーションにおける「意思決定2.0」の可能性

最近いろいろな場所でイノベーションに関する講演をやってて、その都度、イノベーションに関する意思決定は、杓子定規なルールや手続きに則るのではなく、リーダーによる「全人格的」な直観によって行われるべきだ、という話をしているんですが、将来的には、この「リーダーの直観」に変わる新しい意思決定のあり様が可能になるかもしれないよなあ、とぼんやり考えています。

それは、組織成員全員による集合的な意思決定の仕組みの可能性です。

こう書くと、おいおい例えばピッグス湾事件等の「集団浅慮」の問題を知らないのか?と思われる方もいらっしゃるかも知れません。確かに、一般に同質性の高いエリートが集まると「おバカな意思決定」をやってしまうという傾向があることは数多くの実証例で明らかにされていて否めませんよね。しかし、次の事例を読めば集合的な知性がもつ潜在的な力を認めざるを得ないのではないでしょうか?

19685月、アメリカ海軍所属の原子力潜水艦スコーピオンは、地中海で実施されていた軍事演習を終えてニューポートニューズへの母港へ帰る途中、1968521日夕方の定時連絡を最後に、消息を絶ちました。ノーフォークへの入港予定日は527日でしたがスコーピオンは同日になっても姿を見せず、アメリカ海軍はスコーピオンの遭難を発表するとともに捜索を開始しました。

さて、捜索する以上、まずは沈没場所を特定しなければいけないわけですが、これが悩ましい。というのも、海軍は、最後に報告をした際のスコーピオンの位置については把握していたものの、実際に沈没するまでにどれだけの距離を進んだかについてはまったく手がかりをもっていなかったのです。結局のところ、深さ数千メートルの海底を、30キロ四方に渡ってあたりをつけて捜索するという、途方にくれそうな捜索活動を開始します。

この捜索活動を推進するに当たって、捜索活動の指揮をとった元海軍士官のジョン・クレーブンは、確率論を応用した手法によって沈没位置を特定するというアプローチを採用しました。クレーブンは、スコーピオンに起こった可能性のある出来事を反映させたシナリオをいくつか作成し、数学者、潜水艦の専門家、海難救助隊などいろいろな分野の知識をもった人たちを集め、こうした専門家で意見交換を行った上で、「一つの結論を出してもらう」代わりに、各人にそれぞれのシナリオの蓋然性を個別に判断してもらいました。

クレーブンは、参加者の関心を引き付けるために「かたちだけでも」ということで賞品にシーバス・リーガルのボトルを用意し、参加者はスコーピオンにどんなトラブルが発生し、その結果、どのようにして沈降し、海底に衝突したかについて予測し、それを賭けさせました。こうして集まった断片的な予測を、クレーブンはそれぞれベイズ確立を用いて重ね合わせていき、最も濃い点となるポイントを推測沈没地点としました。

賭けに参加したメンバーのなかで、クレーブンが最終的に算出した地点を選んだ者は誰も居ませんでした。これはつまり、最終的に描き出された推測沈没地点は、純粋に集合的なものであって、集団の中の「誰か」の予測に収斂したわけではない、ということです。

結果は果たして、この集合的な推測は極めて正確だったんですね。スコーピオンが消息をたってから五ヶ月後、圧壊した潜水艦が海底に確認されますが、これはクレーブンが作成した推測沈没地点とわずか200メートルしかずれていなかったのです。

このエピソードは、集団の意思決定がうまく機能すると、その集団の中にいる最も賢い人よりもクオリティの高い意思決定をすることが可能になる、ということをよく示しています。そしてこの集合的知性の持つ可能性が、企業に新しい意思決定のあり方をもたらしてくれるかも知れない、と僕は考えているんです。

「消息を絶った潜水艦の沈没位置を特定する」という絶望的に不確実性の高い問題には、論理思考等のアルゴリズミックな問題解決アプローチはまったく通用しません。そしてそれは「未来においてどのようなサービスや商品がイノベーションとして普及することになるのか?」という問いについても同じではないかと思うんです。この様な問いに対して論理思考を用いてロジカルに回答しようとするのは不毛を通り越して滑稽というべきで、だからこそクレーブンはきわめてヒューリスティックなアプローチを採用していますよね。

ここで注意しておくべきなのは、集団による意思決定がきちんと機能するケースとそうでないケースがある、ということを認識しておくことでしょう。クレーブンが用いた意思決定のプロセスでは、「賢い意思決定を行う集団」に見られる四つの特性である、「多様性(バックグラウンドの異なる人々の集まり)」、「独立性(他者の意見に左右されない)」、「分散性(自分なりに情報を取得する手段がある)」、「集約性(意見を一つにまとめるメカニズムの存在)」の全てが、きっちりと押さえられていることがわかります。

僕が、いまこのタイミングで集合的な意思決定の仕組みを、イノベーションの実現という文脈において注目するようになったのは、ITの進化によって、上記の四つの条件を満たしながら、大きな負荷をかけることなく組織成員が意思決定に参画する、ということが可能になってきたからです。ルソーは社会契約論の中で、国民の意思が選良による代理を経ずにそのままダイレクトに政治に反映される「一般意思」の概念について述べていますが、僕が考えているのはまさにこの「一般意思」の企業版(パワードバイIT)だということです


これまで「経営管理=マネジメント」の世界では、手足を動かす大勢の人と、意思決定を行うごく一部の人、という構造が100年以上に渡って所与のものとされてきており、世の中の殆どの人はそれが当たり前だと思っています。しかし僕は、近代社会が標榜する「自由と平等」という絶対善に対して、社会の中でもっとも大きな影響力をもっている組織である企業が、真っ向から対立するシステムによって駆動されていることについてかねがね非常な違和感を覚えているんですよね。ITを通じた集合的知性の可能性は、経営管理のこういった「旧式のあり方」を破壊し、会社や組織の新しいあり方を可能にすることで社会における真の「自由と平等」の実現に寄与してくれるかも知れないなあ、などと考えています。

Friday, May 24, 2013

経営科学と人文科学の谷間 報酬と創造性の関係

創造性をより高めるためには「アメ」と「ムチ」のどちらが有効なのか、という問題はギリシア時代から議論されてきたテーマといえます。この問題を考えるために、194050年代に心理学者のカール・ドンカーが提示した「ろうそく問題」を取り上げてみましょう。まず下図を見て下さい。「ろうそく問題」とは、テーブルの上にろうそくが垂れない様にろうそくを壁に着ける方法を考えてほしい、というものです。





この問題を与えられた成人の多くは、だいたい79分程度で、下図のアイデアに思い至ることになります。





つまり、画鋲を入れているトレーを「画鋲入れ」から「ろうそくの土台」へと転用するという着想を得ないと解けないということなのですが、この発想の転換がなかなか出来ないんですね。一度「用途」を規定しまうと、なかなか人はその認識から自由になれないということで、この傾向をドンカーは「機能認識の固着」と名付けました。

考えてみれば、例えばマジックインキなどは、ガラス製の瓶に入れられたフェルトに有色の揮発油がしみ込んでいるので、物性としてはアルコールランプとほとんど同じです。で、実際に暗闇ではこれを立派にランプとして使うことが可能なわけですが、なかなか普通の人にはそういう発想の転換が出来ない、ということをこの実験を通じてドンカーは証明しました。



で、この実験から17年を経て、ニューヨーク大学のグラックスバーグは、この「ろうそく問題」を、人間の若干異なる側面を明らかにするための実験に用い、そして興味深い結果を得ています。彼は、この問題を被験者に与える際、「早く解けた人には報酬を与える」と約束したんですね。すると何が起きたか?

この実験の結果、報酬を約束されたグループは、無報酬のグループよりも、アイデアを得るまでにずっと長い時間が必要になることが明らかになっています。1962年に行われた実験では、平均で34分ほど長くかかったという結果が出ています。つまり、報酬を与えることによって、創造的に問題を解決する能力は向上するどころか、むしろ低下してしまうということです。

実は教育心理学の世界では、この他数多くの実験から、報酬、とくに「予告された」報酬は人間の創造的な問題解決能力を著しく破壊することが分かっています。有名どころでは例えばデシ、コストナー、ライアンが行った研究でしょう。彼らは、それまでに行われてきた数多くの「報酬が学習に与える影響についての分析」についてのメタ分析を行い、報酬が活動の従事/遂行/結果のいずれに伴うものであるとしても、予告された報酬は、既に面白いと思って取り組んでいる活動に対しての内発的同機付けを低下させる、という結論を得ています。

デシの研究からは、報酬を約束された被験者のパフォーマンスは低下し、予想しうる精神面での損失を最小限に抑えようとしたり、あるいは出来高払いの発想で行動したりする様になることがわかっています。つまり、質の高いものを生み出すために出来るだけ努力しようということではなく、最も少ない努力で最も多くの報酬を得られるために何でもやるようになるわけです。加えて、選択の余地が与えられれば、そのタスクを遂行することで自分のスキルや知識を高められる様な挑戦や機会を与えてくれる課題ではなく、最も報酬が多くもらえる課題を選ぶようになります。

これらの実験結果は、通常ビジネスの世界で常識として行われている報酬政策が、意味がないどころかむしろ組織の創造性を低下させている可能性があることを示唆しています。つまり「アメ」は組織の創造性を高める上では意味がないどころか、むしろ害悪を及ぼしている、ということです。 

さてと。

報酬と学習の関係については未だに議論が収束しておらず、例えばアイゼンバーガーとキャメロンの様に「報酬が内発的動機付けを低下させるという警告の殆どは間違っている」と主張する論者もいるのですが、少なくとも「予告された報酬が内発的動機を低下させる」とするデシの論考については、70年代から続いた議論を経てほぼ結着がついていると考えてもらって構わないでしょう。

ところが不思議なことに、経営学の世界ではいまだに報酬が個人の創造性を高めるという立場を取る論者が少なくありません。例えばハーバード・ビジネス・スクールやロンドン・ビジネス・スクールで教鞭をとっていたゲイリー・ハメルは、イノベーションに関連する論文や著書の中でたびたび「桁外れの報酬」による効果について言及しているのですが、これがもう痛々しいほどにナイーブなんですよね。

「起業家は小物を狙ったりしない。彼らが狙うのは新興企業の株式である。革新的なビジネスと起業家のエネルギーこそ、革命の時代には頼りになる「資本」なのだ。アイデア資本家が、株主と同等の報酬を求めるのは当然だろう。彼らは、確かに短期間で大きな成功を狙うが、同時に自分の貢献に見合う報酬を要求するのだ。(中略)ビジネスで過去の延長としては考えられない斬新なイノベーションをなしとげたスタッフには、手厚く報いなければならない。斬新なイノベーションを実行すれば、会社がかならず手厚く報いることをスタッフに明確に知らしめる必要がある」

ゲイリー・ハメル「リーディング ザ レボリューション」p360より

ハメルが主張しているのは「予告された桁外れの報酬こそが創造性やエネルギーを引き出すのだ」というものですが、これはまさに学習心理学の世界で「もっともやってはいけないこと」として長いこと常識になっています。

報酬政策に関するこのようなコンセプトに関して、ハメルがたびたび「お手本」として取りあげていたのがエンロンでした。ハメルは、上述した同書においてこの様に書いています。曰く「年輪を重ねた革命家を生み出すためには、企業は報酬を、役職、肩書き、上下関係などから切り離して決めなければならない。実際にエンロンではそうしている。同社のなかにはアシスタントでも取締役を上回る収入を得ている者がいるのだ」(同書p364より)。

しかし、現在の我々は、エンロンや投資銀行で過去に起こったこと、あるいは多くのITベンチャーで今現在起こっていることが、まさにデシの指摘する「本当に価値あると思うことではなく、手っ取り早く莫大な報酬が得られる仕事を選ぶ様になる」という事態であることを知っています。エンロンがロケットの様に上昇する株価を謳歌していたのは2000年代の初頭で、ハメルによる上記の論考が出されたのも同時期のことです。しかし、既にその時点でデシを初めとした学習心理学者たちの報酬に関する研究結果は数十年来のあいだ公にされており、少なくとも「予告された報酬」が、様々な面でその報酬の対象となる人々の創造性や健全な動機を破壊することは常識となっていました。

こういったごく初歩的な人文科学あるいは社会科学領域における知見が、社会のあり様についてもっとも大きな影響力をもつ企業に対して発言力を有する経営科学の領域に活かされていないという事実には、残念という感慨を通り越して困惑させられます。ハメルが教鞭をとっていたハーバード・ビジネス・スクールやロンドン・ビジネス・スクールは高額の学費をとることで知られていますが、高い学費を払わされた挙げ句、他分野ではとっくのとうに誤りであることが明らかにされている知見を学ばされた学生はタマッたものではないでしょう。

人に創造性を発揮させようとした場合、アメ=報酬(特に予告されたストックオプションなどの報酬)は、効果がないどころではなく、むしろ人や組織の創造性を破壊してしまう、ということをおぼえておいた方がいいでしょう。

じゃあやっぱムチなの?ということになるわけですが、これについては次回で考察したいと思います。