交換から贈与へ

西欧において本格的に「贈与」の問題を取り上げた最初の人は文化人類学者のマルセル・モースです。モースはポリネシアを広く踏査して、彼らの経済活動が西欧的な「等価交換」ではなく「贈与」の感性によって駆動されていることを発見し、それを西欧社会に紹介しました。


しかし、考えてみれば、全ての仕事は本来「贈与」とそれに対する「お礼」の組み合わせによって成立していたはずであって、もしかしたら現代という時代の方が例外的なのかも知れません。

その様に考えてみると、いろいろな可能性が見えてきます。

今、殆どの人は、自分の能力や感性を会社に対して提供し、会社からその対価として給与をもらうという、一対一の等価交換の構図で経済活動を行っています。

僕らはこの「一対一の関係性」というものを所与として、仕事はそういうものだ、と疑いも持たずに考えているけれども、考えてみればこういう構造が普遍性を持つ様になったのはこのたった100年くらいのことです。

資本主義の台頭とともに株式会社という「富を創造するプラットフォーム」が形成された結果、労働力の取引コストを社会的に低めるために、この「一対一の関係性」が形成され、それは多くの人にとって疑い様のない「当たり前」となりました。

でも、ネットがこれだけ普及して、能力とニーズをヒモ付ける社会的なコストが劇的に下がった時代においては、この「一対一の関係性」は、なにか時代遅れなモノに感じられなます。

例えば、自分の能力や感性に希少性を感じてくれる人がいれば、その人たちに「贈与」し、いくばくかのお礼をもらうことで生きていけるかも知れない。この人にこれからもずっと音楽を作ってもらいたい、というファンを千人持てた音楽家は、そのファンから月に千円のカンパをもらうことで十分豊かに生きていけるでしょう。

そして、その「贈与」と「感謝」の関係性は、とても健全な充実感、自己効力感を贈与した人に与えてくれます。ついでに言えば、僕が依拠している経済学や経営学も、その学問の体系を根本から修正せざるを得ないことになるかも知れません。そう考えるととてもワクワクします。

そういう時代が、もうすぐそこまで来ていると思うのですよね。


デザインコンピテンシーが企業価値を左右する

先日、Takram Design Engineeringの新設なった表参道オフィスを訪れ、コラボレーションの機会について同社の田川社長とイロイロと議論させてもらったのですが、この議論が物凄く刺激的な内容でした。

http://www.takram.com/

主に議論のフォーカスになったのは「日本企業のデザインコンピテンシーを高める」という論点です。

以前から、特にモノ作りの世界においては、戦い方の基本戦略として「品質でいく」のか「コストでいく」のか、というのが大きな論点になってきました。

先日のポストで紹介したマイケル・ポーターの「競争優位の戦略」では、「差別化」と「コストリーダーシップ」という二軸で戦略オプションを提示していますが、かつての日本企業にとって「差別化」とは、ほぼ「品質」と同義でした。

ところが、ここに来て競争の新しい軸の重要性が増してきている様に思えるのです。

それが「デザイン」です。

「品質」か「コスト」か「デザイン」か。
この三つのどのポイントで戦うのか?というのが戦略上の重要な論点になってきています。

それぞれについて、日本企業のおかれている状況を考察してみましょう。

するとすぐに、まず「品質」で企業価値を高めることは難しい、ということがわかります。これは、クリスアンダーソンが「MAKER」で主張したことでもあるけれど、世界的にモジュラー化が進んで、誰でも部品さえ買ってきて組み立てれば一定レベルの品質が担保出来る世界においては、過剰な品質は価格プレミアムを正当化する材料になりません。今や品質は「それがなければダメだけど、あったからといって必ずしも買ってくれるわけではない」という競争軸になってしまっています。

次に「コスト」。この点については、海外生産を加速したり大量購入で部材を安くしたりといったことでグローバルな価格競争力を備えることに成功したユニクロの様なビジネスもあるけど、他の例えば自動車や家電、サービス産業に適用出来るとは思えません。ご存知の通り、労働賃金や為替の問題から、日本企業が中国や韓国や台湾のメーカーに伍して行くのは非常に難しいからです。

この様に考えて行くと、「品質」「コスト」「デザイン」という競争の三つの軸において、日本企業が今後、その企業価値を高めて行くに当たっては、実は「デザイン」というのが物凄く大きな論点になってくる、ということがわかります。

実際のところ、ここ10年で大きく企業価値を高めた企業の多くが、デザインという軸足での競争力、いわば企業の「デザインコンピテンシー」を高めています。例えばアップルは非常にわかりやすい例だし、サムスンも社内に3000人のデザイナーを抱えていることが知られています。

デザインコンピテンシーが企業業績を左右する、ということになった場合、企業のデザインコンピテンシーを高めるためには二つの方法がある、というTakramの田川社長の指摘が非常に面白い。

田川さん曰く、その一つが CEO(あるいは少なくとも意思決定者)がデザインの目利きになる、という考え方でその代表例がアップルだというのです。なるほど確かに。そう言われてみれば、かつてのソニーの盛田社長(ウォークマンの開発のイニシアチブをとった)もこのタイプに該当する知れません。

そしてもう一つの方法が、必ずしも自分のデザインコンピテンシーは高くないんだけど、デザインコンピテンシーの高い人を見抜いてその人に全て任せる、というやり方で、この代表例は佐藤可士和さんをクリエイティブディレクターに立てて、デザイン関連の全権を委任しているユニクロの柳井社長だ、とのこと。ううむ、なるほど。

一方で、デザインコンピテンシーの低い多くの日本企業では何が起こっているか?

デザインの目利きもないまま、製品開発やブランド開発にアレコレ注文をつけて、プロフェッショナルデザイナーの力量を引き出せず、逆に却ってスポイルしている管理職や経営者の、なんと多いことか。困ったことに、こういう人は得てして「自分はデザインセンスがある」と思っているからなお始末に悪いんですよね。。。。

どんなに機能的に優れていても、価格競争力があっても、グローバルな市場においてそれが必ずしも競争力に直結するわけではない、ということは、ここ10年携帯電話や多くの家電製品での日本企業の凋落ぶりを見れば明白で、だからこそデザインコンピテンシーが重要になるわけだけれども、今の多くの日本企業ではまだその認識にすら達していません。

ということで、組織開発を生業にする僕としては、これからことあるごとに「デザインコンピテンシーの重要性」を吹聴して回りながら、そのレベルを計測して高める方法論を考えて行きたいと思います。

「経営とデザイン」という観点から、お勧めの書籍を何冊か。

まずはこれ。原研哉さんの「デザインのデザイン」


デザインに関心にある人はもう既に読んでいる人が多いと思うし、このブログを読んでくれている知人の多くには「読め」といって勝手に送りつけていますね、すいません。同書において原さんは、デザインというものが経営や社会において、どのような意味を持っているのか?デザインがどのように社会を変える可能性を持っているのか?そして何より、なぜ日本のデザインはダメなのか?という点について考察を述べています。

この最後の問いに対する原さんの考察が非常に鋭い。曰く、

”センスの悪い国で精密なマーケティングをやればセンスの悪い商品が作られ、その国ではよく売れる。センスのいい国でマーケティングを行えば、センスのいい商品が作られ、その国ではよく売れる。商品の流通がグローバルにならなければこれで問題はないが、センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。しかしこの逆は起こらない。(中略)ここに大局を見るてがかりがあると僕は思う。つまり問題は、いかに精密にマーケティングを行うかということではない。その企業が対象としている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない”

示唆深いでしょう?広義で言うデザイン関連の書籍はざっと目録を確認する限り100冊以上読んでいるけれども、こと経営や社会システムへのインパクトという点では、本書の右に出るものはないと思います。

次は柏木博さんの「20世紀はどのようにデザインされたか」。


柏木さんは多摩美術大学で永らくデザイン史を教えていた先生です。彼は、同書においてデザインが「美」という特質を超えて、20世紀において「差異」を作り出すものになったと指摘しています。曰く

”大量生産が可能になった状況の中では、規格化されたデザインではなく、差異を明確に見せるデザインが市場から要望される。80年代にポストモダンと呼ばれたデザインは、そうした市場の要望に沿う物だった。例えば、ミラノのグループ・メンフィスやスタジオ・アルキミアに代表されるデザインである。それらのデザインは、機能や形態の意味を問題にするのではなく、差異的なメッセージを、まさに企業として次々に送りだすことのみを目的としていた”

世界において「デザイン」という概念の位置づけがどう変わってきたかを考えるには、とてもいい一冊。

最後は、これかなあ。


ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」です。大学で哲学専攻だった人は懐かしいでしょ?ボードリヤールは20世紀後半を生きたフランスの哲学者・思想家です。ポストモダンを代表する哲学者といって差し支えないでしょう。

簡単に言えば、ボードリヤールは同書において「他人と自分は違う、といことを周囲に誇示するための消費が経済を加速する」ということを主張しています。例えば、

"消費活動がその中に組み込まれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味付けとコミュニケーションの過程としての側面。この場合、消費は交換のシステムであって言語活動と同じである”

とか

”消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を超えてしまうのである”

とか

”充足は熱量やエネルギーとして、あるいは使用価値として計算すれば、たちまち飽和点に達してしまうに違いないからだ。ところが、今われわれの目の前にあるのは明らかにその反対の現象、消費の加速度的増加(中略)である。この現象は、欲求の充足に関する個人的論理を根本的に放棄して差異化の社会的論理に決定的重要性を与えない限り、説明できるものではない”

といった目から鱗が落ちまくる様な指摘が目白押しです。

それでは、また。


日本流リーダーシップの可能性


昨日、東洋経済新報社の編集者の方と食事をしていて出てきた「日本流リーダーシップ」の可能性について、少し考えてみたことを共有します。

  • リーダーシップにはなぜ訳語がないのか?
    • 為替、相場、市場、先物などの経済/金融の用語は江戸時代からすでにあったので、わざわざ外来語を使う必要がなかった
    • それに対して、リーダーシップという言葉には適切な訳語がなかった。これは例えば、他にもアートという言葉があって、芸術という日本語を当てたわけだが、これは従来から日本にあった言葉ではなく、明治期にアートという「概念」が輸入され、それに応じる形で当てられた一種の造語である
  • 日本にはなじまない?
    • リーダーシップに訳語がなかった、ということは二つの可能性を示唆しているのかも知れない
    • 一つは当然のことながら、リーダーシップに対応する概念がそもそもなかった、ということである
    • 19世紀に登場して「世界の見え方」をひっくり返してみせた言語学者のソシュールは、我々が世界を認識し、それに応じる形で言葉を生み出したという古来からあった考え方を否定し、言語と世界認識の関係はもっとダイナミックなものだということを明らかにした
    • 簡単に言えば、世界を認識して、その世界を記述するために言葉を生み出しているのではなく、言葉がもともとあって、言葉が世界を切る様にして世界を認識しているということだ
    • 日本人がリーダーシップという言葉を持たななかった、ということは我々が世界をどのように見てきたかを規定していて、あり体に言えば、日本にはリーダーシップは存在しなかった、ということが一つの可能性である
    • もう一つは全く逆で、リーダーシップが余りに空気のように普遍的な存在なので、それを切り取る言葉を持たなかったという可能性だが、こちらに与する人は直観的には少ないだろう
    • なぜ日本においてリーダーシップという概念が生まれなかったのだろうのか?理由はいろいろとあると思う。ステレオタイプの様に言われる農耕民族だから、という理由もそれはそれで確かに寄与しているだろうし、恐らく温暖な四季のある島国でずっと暮らしてきたことで「移動を必要としなかった」ということもあるだろう。移動はリーダーシップにおける一つのキーワードだ。いまここから、ここではないどこかへ移動するには必ず「起動し方向付けて動く」ことが必要になる。
  • リーダーシップのサンプルは聖書
    • その点から、欧米におけるリーダーシップ概念の形成に恐らく大きな影響を与えているのが聖書だろう
    • これは旧約聖書も新約聖書もそうだが、聖書の中には繰り返し「集団が危機的状態に陥り、それを救うためにリーダーが立ち上げって集団を率い危機を脱する」というモチーフの物語が登場する
    • 典型的には旧約聖書の出エジプト記やノアの方舟の伝説がそうだ
  • 危機意識とリーダーシップ
    • これらの話の特徴は、危機の到来に気付いているのはリーダー一人であって、集団の構成員はそれに気付いておらず、「今までの方がよかった」とぶーぶー文句を言っているのを、なだめすかしながら率いている、という点だ
    • こういった話を子供の頃から聞かされているということの一種の批評的効果はなかなか侮れないのではないか
    • 集団が危機的状況に陥る、あるいは陥る可能性がある時、これを救うために立ち上がるというのが欧米におけるリーダーシップの原型=アーキタイプなのだが、この描かれ方の構造が興味深い。
    • 例えばハリウッドのパニック映画は基本的に全て同じ構造で出来ている。ジョーズを取り上げてみるとわかりやすい。鮫に襲われる事故が起きる。警察官はこれを巨大な鮫の仕業だと考え、迫っている海開きを延期する様に市長に働きかける。海開きの延期によって地元民からの人気や税収が縮小することを恐れる市長はこれを受け入れない。そこで海開きを強行したところ、鮫に人が教われることになる。警察官は鮫退治の名人とともに巨大な鮫との対決に乗り出す、という話だ。
    • ここでのポイントは
      • 1=危機の到来に気付いた警察署長が自ら動いている
      • 2=本来コミュニティの安全を確保すべきリーダーであるはずの市長は、海開きを強行してしまう
    • という点である。
    • この「利発な現場が危機に気付いてリーダーシップを発揮」し、「本来リーダーであるはずの権威が、リーダーシップを発揮出来ない」という構図は、ダイハードなどハリウッド映画の中に繰り返し洗われる構造である。
  • 権威とリーダーシップ
    • こういった一連のハリウッド映画が繰り返し国民に向けて提起しているのは「権威は必ずしもリーダーではない。リーダーとは「問題意識を持って自ら動き出す人」のことである」という批評であり、もっと突き詰めて言えば「自ら動け、それがリーダーだ」というメッセージです。こういった批評的構造のシナリオ/世界観に子供の頃から彼らは接しているのだ。
    • ところがこの構造は日本ではまったく逆になる。例えば日本のパニック映画と言えばゴジラということになるが、ゴジラを退治する芹沢博士は政府筋から依頼を受けて出動するわけで、そこでは権威とリーダシップが密接につながっている構造が見られる。これは例えばウルトラマンなども同じだ。ウルトラマンでは、政府によって設立された科学特捜隊の隊員がそのままウルトラマンになって怪獣を倒す構造になっている。あるいは小松左京原作で映画化もされた「日本沈没」においては、大地震の到来を予言した物理学者と日本政府がタッグを組んで国民を救うことになる。ここでも権威とリーダーシップは屈折せずに一直線に繋がっている。「お上」はいつも正しく、パワーがあり、困ったときにはいつでも助けてくれる。
  • 責任のリーダーシップと権威のリーダーシップ
    • ここには「責任」と「権威」の混乱が見られる。
    • リーダーシップは権威によって生まれるものではない。それは責任によって生まれるものだ。
    • 日本企業の組織診断を行っていると「自分には権限がないので」ということをよく口にするリーダーが居るけれども、ではその人が権限を手に入れたら何かを始めるのだろうか?僕はそうは思わない。今日何かを自分の判断で動き出さない人は、明日、権力を手に入れたとしてもやはり動き出さないだろう。
    • 上述した様に、ハリウッド映画でリーダーシップを発揮することになる人(というか役柄)の多くは権限を手にしない組織の下層に位置する人たちだ。
  • リーダーシップの基本は=移動
    • 上述した様な聖書の話に共通する別の角度の因子として「移動」という点が上げられる
    • 聖書や多くの神話においてリーダーは常に移動を先導する存在として描かれる。「ここ」から「ここではない別の場所」へ。そしてその別の場所が、どこなのか、どのような場所なのかを知っているのはリーダーだけなのである。出エジプト記では、モーセはヤハウェから「乳と密の流れる地=カナンへ行け」と示され、ブーブー言うイスラエルの民を嫌々ながら率いていくことになる。途中で海とエジプト軍に挟まれた時など「お前のせいでヒドい目にあった。こんなことになるなら来るんじゃなかった」と言われ、リーダーシップが崩壊する状況も経験することになるわけだが、一貫しているのは常に「移動」の最中において様々な事件が発生して行くということである。
    • 「移動」という側面からリーダーシップを考えてみると、確かに農耕民族で「同じ場所に留まり続けること、土地に対する愛着を持つこと」が重要な日本人にとってはリーダーシップを発揮する、あるいは接する機会は少なかったかも知れない
    • 遊牧や狩猟では、「どちらに動くか」を毎回毎回意思決定しなければいけないのに対して、農耕ではむしろ、毎回毎回同じことをやる、つまりアルゴリズム=決められた手順をつつがなくしっかりと遣り切る行動が重要になってくる。
    • 同じところに留まって農耕を営むという社会には別の種類のリーダーシップが求められる。正常性バイアスが強くかかっている社会において斬新的な進化を促すためのリーダーシップというのはどのようなものなのだろうか?
  • リーダーはどう選ばれるのか?
    • 聖書では、リーダーは神によって決定される。因果応報や功徳や修行の量ではなく、神の好き嫌いによって勝手に決められてしまうのである。モーセなどは神からリーダーに指名されたわけだが、聖書を読む限り、30人抜きで次期社長に抜擢されてしまった最年少役員の様に困惑しているのがわかる。
    • リーダーは神の好き嫌いによって勝手に決められる。これは神学用語では予定説と言われる考え方である。能力でも人格でも前世での功徳でも寄付の大きさでもなく、神は「だってなんかあいつが好きなんだよ」という理由でリーダーを決めてしまうのである。
    • マックスウェーバーは予定説こそ資本主義を生み出した考え方の根本だ、と指摘しているけれども、このパラダイムはリーダーシップの認識にもとても大きな影響を与えることになると思う
    • 選ばれた人間と選ばれない人間がいる、それは努力とか人格とか才能とかではなく、とにかく「リーダーとして神に選ばれちゃう」のである
    • この思想を日本人は許さない。誰もが平等に機会を持っている筈だ、あるいは能力や努力に応じて公平にリーダーは決定されなければならない、という幻想を持っている。
    • これは正しいとか間違っているといった問題ではない。日本人は予定説や特性説を、生理的に嫌っているのだ。これは時間軸で考えみればあと500年くらいすれば慣れてしまうのかも知れないけど、数年でケリのつく話ではないだろう
    • 問題は、そういう生理をもった風土の中において、聖書的な世界観をベースにしたリーダーシップとは別の形でのリーダーシップというのを確立出来るのか、という点にかかってくる。
ということで、今回はここまで。答えの出ない問いではあるけれども、日本流のリーダーシップとはどのようなものなのか?という問いは、とても大事なものだと思うので、もうしばらく考えてみて、まとまる様なら本にしてみたいと思います。


では、また。

「でも」禁止令

最近、「でも」という言葉をものすごく安易に使う様になっていて、これは良くないよなあ、と感じています。

話し相手が何かを話し終えて、たとえその意見に同意して話を続ける時でも

「でもさあ」とか「でも〜」

と受けて話を続けてしまう。

でも(とまた使う)、「でも」という言葉は、「その通りだと思います」とか「いいえ、あなたの意見には同意出来ません」といった明確な態度の表明はせず、かといって完全には同意していないというとても微妙なニュアンスの言葉ですよね。

その分とても便利で、ありとあらゆる「受け」のシチュエーションで使える言葉であるが故に、(一時期、若い女の子が「かわいい」で世界を切りまくっていた様に)安易に「でも」で受け取って、勝手に自分の言いたいことを繋いでしまう。

だけど、そういう言葉に頼りきってしまうとコミュニケーションを行う際に精密に言葉を編んでいく能力が損なわれてしまうように思えるし、何より「でも〜」といって話を続けるよりも、「そうだね」とか「なるほど」とか「どうなのかな」とか「もしそうだとすれば」と言って会話を続ける方が、なんだか豊かな気がするでしょう?

村上春樹さんはとても美しく会話のシーンを描きますよね。で、改めて読み直してみると、やっぱり「でも」という言葉は、明確に、英語でいうところのBut...の意味でしか使われていないんですよね。

「わたしには彼女に会う理由がないような気がしたの。それはきっと私とはまるで別のものだから」
「でもそれは君自身だったかもしれない」
(世界の終わりとハードボイルドワンダーランド、p247)

ということで、後で文章に書き起こしたとしても美しくなるように話したいということで、今後は「でも」禁止令を自分に発令することにしました。

リーダーシップで一番大事なこと

リーダーシップの不在が嘆かれて久しいけど、皆、一番の基本は「自分を動かすリーダーシップ」であることを忘れていると思う。

体罰が常態化している学校で「これはおかしいと思う」と声を上げること、困っている人が居たら立ち止まって手を差し伸べること、許されないことをしていると思った組織からは逃れること、世界に耳を澄まし、目を凝らす。

基本になるのは「自分はこうありたい」という人物像の基本イメージ=スタイルを持つことだ。

そのスタイルにそぐわないことはしない、そぐわないことを強制する組織からは、それがどんなに金銭的に魅力があっても離れること、そうしていれば本質的な意味で「本当にヒドイ状態」にはなりようがない。

それがリーダーシップの基本だと思う。

自分をありたい姿にリードできない人が組織や社会をリードできるわけがない。