予想なんてやめとけって?

ジョン・フォン・ノイマンの名前は、もちろん知っているよね。コンピューターのパパだ。ちなみにこれが「パーソナルコンピューターのパパ」ということになると、おそらく一般的にはアラン・ケイ、あるいはスティーブ・ウォズニアックということになるのかな。あんなのはオレの子じゃないって!?おいおい、なんてこと言うんだと言いたいけど、いまの状況を見てれば気持ちはわかるよって、まあいいか。両者を知らないという人はおそらくこのブログの読者にはいないだろうと思うので判断は皆さんに任せてそのまま話を続けよう。

正式(とはいえカタカナだけど)にはジョン・フォン・ノイマンという名前の男には一つの夢があった。1954年当時、世界で最大最新のコンピューターを披露する席において、ノイマンは「コンピューターによって、近い将来に明日どころか一ヶ月先の天気さえも正確に予測できるようになるだろう」と語ったんだね。これが彼の夢だったらしい。ずいぶんくだらないことを夢見たものだなあと思うけど、まあ人それぞれだ。とまれ、世界で一番アタマがいいと言われる男のこの発言に世界は色めき立った。うおお、これからは、夏休みをいつ取ればいいかもコンピューターが教えてくれるらしい、と。

さて、それから半世紀以上がたち、コンピューターはムーアの法則に従って、おそらくノイマン自身も予測できなかったほどの天文学的な計算能力を持つに至った。ところがどうしたことか。コンピューターによる天気予報の能力は、ど根性ガエルのそれとどっこいどっこいの水準にいまだに留まっている。

一体何が問題なのか?数学的に言えば、答えはカオスということになる。そしてさらに、歴史の皮肉はこのカオスを指摘したのが数学者ではなく、気象学者だったということかもしれない。その人、エドワード・ローレンツはとても美しい方程式を導いて、僕らに「天気を当てるなんていうのは不可能なんだよね、やめとき」ということを証明してみせた。

http://en.wikipedia.org/wiki/Butterfly_effect

イノベーションは素人が起こす、というのは僕がつねづね言っていることだけど、これもその証左かも知れない。

天気と同じくらいにビジネスも関数が多いと思うんですけどね。天気予報とどれくらい精度が違うか、一度誰か試してみたらいいと思うんだけど。

本当に恐ろしいのは独裁者ではなく大衆という・・・

昨晩は自由が丘の「金田」でまた一人酒を楽しみながら読書をしてきた。読んでいたのはカーマイケルの『キリストはなぜ殺されたか』だったのだけれど、改めて、本当に恐ろしいのは独裁者ではなく、大衆であり、自分なのかもな、と思った次第。

これは聖書を読んでも、ナチス史を読んでみても同じなのだけれど、本当に残酷なのは独裁者ではなく、大衆なんだなということを思い知らされる。新約聖書福音書を読めば、連行されたイエスを尋問したピラトは、なんとかしてイエスを無罪放免しようとして交渉をに苦渋しているのが伝わってくる。

結局、ピラトの度重なる「この人に罪を見いだせないが、本当にいいのか?」という問いかけに対して、理不尽なまでに「死刑を!死刑を!」と叫び続けたのは、ごく普通の大衆、つまり僕や君と同じような人々である。

ホロコーストの話を聞けば、多くの人は「よくそんなに残酷なことが出来たな」という感じ方をするが、この感じ方は危ないと思う。そうではなく、クリスマスにはプレゼントを交換し、友達と口論しては傷ついているごく普通の人たちが、あのような行為を平然とやれるということは、自分もまたそうなる可能性もあるということに慄然と恐怖しなければいけない。歴史を学ぶってそういうことなんだよな、と三つ目の徳利を開けたところで納得。

「真似る」と「学ぶ」



高橋悠治:
それはね、あの人は武満トーンと言われるような独特のカラーを持っている反面、すごくほかの影響を受けやすい人なんだよ。

谷川俊太郎:
そうだね。

高橋悠治:
だから、たとえば篠田さんの『乾いた花』という映画の音楽を彼といっしょにやったときに、僕がタイトルバックの音楽を書いたわけ。そのときに、偶然性の記譜法を使った。すると彼はそれをすぐに取り入れて、そしてもっとうまくやるわけだよ。だから、こういうのはやっぱり危険だという気がした。

谷川俊太郎:
なるほどね。

高橋悠治:
それから、彼に、「世界がいかに在るかではなく、それが在るということこそが不思議だ」というヴィットゲンシュタインの言葉による曲《スタンザⅠ》があるね。ヴィットゲンシュタインというのは、僕がニューヨークにいて、彼が遊びにきたときに、ちょうど僕はその本を読んでいて彼に教えたわけ。そうしたら、すぐ曲になってしまった。でもストラヴィンスキーが言っているね、「いい作曲家は盗む、悪い作曲家は真似する」と。結局こういう違いだよね。そもそも伝統の修業というのはそういうことでしょう。「芸を盗む」と言うんだからね。それで、彼は何を取り入れてきてもきれいにできちゃうんだよね。だから、わりとすぐに受け入れられるでしょう。僕はそれはちょっと問題があるという気がずっとしてた。彼はいつも対位法の勉強をしたいなとか、次の曲では変わりたいとか言っていた。

谷川俊太郎:
しょっちゅう言ってたね。

高橋悠治:
ちょっちゅう言っているんだけど・・・・

谷川俊太郎:
変わらなかった?

幸せなキャリアを歩むために、とても大事な三つのこと

キャリアはよく登山になぞらえられて語られます。では、登山において最も重要視される論点は何でしょうか?それは「生きて帰る」こと。これに尽きます。ところが、キャリアに関する論考の多くは「いかに早く登るか」、「いかに高く登るか」といった論点にフォーカスするばかりで、肝心かなめの「いかに滑落死を防ぐか」といった論点がなおざりにされている感があります。

僕は、三年前に出版した著書「天職は寝て待て」を書くに当たって、70人強のビジネスパーソンにインタビューを行いました。彼らの多くは一流大学・ビジネススクールを卒業して世界的なコンサルティングファームや投資銀行に勤務している(またはしていた)人々であり、まさに「キャリア登山のファストクライマー、ハイクライマーであると言えます。しかし、そのうちの少なくない人が、キャリア登山における「滑落死」の状況に陥っています。

勝ちに不思議の価値あり、負けに不思議の負けなし

とは、江戸中期の剣術家、松浦静山の言葉ですが、この言葉はキャリア論においても通用するのではないか。僕が前著「天職は寝て待て」で記した通り、成功したビジネスマンのキャリアの 80%が「偶然」によっています。つまりキャリアにおける成功というのは「不思議の勝ち」であることが多いのです。その一方で、「ひどいこと」になっている方たちには、いくつかの明白な共通項が失敗原因として見られます。つまり「不思議の負け」はない、ということです。

ここでは、キャリア登山におけるファストクライマー、ハイクライマーが、どの様にしてキャリアの滑落死に陥るのか、その主要因である 3つの滑落死パターンを考察してみたいと思います。

■職業上の「憧れ」に捉われすぎる
Aさんは、国立大学を卒業して政府系金融期間に就職。5年後に企業派遣で米国の名門ビジネススクールでMBAを取得した後、2年たったタイミングで外資系戦略コンサルティングファームに転職します。ところが、短期間のうちにコンサルタントとしての適性に欠けていることが判明し、入社一年後にはやんわりと退職を勧奨されることになります。その後、2年ほどは低評価に甘んじながらも、同じファームで頑張り続けたものの、同時期に入社した同僚が次々にマネージャーに昇進するのを見ていたたまれなくなり、別の外資系戦略コンサルティングファームに転職。しかし、このファームでもやはり適性がないと診断され、やはり入社後一年ほどで退職勧奨を受けることになります。Aさんはその後、国内の業務系コンサルティングファームに転職しますが、ここでもパフォーマンスを発揮できず、更に事業再生に特化したコンサルティングファームに転職したものの、このファームは業績不振を理由に日本オフィスの大幅縮小を決定、Aさんは実質的にレイオフされてしまいます。現在、Aさんは国内の中堅コールセンター受託サービス企業の企画部門スタッフとして勤務しながら、次のキャリアを模索している状況です。

Aさんは、典型的な「憧れの近視眼」によってキャリア選択を見誤った例と言えます。私は前著「天職は寝て待て」において、「憧れ」に主軸をおいてキャリア選択を行うのは大変危険だと述べましたが、とは言えキャリア設計において「憧れ」に軸足をおいてキャリアを考察することを全否定するものではありません。それは自然なことだと思いますし、逆に「憧れ」がまったくない中、功利主義一点張りでキャリア設計をしていくのは、それはそれで不確実性が非常に高い現在の様な社会状況では意味がないと、やはり同著の中で指摘しています。

「憧れ」は駆動エンジンとしては必要だけれども、それを軸足にキャリアを設計すると危ない、ということは、これを制御するためのカウンターシステムが必要になる、ということです。そのカウンターシステムとは「負ける技術」です。そして「負ける技術」は大きく二つの能力=「自己客観視能力」と「関心喚起能力」から構成されています。

まず僕たちは、そもそもの前提として「憧れ」の職業について活躍できる、ということが非常に稀なのだということを理解しておく必要があります。ごく稀に子供の時から憧れていた職業について、その職業で高いパフォーマンスを発揮している人が要ますが、そういった人は例外なのです。多くの人は、「憧れの職業」を、どこかの段階で諦めて「そんなものには自分はなれないのだ」ということに「気付き、受け入れ、そして忘れる」ことが求められます。これが「自己客観視能力」です。「自己客観視能力」の足りない人は、引き際を見極められず「勝つまでやる」ということになるわけですが、最終的にどこかで勝てればいいものの、一生を費やして結局勝てなかったとなると目も当てられません。

よく言われる「一念岩をも徹す」とは「必ず出来ると信じて必死に努力すれば不可能なことはない」という意味ですが、「出来ないものは出来ない」と見切るのもまた一つの知恵だと言えます。日本人は「一意専心」とか「この道一筋」といった態度・生き様を妙に評価する一方、変わり身が早くて要領の良い人を蔑む様な風土があります。リンゴの無農薬栽培を成功させて一躍有名になった木村秋則さんは、10年間近くほぼ無収入に近い状態を過ごしながら、最終的に成功したことで、その執念・努力が称賛されたわけですが、私自身は、一個人の立場としては木村さんのひたむきさや粘り強さに感服しつつも、キャリアカウンセラーの立場からは、その様な態度や考え方は、非常に危険なものだと考えています。探検家の故植村直巳さんは、登山において最も重要なのは「自分の実力以上のルートだと思ったら、その時点でアタックを中止する勇気、引き返す勇気を持つこと」と述べていましたが、キャリアにおいても同様の心性が必要だということです。

次に指摘したいのが「関心喚起能力」です。「憧れ」に基づくキャリアの暴走を防ぐためには、「負けを認める」ことが重要だと述べましたが、単に負けを認めるだけでは、ひたすら絶望を繰り返して生きろ、ということになってしまいます。そこで大事になって来るのが、別の仕事の中に面白さ、やりがいを見出していく発見力です。

「関心喚起能力」を鍛える上で重要になって来るのが「引き出し」です。未経験の仕事に対して、それがどのような面白さややりがいをもたらしてくれるのかを皮膚感覚で理解するには豊かな想像力、多面的に物事を捉える価値観、いわゆる「引き出し」が必要になります。ところが学生時代から憧れの職業に向けて一直線で準備をしてきた、というような人生を歩んできた人ほど、この引き出しが少ない。「憧れの職業に就き、活躍する」ということに対して「役に立つか、立たないか」だけで学習機会を峻別してしまうからです。ところが学習というのは本来的には予定調和しない時にこそ深い学びが得られわけですから、そのような浅薄な目的合理性だけで駆動されてきた学習というのは引き出しの拡大に貢献しないのです。

人類学者のレヴィ・ストロースは、南米のマトグロッソのインディオ達が、ジャングルの中を歩いていて何かを見つけると、何の役に立つかわからないけれども、「これはいつか何かの役に立つかも知れない」と考えてひょいと袋に入れて残しておく、という習慣があることを、著書「悲しき熱帯」の中で紹介しています。そして、この「よくわからないもの」が、後でコミュニティの危機を救ったりすることがあるため、この直感的予測の能力がコミュニティの存続に重要な影響を与えると説明しています。この不思議な能力、つまり「よくわからないもの」を非予定調和的に収集しておいて、いざという時に役立てる能力のことをレヴィ・ストロースはブリコラージュと名付け、予定調和的な近代的思考と対比させて「野生の思考」と名付けました。 

我々は10年先のことも予測できない不確実性の高い世界に生きています。この様な世界において、「この知識は役に立つ、立たない」といった乾いた判断基準で学習機会を峻別していたのでは、「図太い知性」を育むことは出来ません。今後ますます流動的になる社会において、この「学習のブリコラージュ=野生の思考力」は非常に重要な能力になるでしょう。

■不条理を受け入れられない
ハイクライマー、ファストクライマーが滑落死する二つ目の主要因として「不条理受け入れ力」が足りない、という点を指摘したいと思います。

Bさんは、国立大学を卒業して外資系IT企業に勤務後、欧州の名門ビジネススクールでMBAを取得。帰国後、外資系戦略コンサルティングファームへと転職し、順調にマネージャーまで昇進しました。固定顧客もついて販売責任を負うパートナーよりも多くのフィーを稼ぐエース格として活躍するに至ります。しかしそのうち、自分より売上金額が少ないパートナーが居座り、自分がなかなかパートナーに昇進できないのはおかしいと考える様になり、ことあるごとにその不満を公然と口にするようになります。また、「自分の方が優秀」と小馬鹿にしていた同僚が、自分より先にパートナーに昇進することになるという「事件」も発生して、いよいよモチベーションが低下していた時期に、別の外資系コンサルティングファームから誘いの声がかかります。このファームに居ても正しく評価してくれないと考えたBさんは、このオファーを受けて転職することを決意します。転職直後は移籍したファームで水を得た魚の様に活躍したBさんですが、一年もたたないうちに以前のファームと同じような状況にやはり不満を募らせ、このファームも辞めてしまいます。次に移ったファームでも同様の状況に陥り、ここも短期間で退職せざるを得ないことになってしまいます。その後、Bさんは個人でコンサルティング事務所を開設しますが顧客獲得のために平均睡眠時間4時間の生活を続けていたところ心身のコンディションを崩してしまい、現在は御実家で療養しながら次のキャリアを検討しています。

Bさんは典型的な「不条理に耐える」ことが出来なかったケースです。

世の中には、「世界は公正だ」あるいは「世界は公正であるべきだ」と考えている人がいます。この様な世界観を社会心理学では「公正世界仮説=Just World Hypothesis」と呼びます。公正世界仮説は、もともとは正義感の研究で先駆的業績を挙げたメルビン・ラーナーでした。ラーナーはその著書の中で、「一般的に、人は世界が予測可能、理解可能であり、従って自分の力でコントロールできると考えたがる」と述べています。公正世界仮説の持ち主は「世の中というものは、よい人は報われ、悪い人は罰される様に出来ている」と考える傾向があります。

そして、ここがポイントなのですが、いわゆる受験エリートは、とてもこの仮説に支配されやすいのです。なぜかというと、自分たちが、そのような単純でわかりやすいルールや因果律が支配するシステムの中で競争して、そこで好成績を収めてきたらです。神学や哲学といった学問と比較すると経営学は極めて単純で見通しの良い学問ですから、こういった「底の浅い知性が試される競争」の中で好成績を修めてきた人にとってはとてもなじみが良いのです。ところが大変困ったことに、世界というのは公正には出来ていない、いわば不条理の塊なわけです。

1995年に地下鉄サリン事件が世間を震撼させた際、最難関の大学を卒業した多くのエリートがオウム真理教に帰依しているという事実が社会を困惑させました。この際、多くの論者が、なぜあのような優秀な若者が、あのような殺人教団に帰依してしまったのか、ということについて論じていますが、複数の方が指摘していたのが、オウム真理教の教義の「シンプルさ、わかりやすさ」でした。受験という「わかりやすいシステム」の中で好成績を収めてきた若者が、世界という「不条理なシステム」に辟易して、オウム真理教が唱える「わかりやすい教義」に心理的な安堵をおぼえて帰依して行った、というのが彼らの分析です。エリートは「わかりやすいシステム」になびきやすいのです。

僕は、昨今の新卒学生間での戦略コンサルティングファーム人気にも、この「不条理忌避傾向」が働いているのではないかと考えています。戦略コンサルティングファームの階位制度と評価制度は極めてシンプルで、運用も「成果を出せば昇進し、出せなければ去れ」とこちらも単純極まりません(実際には前述した通り様々な不条理が存在しますが)。語弊を恐れずに言えば戦略ファームのシステムというのは、外形的には非常にシンプルでメカニカルに見えるという点で極めてオウム真理教的なのです。このシンプルさに、不条理を嫌う若者が惹かれているのだろうな、というのが私の仮説です。

不条理を終生のテーマとして追求し続けた人物にアルベール・カミュがいます。彼は著作「シーシュポスの神話」の中で、不条理に対して人が取り得る態度は結局のところ三つしかない、と主張しています。その三つとはすなわち、「自殺」、「宗教への盲信」、「不条理の受容」です。このうち「宗教への盲信」は精神的自殺に過ぎないと定義し、肉体的自殺と並んで「生きるという目的に資さない」という理由からこれを排除して、人が生き続けるためには不条理を受け入れるしかない、としました。

公正世界仮説の保持者は、「一生懸命やっている人は報われる、成果を出している人は認められる」と考えるわけですが、先述した通り、世界は必ずしもそうなっていない。つまり、世界を一つの劇場と考えた場合、我々が演じているのは「かなりダメな脚本」だということです(最後に助さんと格さんがボコボコにされる水戸黄門など、誰が見たいと思うでしょうか?)。その「ダメな脚本=不条理」の中で大根役者を演じているのが我々だということですが、では、どうするか?方法は、自分が舞台の上で花形役者になる=不条理を積極的に活用するか、脚本そのものを変える=不条理に耐えつつ、革命を目論むの二つしかありません。

この場合、花形役者になるというのは、公正世界仮説を棄てて、公正でない世界のルールを逆手にとって生きる、ということを意味します。これはつまり、マキャベリズムに徹する、ということです。マキャベリは、まあ色々言っていますが、最終的に「結果が手段を正当化する」、つまり「勝てば官軍だ」ということを徹底して主張しました。

先ほどのBさんの例で言えば、一生懸命仕事をして成果を出すよりも、ファーム内で強い影響力を持っている人物を見出して、その人に全力で「走り込み」(御世辞を言う、引っ越しを手伝う、別荘の掃除をする、一緒に仕事したいと騒ぐ、ゴルフに行く、ホームパーティに招待する等の活動)をかけることこそ求められるのです。

現代社会におけるマキャベリズムの実践という点で大いに参考になるのがハーバード大学のジェフリーフェファーの論考でしょう。フェファーは、実証研究から、上司に愛される部下の最大の要件は「御世辞」と「頼みごと」であると指摘しています。彼は著書「権力を握る人の法則」の中で、実力以上にトントン拍子に出世する人の特徴=現代社会におけるマキャベリズム実践のポイントを細かく分析していますので、ご興味のある方には一読をお勧めします(ちなみに私自身は実践していませんが、そういう生き方を否定するものではありません)。

次に「脚本そのものを変える=不条理に耐えつつ、革命を目論む」という態度について説明します。世界が「かなりダメな脚本」によって記述されているとすれば、当然ながら「脚本そのものを書き変えよう」という問題意識が生まれることになります。ところが、ここに大きな矛盾があります。脚本を書きかえられるのは、舞台監督か花形役者だけで、大根役者の意見は通らない、ということです。一方で、花形役者は、このダメな脚本の世界で美味しい役をもらっているわけですから、そもそも脚本を変えるインセンティブがありません。つまり「不条理に耐えつつ、革命を目論む」ためには、一度不条理な世界の中で仮面をかぶって花形役者になり、脚本を変えるだけの影響力を掴んでから「カミングアウト」することが求められるのです。

なんと迂遠な・・と思われる方もいらっしゃるでしょうが、我々が不条理な世界=ダメな脚本の世界劇場で生きている以上、不条理さに真正面から攻撃をかけることはキャリアの滑落死につながりかねません。そこでは、公正な世界を希求しつつもなお、世界は公正でないことを認識して強かに立ち居振る舞うことが求められているのです。オスカーワイルド的に言えば「俺たちはみなドブの中で生きている。しかし、そこから星を見上げている奴も居るんだ」ということです。

■犯罪に手を染める
ハイクライマー、ファストクライマーが滑落死する三つ目の主要因として「犯罪に手を染める」という点を指摘したいと思います。

Cさんは、米国東部の名門大学を卒業後、そのまま米国に留まり戦略コンサルティングファームに入社。その後、マネージャーまで順調に昇進した後、起業間もないベンチャーに参加するためにコンサルティングファームを退社しました。参加したベンチャーではCOOとして会社の成長を牽引し、ついに新興市場に株式を公開するまでになりました。しかしその後、株主の成長期待にこたえる様な新規事業の創出がなかなか進まず、売上規模の拡大を小粒なベンチャー企業を買収することで達成するというM&A主軸型の成長モデルにシフトしました。結果、Cさんのところには買収案件の持ち込みが多数集まることになりました。やがて、Cさんは、集まってきた情報をもとに様々な株式の売買に手を染めるようになります。この株取引は、2年程度の間に数百万ドルの利益をCさんにもたらすことになりましたが、それはある日突然、終わりを告げることになりました。SEC(証券取引委員会)の取り調べを受けることになったのです。Cさんは現在、刑事告発を受け裁判係争中です。

僕の友人の中でも、最も厳しい状況に追い込まれてしまっているのが、このCさんでしょう。犯罪者として告発される、というのは読者の皆さんからすれば縁遠い話と思われるかも知れませんが、実はファストクライマー、ハイクライマーが身を持ち崩す最大要因の一つが「犯罪」なのです。意外に思われるかも知れませんが、コンサルティングファームの幹部を務めた人物の中には、最終的に刑事告発を受けたり、場合によっては服役したりする人物が少なくありません(例えば1994年から2003年までマッキンゼー&カンパニーのマネージングディレクターを務めたラジャット・グプタは、インサイダー取引の科で有罪判決を受けています)。

なぜファストクライマー、ハイクライマーが結果的に犯罪に手を染める、あるいはもう少しマイルドな言い方をすれば、ギリギリグレーなところに手を出すようになるのでしょうか?これには「動機」が作用していると考えられています。ヘイグループが用いる動機診断手法を開発したハーバードのデイビッド・マクレランドは、社会性動機を1:達成動機=自分で設定したゴールを達成したいという動機、2:親和動機=人と仲良くしたいという動機、3:パワー動機=多くの人を動かしたい、影響を与えたいという動機、の三つに分類し、この三つの動機のどれが強く出るかによって、その人の強みや弱み、キャリアの向き不向きを診断することが可能だとしました。

ここで問題になってくるのが「高すぎる達成動機」です。

ヘイグループの分析によると、高すぎる達成動機を持つ人は「足る」ということを知らないため、動機をうまくマネージしないと倫理的に許されない範囲まで自分や周囲をオーバーシュートさせてしまうリスクがあることがわかっています。しかし一方で、達成動機を高く保ち、現状の自分に甘んずることなく努力し、より高い成果を求めるという態度は、褒められこそすれ批難されるべきものではありません。この矛盾を、我々はどのように解決したらいいのでしょうか?

ここで重要な論点になるのが「どのようなルールを設定して自らを律するか」という問題です。上記のCさんとラジャット・グプタに共通しているのが、告発された後で「自分は何も悪いことはしていない」と供述している点です。これはつまり、やっていることの倫理的な是非は問わず、法律に照らしてみて自分の行為に脱法性はないという主張で、法哲学ではこの様な考え方を実定法主義と呼びます。これに対して、事物の自然的本性から導き出される善悪の観念を盛り込んだ法概念を自然法と言います。

僕は、ハイクライマー、ファストクライマーであればあるほど、自然法的な規範を身につける必要があると考えています。なぜなら、そのような影響力のある人物こそ、「法律的にはギリギリOK」という一線とは別の、より普遍的なルールでもって自らの能力を制御して欲しいと思うからです。

「イノベーションのジレンマ」の著者であるハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンは、2010年の卒業生に対して、彼の同窓生の何人かがコンプライアンス違反で服役しているという事実に触れ、「犯罪者にならないために」という題でスピーチを行っています。彼がその中で述べているアドバイスは、「人生を評価する物差しについて考えなさい。最後になって自分の人生は成功だったと評価できるように毎日を生きなさい」というものですが、これも同じことでしょう。

ハイクライマー・ファストクライマーを自負する人であればあるほど、内発的な規範に従って自らを律することが求められます。

■まとめ
キャリア登山において勝ち負けは問われません。問われるのは何より、後で振り返って「幸せで自分らしい登山を全うできたか」ということ、これに尽きます。そして、その「幸せで自分らしいキャリア登山」を阻害する大きな要因になるのが、本稿で述べてきた三つの滑落要因、すなわち「憧れに捉われすぎる」、「不条理を受け入れられない」、「グレーゾーンを踏み抜く」なのです。読者の皆さんも、自分らしいキャリア登山を全うするために、ゆめゆめこの三つの「滑落死のきっかけ」に捉えられない様に気をつけて下さい。

まだまだ知らないことがある、という幸せ

フランシス・プーランクの名前は学生時代から知ってて「あのキラキラコロコロした室内楽を書く作曲家でしょ?」くらいのイメージはもっていました。たとえばこんなのが典型的なやつですね。


これはオーボエとピアノのソナタです。フルートの方が一般には有名かも知れないけど僕はこちらの方が好きかなあ・・・まあいずれにせよ、こんな感じの曲です。プーランクは生粋のパリッ子でしかも大金持ちの製薬会社オーナーの息子ですから、いかにも19世紀末のブルジョア家庭の子弟が感じるアンニュイがそのまま音楽になったような雰囲気ですよね。

ということで、そういう作曲家だ、というイメージのままに二十年以上特に聴き込むこともなく過ごしていたのですが、先日読んだ坂本龍一さんの本で、プーランクが敬虔なカトリックで20世紀の中頃になってなおカンタータを書き続けていたという事実を知りまして、聴いてみて本当に驚愕したんですよね。なぬー!?ほとんどグレゴリオ聖歌じゃんかー!?


和声的にはちゃんと三度の音が入っているし、完全五度ばかり用いるグレゴリオ聖歌とは音楽の作り方が全然違うんですが、なんというか、あれほど現代的なエスプリを濃密にまき散らしていた人が、こんなに懐古的なニュアンスの曲を書いていて、かつ本人の弁によると「自分が本当にコミットしていたのはカンタータ」ということで、本当にビックリしてしまったんですよね。どういう感じだったんだろ。

知ってるつもり、というテレビ番組がありましたけど、美術史とか音楽史って、本当にまだまだ知らないことがあって本当に幸せだなあ、と思ってしまったんですよね。ちなみに上記の曲は「人間の顔」という曲ですね。変な題名。坂本龍一さんのお勧めは下記の盤でした。もしよければ是非どうぞ。「癒し」が得られますよ。


審美眼で戦略ストーリーを見抜く!?

こう言うとのっけから自慢しているみたいに思われるかも知れませんが、コンサルタントになってから十年以上のあいだ、コンペなるものにほとんど負けたことがありません。年間でおそらく平均して五〜十件のコンペをやっていますが、だいたい8〜9割くらいの勝率をずっと維持しています。

で、まあそんなもんなのかな、と思っていたのですが、先日これを他ファームの人に話したところ「エエエ!?」とか「マジで!」とか「値引きし過ぎ」とか「負けたの忘れとるダケや」とかと、しばし盛り上がったあとでシンミリと「コンペに勝つコツってなんなんですかね」という議論になり、ハタと困惑してしまったんですよね。なぜかというと「なぜ勝てるのか?負ける時は何がダメなのか?」自分でもよくわからないからです。

例えばこう考えてみるとイメージしやすいかもしれません。プロ野球選手になって十年。それなりの成績を記録しているとして、その理由が自分でわからない、という状況です。なんとなく「いい感じ」でバットを振ったら、ボールが勝手にバットに当たってスタンドに飛んでいく。そんな感じで毎年記録が残っていたら、来年も同じことが出来るだろうかと不安で不安でしょうがないのではないでしょうか。

確実に言えることは、勝てる時は「間違いなく勝てる」という確信があるし、負ける時は「なんとなくしっくりこない」と自分でも思っている時が多いんですよね。そんなモヤモヤのなかでフッと思い出したのが

ソマティックマーカー仮説

のことです。

ソニーがクオリアをテーマにいろいろと仕掛けていたころに当時の社長だった出井さんがいろんなところで言及していた言葉なので覚えている方もいらっしゃるかも知れません。

何をいまさら、という感じですが、先日改めてダマジオのこの本を読み直していて、


もしかしたら、コンペに勝つのも負けるもソマティックマーカーに左右されているのかも知れない、と思ったわけです。

ソマティックマーカー仮説というのは、端的にいえば、人間は意思決定をする際に理性だけでなく情動に頼っていて、だからこそ正しい意思決定を素早くすることが可能になるのではないかという考え方です。

脳科学者のダマジオは、脳の前頭前野が破壊された患者が、感受性を失うと同時に、論理的な思考力や言語力といった脳の他の機能が高度に保全されているにも関わらず、社会的な意思決定の能力もまた同時に失ってしまうという症例を数多く検証し、我々が理性によってなしうると考えている高度に複雑な意思決定が、実は大きく感受性に依存しているのではないかという仮説をもったわけです。

ダマジオのこの本には、音楽好きだったエグゼクティブが脳腫瘍に冒された結果、音楽に何の関心も持てなくなってしまったと同時に、論理能力や言語能力が高いレベルで保全されているにも関わらず、仕事上の意思決定がまったく出来なくなってしまったという症例が報告されています。

高度に複雑な問題について意思決定する際、我々は、我々が思うほどにモノゴトを理屈で考えているわけではないのかも知れない。

この仮説にあらためて触れたとき、自分がコンペに提出する提案書を、学生時代に書いていたオーケストラのスコアと同じ心性で眺めて、全体的にセンスがいいかわるいか、ピンと来るか来ないかで判断していて、フィーリングが前者であればまず間違いなくコンペに勝てると判断しているということに気づいたんですよね。

つまり、提案書のストーリーを、音楽の旋律と同じ様に「美しいか」「美しくないか」で判断していて、それがもしかしたら最も正確な判断基準なのかも知れない、ということです。

これはダマジオではなく別の研究者の研究ですが、僕たちがマザーテレサやキング牧師といった人たちのエピソードを聞いたときに感じる独特の感情は、脳の眼窩前頭野の活動によることがわかっています。そしてこの眼窩前頭野というのは、美しい絵や美しい音楽を体験したときに働く箇所なんですよね。

少し乱暴な言い方ですが、こういった一連の事実は、我々の脳が、社会的にも道徳的にも商業的にも芸術的にも「善なるもの」「正しいもの」について、同じ様な反応を示すのではないかということを示唆しています。

現代社会において生を営んでいる我々は、論理思考やクリティカルシンキングといった浅い技術では解けないような高度に複雑な問題を抱えて日々を生きています。こういった複雑怪奇な問題を解くためには、もしかしたらデカルト的な要素分解の技術を学ぶよりも、究極的統合、つまり「審美的感性」を鍛えるということが実はもっとも有効なのかも知れません。

あくまで仮説なんですけどね。

でもここまで考えて、自分の美意識にもとづいてモノゴトを決めていたら、そうそうおかしなことにはならないんだな、と思って安心できたので備忘録としてここに記しておきます。

ではでは。


サントリーHDの社長人事に接して感じたこと

ご存知の通り、2014年6月24日にサントリーHDは次期社長にローソン新浪会長をあてる社長人事を発表しました。

この社長人事についての是々非々がFacebookやTwitter上でかまびすしいですが、情報劣位にある人々がそのような議論をすることにあまり意味があるとも思えないので、ここではその点については触れず、別の側面について少し感じたことを書き記しておきます。

ここ数年のあいだ、外資系のキャリアを歩んできた人を日本企業の社長に突然据えるという人事が相次いでいますよね。資生堂はコカコーラ出身の魚谷氏を、ベネッセはマクドナルド会長の原田氏を、それぞれ次期社長にあてる人事を発表しました。少し前のことになりますがGE出身の藤森氏がリクシルの社長に就任したのは2011年のことです。

彼らに共通しているのが40代の後半〜50代の前半という次期に経営経験をスタートさせ、以降一貫して職業経営者としてキャリアを築いてきたという点です。魚谷氏、原田氏、藤森氏が経営者の立場に初めて立ったのはそれぞれ47歳、49歳、46歳のときのことで、今回サントリーHD社長に内定した新浪氏については43歳のときにローソンの代表取締役となっています(※1)。40代半ば〜後半といえば、多くの企業ではやっと課長+くらいの役職に昇進できるかという年齢ですから、異例に若くして経営経験をスタートさせているわけです。

さて、組織・人事を専門とするコンサルタントとして、昨今顧客企業の経営者からよく聞かされる嘆きの一つに「次世代の経営者が育っていない」というものがあります。恐らく事実、その通りなのでしょうけれども、別に社内から経営者を育てなければならないという法律があるわけでもなく、経営者は経営してくれればいいわけで、外部から調達してそれで済むのであれば「経営者を育てられない」という問題は、そもそも問題なのか?という論点の建て方もあるように思います。

この問題、つまり「日本企業が経営者をなかなか育てられない」という問題について、僕は僕なりにいくつか原因の仮説を持っていますが、その原因を潰すのは構造的にとても難しいし時間もかかるので、これから先十年のあいだの経営者育成力不足の解決策としては

外部労働市場に経営者を育ててもらって、経営者はそこから調達し、内部で育った人はオペレーションのエキスパートとして会社を回してくれればよい

という方向に、程度の問題はあれ世の中全体としては進む事になると思います。

こうなると懸念されるのが、若手〜中堅のモチベーション減退という問題でしょう。もともと、多くの日本企業の人事慣行は、管理職につく四十代くらいまではあまり大きな差をつけず、誰もが「役員になれるかも知れない」という夢を持ち続けられる様にしながら、その幻想をエネルギー源として労働資源を駆動させるというモチベーションシステムを採用していました。

しかし、外部労働市場から経営者を調達するという流れが本格化すればこのシステムが微妙に破綻してしまうことは容易に想像できます。そうなると、優秀な中堅層を日本企業に留めておくことは非常に難しくなる可能性がある。

加えて指摘しなければいけないのがグローバル市場との報酬カーブのギャップでしょう。日本企業と海外の企業の報酬カーブを比較してみると、若手に厚く、管理職に薄いことがわかります。僕が勤務しているヘイグループの報酬データを参照してみると、一般的に多くの日本人が「報酬水準が低い」と考えているタイと比較しても、若手〜課長クラスでは、日本人の給与=1に対してタイの平均給与は0.49と半分程度ですが、部長クラスになると日本の1.36に対してタイの1.35と同水準になり、本部長クラスでは日本の1.68に対してタイの2.24と大きく逆転されてしまいます。

つまり、長期的なキャリアパスという面でも短期的な報酬という面でも、三十代~四十代にかけて日本企業に留まり続けるのは、率直な言い方をすれば「損な選択」になりつつあるということです。

現在の状況を俯瞰して、合理的な人なら間違いなくこう考えるはずです。
  1. 大学を卒業したら、まずは日本企業にはいってグローバルには相対的に高い給料を楽しみながらモラトリアム期間として様々な勉強や経験を重ねる。場合によってはビジネススクールに通うのもあり。
  2. 三十歳を過ぎたころにキャリアの方向性を腹決めして、外資系に転職するなら転職して専門職としてのキャリアを積むか、あるいはマネジャーとして経営管理者の経験を早期に積み重ねる
  3. 外資系企業でのキャリアがこれ以上展望できないという段階まで登ってから、経営者不足に困窮している日本企業に落下傘で飛び移り、オペレーションに強い人たちを指揮して経営者としての市場価値を高めていく
僕自身はなりゆきに任せてキャリアを選ぶタイプで、こういった戦略的な人生設計はあまり好きではないけれども、現在の社会を見渡せば、普通に合理的に考える能力のある若い人はこういう結論を導くのではないでしょうか。

経験学習理論のベースを作ったデイビッド・コルブは、実践的な体験とその結果の反芻が人の学習を促進させると説きました。これはつまり「よい経営者」を育成するためには、どれだけ若い次期に実際の経営体験を積ませ、そのなかで「キャリアのトドメ」になるような決定的な失敗を回避しながらも、適度な失敗体験を積んでそこからの学びを糧にしていけるか、がカギだということを示唆しています。

経営者不足に悩むのであれば、研修やビジネススクール派遣にカネをかけるよりも、今居る上層部の人がその職責を若手の有望株に譲るということこそが必要なのであって「後継者が育っていない」と嘆く経営者自身が退位して後進に道を譲るということが、もっとも有効な後継者育成の方法なのですよ、ということを僕らのような立場にある人はもっと進言するべきなのかも知れません。

※1:経営者、という言い方は定義が微妙だけれども、ここでは肩書きに社長またはCEOと初めてついたタイミングを計算している

世界劇場の脚本を書き換えよう

二十世紀前半に活躍したドイツの哲学者ハイデガーは「世界劇場」という概念を通じて、現存在=我々の本質と、我々が社会において果たしている役柄は異なっていると考えた。

舞台で演じる役柄のことを心理学ではペルソナという。ペルソナというのはもともと仮面という意味だね。実際の自分とは異なる仮面を身につけて、与えられた役柄を演じる。英語では人格のことを「personality」というが、この言葉はもともとペルソナからきている。

そして、すべての人は世界劇場において役割を演ずるために世界に投げ出されることになる。これをハイデガーは「企投」とよんだ。そして企投された人々が、世界劇場における役柄に埋没していくことを耽落=Verfallen=ヴェルファーレンと名付けた。

ヴェルファーレン・・・あれ?

そう、一時期一世を風靡した六本木のディスコの名前とよく似ているよね。もしかしたらヴェルファーレの名づけ親はハイデガーを読んでいたのかも知れない。残念ながら僕はヴェルファーレに行く機会がなかったので当時の様子はわからないけれども、いまYoutubeで当時の模様を見てみると、皆忘我の状態で踊り狂っていて、まさ「耽落=Verfallen」しまくっていたことがわかる。

ここで問題になってくるのが「原存在と役柄の区別」だ。多くの人は、世界劇場で役柄を演じている耽落した自分と、本来の自分を区別することができない。いい役柄をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「いいもの」と考え、ショボい端役をもらっている人は、役柄ではなく自らの原存在を「ショボいもの」と考えてしまう。

そして、当たり前のことなのだけれども主役級の役柄をもらっている人はごく少数に過ぎない。多くの人はショボい端役を与えられた大根役者として世界劇場の舞台に立つことになり、役柄を演じるのに四苦八苦している一方で、役になりきって声高らかに歌い踊っている主役級の人々を喝采しつつも、陰で「ああはなりたくないよね」という態度を取ってしまったりする。

うむ。。。。

この世界が健全で理想的な状況にあると思っている人は世界に一人もいないだろう。つまり世界劇場ということでいえば、この脚本は全然ダメな脚本だということになる。従って、この世界劇場の脚本は書き換えられなければならないわけだけれど、ここで浮上してくるのが

「誰がその脚本を書き換えるのか」

という論点だ。テレビドラマの制作を考えてみればわかりやすい。脚本の修正に口を出せるのは橋田壽賀子クラスの大物脚本家か監督、それに泉ピン子クラスの大物俳優だけだろう。

しかし、少し考えてみればわかることだが、まず、この社会に適応している人、つまり花形役者には脚本を変更するインセンティブがない。彼らは、いわば世界劇場における「脚本の歪み」ゆえにさまざまな利益を享受している。これは成功する投資家がつねに「市場の歪み」に着目するのと同じことだ。従って、大物俳優である彼らにその「歪み」を是正してもらうことは期待できない。監督や脚本家についても同様で、世界の脚本を作っている立場にある人はやはり同様にそれを改変するインセンティブを持たない。

これはつまりどういうことを言っているかというと、いまの世界劇場に完全には適応できていない人、端役を押し付けられた大根役者こそが変革者になりうるということだ。大根役者が、大根役者である自分に失望せず、この世界の中に居残りながら決して耽落もせず、いかに内部から世界をよりよい世界に変えていけるか、これが最大の課題だ。

ちなみに、この大根役者が舞台を降り、舞台そのものを破壊しようとする行為がテロということになる。対話が成り立たない、自分の意見が通らないどころか、意見を言う機会すらないということになれば、花形役者を爆殺してしまえというのは気持ちとしてはわからなくはない。

さてと、この世界を劇場として考えるというアナロジーを持ち出すと、その脚本を作っているのは人間ではなく神なのではないか、という反論があるかも知れない。そう、まさにその通りに考えたのが古代から中世までのヨーロッパの人々だった。確かに、世界の脚本をつくっているのは神だ、というのはとてもしっくり来る考え方だ。

しかし、ここで一つの問題が立ち上がる。神は全能である。一方で、この世界は不条理と不合理に満ちている。つまり全然ダメな脚本である。全能の神が脚本家としてイマイチであることは認められない。

そこで彼らはこう考えた。やがて大ドンデン返しがきて、ダメに見える脚本も「ああ、そういうことだったのかあ!」ということになるのではないか、と。つまりすごい「オチ」が神に用意されているのではないか、と考えたわけだ。この大ドンデン返しがいわゆる「最後の審判」である。最後の審判において神が再臨し、神の国が完成する。それまでのあいだ、世界劇場の脚本は一見ムチャクチャに見えるが、最後に帳尻が合うはずなので、僕らは神に怒られないような正しい生活を送ろうということで自分たちを納得させたわけだ。

ところがここに問題が起こってくる。イエスが死んで十年たち二十年たち、やがて百年経ち二百年経っても、最後の審判はやってこない。そこで当然ながら、みんなこう考え始めた「ぶっちゃけ、最後の審判はあるのか?」と。笑い事ではない。これは「終末遅延」といって神学上は大変な難問なのである。

矛盾に満ちた世界は最後の審判を経て平定することになっているはずなのに、その最後の審判がいつまで待っててもやってこないのである。終末が遅延しているということは、矛盾に満ちた世界劇場の脚本がいつまでも完成しないということを意味している。これはとても困ったことだ。なぜなら、自分が生きているうちに世界劇場の脚本が修正されないとういことになるからだ。せめて自分が生きているうちに、この脚本が是正されてほしい。そう願う人にとって「終末遅延」はとても重大な問題だったのである。
  
ここまで読んでもらえばもうわかるだろう。そう、世界劇場で用いられている脚本を書き直すのは、神でも花形役者でもなく、我々でしかいない、ということだ。理不尽な脚本をいったんは受け入れた上で、役柄に耽落することなく、脚本を書きかえることを虎視眈々と狙いながら、着実に役者としてのポジションを固めつつ、他の花形役者や脚本家に対する影響力を高めていく。神のドンデン返しは待っていられない。もう二千年も待ったのだからいいだろう。

デカルトは著書「方法序説」のなかで、こう言っている。

世界の秩序よりも、自分の欲望を変えるように努力しなさい

なんというダメな考え方だろう、と思う。なぜならば、いまの世界の秩序そのものが人間の欲望の結果、大きく歪められてしまっているからだ。ここでデカルトが指摘している「秩序」は、自然法則に近い意味なので、僕らがイメージする「世の中のルール」(マルクスのいうところの疎外というやつだ)とは若干異なるかもしれないが、それはまあおいておこう。

こんなにも世界のありようが歪んでしまった以上、それを放っておいて自分の欲望を押さえることは健全なことではない。理不尽だと思う気持ち、何かがおかしいという直感を決して君は押し殺してはいけない。それが、よりよい世界を実現するためのエンジンになるからだ。

世界の脚本が歪んでいると思い、かつ自分がその劇場で大根役者を担っていると思うのであれば、まさに君こそがその脚本を変える革命家になるべきだ。したたかに生き延びて今いる組織の中でパワーを手に入れ、脚本をぜひとも書き換えてほしい。

臨床と研究と執筆の三本柱

元コンサルタントで物書きとして一時的に成功する人は多い。でもそういう人の殆どがやがて枯れていってしまうのを見ていて本当に恐怖しています。

コンサルティングという仕事は命を削る様なとこがあって、どこかで「もうやめた」と降りざるを得ないのだけど、でも僕は現場の臨床(=コンサルティング)をやりながら物書きをやるということに拘りたいんですよね。

なぜかというと、こんなに短時間に濃密な刺激やインプットを与えてくれる契機は他にないからです。要するに学習機会としてとても貴重なんですよね。よく仕事を選り好みしている人がいるけど、どうしてああなっちゃうのかな。どんな仕事からも学べるし、自分にとって違和感の大きい仕事であればあるほど学びが大きいと思うんだけど。だから仕事は常に、以前の繰り返しはなるべく避けて、よくわからないもの、難しそうなもの、感覚的に嫌だなと思うものを受ける様にしています。

ありがたいことに執筆やワークショップの依頼は方々からあって、時間がとれればいくらでも書けるし、やれるし、恐らくそうした方が経済的な状況も向上するのだけれども、でも僕の本業はあくまでもコンサルタントであって物書きやファシリテーションは本業を支援する為の位置づけでしかないと思っています。

コンサルタントとして、あくまで顧客企業の臨床をしながら個人・個社・社会の三者に同時に関わり続けることができないかという、壮大な野望があって、それを実験しているというのがここ数年の状況なんです。

それなりに、いい線行っているとは思うんですけどね。まだまだ自分が思う水準に届いていないので、これから二〜三年でどこまで自分の中のイメージに近づけられるか。

勝負だと思っているので見ていて下さい。

抵抗や非難は「賞賛」の裏返し

リーダーシップを発揮して前向きに行動したり発言し始めると、時に思わぬ抵抗や厳しい非難を受けることがある。こういった抵抗や非難を受けて意気消沈し、それまでの自分の行動や発言を押さえこんでしまう人が多いのは実にもったいない。

強い抵抗や避難というのは、常に「賞賛の裏返し」という側面がある。

なぜ彼らは君の行動や発言を攻撃するのだろうか?簡単なことだ。君が彼らの「痛いところ」をついているからだ。戦争を考えてみればいい。誰も「どうでもいい要塞」への攻撃には反撃してこない。拠点としての重要性が高ければ高いほど、攻撃に対する抵抗も強くなる。人間も同じだ。強い抵抗を受けるということは、君が彼らの急所をついているということに他ならない。意味のない活動だと思えば人は抵抗も反論もしない。「意味がない」と反論してくるのであれば、それはまさに「意味がある」ことの証左だ。彼らは反論という行為を通じて君の行動の「スジの良さ」を賞賛しているんだ。彼らはそれを暗に示してしまっていることに気が付いていない。この情報格差は是非とも活用すべきだ。

科学と宗教のコンフリクトがもっとも高まったのはルネサンスの後期、16世紀末の時期だ。このとき、死体解剖にもとづいて「人体構造」を著したヴェサリウスは宗教裁判にかけられ、実験を通じて血液循環の原理を発見したセルヴェトゥスはカルヴァンによって火刑に処された。地動説を証明したイタリアのガリレイが宗教裁判で自説を屈服させられたのは君たちも知っているだろう。科学の有効性、合理性、納得性がいよいよ高まってきたときにこそ、宗教側の科学否定の態度はいよいよヒステリーといっていいレベルにまで強まったことを思い出してほしい。

抵抗や非難が多ければ多いほど、それは「痛いとこを突いている」ということの証左に他ならない。敵は崩壊寸前。突破は目前だ。抵抗や非難をなぎ倒して壁を突き抜けてほしい。

「一番先に話した人」がリーダーになる

講演会などの最後に「では質問は?」と投げかけると、しばしの沈黙が続くことがある。実にもったいないなあ、と思う。

集団が形成されると、誰にそう言われたわけでもないのに自然にリーダー格になっていく人がいる。そういう人にはどんな特徴があるのか、これまでに多くの研究がなされてきた。いわば「リーダー資質」といったものがあるのか、という問題だ。皆から自然とリーダーとされる人には、なにか共通の特徴があるのか?背の高さ?知能指数?学歴?ルックス?育ち?いいや、みんな否定された。

結局わかったのは「一番先に話し始めた人」だということ。

集団が形成されて、その中で一番先に話し始めた人が、リーダー格になっていくのだ。一番先に話した人のことを周囲の人は、より知的で、エネルギーに溢れ、人格に優れていると考える傾向がある。人の認識の歪みをバイアスという。一番先に話し始めた人に対して人はポジティブなバイアスを持つのである。

この性質を利用しない手はない。

君は、「なにか質問はありますか?」と言われて、なんとなく聞きたいことがあるのにモジモジと他の人が最初の質問をするのを、まさか待っていたりしないだろうか。それはみすみす他者に対する影響力を手にする機会を逃しているということだ。

やらなければならないのは、聞きたいことなどないのに何をさておいても一番先に質問する、ということだ。別に質問の中身はどうでもいい。とにかく、集団のなかに身を置いたら「一番先に話し始めた人」になることを心がけよう。





「未来予測」の大勘違い

まず、下の絵を見てほしい。






ほとんどの人が「ああ、iPadね。でなに?」と思うだろう。
では次の絵を見てもらおう。






どうだろう?
多くの人は「あれ、なんかちょっと違うなあ、なんだこれ」と思ったのではないだろうか。

種明かしをすれば、この二つの絵は、コンピューターサイエンティストのアラン・ケイが著した論文「「A Personal Computer for Children of All Ages」のなかで、ダイナブックというコンセプトを説明する為に用いたものである。

1972年のことだ。

この種明かしをされれば「すごい・・・40年も前に今の世界を予測していたんだね!」と感嘆するかも知れないが、その理解は事実と完全に異なっている。これはアラン・ケイ自身も言っていることなのだが、彼は、未来を予測してこれを描いたわけではない。

彼がやったのは「こういうものがあったらいいな」と考えて、そのコンセプトを絵におこし、それが実際に生み出される様に粘り強く運動したということだ。

ここに「予測」と「実現」の逆転が見られる。

ケイがやったのは「未来がどうなるかを考える=フォアキャスト」ではなく、「未来がどうあって欲しいかを決めて、そこから何をするかを考える=バックキャスト」だといえる。

コンサルティングファームに居ると、よくクライアントから「未来予測」に関する相談を受ける。「未来がどうなりそうでしょうか?その未来に対して、我々はどのように準備するべきでしょうか?」というご相談で、もちろんフィーをいただいてレポートを作成することになるわけだが、個人的には実にナンセンスな依頼で、アウトプットは無意味な作文だと思っている。

いまある世界は偶然このように出来上がっているわけではない。どこかで誰かが行った意思決定や行動の集積によって今の世界の風景は描かれている。

それと同じ様に、未来の世界の景色は、いまこの瞬間から未来までのあいだに行われる人々の営みによって決定されることになる。であれば、我々が本当に考えなければいけないのは「未来はどうなるの?」ではなく「未来をどうするか?」であるべきだろう。

アンドロイドの研究で名高い大阪大学の石黒先生は、アラン・ケイと面会した際「ロボットの未来に可能性はあるのでしょうか?」と質問したところ、アラン・ケイから叱責されたそうだ。「お前はロボットを研究する立場にある人間だろう。そういう立場にある人間が、そんなことを他人に聞いてどうする。お前自身は、ロボットというものを人類にとってどういうものにしたいと思っているんだ?」と聞き返され、「アタマをガツーンとやられた感じがした」と述懐している。

再度繰り返して言おう。

いまここにある我々が、どのように未来があって欲しいかを考え、それに基づいて行動することで未来の景色は決まる。予測なんてアホらしいことはイイカゲン止めたらどうだろうか。

最後に、アラン・ケイのメッセージを。

"The best way to predict the future is to invent it."
「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ



日本から骨太なビジネス著述家が生まれないわけ

連休の中日、皆様にはいかがおスゴしでしょうか?

小生は、そろそろ東京生活は終わりにしようかと湘南〜逗子の土地物色に終始したGWでしたが、いやあテンション上がりますね。

これは知人の家ですが、イメージとしてはこんな感じ。シルエットは長女と長男です。ちなみに我が家はこの下にさらに怪獣の様な女の子がいます。いやあ、スゴいことになっています。




うむ、まあいいですよね。

結婚する前の家内との定番のデートコースは、鎌倉〜葉山に午後から行って、夕方から海を見つつ、アペリティフを楽しみながら本や雑誌を読んで、その後で地物の素材を使ったイタリアンを食べるというものだったので、まあなんというかバックトゥベーシックという感じです。二人とも海が大好きだし、最近は仕事で徹夜することもなく、かなりマイペースに出来る様になってきたので、そろそろそういう生活もありかな、と。

それはそうと、標題はビジネス著述家の話でしたね。

海を眺めながら考えていたのは、日本で出版されるビジネス書って、ごく一部の例外を除いてなんでこんなにレベルが、特に米国のそれに比べて低いのかなあ、ということなんですが、ああそうか、と瞬間的に理由が見えたような気がしたので、その備忘録です。

ここで言っている米国のビジネス著述家というのは、ドラッカーでありマルコム・グラッドウェルでありジム・コリンズでありダニエル・ピンクのことです。一方、日本のそれは、まあ実名を挙げるのは憚られるのでやめておきましょうか。でもだいたいイメージつくでしょう?

で、結論は「使用言語人口の差異」だなこれは、ということです。

日本語の利用者がまあざっくり一億人で、英語の使用人口が昔の英会話教室の広告によると二十億人なんで、日本語と英語では言語としての市場が二十倍違うわけです。

ところが、本を書くというのはむちゃくちゃ労働集約的で、つまり固定費なわけですから、市場の大きさに関わらず同じだけの日数がかかってしまう。だから、日本のビジネス著述家が、欧米のそれと同じだけの金額を同じシェアで稼ごうと思ったら、市場規模が小さいぶん発行頻度を二十倍にしないといけないわけです。

で、ざっと見てみました。

マルコム・グラッドウェルやジム・コリンズといった大御所が四〜六年程度のスパンで一冊出しているのに対して、日本のいわゆる流行ビジネス本作家という人たちは年に三〜四冊程度の本を出していますよね。これをならせば日本の作家が三〜四ヶ月に一冊の本を出しているのに対して、欧米のそれは四十八〜七十二ヶ月のスパンで一冊を出しているわけで、確かにまあほぼ使用人口規模の差とどっこいどっこいだよなあ、と。

ここまで来れば、もうこたえはわかると思うんですけど、本を一年に何冊も出すって、クオリティを保ちながらやるのは絶対に不可能なんですよね。個人的な経験もそうですし、一般にもそう言われていますが、本を一冊書くにあたっては少なくともその百倍のインプットが必要だと言われています。年に三册の本を出すということは、書くという非常にストレスフルな仕事を抱えながら、同時に三百冊分のインプットもやるということですから、これは不可能とは言わないものの、極めてストイックな生活をしなければならなくなる。一方で、欧米英語圏の彼らは、百冊のインプットを四〜六年をかけてじっくりやることが可能なわけで、これは論考に圧倒的なクオリティ差が生まれるのもあたりまえだよなあ、ということをキラキラと渚に反射する初夏の葉山の夕焼けを見ながら考えたわけです。


このロジックはなにを意味しているかというと、日本において、専業のビジネス著述家から、グローバルな水準でみてもクオリティの高い論考が生まれるということは恐らく無いだろう、ということです。ペシミスティックだって?でもロジカルにはそうでしょう?だって一年に何冊も出さなければ生活できないんだもん。日本では、カリスマ性を獲得するようなビジネス著述家がたまに生まれますが、そのほとんどが五年も経たずに失速してしまう構造的な要因はここにあるんです。これはマルクスが資本論で指摘した「疎外」と全く同じですよね。人間性とか努力とかそういうものではなく、市場の構造的なシステムに起因しているということです。

逆に言えば、日本からクオリティの高い論考のビジネス著述が生まれるとすれば、それは恐らく他に本業を持っているヒト、つまり大学教員を代表する教育に携わるヒトや就業者だということです。他に十分に食えるだけの生業を持っているヒトが、十分に時間をかけて乾坤一擲のメッセージを世の中に出す。そういうかたちでこそ、恐らく世界的な水準の論考というのが日本から生まれるのではないか、ということです。

うーん、どうなのかな。と言いつつ、日本の経営学会の教員からは日本社会にインパクトのある様な論考というのがほとんど出されないので、ちょっと事実とロジックにほころびがありますね・・・まあちょっと考えてみます。


スライド作成のオンライン講座は成立するか?

先日、オンラインの学校を経営しているベンチャー企業のスクーさんからのお誘いで、スライド作成のオンライン講座というものをやってみました。

基本的には一昨年に出したこの本、


の内容をそのまま授業でやって欲しいということでしたので、全二回の授業のうち、一回目はほぼ本の内容+実際のプロジェクトで使われたスライドの作例を説明し、二回目は実際のプロジェクトで作成されたスライドを作例としながら課題演習を実践する、というやりかたでやってみました。

授業の内容はオンラインで無料視聴できる様ですので、ご興味のある方は是非。

スライド作成の基本的なルールを解説した一回目はこちらで、
http://schoo.jp/class/557

より実務に近い課題を与えて作例を説明した二回目はこちらになります。
http://schoo.jp/class/558

で、この授業なんですが、ものすごく興味深い体験でした。

というのも、教えるその「場」に、生徒が誰もいないんですよ。その場にいるのは放送ディレクターとカメラマンと、あとは相方を努めてくれる女性の方だけで、まあスタジオだと思ってもらえばいいです。写真撮ってくればよかったな、しまった。

長いことグロービスで教えていますし、またコンサルタントとしてクライアントのワークショップでファシリテーターを務めることも多いので、人前で何かを教えたり話したりということは慣れているのですが、今回はまったく逆なんですよね。誰も居ない。じゃあ誰に向かって説明するかというとカメラに向かって説明するわけです。

これで本当に授業として成立するのか、というのが検証のポイントでした。

というのも、ファシリテーションをやったことがある人はご存知の通り、ワークショップというのは多面に創発的な側面があって、こちらの投げかけたボールに対して、参加者がどのように返してくるかというのを、言葉や表情や振る舞いから全力で拾い取りながら作り上げていく、という側面があるわけですが、こういったフィードバックを全く得ることが出来ないんじゃないか、と思っていたのです。

ところがですね、これがやってみると不思議なことに、結構ビビッドに反応が帰ってくるんですよ。何を通じて反応が返ってくるかというとTwitterなんですよね。Twitterにコメントや質問が随時アップされていて、それを見ながら授業を進めるんですけど、これが意外なことにちゃんと成立しているんですよね。

いやあほんと、ビックリしました。

教えるという行為は多分に労働集約的な側面があって、それが故に大きなビジネスにはなり得ない、少なくとも大もうけ出来る様なレバレッジの効いたビジネスにはなりにくいというのが通説としてあったわけですが、そういった認識を改めるべきときに来ているのだということを皮膚感覚で認識することができました。

最後に、この講座の内容ですが、最近はいくつかの企業さんでも幹部候補の研修や管理職研修でも実施しているのですが、御陰さまで大変好評なので、ご興味のある方は

bybykipling@gmail.com

までご連絡いただければと思います。

それでは。


キャリアのチャンスは「つなぎ目」にある その1

子供のときからの飛行機好きで、お酒を飲んで酔っぱらうとよくYouTubeで「着陸」の映像を見ています。

特に見物なのはクロスウィンドでの着陸で、滑走路に対して45度近くも機体を斜めにさせながらアプローチするようなトンデモナイ映像が見られます。巨大なエアバスのA380がスライドしながらアプローチしてくるVなんてスゴい。乗っている人は怖くてしょうがなかったでしょうね・・・


このビデオの、特に機体が空中にあるときには滑走路に対して斜めを向いているのに、着地した瞬間に、滑走路の軸線に対して機体を水平に修正するという着陸を何度か見ているうちに、瞬間的に気付いたことがあります。それは

つなぎ目が危ない

ということです。航空機の場合、空中にある場合と地上を走る場合では、属している系=システムが変わります。この「属しているシステム」を乗り換えるところに脆弱性がある、ということです。

航空用語に「魔の11分」という言葉がありますよね。これは「航空機事故の70%は離陸の3分、着陸の8分のあいだに発生している」という経験則から生まれた揶揄ですが、これはそのまま「つなぎ目」が危ない、ということを示しています。

同様のことが工学の分野についても言えるのかも知れません。例えば、原子力発電は例の事故があってから危険だ危険だ危険だと言われ続けていますが、では具体的にどこに危険性があるのか?ということを地に足をつけて考えてみると、実は「つなぎ目」に脆弱性がある、ということがすぐにわかります。

原発というのは炉でお湯をわかして、出てきた湯気でタービンを回して発電するという、それだけの仕組みですが、過去の事故を調べてみるとその殆どが炉とタービンのつなぎ目であったり、炉と建屋のつなぎ目で問題が起こっているのがわかります。原子炉やタービンや発電機を単体のものとして見ると非常に完成度は高いのに、それらをつなぐといろいろと問題が起きるわけで、これもつまり「系」と「系」のつなぎ目で問題が起こっているわけです。

で、ここで若干強引なのですが、実は経営システムもそうなんではないか、と思ったんですよね。

企業経営にはさまざまな側面が絡みますよね。経営戦略、財務・会計、人事・組織、マーケティング、オペレーション、製造、物流・・・これら一つ一つの要素については実務についても理論についても専門家が沢山いるわけですが、それら要素の「つなぎ目」に強い人が少ない、というのが今の問題なんじゃないかと思ったんですよね。

例えば僕がいまいる人事・組織の業界であれば、人事制度や組織論に通暁している人はたくさんいるわけですが、マーケティングや経営戦略の側面から、最適な人事制度や組織を設計できる人は本当に少ない、というのが現実です。これは何でもそうでね、マーケティングと物流とか、製造と財務とか、両方をつなげる人というのに今後価値が出てくるんじゃないかと思います。

でもこれっていいことだと思うんですよね。だって、カテゴリーが100個しかなかったら、100人のチャンピオンが生まれるだけですけど、カテゴリーのつなぎ目がチャンピオンを生むということになれば、100人のカテゴリーチャンピオン以外に4950人の交差点チャンピオンが生まれるわけで、ずっと多様性のある社会になると思うんですよね。

これからのキャリアのあり方として「T字型」という表現がよく言われますが、そうではなく「X字型」?なのかな?よくわからないけど。でもそうなんじゃないかな。だって「T字型」って、言いたいことはわかるけど、要するに無いものねだりでしょう?全分野に一応の知識はあった上で専門性を持っているなんて、そりゃいいに決まってますよね。「これからの時代はT字型人材が求められる」って、なにをネボケタこと言ってんだよ、そんなのギリシア時代から変わらないじゃんか、と思いますけどね。そう、だから「T字型」より「X字型」なんですよ。

専門家としての矜持を持って自己研鑽を積むことはプロフェッショナルとして当然のモラルだと思いますが、その上で「自分が生きる交差点」を意識することで、企業や社会が抱えている「脆弱点」を補正できるのだとすれば、個人にとっても社会にとってもこんなにいいことはないよなあ、と思うのです。

そうなると、ということでまだ考察は続くのですが、それは次回ということで。

教養主義の罠

先日、柄谷行人+浅田彰他の編者による「必読書150」という本を読んで、いろいろと考えさせられたことを備忘録代わりに。

この本、いわゆる「教養主義」の本なんですよね。一応ことわっておくととても面白いです。一度読んだ本についても「おお、そういう視点があったか」と思わせる紹介があってとても刺激になる。


で、こういった本をまとめて紹介しているというのはつまり、そういった名著を読め、ということなのですが、そのように強く主張する柄谷さんの論拠が奇妙で「こんなものすら読んでいないのはサルである」ということなんですね。サルでいるのがイヤだったら読め、とまあそういうことらしいのです。

この一節を読んでまず思ったことが、こういった名著を読んできたことで、本人たちに言わせると「サル以上の何者か」になった著者+編者の皆様の「生」が、どれくらい善く、充実したものになっているのだろうか、という点なんですが、それがどうもよくわからないんですよね。

例えば浅田彰さんという人は、80年代に「構造と力」でセンセーショナルなデビューを果たしましたけど、率直にいってその後、処女作に匹敵する様なインパクトを結局は出せなかった、という印象を持っています。有名なのは某週刊誌に連載している某元県知事との対談ですが、なんというか、揚げ足取りの難癖に終始しているようにしか見えない。この社会をどうやったらより善いものにしていけるのか、という論点に真っ向から取り組んだ考察というのは、結局生涯で一つも出せなかった人だという印象を持っています。

柄谷さんについても同様で、「哲学の起源」とか「世界史の構造」なんかを読むと、迸る様な知性に満ちあふれていてとても面白いのですけど、その教養が、社会と本人にとって一体なんの役に立っているのか、というのが今ひとつわからない。

面白いですよね。浅田さんという人はポストモダニズムの騎手として颯爽と思想界に登場したわけですけど、ポストモダンというのは言ってみれば「反教養主義」だったわけですからね。保守教養主義という巨大な敵がいたからこそ、それに対する反力としてポストモダニズムというものが存在し得て、その中心に居たのが浅田彰さんだったわけですけど、反力を生む保守教養主義自体が力を失って功利主義・プラグマティズムが本流になってしまったら、今度は自分が教養主義者になって功利主義を攻撃しているという、そういう反転構造がここに見えます。本人は気付いてんのかな。まあいいけど。

こういったことをツラツラと考えていくと、「教養が大事だ」と主張する教養人たちのアウトプットと人生が、とても貧困なものにハタからは見えるということが、教養主義が廃れてしまった最大の原因じゃないかしら、と思うわけです。

「教養のあるサル以上の何者か」になるより、「教養がなくても幸福で充実した人生を歩んでいるサル」のほうが僕はいいと思うし、多くの人もそうなのじゃないかな、ということです。

役に立つか立たないか、という判断軸がおかしい、という指摘もあるかも知れないけど、僕はその点についてはこだわりたいんですよね。大学の教養課程は英語ではリベラルアートと言われますよね。リベラルアートのもともとの語源は新約聖書福音書の「知は自由にする」という言葉に由来してます。つまり、教養というのは人をして自由ならしめるためにあるわけで、とても功利的な成り立ちをもともとはもっているということです。訳が悪いんだよね。リベラルアートを「一般教養」なんて訳してしまったから、功利主義的な側面がこぼれてしまって、なんか花嫁修行の一種みたいなニュアンスになってしまったんですね。

でね、ここで自分を振り返ってみると、最近は自分も教養主義に冒されつつあるということがわかって、これは危ないかも知れないなあと思っています。僕自身のいままでを振り返ってみると、人から与えられるカリキュラムを徹底的に無視して、自分が大事だと思うものにのみ時間を使って読む・聴く・観るをやってきた結果が、いまの自分の血肉になっているということは明白なので、これはつまり「教養主義」を徹底的に排除してきた、ということなんですよね。

カリキュラムというのは、他人が「これはとても大事」ということで編集・編成したものですけれども、これはつまりそのまま「教養主義」に通じますよね。テレビ局や雑誌と同じで、自分のところに編成権・編集権がないわけです。で、僕はその点、つまり「自分で編成権を持てない」というのがとても嫌で、ほとんど学校に行かず、ひたすら図書館で自分が面白いと思う書籍は選んで読む、面白いと思う映像を借りてきて観る、ということをやっていたわけです。経営学もビジネススクールに行かずに独学したしね。つまり、子供の時からずっと、他人がなんといおうと、僕が面白いと思うのが「善い本」であって、そうでないものは「悪い本」なのである、ということを強く信じているんです。でもね、そういう態度を貫き通せた20代前半までの時期に比較して、いまはずいぶんと「これは読め」というアドバイスというか、余計なお世話に従順になってしまっているなあ、と思ったんですよね。

教養主義というのは一種の罠だと思っています。

はまってしまうと、不思議な序列システムのなかに絡み取られてしまって、幸せになるためのシンプルな本質がよく見えなくなってしまう。自分の置かれている文脈に沿って必要な知識こそ、大事な知識であって「これを知らないのはサルと同じ」といった主張に踊らされて、教条主義的なコンテンツを仕入れるのに時間を使うことのないように気をつけよう、と思った44歳の春なのでした。







「身も蓋もなさ」にどう対抗していくか?

ここ数年で気付いたことなんですけど「勝ち」にこだわるといろいろな意味で「味」を失うよなあ、ということを最近あらためてよく考えています。

数年前にF1を直接見る機会があったのですが、その際にマシーンのあまりの醜さに驚愕したという体験が、恐らくこの点について考えるようになった最初のきっかけがじゃないかと思います。自動車、なかんずくレーシングカーというのは、1970年代くらいまでは大変美しいもので、そのまま芸術作品と言ってもよいようなものが沢山あったのですが、現代のレイーシングカーって本当に醜悪で、なんというか深海魚みたいになってきましたよね。

分かりやすい例がラリーカーですかね。えーっと、

旧はこれかなあ。ランチアのラリー037ね。これは1980年代前半のマシンです。「身も蓋もなさ」にWRCが冒される前の最後のマシンですね。四輪駆動が主流になりつつあったのに「美しさ」に拘ってミドシップ×後輪駆動を選んでいるという・・・



で、新はこちら。シトロエンの C4です。これはごく最近のマシンです。


C4は自分で乗ってたくらいなので嫌いではないんですが、デザインとしての「身も蓋もなさ」をわかってもらうには、いい材料かなと。

ラリー037とC4のあいだに見られる極端な美的差異は、そのままラリー選手権という競技がかつての「貴族の決闘」から単なる「ドッグレース」に変わってしまったことを意味しています。「名誉」から「エサ」に報酬が変わってしまったんですね。

こういった変化は、結局のところ「速ければ醜くてもいい」という作る側の論理が支配的になってきた証拠であって、そのコメントというか思想に、僕はある種の「身も蓋もなさ」を感じるんですよね。

この「身も蓋もなさ」というのは、ビジネスやスポーツをはじめとして、いろいろなところで「味をなくす」ことにつながっているよなあ、と最近つよく思うのです。

例えばオリンピック。「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた古橋広之進がオリンピックで金メダルを取ったのは大昔のことですけれども、そもそも、あの当時のオリンピックはヨーロッパ貴族の手合わせみたいな場所だったわけで、そこにヅカヅカ土足で入り込んできた男が、人生のすべてを注ぎ込んで一日16時間のトレーニングに打ち込み、その末に勝利して「やった!勝った!勝ったあぁぁぁぁぁ!!!」って騒いだって、周りからは「そりゃお前、あまりに身も蓋もないダロ」と思われてたと思うんですよ。

でもね、ここが大事なところなんですけど、そうやって「身も蓋もないやり方」をやって勝つ人が出てくると、みんな「イヤだねえ〜、アアはなりたくないよね〜」と嘆息しつつも、裏で特訓したりして最終的にみんな身も蓋なくしていくんですよね。「柔道部物語」の後半で、西野が出てきた時に、その柔道の「美しくなさ」「身も蓋もなさ」に三五たちが衝撃を受けてましたけど、まああんな話ですねって、全然わかんねーか。

つまり「身も蓋もなさ」というのは伝染性がある、ということです。

その「身も蓋もなさ」にいまの日本人のほとんどが絡めとられていて、それがさまざまな分野で「味」がなくなることにつながっているんじゃないのかなあ、と思うのですよね。

で、それはわかったからじゃあどうすればいいわけ?

と聴かれそうですが、明快な答えがあるわけではありません。僕自身、もっと身も蓋もなくして功利主義に猪突猛進すればいいのかなあ、と思う時もあるんですけど・・・なんか中途半端ですよね、外資系コンサルティング会社にいてこういうことを言ってるというのも。

でもね、確実に言えるのは、この「身も蓋もなさ」に世界中が覆われると、僕らの住んでいる世界は間違いなく、もっと窮屈でギスギスしてコセコセした、イヤな世界になってしまうと思うのですよ。

なんとかしたいなあ、と思うのですけどね。

バッハは「ショッパナ」がいい、という話

どうも。

最近仕事がしっちゃかめっちゃかに忙しい上、ネット上の学校の教材作成やら雑誌の原稿執筆やら書籍の原稿執筆やらで、ブログをまったく書けていなかったのですが、先日、大雪が降った際に

。。。これではいかん。。。

と思い、今日は頑張って書きます。

で、何を書こうかと考えたのですが、最近あらためて愛情が深まりつつあるバッハについて書こうかな、と。

バッハについてはいろんな人が思いっきり愛情を込めて書いているので、ちょっとそれとは違う角度のことを書こうかと思います。

で、それはバッハの「ショッパナの曲」の良さについてです。

バッハは数多くの曲を、曲集というパッケージで書いていますが、あらためてこれら曲集の最初の曲=ショッパナを並べてみると、そこはかとない共通項が見えるような気がするんですよね。なんというか、柔らくて神々しいのです。

と文章で綴っても伝わらないと思うので実際の曲を聴いてもらいましょうか。典型的には平均律かなあ。まあ難曲ばっかりの曲集ですけど、最初の曲は驚くほど柔らかい。

これはリヒテルの演奏ですね。僕は平均律のレコードを六枚かな?、もう少しあるかも知れませんが、いずれにせよそのくらい持っているんですけど、この演奏が一番柔らかいですね。今年は雪が沢山降りましたけど、僕は休日に雪が降るとホットワインを作ってこれを聴きながら窓外の景色を眺めるのが大好きです。

ちなみに柔かさ、という点ではこの演奏に僅差でシフが続くという感じで、ビリッケツはもちろんグールドということになります。


平均律というのは、それまで倍音の構成だけで作り上げられていた純正律から。。。。まあ興味のアル人はWikipediaで調べてみて下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B

乱暴に言えば、音楽に置けるHTMLみたいなものです。これが出来たおかげで12の音の長短、〆て24の調の全てに行ったり来たりできるようになったという、まあ音楽上のイノベーションですね。

このイノベーションを最大限に活用するとどんな音楽が出来るか、というのがバッハの挑戦で、したがって平均律は24の曲から成立しています。ハ長調=C Major=C Durから始まって、ロ短調=B Minor=h mollで終了します。楽曲はまことに構築的で、聴いてもそうだし、楽譜を見るとさらにそうなんだけど、まったく数学、というか論理学の世界ですね。全ての音に必ず意味がある、という。

このVは全曲入っているので、一曲目の柔らかさと二曲目以降の構築美を比較して聴いてみると面白いと思いますよ。使っている和声は、初学者でも分析できる程度の優しいものです。ドッペルが少し入っている程度でね。なのにこの深さ。マジックだよね。

で、次はこれかな。チェロ組曲ですね。
演奏はマイスキーになります。


僕のブログを読んでいる人は、お、以前はヨーヨーマを紹介していたのに、と思われるかもしれませんが、まあ甲乙つけがたい演奏ですよね。チェロは調弦の関係でそれほど自由に調が選べるわけではありません。解放弦がCーGーDーAになっていますから、これらの音が多用される調性でないと難易度が高くなり過ぎちゃうんですよね。従って、平均律みたいなアクロバチックなことはやっていません。一曲目はト長調で、チェロでもっとも弾きやすい調の一つと言えます。

チェロ組曲では、一曲目の位置づけは平均律ほどには際立っていないように感じるかも知れません。平均律では、明らかに一曲目が他の曲から浮いちゃっている感じですが、チェロ組曲ではそのようにはあまり感じられない。ちなみにクラシック愛好家の多くがさもしたり顔で絶賛するカザルスの演奏は、僕は全然いいと思いません。あれは楽器を弾けない人が褒める演奏だよなあ、とつくづく思いますね。精神性の高さって、なにその日本語という。弾けない人ほどそういう「言葉」を持ち出すんですよね。もう笑止千万です。

はい次。ゴルドベルクです。こちらは変奏曲になります。曲数は32。最初の曲で提示されたシンプルなモチーフを、早めたり遅くしたり、上下をひっくり返したりしてさまざまな変奏をつくっていくという、なんだか作曲科の学生向けに書かれた教科書のような曲集です。そう言えば坂本龍一さんも、芸大作曲科の時代には変奏曲の授業でゴルドベルクを使ったとおっしゃってましたね。

それはともかく。演奏は、やっぱりグールドのがいいですね。これは1981年のものです。


これ、パッケージが美しいんですよね。何が美しいって、最初の曲と最後の曲はまったく同じなんです。つまり、どこかに直線的に向かうのではなく、循環してくるんですよ。これは平均律も似ていて、ハ長調から始まって、どんどん離れていって、最後はハ長調一歩手前のロ短調で終わるという構図になっていますよね。循環構造なんです。

しかも構造がフラクタルになっている。最初の曲と最後の曲は32小節で、曲集全体は、この最初と最後の曲で用いられた各小節の低音をモチーフにした30曲と最初と最後の曲の合計32曲で構成されています。この循環をたどる旅を歩みつつ、やっぱりこのゴルドベルクの魅力は、一曲目に提示されたモチーフの強さだなあ、としみじみ思うんですよね。

映像はグールドの演奏です。グールドは1955年と1981年とで、二回ゴルトベルグを演奏していますが、年齢を経るということが演奏にどういう影響を与えるのかを考える為のいいサンプルになると思いますよ。



と、ここまで来て息切れです。メモを見返してみると、この先、フレンチ組曲、フーガの技法、マタイ受難曲、パルティータ、イギリス組曲、フランス組曲、インヴェンション、ヨハネ受難曲、ロ短調ミサ曲と続けたかった様ですが。。。。寄る年波には勝てないということで、次回に繰り越します。

でも、こうやって並べてみると、各曲集のなかでもやはり最初の曲が、そのクオリティ、神々しさにおいて突出しているよなあ、というのは感じていただけたのではないでしょうか?

それではまた!




Willful Blindness

Got back from training in London.

The venue hotel was located on the pastoral outskirt of London and looked really "Wuthering Heights" like.  I was quite excited as I have been an enthusiastic reader of Emily Bronte.

Can you spot a ghost of Catherine?


15 people joined from all over the world and had workshop for 4 days.What I was impressed with was that they didn't use any powerpoint presentation, any desks and any agenda. Just sat in the circle in the room and discussed what  we wanted to discuss as it went. And it turned out to be really a life-turning experience. Actually I saw more than a few people were crying in the middle of the session.

I have learned a lot of things through this program and wish to share these insights with you, but today I want to pick up just one issue. 

This is called "Willful Blindness"

We often think that "Ignorance" should be a cause of errors, mistakes, failures, unhappiness...whatever we think as BAD.

But, when we look back into human history or the world at large or maybe our personal lives. Ignorance is rarely a route cause of these things. And instead, we find "Willful blindness" is it.   

Willful blindness can be defined as intentional blind, which means to intentionally ignore signs which tell you something important...or maybe more than important ...fatal. 

To discuss this issue, we watched TED video and this video really reminded me of one ZEN sentence. This is my favorite one.

遍界嘗て隠さず。
Henkai Katsute Kakusazu. 

This means "Truth shows up here, there and everywhere in front of you". 

ZEN monk is working of course to capture the truth through hard training. And it sometimes seems the truth is running away from a seeker or the world itself hides the truth from a seeker. But, If one thinks like this way, then it means the matter turns out to be attributed to the world or the truth, not to the seeker himself. 

Naturally, it doesn't work. 

This sentence tells us that if you don't see the truth, then the matter is always you. Because the truth always shows up in front of you. It means you have "Willful Blindness". And our effort to seek the truth is simply means to take off our shutter of our "Mind" eyes.

Like this, all those issues we have discussed made strange connections with those things i had learned through my life. I will post another one someday.

Bye.




つねに「行動を提案する」という意識をもつ

いま「知的生産」に関する本を書いているのですが、その執筆の過程で改めて考えさせられたのが、結局のところ、知的生産というのは最後に「行動の提案」があってはじめて完結するよなあ、ということです。

「行動の提案」とはつまり、「ではどうするべきか?」という問いに対して応えを出す、ということです。

考えてみると、ビジネスの世界を限らず、我々が知的成果として世に訴えられる情報は基本的に三種類しかないことがわかります。それらは「事実」「洞察」「行動」の三つ。世の中に生み出された過去の知的成果を並べてみると、その殆どがこれらの三つのどれかに分類できることがわかります。

例えばマルクスの「共産党宣言」には、これら三つの要素が全て含まれていますよね。プロレタリアート=労働者階級とブルジョア=資本家の暮らしぶりを比較するという「事実」にもとづいて、そのような悲惨な格差が発生している要因を、疎外をはじめとしたモデルとして説明できる「洞察」として提示し、最後に、労働者の団結を訴えるという「行動」の提案によって締めくくっています(一方、同じマルクスによる「資本論」は、「事実」と「洞察」については共産党宣言よりずっと豊かな情報量を含んでいるのに「行動」についての情報は殆どありません。これは非常に興味深い対比です)。

また近年の好例としてはアル・ゴア元米国副大統領による「不都合な真実」が挙げられます。この映画(書籍もほぼ同じ内容ですが)では最初に、大気中の二酸化炭素濃度が上昇していること、氷河や南極の氷床が縮小し続けていること、ツンドラ地帯の永久凍土が解け始めていることを「事実」として示し、次にこれらの「事実」から、地球が長期的な温暖化傾向にあるという「洞察」を示し、最後に、視聴者に対してとって欲しい「行動」を提案するという構造になっていますよね。

知的生産が、結局のところ「世界をより良い場所にする」という目的のために生み出されるのであるとすれば、それらは最終的に人々にとっての「行動」の指針となるものでなければなりません。つまり「行動」にまで踏み込むことで、初めて知的生産というのは価値を生み出す、ということです。たまに「あの人は評論家だ」といった陰口を聞くことがありますが、評論家というのは「洞察」までしかアウトプットできない人ということです。これは、ある意味で大変本質をついた評価といえます。というのも「事実を整理する」ことと、そこから「洞察」を生み出すことと、最後に「打ち手を生みだす」ということでは、知的筋力には非連続な力量が求められるからです。

つまり、知的生産というのは、「では、どうするの?」という問いに対して応えを出すことで初めて完結する、ということです。膨大な情報を集め、緻密な分析を積み上げ、そこから得られた様々な示唆をドヤ顔で説明することは出来るのに、「ではどうすればいいのですか?」とたずねると、そこから先に進めない人が、とても多い。もう一歩、あと一歩で頂上というところまで来ているのに、そこで歩みを止めてしまう。その「もう一歩」というのはつまり、「では、どうするのか?」という問いに対して応えをひねり出す、ということなのです。

翻って考えてみれば、この問いは古代ギリシアの時代以来、すべての哲学者が追い求めてきた問いといっていいかもしれません。機会があったら是非意識して読んでみてほしいのですが、少なくともプラトン以降、地球上のすべての哲学者が向き合ってきた問いは二つしかないのではないでしょうか。それは「世界とはどのように成り立っているのか?」と「その中で、我々はどのように生をまっとうするべきなのか?」という問いです。そして、この後者の問いがあるからこそ、前者の問いに対する応えもシンプルなものにせざるを得ず、だからこそ過去の哲学者はどこまでも強く、深く考え続けたのです。

知的生産の技術と聞いて多くの人は、情報を集めて整理する技術、あるいはそれを分析して示唆や洞察を得る技術を想定されるかも知れませんが、極論すればそんな技術は必要条件でしかありません。最後の最後、では、いま、ここにいる私は、どのように生をまっとうするべきなのか?この点こそが最も重大な問いであり、それに何らかの応えを出していないようであれば、そのような知的生産は極論すれば無価値だと思います。

何からのかたちで知的生産に従事する際には、つねに、最後は「では、どうすればいいのか?」という問いに対して応えを出し尽くすのだ、という気概をもって臨んでほしいと思います。

アンラーンのすすめ

あけましておめでとうございます。

昨年中は一方ならぬご支援を各方面からいただき、本当に有り難うございました。
本年は、公的・私的を問わず、生活をより充実したものにしたいと思って努力する所存ですので、これまで通りのご指導・ご鞭撻を宜しくお願い致します。

実は、昨年末に生まれて初めて「来年の目標」なるものを作成し、とてもよいものが出来たので折りに触れて読み返すことで自らの居住まいを常に正していきたいと思っているのですが、今日はその中の一つのテーマである「アンラーン」について少し書きたいと思います。

アンラーンとは「ラーン=学ぶ」の逆ということです。無理やりに日本語にすれば反学習ということになるでしょうか?「再」学習ではなく「反」学習。つまり、一度学んだことをまっさらにしてしまうということです。なぜ、貴重な時間という資源を投資してせっかく学んだことをまっさらにしなければならないのか?理由は簡単で、環境の変化がとても早くなっているからです。十年前には有効だったコンセプトやフレームワークがどんどん時代遅れになり、新しいコンセプトやフレームワークにとって変わるということが起こっているのが現代です。

一つわかりやすい例を挙げましょうか。

1997年にチェスの世界チャンピオンであるガレリ・カスパロフはIBMのスーパーコンピューター「ディープブルー」と対戦し、敗れました。コンピューターが(人間の)チェスの世界チャンピオンに初めて勝ったということで当時は大変な話題になったものです。

その翌年、IBMはディープブルーの能力を更に5倍程度に増強し、これを一億円で販売し、それなりの販売成績を収めたようです。201413日の時点では、IBMのウェブサイトを確認すると、ディープブルーは、その後NASAの火星無人探査機「マーズ・パスファインダー」のプロジェクトや米国エネルギー省のローレンス・リバモア研究所などで活用されたという報告が掲載されています。

さて、この一億円で売り出されたディープブルー(改)ですが、現在皆さんが日常的に使っているデスクトップのPCには、ほぼ同じ性能が備わっていると申し上げたら驚かれるでしょうか。しかし本当のことなのです。この、たった17年間のあいだに、一億円の価格で販売され、政府や大手シンクタンクにしか購入できなかったスーパーコンピューターとほぼ同等の性能のコンピューターが、家庭の主婦にも購入できるようになっているのです。

一億円といえば都内一等地の高級マンションや最高級のスポーツカーの価格と同等ですが、これらの物品の価格が20年足らずの間に10万円まで落ちるとはとても考えられません。しかし、情報処理の分野ではそういうことがここ50年ほど起き続けているのです(インテルの共同創業者であるゴードン・ムーアが、集積回路の密度は毎年二倍になるという、いわゆるムーアの法則を指摘したのは1965年のことです)。

これを逆さまに言えばつまり、今日一億円かかるコンピューターは、17年後には10万円程度になるということでもあります。僕は最近いろんなところで「多くの人がコンピューターと仕事を奪い合う時代がすぐに来る」と書いたり話したりしていて、この話題についてはまた別にポストしたいと思いますが、現在、コストがかかり過ぎるという理由でコンピューターに代替されていない仕事の多くは、恐らくごく短期のうちにコンピューターによって代替されることになるはずです。

そして、その変化はビジネスモデルや社会の有り様にたいしても大きな変化を与えることになる筈です。その様な、大きな変化が継続的に起こっている世界において、一度学んだコンセプトやフレームワークに執着し続けるのは、怠惰を通り越して危険ですらあると言えるのではないか。こういった世界に生きる僕らは、常に「昔とった杵柄」を廃棄し、常に虚心坦懐に世界を眺めながら、自分が学んできたことをアンラーンし続けることが求められよなあ、というのが今の心境です。