「見る力」を鍛える・・・VTSによる幹部候補研修

先日、懇意にしているある化粧品会社の会長から直々に頼まれて、幹部候補生のVTSを箱根のミュージアムでやってきました。

VTSって、聞いたことありますか?Visual Thinking Strategyを略してVTSと云うことなのですけど、これだけ聞いてもよくわからないですよね。

いろんな人がいろんな定義をしているのですが、今のところ、ほぼコンセンサスになっている定義を平たく言えば、ビジュアルアートを用いたワークショップによる鑑賞力教育、と云うことになるでしょうか。

欧米の美術館では比較的メジャーな教育プログラムですが、最近、このメソッドをビジネスマンの教育にも使えないかという議論がいろんなところでされていて、僕が今回依頼されたのも、そういう文脈があってこその話だったと思います。

VTSのセッションでは、通常の美術教育において行われるような、作者や作品に関する情報提供は、ほとんど行われません。そのかわりに、セッションへの参加者には、徹底的に作品を「見て、感じて、言葉にする」ことが求められます。ファシリーテータがやるのは、この「見て、感じて、言葉にする」ということの後押しだけです。

具体的には、次のような質問をして、参加者に発言を促していきます。

1:何が描かれていますか?
2:絵の中で何が起きていて、これから何が起こるのでしょうか?
3:どのような感情や感覚を受けますか?

大の大人に対して、1の質問をすると、最初は、あまりにも自明のことを云うことに対して戸惑っているのがよくわかるのですが、だんだんと画面のディテイルについての発言が増えてくると、発言に対して他の参加者から「へえええ、よく気づいたね・・・確かに描かれているね」とか「あれ、僕は違うものが描かれていると思ったんだけど・・・」といった意見が出てきます。

ここらへんは、ファシリテーターの技量にもよって、どんな発言でも許される、何を言ってもみんながポジティブに受け止めてくれる、という雰囲気を最初の5分で作れるかどうかが鍵になります。

今回のセッションではルノアールの作品を用いましたが、作品選びも重要な成功要件の一つだと思います。誰がどう見ても同じ解釈しか成立しないような作品・・・まあそういう作品は傑作と呼ばれるものの中には少ないですが、そういう作品を選んでしまうと解釈やストーリーが収斂してしまって、対話を通じて解釈の多様性が生まれるという醍醐味をなかなか感じられない可能性があります。

たとえばカラバッジオの「聖マタイの召命」なんていうのは、いい題材なんじゃないかと思います。ここはどこか?それぞれはどんな人なのか?これから何が起きるのか?ということについて、適度な多様性が生まれるんじゃないかと思うんですよね。


一方で、あまりにもシュールでストーリーが発散しまくってしまうような作品。例えばキリコの作品とか・・・


あるいは逆に、生物画でストーリーのつけようがないセザンヌの作品とか・・・


こういった作品について、「なんでもいいから感じたことを話して」って言われたって、美術鑑賞に相当慣れていないと、これは難しいよねえ。

今回のVTSでは、参加者の方は基本的に美術のリテラシーはほとんどないと聞いていたので、会長から「セザンヌで」とお願いされたのを断り、比較的絵の世界に入りやすいルノアールを選びました。自画自賛するようで少し恥ずかしいのですが、この選択がワークショップ成功の最大のカギだったと思っています。作品選びに成功すれば、美術鑑賞を全くしていない人であっても、30〜60分は対話し続けることができます。

そして、一つの作品について、たっぷり30〜60分程度をかけて対話をし続けると、最初に絵や写真をパッと見た時に受けた、ステレオタイプな解釈とは全く違った絵が目の前に立ち現れてくることを実感することになります。ソクラテスが言うところの「無知の知」ではありませんが、「見えていなことが見える」ようになるわけです。

で、これがなぜビジネスマンにとって有効かというと、ビジネスマンこそ、ステレオタイプなモノの見方に支配されることのデメリットが大きい。ゆえに、ビジネスマンこそ、意識的に虚心坦懐に「見る」というスキルを持つことが大事だから、というのが僕の意見になります。

専門家として能力を高めていくというプロセスは、パターン認識力を高めていくということに他なりません。パターンというのは「過去にあったアレ」と同じだと見抜くということです。そうすることによって、毎回毎回ゼロから答えを作っていくというような非効率なことはやらずに、過去において有効だった解を転用できるようになるわけです。ところが、困ったことに、過去のパターンは永久には持続せず、どこかで突然変異が起こります。ブラックスワンが生まれるわけです。するとどうなるか?

歴史が教えるところは非常に単純で、我々はブラックスワンを見ても、それが「黒い」とは認識しようとせず、それが「白い」のだと自分に言い聞かせるようにします。社会心理学の用語には「Willful Blindness=意識的な盲目」という言葉がありますが、まあそういうことですね。いずれは津波が来る、とわかっているのに、自分が生きているうちは来ないと考えて、過去に何度も津波にさらわれているような土地に住むことができる、というのは、このWilful Blindenssのおかげです。

子供と異なり、大人は目に入ってくるものを基本的に意味付けして解釈します。目に入ってくる、といわれれば、それは「見る」ということだと思われるかもしれませんが、本当の意味で、僕らが「見る」ということは非常に難しいことなんです。え、よくわからない?

じゃあ、次の二つの言葉を「見て」ください。その上で、二つの言葉に共通しているところを挙げてみてください。

エジソン
実験エ房

ちなみにうちの5歳の娘は一秒で答えを指摘しましたが、どうでしょうか?

そう、気づいた方もいらっしゃると思いますが、エジソンの「エ」と、実験工房の「エ」は、全く同じ字なんです。実に単純な記号ですから、純粋に「見る」ことに徹すれば、二つの文字がビジュアル的には全く同じものあることに気づくはずです。

実際に、幼稚園児に「二つの言葉の中に同じものがあるかな?」と聞くと、すぐに「エ」を上げてきます。なぜ彼らにそれができるかというと「読む」ということができないからです。彼らには「読む」ことはできない、純粋に「見る」ことしかできないんです。

一方で、大人はその逆になる。大人はどうしても読んでしまう。読んでしまうというのはパターン認識するということです。パターン認識しているからこそ、個々人で異なる手書き文字であっても我々は「同じ字」として読むことができる。この高度なパターン認識能力が、本当の意味で「見る」という能力をものすごくスポイルしているんです。

そして今、我々が直面している状況の多くは、過去の問題解決において有効だった手段が必ずしも使えない状況、パターン認識力の高さが、そのまま問題解決の能力に繋がらない状況です。このような状況において、まず必要なのは、何が起きているのかを虚心坦懐に「見る」ということだと思うんです。そういう、純粋に「見る」という能力を高めるためには、VTSのセッションはとても有効だと思いました。

最後に、こういうことは僕が言うまでもなく、もうすでにずっと昔からいろんなところで言われているんですよね。例えば小林秀雄の『美を求める心』にある一節を最後に挙げておきましょうか。

例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だと解る。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉じるのです。それほど、黙って物を見るという事は難しいことです。菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、かって見た事もなかった様な美しさ、それこそ限りなく明かすでしょう。

小林秀雄『美を求める心』より








「一万時間の法則」に感じる違和感

なんだか最近「違和感」をタイトルにしたポストが続いていて、ネガティブな印象を持つかも知れませんが、ご勘弁を。

一万時間の法則、という言葉は聞いたことがあると思います。平たく言えば、モノゴトの巧拙は才能ではなく、単純に訓練のために費やした累積時間の関数に過ぎない、という仮説です。そもそもこれ、「法則」って言ってるから誤解を招くんですよね。法則なんてものは自然科学も社会科学もひっくるめて全て仮説ですからね。ええ?納得できない!?という方はカール・ポパーを読んでみてください。

で、この「一万時間の法則」と言われる仮説に、昔から激しい違和感を覚えているのですよ。その違和感の元は大きく二つあって、まず一つは、この法則を導き出すにあたって集計された統計データのサンプルです。

この「一万時間の法則」を導き出すにあたって、研究者が対象とした集団はバイオリニストでした。世界的なバイオリニストとまあまあのバイオリニストとただのアマチュアレベルを比較した結果、他のあらゆる因子よりも、演奏パフォーマンスの差を説明する変数として「累積練習時間」が強力だった、とまあそういうわけなんですね。

でですね、非常に違和感を覚えるのが、バイオリニストを芸術家として疑いなく扱っているという点なんです。これは、僕の個人的な意見というよりも、あまり表立っては言わないけれども、みんな音楽関係者は思っていることなんですけれども、演奏者とクリエイターは、全く別の仕事なんですよね。

もっと分かりやすい言い方をすれば、バイオリニストは芸術家ではなく単なる職人であって、本当の意味で芸術家と言えるのは音楽の世界では作曲家しかいない、ということです。記憶が正しければピエール・ブーレーズも同じことを『ブーレーズ音楽論 徒弟の覚書』のなかで言っていますね。作曲と指揮の両面で活躍したブーレーズならではの指摘ですが、あるいは高校生のときに読んだんでもしかしたら勘違いかも知れません。

さらに言えば、この作曲という行為に関しては、才能のある奴は最初からいい曲を作るし、才能がない奴にいくら訓練してもいい曲は作れない・・・というか、「訓練」という概念にそもそも問題があって、バイオリンのような器楽だと、例えばひたすらスケール繰り返すとかパッセージを繰り返すとか、そういう「訓練」があるわけですけど、作曲の場合、そもそも「訓練」というものがないんですよ。音大の作曲科に入るぐらいのレベルに達するまでは、ある程度機械的なトレーニングがありますけど、そのあとはせいぜい名曲の研究・・・アナリーゼと言いますけど、それくらいしかないんですよね。

僕は楽器演奏についても作曲についても、両方とも相当量のトレーニングを受けたので、これを実感値として感じるんです。楽器演奏の巧拙は、確かに練習時間の関数です。それは間違いがない。これは受験勉強と同じで、上に行く奴は「やってる」んですよ。ところが作曲は全くそうではない、と思うのです。

これが二つ目の違和感の理由なんですけど、作曲家に関していえば、累積練習時間のテーゼは破綻していて、デビュー当初から圧倒的な名曲を書く奴、それは松任谷由美とかポール・マッカートニーとか、そういうのがいるんです。それは本当に、もう残酷なくらい明らかだと思うんです。みなさん「ひこうき雲」は松任谷由美(荒井由美」のデビューアルバムの曲ですよ。

で、ここまで考えてくると、ビジネス・・・なかんずく僕たちの多くが関わっているホワイトカラーの事務職・企画職というのはどっちに近いのかというと、これはもう明らかに楽器演奏のようなフィジカルな行為よりも、作曲のような知的作業に近いわけです。そういうマジョリティに対して、バイオリン演奏のようなフィジカルトレーニングの結果を持ち出して、「才能ではない、努力だ」と叱咤するのは、とてもミスリーディングなことであって、多くの「さっさと他の仕事に移った方が良い」人を、無駄にその領域にとどまらせて努力させる結果になるんじゃないかと思っているんです。

向いていない仕事を一万時間やったって、やっぱり一流にはなれない、ということを理解する方が、世の中全般には良いんじゃないかと思うんですけどね・・・どうなんでしょうか。


宮沢賢治の「アメニモマケズ」におぼえる違和感

大好きな宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を知ったのはおそらく小学校の高学年のころでしょうか。以来四十年弱、いつもこの歌を聞くたびに抱いていた微妙な違和感の正体が、ちかごろようやくわかってきたように思うので備忘録として。

ちなみに全文をあげると、

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雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ
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なのですが、子供のときからいつも「ウッ」と引っかかるのが、

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

というところなのです。

なぜここに引っかかるのか、あらためて考えてみれば理由は実に単純で、

ナミダヲナガシ ても問題は解決しない。
オロオロアルキ でも問題は解決しない。

ということに気付いたわけです。

要するに「とにかく何とかする、何とか解決してみせる」という気概と根性を放棄している様に思えるんですよね。涙を流したりオロオロ歩いたりしているヒマがあれば原因を究明して対策を打つ為の努力をしろよ、と。

ふう。

いまの世界は問題だらけですよね。でもそれらの問題は涙を流してもオロオロ歩いても解決しません。太平洋戦争直後に出版され、迷える多くの若者たちにとって人生の指針となった吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」のなかに次の様な文章があります。

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人類の進歩と結びつかない英雄的精神も空しいが、英雄的気迫を欠いた善良さも同じように空しいことが多い。
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 無力な立場にあって「善良さ」の重要性を訴えるのは安易を通り越して恐ろしいとさえ感じます。イスラム国の問題についてさもしたり顔で「戦うより対話が必要」と説教を垂れるテレビのコメンテータにおぼえる違和感。原発の廃絶やネット右翼への非難をフェースブックやツイッターで訴えて「イイね!」を集めても世界には何の変化も起こらないでしょう。

本当に難しいのは、それを実際に成し遂げる為の権力やパワーを得て現実的にコトを起こすということでしょう。葛藤を背負わない日だまりのような場所から世界平和の重要性を説くような安易で平和ボケした人々に世界は覆われつつあるけれども、そういった言葉が世界を動かしたことは歴史上ない、本当にただの一度もないのだということを我々は忘れてはならないと思うのです。

世界は常に、泥をかぶりながら理想を追い求めて粘り強く行動し続けた人によって革新されてきたわけで、おろおろ歩いたり涙を流したりした人は結局のところ何も成し遂げられなかったのです。

でもこの歌、ほんと好きなんですけどね。
一部だけ改変しちゃおうかな。