幸せなキャリアを歩むために、とても大事な三つのこと

キャリアはよく登山になぞらえられて語られます。では、登山において最も重要視される論点は何でしょうか?それは「生きて帰る」こと。これに尽きます。ところが、キャリアに関する論考の多くは「いかに早く登るか」、「いかに高く登るか」といった論点にフォーカスするばかりで、肝心かなめの「いかに滑落死を防ぐか」といった論点がなおざりにされている感があります。

僕は、三年前に出版した著書「天職は寝て待て」を書くに当たって、70人強のビジネスパーソンにインタビューを行いました。彼らの多くは一流大学・ビジネススクールを卒業して世界的なコンサルティングファームや投資銀行に勤務している(またはしていた)人々であり、まさに「キャリア登山のファストクライマー、ハイクライマーであると言えます。しかし、そのうちの少なくない人が、キャリア登山における「滑落死」の状況に陥っています。

勝ちに不思議の価値あり、負けに不思議の負けなし

とは、江戸中期の剣術家、松浦静山の言葉ですが、この言葉はキャリア論においても通用するのではないか。僕が前著「天職は寝て待て」で記した通り、成功したビジネスマンのキャリアの 80%が「偶然」によっています。つまりキャリアにおける成功というのは「不思議の勝ち」であることが多いのです。その一方で、「ひどいこと」になっている方たちには、いくつかの明白な共通項が失敗原因として見られます。つまり「不思議の負け」はない、ということです。

ここでは、キャリア登山におけるファストクライマー、ハイクライマーが、どの様にしてキャリアの滑落死に陥るのか、その主要因である 3つの滑落死パターンを考察してみたいと思います。

■職業上の「憧れ」に捉われすぎる
Aさんは、国立大学を卒業して政府系金融期間に就職。5年後に企業派遣で米国の名門ビジネススクールでMBAを取得した後、2年たったタイミングで外資系戦略コンサルティングファームに転職します。ところが、短期間のうちにコンサルタントとしての適性に欠けていることが判明し、入社一年後にはやんわりと退職を勧奨されることになります。その後、2年ほどは低評価に甘んじながらも、同じファームで頑張り続けたものの、同時期に入社した同僚が次々にマネージャーに昇進するのを見ていたたまれなくなり、別の外資系戦略コンサルティングファームに転職。しかし、このファームでもやはり適性がないと診断され、やはり入社後一年ほどで退職勧奨を受けることになります。Aさんはその後、国内の業務系コンサルティングファームに転職しますが、ここでもパフォーマンスを発揮できず、更に事業再生に特化したコンサルティングファームに転職したものの、このファームは業績不振を理由に日本オフィスの大幅縮小を決定、Aさんは実質的にレイオフされてしまいます。現在、Aさんは国内の中堅コールセンター受託サービス企業の企画部門スタッフとして勤務しながら、次のキャリアを模索している状況です。

Aさんは、典型的な「憧れの近視眼」によってキャリア選択を見誤った例と言えます。私は前著「天職は寝て待て」において、「憧れ」に主軸をおいてキャリア選択を行うのは大変危険だと述べましたが、とは言えキャリア設計において「憧れ」に軸足をおいてキャリアを考察することを全否定するものではありません。それは自然なことだと思いますし、逆に「憧れ」がまったくない中、功利主義一点張りでキャリア設計をしていくのは、それはそれで不確実性が非常に高い現在の様な社会状況では意味がないと、やはり同著の中で指摘しています。

「憧れ」は駆動エンジンとしては必要だけれども、それを軸足にキャリアを設計すると危ない、ということは、これを制御するためのカウンターシステムが必要になる、ということです。そのカウンターシステムとは「負ける技術」です。そして「負ける技術」は大きく二つの能力=「自己客観視能力」と「関心喚起能力」から構成されています。

まず僕たちは、そもそもの前提として「憧れ」の職業について活躍できる、ということが非常に稀なのだということを理解しておく必要があります。ごく稀に子供の時から憧れていた職業について、その職業で高いパフォーマンスを発揮している人が要ますが、そういった人は例外なのです。多くの人は、「憧れの職業」を、どこかの段階で諦めて「そんなものには自分はなれないのだ」ということに「気付き、受け入れ、そして忘れる」ことが求められます。これが「自己客観視能力」です。「自己客観視能力」の足りない人は、引き際を見極められず「勝つまでやる」ということになるわけですが、最終的にどこかで勝てればいいものの、一生を費やして結局勝てなかったとなると目も当てられません。

よく言われる「一念岩をも徹す」とは「必ず出来ると信じて必死に努力すれば不可能なことはない」という意味ですが、「出来ないものは出来ない」と見切るのもまた一つの知恵だと言えます。日本人は「一意専心」とか「この道一筋」といった態度・生き様を妙に評価する一方、変わり身が早くて要領の良い人を蔑む様な風土があります。リンゴの無農薬栽培を成功させて一躍有名になった木村秋則さんは、10年間近くほぼ無収入に近い状態を過ごしながら、最終的に成功したことで、その執念・努力が称賛されたわけですが、私自身は、一個人の立場としては木村さんのひたむきさや粘り強さに感服しつつも、キャリアカウンセラーの立場からは、その様な態度や考え方は、非常に危険なものだと考えています。探検家の故植村直巳さんは、登山において最も重要なのは「自分の実力以上のルートだと思ったら、その時点でアタックを中止する勇気、引き返す勇気を持つこと」と述べていましたが、キャリアにおいても同様の心性が必要だということです。

次に指摘したいのが「関心喚起能力」です。「憧れ」に基づくキャリアの暴走を防ぐためには、「負けを認める」ことが重要だと述べましたが、単に負けを認めるだけでは、ひたすら絶望を繰り返して生きろ、ということになってしまいます。そこで大事になって来るのが、別の仕事の中に面白さ、やりがいを見出していく発見力です。

「関心喚起能力」を鍛える上で重要になって来るのが「引き出し」です。未経験の仕事に対して、それがどのような面白さややりがいをもたらしてくれるのかを皮膚感覚で理解するには豊かな想像力、多面的に物事を捉える価値観、いわゆる「引き出し」が必要になります。ところが学生時代から憧れの職業に向けて一直線で準備をしてきた、というような人生を歩んできた人ほど、この引き出しが少ない。「憧れの職業に就き、活躍する」ということに対して「役に立つか、立たないか」だけで学習機会を峻別してしまうからです。ところが学習というのは本来的には予定調和しない時にこそ深い学びが得られわけですから、そのような浅薄な目的合理性だけで駆動されてきた学習というのは引き出しの拡大に貢献しないのです。

人類学者のレヴィ・ストロースは、南米のマトグロッソのインディオ達が、ジャングルの中を歩いていて何かを見つけると、何の役に立つかわからないけれども、「これはいつか何かの役に立つかも知れない」と考えてひょいと袋に入れて残しておく、という習慣があることを、著書「悲しき熱帯」の中で紹介しています。そして、この「よくわからないもの」が、後でコミュニティの危機を救ったりすることがあるため、この直感的予測の能力がコミュニティの存続に重要な影響を与えると説明しています。この不思議な能力、つまり「よくわからないもの」を非予定調和的に収集しておいて、いざという時に役立てる能力のことをレヴィ・ストロースはブリコラージュと名付け、予定調和的な近代的思考と対比させて「野生の思考」と名付けました。 

我々は10年先のことも予測できない不確実性の高い世界に生きています。この様な世界において、「この知識は役に立つ、立たない」といった乾いた判断基準で学習機会を峻別していたのでは、「図太い知性」を育むことは出来ません。今後ますます流動的になる社会において、この「学習のブリコラージュ=野生の思考力」は非常に重要な能力になるでしょう。

■不条理を受け入れられない
ハイクライマー、ファストクライマーが滑落死する二つ目の主要因として「不条理受け入れ力」が足りない、という点を指摘したいと思います。

Bさんは、国立大学を卒業して外資系IT企業に勤務後、欧州の名門ビジネススクールでMBAを取得。帰国後、外資系戦略コンサルティングファームへと転職し、順調にマネージャーまで昇進しました。固定顧客もついて販売責任を負うパートナーよりも多くのフィーを稼ぐエース格として活躍するに至ります。しかしそのうち、自分より売上金額が少ないパートナーが居座り、自分がなかなかパートナーに昇進できないのはおかしいと考える様になり、ことあるごとにその不満を公然と口にするようになります。また、「自分の方が優秀」と小馬鹿にしていた同僚が、自分より先にパートナーに昇進することになるという「事件」も発生して、いよいよモチベーションが低下していた時期に、別の外資系コンサルティングファームから誘いの声がかかります。このファームに居ても正しく評価してくれないと考えたBさんは、このオファーを受けて転職することを決意します。転職直後は移籍したファームで水を得た魚の様に活躍したBさんですが、一年もたたないうちに以前のファームと同じような状況にやはり不満を募らせ、このファームも辞めてしまいます。次に移ったファームでも同様の状況に陥り、ここも短期間で退職せざるを得ないことになってしまいます。その後、Bさんは個人でコンサルティング事務所を開設しますが顧客獲得のために平均睡眠時間4時間の生活を続けていたところ心身のコンディションを崩してしまい、現在は御実家で療養しながら次のキャリアを検討しています。

Bさんは典型的な「不条理に耐える」ことが出来なかったケースです。

世の中には、「世界は公正だ」あるいは「世界は公正であるべきだ」と考えている人がいます。この様な世界観を社会心理学では「公正世界仮説=Just World Hypothesis」と呼びます。公正世界仮説は、もともとは正義感の研究で先駆的業績を挙げたメルビン・ラーナーでした。ラーナーはその著書の中で、「一般的に、人は世界が予測可能、理解可能であり、従って自分の力でコントロールできると考えたがる」と述べています。公正世界仮説の持ち主は「世の中というものは、よい人は報われ、悪い人は罰される様に出来ている」と考える傾向があります。

そして、ここがポイントなのですが、いわゆる受験エリートは、とてもこの仮説に支配されやすいのです。なぜかというと、自分たちが、そのような単純でわかりやすいルールや因果律が支配するシステムの中で競争して、そこで好成績を収めてきたらです。神学や哲学といった学問と比較すると経営学は極めて単純で見通しの良い学問ですから、こういった「底の浅い知性が試される競争」の中で好成績を修めてきた人にとってはとてもなじみが良いのです。ところが大変困ったことに、世界というのは公正には出来ていない、いわば不条理の塊なわけです。

1995年に地下鉄サリン事件が世間を震撼させた際、最難関の大学を卒業した多くのエリートがオウム真理教に帰依しているという事実が社会を困惑させました。この際、多くの論者が、なぜあのような優秀な若者が、あのような殺人教団に帰依してしまったのか、ということについて論じていますが、複数の方が指摘していたのが、オウム真理教の教義の「シンプルさ、わかりやすさ」でした。受験という「わかりやすいシステム」の中で好成績を収めてきた若者が、世界という「不条理なシステム」に辟易して、オウム真理教が唱える「わかりやすい教義」に心理的な安堵をおぼえて帰依して行った、というのが彼らの分析です。エリートは「わかりやすいシステム」になびきやすいのです。

僕は、昨今の新卒学生間での戦略コンサルティングファーム人気にも、この「不条理忌避傾向」が働いているのではないかと考えています。戦略コンサルティングファームの階位制度と評価制度は極めてシンプルで、運用も「成果を出せば昇進し、出せなければ去れ」とこちらも単純極まりません(実際には前述した通り様々な不条理が存在しますが)。語弊を恐れずに言えば戦略ファームのシステムというのは、外形的には非常にシンプルでメカニカルに見えるという点で極めてオウム真理教的なのです。このシンプルさに、不条理を嫌う若者が惹かれているのだろうな、というのが私の仮説です。

不条理を終生のテーマとして追求し続けた人物にアルベール・カミュがいます。彼は著作「シーシュポスの神話」の中で、不条理に対して人が取り得る態度は結局のところ三つしかない、と主張しています。その三つとはすなわち、「自殺」、「宗教への盲信」、「不条理の受容」です。このうち「宗教への盲信」は精神的自殺に過ぎないと定義し、肉体的自殺と並んで「生きるという目的に資さない」という理由からこれを排除して、人が生き続けるためには不条理を受け入れるしかない、としました。

公正世界仮説の保持者は、「一生懸命やっている人は報われる、成果を出している人は認められる」と考えるわけですが、先述した通り、世界は必ずしもそうなっていない。つまり、世界を一つの劇場と考えた場合、我々が演じているのは「かなりダメな脚本」だということです(最後に助さんと格さんがボコボコにされる水戸黄門など、誰が見たいと思うでしょうか?)。その「ダメな脚本=不条理」の中で大根役者を演じているのが我々だということですが、では、どうするか?方法は、自分が舞台の上で花形役者になる=不条理を積極的に活用するか、脚本そのものを変える=不条理に耐えつつ、革命を目論むの二つしかありません。

この場合、花形役者になるというのは、公正世界仮説を棄てて、公正でない世界のルールを逆手にとって生きる、ということを意味します。これはつまり、マキャベリズムに徹する、ということです。マキャベリは、まあ色々言っていますが、最終的に「結果が手段を正当化する」、つまり「勝てば官軍だ」ということを徹底して主張しました。

先ほどのBさんの例で言えば、一生懸命仕事をして成果を出すよりも、ファーム内で強い影響力を持っている人物を見出して、その人に全力で「走り込み」(御世辞を言う、引っ越しを手伝う、別荘の掃除をする、一緒に仕事したいと騒ぐ、ゴルフに行く、ホームパーティに招待する等の活動)をかけることこそ求められるのです。

現代社会におけるマキャベリズムの実践という点で大いに参考になるのがハーバード大学のジェフリーフェファーの論考でしょう。フェファーは、実証研究から、上司に愛される部下の最大の要件は「御世辞」と「頼みごと」であると指摘しています。彼は著書「権力を握る人の法則」の中で、実力以上にトントン拍子に出世する人の特徴=現代社会におけるマキャベリズム実践のポイントを細かく分析していますので、ご興味のある方には一読をお勧めします(ちなみに私自身は実践していませんが、そういう生き方を否定するものではありません)。

次に「脚本そのものを変える=不条理に耐えつつ、革命を目論む」という態度について説明します。世界が「かなりダメな脚本」によって記述されているとすれば、当然ながら「脚本そのものを書き変えよう」という問題意識が生まれることになります。ところが、ここに大きな矛盾があります。脚本を書きかえられるのは、舞台監督か花形役者だけで、大根役者の意見は通らない、ということです。一方で、花形役者は、このダメな脚本の世界で美味しい役をもらっているわけですから、そもそも脚本を変えるインセンティブがありません。つまり「不条理に耐えつつ、革命を目論む」ためには、一度不条理な世界の中で仮面をかぶって花形役者になり、脚本を変えるだけの影響力を掴んでから「カミングアウト」することが求められるのです。

なんと迂遠な・・と思われる方もいらっしゃるでしょうが、我々が不条理な世界=ダメな脚本の世界劇場で生きている以上、不条理さに真正面から攻撃をかけることはキャリアの滑落死につながりかねません。そこでは、公正な世界を希求しつつもなお、世界は公正でないことを認識して強かに立ち居振る舞うことが求められているのです。オスカーワイルド的に言えば「俺たちはみなドブの中で生きている。しかし、そこから星を見上げている奴も居るんだ」ということです。

■犯罪に手を染める
ハイクライマー、ファストクライマーが滑落死する三つ目の主要因として「犯罪に手を染める」という点を指摘したいと思います。

Cさんは、米国東部の名門大学を卒業後、そのまま米国に留まり戦略コンサルティングファームに入社。その後、マネージャーまで順調に昇進した後、起業間もないベンチャーに参加するためにコンサルティングファームを退社しました。参加したベンチャーではCOOとして会社の成長を牽引し、ついに新興市場に株式を公開するまでになりました。しかしその後、株主の成長期待にこたえる様な新規事業の創出がなかなか進まず、売上規模の拡大を小粒なベンチャー企業を買収することで達成するというM&A主軸型の成長モデルにシフトしました。結果、Cさんのところには買収案件の持ち込みが多数集まることになりました。やがて、Cさんは、集まってきた情報をもとに様々な株式の売買に手を染めるようになります。この株取引は、2年程度の間に数百万ドルの利益をCさんにもたらすことになりましたが、それはある日突然、終わりを告げることになりました。SEC(証券取引委員会)の取り調べを受けることになったのです。Cさんは現在、刑事告発を受け裁判係争中です。

僕の友人の中でも、最も厳しい状況に追い込まれてしまっているのが、このCさんでしょう。犯罪者として告発される、というのは読者の皆さんからすれば縁遠い話と思われるかも知れませんが、実はファストクライマー、ハイクライマーが身を持ち崩す最大要因の一つが「犯罪」なのです。意外に思われるかも知れませんが、コンサルティングファームの幹部を務めた人物の中には、最終的に刑事告発を受けたり、場合によっては服役したりする人物が少なくありません(例えば1994年から2003年までマッキンゼー&カンパニーのマネージングディレクターを務めたラジャット・グプタは、インサイダー取引の科で有罪判決を受けています)。

なぜファストクライマー、ハイクライマーが結果的に犯罪に手を染める、あるいはもう少しマイルドな言い方をすれば、ギリギリグレーなところに手を出すようになるのでしょうか?これには「動機」が作用していると考えられています。ヘイグループが用いる動機診断手法を開発したハーバードのデイビッド・マクレランドは、社会性動機を1:達成動機=自分で設定したゴールを達成したいという動機、2:親和動機=人と仲良くしたいという動機、3:パワー動機=多くの人を動かしたい、影響を与えたいという動機、の三つに分類し、この三つの動機のどれが強く出るかによって、その人の強みや弱み、キャリアの向き不向きを診断することが可能だとしました。

ここで問題になってくるのが「高すぎる達成動機」です。

ヘイグループの分析によると、高すぎる達成動機を持つ人は「足る」ということを知らないため、動機をうまくマネージしないと倫理的に許されない範囲まで自分や周囲をオーバーシュートさせてしまうリスクがあることがわかっています。しかし一方で、達成動機を高く保ち、現状の自分に甘んずることなく努力し、より高い成果を求めるという態度は、褒められこそすれ批難されるべきものではありません。この矛盾を、我々はどのように解決したらいいのでしょうか?

ここで重要な論点になるのが「どのようなルールを設定して自らを律するか」という問題です。上記のCさんとラジャット・グプタに共通しているのが、告発された後で「自分は何も悪いことはしていない」と供述している点です。これはつまり、やっていることの倫理的な是非は問わず、法律に照らしてみて自分の行為に脱法性はないという主張で、法哲学ではこの様な考え方を実定法主義と呼びます。これに対して、事物の自然的本性から導き出される善悪の観念を盛り込んだ法概念を自然法と言います。

僕は、ハイクライマー、ファストクライマーであればあるほど、自然法的な規範を身につける必要があると考えています。なぜなら、そのような影響力のある人物こそ、「法律的にはギリギリOK」という一線とは別の、より普遍的なルールでもって自らの能力を制御して欲しいと思うからです。

「イノベーションのジレンマ」の著者であるハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセンは、2010年の卒業生に対して、彼の同窓生の何人かがコンプライアンス違反で服役しているという事実に触れ、「犯罪者にならないために」という題でスピーチを行っています。彼がその中で述べているアドバイスは、「人生を評価する物差しについて考えなさい。最後になって自分の人生は成功だったと評価できるように毎日を生きなさい」というものですが、これも同じことでしょう。

ハイクライマー・ファストクライマーを自負する人であればあるほど、内発的な規範に従って自らを律することが求められます。

■まとめ
キャリア登山において勝ち負けは問われません。問われるのは何より、後で振り返って「幸せで自分らしい登山を全うできたか」ということ、これに尽きます。そして、その「幸せで自分らしいキャリア登山」を阻害する大きな要因になるのが、本稿で述べてきた三つの滑落要因、すなわち「憧れに捉われすぎる」、「不条理を受け入れられない」、「グレーゾーンを踏み抜く」なのです。読者の皆さんも、自分らしいキャリア登山を全うするために、ゆめゆめこの三つの「滑落死のきっかけ」に捉えられない様に気をつけて下さい。